皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
想いというのは様々ありますが、
必ずしも
自身の思い描いている質量そのままに
相手に届くとは限りません。
そこには相手さんの性格もあれば
考え方や生き様、立場、
貴方に対する想いの形や質量など
色々な分類要素があるのですね。
何もかもが自身と同じだと
考える方が烏滸がましい限りで
それを中和して
融和させていく努力が必要です。
相手に対して何を想うのか。
自分はどういうスタンスなのか。
自分をどこまで押し出すのか。
ちゃんと優先順位を考えているのか。
自身の想いの質量を
徒に減らす事無く
相手に届けたいのであれば
それまで以上の努力の維持継続が
大切になってくるのです。
全ては受取る側次第なのですからね。
自分を抑え込んでも駄目。
相手に忖度し過ぎても駄目。
ありのままの姿で
ありのままのを理解し認める。
努力するべきポイントは
その認知と理解度の共感にあります。
辛く苦しければ辞めれば良いですし、
それでも努力を続けるのであれば
それまで以上にやればいいだけ。
但し、そこに相手がちゃんと居て
相手の方を見据えていて
目的を逸脱しないこと。
頑張る事に集中し過ぎると
その頑張りという手段自体が
目的となってしまい、
気が付けば自分本位に
飲み込まれてしまいます。
自分をしっかりと管理して
自分を大切に出来る様でないと
相手のためを想うというのは
非常に困難なものへと変貌します。
想いと念は同一のモノで
常に表裏一体です。
自身が想いを重用している時は
念もまた自身を見つめている事を
忘れてしまってはいけませんよ。
一方向のみを思考したり
一方向のみに動く事は
「楽」に該当するのですからね。
目指すべきところは
「想い合い」です。
努力と怠惰は
別物と思いきや
実は背中合わせ
意識は常に
両方向へ向けて
動く事が
重要なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
過去の失敗があるから
次は間違えない様に努力する。
生きていく上での基本的な動き方です。
失敗を基にして成功の鍵を探る。
失敗という一つの結果を
恐れていては先に進めませんから、
誰しもがこの動きをするのが
妥当だという事になります。
ですが、
実際には過去の失敗があるにも関わらず
また同じ事を繰り返してしまう。
そういうケースの方が多かったりします。
失敗そのものは認めていても
過去の自身の過ちを認めていなかったり
失敗したポイントの解釈を間違えていたり
自身の中で極度な決め付けをしていたり、
こういった場合ですと、
同じミスを繰り返したり
重要なチャンスを自ら逃したりします。
今までに経験した事の無いケースだから
奥手になってしまうとか、
より一層の安全パイを利用しようとするとか
自己防衛の視線で捉えると
妥当だと考えがちです。
然しながら、
これらを言い換えてみると
「勇を用いる」を拒絶しているのですね。
何の考えも無しに飛び込んでみる
という意味ではなくて、
支えてくれる相手やサポートしてくれる相手、
理解してくれる相手が居るのであれば、
ましてや、それが
信ずるに値する存在であるならば
そこを信じて飛び込んでみる。
(これが「信に徹する」です)
この時に、自身の優先度は下がって
相手の優先度が自然と上がります。
(これが「奉仕の精神」です)
信ずるに値しないのであれば
自身を優先させて自己防衛に徹する事は
間違いではありません。
問題のポイントが違いますからね。
いつもながら難しく聴こえますが、
これは成長と進化のお話なのですね。
成長や進化というのは、
想像以上に身近なものなのです。
「過去を乗り越える為に如何に勇を用いるか」
「前へと進む為に如何に信に徹するか」
「信ずるに値するために如何に伝に務めるか」
これらをどれだけ使い熟して
これまでの自身から脱却させるか
そこには想いや思い遣りが存在していて
それらを受け取るからこそ前へと進められる。
子供が新しい動作を獲得する時も
(おトイレとかお風呂とか自転車とか勉強とか)
大人が行き詰まりや幸せを目指す時も
(ビジネスとか恋愛とか生活そのものとか)
どんな年齢になろうとも
この流れと中身だけは変わるものではないのです。
それまでの自身や
それまでの考えに拘り続けると云う事は
過去の恐怖に身を委ねているのと同義です。
確かに恐いものではありますが、
それを言っていたら何も成長しませんし
進化する事も出来ません。
恐いからこそ、その根源をちゃんと視る。
信ずるに値させる為によく会話をする。
(ここでの会話には触れ合いも入ります)
信ずる相手との共感によって分散させる。
これらを放棄する動きが過去への拘りであり
過去への自身への甘え
つまり、「自分本位」となるのです。
僕らは常に成長と進化を目指しています。
そのサイズはとてもとても小さいですが、
その小さいものの積重ねが
大きいものの獲得へと繋がるのですからね。
恐怖に負けて楽を取り
自に堕ちるような真似をしない様に
努力をしていくことが
僕らが産まれてきた目的の一つなのですから。
新たな気持ち
新たな感覚
新たな知識
新たな経験を
得ていくんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
前回の続きです。
自分本位というものが実際には
どういった箇所で出てくるのか。
これという場所や場面はありません。
決まっていないので
ありとあらゆる場面で
出てこようとします。
但し、一定のルールはあります。
1つが俗欲の絡む場合です。
俗欲と自分本位というのは
かなりの部分で似ています。
ですが、全く同じものではありません。
なので、出現箇所も当然に似てきますし、
影響の受け方も似てきます。
自分本位が俗欲に影響を受ける事もあれば
俗欲が自分本位に触発される場合もある。
俗欲がハード面だとしたら
自分本位はソフト面みたいな感じです。
俗欲が絡む場合の自分本位の
動き方は強力ですが表面的です。
直接的に出現する事が殆どですから
認識する事と制御は比較的簡単です。
見て分かる感じだと思えばいいですね。
当人でも他者でも見て分かります。
ですから、認識も制御も容易いのです。
もう1つが性格や感情に絡む場合です。
前述した場合と違い表面的ではなく
根の深い部分が起因となる自分本位ですので、
本格的に制御を目指さないといけないのは
こちらの自分本位となります。
表面的な出現ではないので
直接的な動きとしては出て来ないのが特徴です。
前回ちょろっと話に触れた「擬態」
と、いう表現をしたのはこの自分本位。
一見すると「想い」や「思い遣り」
という様な自分本位とは真逆に位置している
思考や業に似せて出て来ます。
物凄く小さい例で云うと、
「ええかっこしい」がその典型です。
見えている狭い範囲に焦点を絞って
目的をセットしてしまうため
自分だけが良ければいいとか、
自分が悪役になるのを忌避して起きる自分本位。
交差点などでの右折譲りみたいなやつが
これに該当します。
譲り合い自体は自分本位では無いです。
寧ろ、想いや思い遣りに入ります。
しかし、それは状況判断や状況把握が
しっかりと出来ている場合に限ります。
では、これが自分が先頭で渋滞中であったり
対向車の視野角が満足に取れない場合でしたら
果たしてどうでしょうか。
貴方が気にしないといけないのは
後ろ側であり対向車ではありません。
対向車は、待っていれば曲がれます。
元々の優先順位では最下位ですからね。
大渋滞しているのであれば
後続車の為にも前進するのが優先です。
(前方も詰まっているなら話は別ですよ)
このケースでは自分の中の良心を
思い遣りと称して出しているつもりですが、
実際には周りを視れていないだけの自分本位。
渋滞はしていなくとも
対向車の視野角が取れていない状態で
どうぞと譲ったらどうなるでしょうか。
右直事故を引き起こすリスクに繋がります。
ここでも気にすべきは後方であり
相手のためを考えるのであれば
相手が事故らないための状況把握が必須です。
両ケースに共通しているのが
悪役を忌避する思考です。
誰だって善い役を全うしたいものです。
けれども、それには悪役の重要性も
理解を示さないといけません。
勧善懲悪な思考で性格や感情があると
想いや思い遣りに擬態をした自分本位が
露呈する場面が増えていきます。
そうなると、決して悪い人ではないのに
不幸な事が続いたりして
端から見ると謎な現象が発生するのです。
その要因の一つが擬態した自分本位。
自分の中では善い事をしたと思っていても
周りからは全力で念を当てられてしまう。
想いの皮を被った自分本位を
想いであると認識して疑わないから
あらゆる場面で似た行動をしてしまうので
結果、念を加算的に引き寄せてしまいます。
この性格や感情という自身の根底が
トリガーとなる自分本位は
分かり易いケースが非常に稀なので
自身でも他者でも見分けが難しいです。
尚且つ、根底の認識問題である事と、
素直さ度という触媒も関わってくるので
指摘されてもその話すら拒否したり
意味そのものが理解出来ない場合も多いです。
ですが、実際に指摘を経験されて
制御や改善へ進んでいる方ならば
これらの説明でも直ぐにピンと来る筈です。
あまりにもケースバイケース過ぎて、
1つ1つの最適解を導き出すのは困難を極めます。
ですから、前回もお話をしましたが
「何のために」「誰のために」
と、いう問いを常に片隅へ留めておいて
抜き打ち的に使う事が
対策としても予防措置としても
重要となってくるのです。
ステルス化した
自分本位に
飲み込まれて
しまうんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
自分本位というものは
いつ何時も場所や状態を問わずに
出てこようとします。
何なら形を変えて思い遣りに擬態したり
想いそのものに擬態したり、
ありとあらゆる方法で
出現しようとしますし、
自分本位そのものに
溺れさせようともしてきます。
かと言って、自分本位そのものが
「悪」かと云うとそうではないのです。
自分という個別の存在を護るための
自衛手段でもあり防衛本能でもありますし、
俗欲や欲自体に影響力を与えたり
与えられたりする思考ですから、
何かの行動を始める場合の原動力ともなります。
つまり、
生きる為に必須のものでありつつ
重篤な害を成す事もある劇物なのですね。
自分本位を「完全悪」や「絶対悪」と
決め付けてしまう事が
著しく危険な行為だという意味は
生きる為に必須なモノだからです。
嫌な思いや辛い経験をしたからと云って
脊髄反射的に
自分本位を忌み嫌う人が居ますが、
そんな事をしても改善を目指すのであれば
全くの無意味ですし
そもそも我々という存在の
構成要素の一つなのですから、
消そうとしても消せません。
消そうとしたり抑え込もうとする事自体が
馬鹿げている行動なのですね。
忌み嫌って消そうとする動きや
抑え込む動きをすればするほど、
自分本位は指数関数的に威力や効果範囲、
影響範囲やその出現方法が増していきます。
こうなってしまうと、
最早自身ではどうする事も叶いません。
自分本位に流されてしまって支配されます。
そうならない様に、こんな自分本位も
「自分なのだと」認めてあげるのです。
忌み嫌うから否定をするというのは、
嫌なものには蓋をしたり
目に入らない位置に遠ざけたりする事を指します。
それですと実態解明へ向けた
一切の行動や業を放棄するのと同じ事です。
同時に、野放しにする事にもなります。
野放しにしてしまったら、
もう何が何だか分からなくなります。
それを避ける為にも「勇を用いて」
認めてあげるのです。
そして、自分本位を事前に自分本位だと
認識する事はほぼ不可能です。
全ては事後で確立されます。
要は、やっちまった後でなければ
分からないという意味です。
如何にやっちまってからの最速最短で
気が付く事が出来るかが勝負となります。
そこへ結び付ける為のチェッカーとして
「意識の方向の認識」が存在します。
簡単に云えば、何かの業ごとに
「何のために」「誰のために」
と、云うクエスチョンを
常に頭の片隅へ留めておく思考です。
我々は常に楽をしようとする存在です。
その楽こそが自分本位の具現化した姿ですが、
絶対に「楽をしては駄目」なのではなくて
ここの楽には意味があるのかという疑義を持つ。
動きの楽、思考の楽、感情の楽、心的な楽、
何処にでもあって何処にでも生まれるのが「楽」。
便利と手抜きや思考停止との狭間で
成長要素としての「苦労苦心」を棄てていないか。
そこへ目を向けてあげる事が
「認める」という業です。
これが出来なければ
自分本位のコントロールなど不可能と言えます。
認めてあげる事が
運気アップや
貧乏神化防止に
繋がるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
物事を考えたり捉えたり
ましてや、自身で進めたりする際に
大枠で思考し過ぎがちです。
然しながら、
実際は人体の細胞の如く
小さい物事の積重ねであり集合体です。
善きことも嫌な事も
小さいことが積重ね起きるのです。
小さい善きことが積重なるから
大きい善きことが手に入ります。
小さい嫌な事が積重なるから
大きい嫌な事へと発展してしまう。
人生もそうですね。
寿命を考えた時、この先何十年みたいに
数字上の大枠で捉えてしまうが故に
あっという間だなと考えてしまう。
ですが、実際は
この先何十年だったとしても
それは日々の生活の積重ねです。
一日一日を疎かにしていれば
その無駄な時間が積重なっていくだけですし、
24時間という限られた時間を
フルに活用して一日に於ける経験を
その感覚を大切にしていけば
それらの積重ねが確実に形と成るのです。
ちなみに、
一日は24時間ですが実際のところ
睡眠を抜いた意識的に使える時間は
もっと少ないですね。
仕事で使う時間、
家庭に費やす時間、
自分に費やす時間、
これらを週・月・年単位で掛け算すると
一日の貴重さがよく分かります。
そこに病気や怪我、各種イベントなどで
消費する時間を考慮すると
更にその貴重性が増してきます。
これを有用に利用活用するのか
無駄にして投げ棄てるのか
答えは考えるまでも無いのですけどね。
この限られた小さい小さい時間の中で
縷々様々な物事や事象を消化していく。
そして、
その些末とも思える様な螺旋の中で
想いや念や愉しみや辛さ苦しさがあり、
それを形として紡いでいくのですね。
活かすも殺すも自分次第。
生殺与奪は自分が手にしているのですから
どうせなら無駄にしない様に
心掛けていくのが賢明だと考えるのが
本来のスピリチュアルの基本です。
ありのままの姿を
ありのままの姿で
よく視て
よく聴いて
よく考える
これに限るんやで