今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人に対して心配や感謝をします。
当たり前の事過ぎて
普通に考えてみれば話題にする事自体が
おかしな話なのですが、
この当たり前の所作の中に
落とし穴があったりするものです。
ご自身が心配や感謝をする場合ではなくて
される立場となった際や
これらをしてる人を視た時の事で
少し考えてみましょう。
心配や感謝というのは、
言葉だけを取ると聞こえが非常に良いです。
それは同時に聞こえが良いので
無条件で自身を良く見せるために
「至極使い勝手が良い所作」
とも、言い換える事が出来ます。
実際に、貧乏神やその眷属たる貧乏神気質と
呼ばれる存在になればなるほど、
この所作を濫用してる事が多いです。
そして、
その所作には必ずと言える程に
「主語の抜け落ち」が
発生しています。
「誰の為」と、いう最も重要な点が
すっぽりと抜け落ちているのです。
しかし、心配や感謝の言葉は述べる。
どんな所作でも大切なのは、
「誰の何に対して述べる言葉なのか」
と、いう点です。
これらが抜けているという事は、
その存在にとっての主語
つまり、言葉や意識の方向は
全て「当人」という事になります。
考えてみて下さい。
貴方や貴方の周りが
何かしら大変な思いをしたりとか
一生懸命に頑張った経緯があって
それを形にしたからこそ
心配や感謝を受ける筈なのに、
その努力や苦労の全ても
自分の俗欲を満たす為だけに利用する。
哀しくなるほどまでに
利己的な思考回路なのが、
貧乏神と呼ばれる存在です。
そこに気が付けないのは、
貴方にとっても貴方の周りにとっても
負の効果でしかありません。
普段の生活の中で、
人の一挙手一投足に対して
「よく視てよく聴いてよく考える」
この動きが
如何に理に適う業(おこない)であるか。
日頃からこういった点で
想いを向ける事や思い遣りの有難さが
深々と身に沁みてくるのが
本来のスピリチュアルを実践する上での
特効ですからね。
機能するんやで