2024年1月13日土曜日

念の入る隙間を無くす(知識UPシリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は貧乏神化防止について
お話したいと思います。





誰しも貧乏神にはなりたくないと
思っていますが、
なりたくないと思っているだけでは
簡単になってしまいがちなのが
貧乏神の怖さです。

どうすれば貧乏神化を防止できるのか?
偏に、貧乏神の特性たる

「念」が入り込む隙間を無くすこと。

これに尽きるのですね。
いざ、この隙間というのは何ぞや?
という事になるのですが、

物的にも心的にも様々な場面で
生じるものとなります。

物的な物に関しては、
これまでも結構お話をしていますので、
今回は心的な隙間について
的を絞ってみます。





念の入る隙間の最たるものが俗欲です。
俗欲に塗れていると念は入ります。

けれど、こんなものは誰でも分かります。

「そんな在り来たりな話なんてのは
聞きたかねーんだよ、バカヤロー!」

「一般的じゃねぇ話をしろよ、コノヤロー!」

と、あにきのお客さん達から
常日頃より言われていますので、
意外な部分について話しますね。
オーコワイコワイ...

意外な面でやらかしているトップが

「綺麗なことの使用過多」

です。
綺麗事ではないです。
綺麗なことを使い過ぎているという意味。

ここで言う「綺麗なこと」とは、

綺麗な言道
綺麗な行動
綺麗な思考

になります。





これらを使う事やベースとする事は
何ら問題は無いのですが、
先述した通り「使用過多」となると
話が真逆に転じてきます。

人は、全てが綺麗という訳ではないです。
心的に汚い部分も明らかに存在していて、

その混在している状態が人であり
人らしさでもあります。

軽い点で例えるならば、
ブラックジョークなどが典型例ですね。
綺麗か汚いかで言えば汚い方ですよね。

けれども、面白くて感情面で言うなら
喜怒哀楽の「喜」を誘う善いものです。

この様に、
綺麗な面と汚い面の混在を理解して
バランスを考えながら双方を制御する。

これが通常と言いますか、
人としてあるべき姿の状態です。

では、これが全て綺麗な事で埋め尽くしたら
どうなってしまうでしょうか?





一見すると、美しい感じになるのだから
善いと思えるものですが、

どんな場面に於いても
綺麗な側面を意識してしまう様になります。

これは同時に
汚い事に対する耐久性そのものを
消失させていく事を意味します。

そこを踏まえて
これまでセッションやレクチャー、
スピ日々にて散々話をしてきた
貧乏神の特性を思い返してほしいのですが、

貧乏神というのは心が小汚くて
性根が腐っているからこそ、

「綺麗なことに擬態する」

という点です。

貧乏神になればなるほど、
先ほど話した、

綺麗な言道
綺麗な行動
綺麗な思考

の内、綺麗な言道と綺麗な行動を
あえて意識して近寄ってきます。

この中で綺麗な言動というのは
擬態するのが簡単ですから、
貧乏神の95%以上はこの手法を
行ってきます。





では、そこで、
貴方が綺麗な言葉を使い過ぎていて
意識がそちらへ向きすぎていたら
どうなるでしょうか?

自分と同じ感覚なのだと誤認識してしまい、
あっという間に懐へ入り込まれます。

これが、今回話している
「念の入る隙間」なんですね。

一度入り込むと中々排除出来ないのが
この隙間から入ってきた念です。

おかしいと思いながらも完全排除するには
自身の考え方そのものを強制的に
変える努力をしないといけません。

これは文字で理解するよりも
遥かに難しい事になるのです。

何せ、自分自身を否定しないといけませんし、
そこから顧みて間違いを正すにしても
何をどう正すのかが分からないという
ループに陥ってしまうからです。

運良く、あにきの様な人に出会えたり
補助霊さんの言葉を聞けたりして
強制再起動をかけて所謂リブートが
出来れば御の字ですが、
なかなかそうもいかないで手を込まねてしまう。

みんなが大好きな「様子見」なんぞを
しようものなら、悪化は倍速で進みます。

ですから、
日頃より汚い部分も自分なのだと
ちゃんと受け入れてあげるのと、

綺麗過ぎるのは害悪を誘うと、
しっかり意識して双方を制御する。

こう言った、自分の中身のバランスを
常に意識しながら生活をする事が、
何よりも大切になってくるという訳ですね。