皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います
本来のスピリチュアルに於いて
補助霊という存在がいます。
自分のことをサポートしてくれるから
「補助霊」と呼んでおりまして、
一人につき2~4人が
何かしらの形で貴方のサポートをします。
そうは言っても、
常にその場に貴方の隣に居るという
訳ではありません。
彼等は浄土と呼ばれる空間から
思念だけを送ってくる感じです。
本当に様々な形でのサポートをしてくれてて
夢で語り掛けてきたり、
時には姿を見せてみたり、
何かを動かしてみせたり、
中でも圧倒的に多いのが
「声で教える」事です。
声と言ってもそれは補助霊の声ではなく
貴方の声で頭の中に直接響きます。
時々ないですか。
考えもしていなかった事が
唐突に思い浮かんできたり、
自分でも気付かない内に
当たり前に聴き入っていたりする事が。
あまり知られていませんが、
霊の声というのは
基本的に自身の声で聞こえてきます。
誤認されがちなのですが、
いわゆる脳内再生なども皆自身の声です。
それを仮想的に脳みそが加工して
限りなくそれっぽい感じにしているだけです。
試しに貴方の大切な人の声を
脳内で再生してみて下さい。
それは本当にその人の声ですか。
おそらく違うから、
実際に本人の声を聴いた時に
ほんの少しの間が発生している筈ですよ。
それとは別に、霊の声が直接響くのは
憑依の時だけなのです。
憑依というのは幽体や霊体に対する
「干渉」のことを意味します。
補助霊やその他の霊の引き起こすサポートとは
根本的に内容が異なっているのです。
少なくとも、サポートするために
貴方の幽体や霊体に干渉する事はないですからね。
この補助霊からのサポートを
人は様々な方法で表現しています。
人によっては神の声ですし、
仏の声だという人も居れば、
守護霊だと云う人も居るし
宇宙人だという人も居る
僕から言わせれば補助霊に過ぎないのです。
存在としてハッキリと認識が出来ず
難しい相手を人は神や仏と称します。
これにはかなり語弊があります。
本来のスピリチュアルに於ける
神さんや仏さんは
人への興味が薄いですからね。
そして、
守護霊というのはまた別の存在です。
宇宙人という表現は
意外にも近しい表現だと思います。
浄土というのは高次元の空間です。
少なくともこの現世よりも
遥かに高い次元で成り立っている場となります。
それは地球上でもあり、
それ以上の空間上でもあり、
あまりに領域が広すぎる空間です。
なので、3~4次元の認識が
やっとこさな我々からすれば
宇宙人だと認識してもおかしく無いですからね。
補助霊側からしても、その方が相手に対して
説明し易いのであれば
迷う事無くそう云います。
結構合理的思考ですからね補助霊さん達は。
そういった「声」を皆さんはどう認識するのか。
そのままにしておくのか、
それともちゃんと拾ってあげるのか。
補助霊は善い事ばかりを言いません。
時には貴方にとって真逆の事も言います。
それが貴方の為になると考えたら
躊躇せずにそう響かせます。
人は痛い経験をしないと
憶えない事だって多々ありますものね。
この様に貴方を常々サポートしてくれているのが
補助霊さん達なのです。
ちなみに、補助霊は人生で何回か入れ替わります。
現世での親類や血縁、知人友人などの身近な人が
亡くなってから補助霊となる事もまずありません。
夢の無い話に聴こえますが、
それは生きている人がそうありたいと
考えているだけの勝手な妄想に過ぎません。
貴方を必ず助けるのも使命ではありません。
単なる役割と勉強のためにやるのです。
なので、お願いをしたところで
聴いてくれる様な超越者ではないです。
けれども、貴方にとってはとても重要な存在。
それが補助霊なのです。
ならば、声をちゃんと拾ってあげた方が
思い遣りがあっていいでしょ。
お互いに想いを通じて縷々様々な事を
学んでいるの最中なのですから。
補助霊の数の多さは
善し悪しには
全く結び付きません
ステータスもです
彼等と一番大切なのは
想いのみやからね
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
前にも話しましたが、
日常と云うのは
皆さんが想像している以上に
スピーディに動いているものです。
せかせかと動くという意味ではなくて
「常時即断即決を迫られている」
と、いう意味でのスピーディですね。
実のところ、ゆっくりと考えたり
判断や決断まで時間を割いたりするのは
大枠で考えている場合のみとなります。
例えば、運転などがそうで、
A地点からB地点へ向かうとします。
都合1時間の運転としましょう。
別に急いでいる訳でも無く、
時間にも余裕があります。
のんびりと行こうと誰もが思いますね。
然しながら、これは大枠での話。
一度乗車して運転するとなると、
運転中は即断即決のオンパレードです。
貴方が目的地へ向かって
のんびり行こうとするのとは裏腹に、
ハンドルを握れば視線は三点動作をしますね。
何か危険を察知すれば速度を落とします。
逆に速度を上げたりもします。
そういった際に、
のんびりは構えていられません。
常にその場その場で
即決しないといけないのです。
そんな即断即決が集まった結果として
目的地へ到着する訳です。
時間や意識はのんびりだとしても
やっている事は即断即決という最速の動き。
ここがポイントなのですね。
この視点で考えてみると
日常という実生活は即断即決の集合体です。
家庭内、職場、学校...
ありとあらゆる場面が即断即決で進みます。
けれど、大枠で考えたら
時間にゆとりがあったりするので
ゆっくりと動いている様に勘違いをしてしまう。
なので、意図的に感覚を使う時も
その実戦的な速度を意識しないと
日常の流れに反映されないので
意味の無い代物となってしまうのです。
実際にそうじゃないですか。
例えば、五感をフルに使うにしても
目を閉じて集中集中...
なんて、している暇など
日常のどこにもありゃしません。
あるとすれば、自分自身が
護られて保護されている様な
一部の空間と時間だけなのです。
レクチャーやセッションとか
何らかしらの勉強会とかね。
趣味で神社やパワースポットに
出向かれる人なども結構勘違いしています。
ああいう場で自分以外誰も居ないなら
別にのんびりとお目目を閉じて...と、
やっていても良いでしょうけど、
人気のスポットだったらどうします。
単に邪魔なだけですよ。
ほぼほぼ確実に恨みを買います。
そんなのはどう考えても現実的ではないです。
日常に則していないのですから、
使えていないのと同じなのですね。
感覚と云うのは、
あくまでも日常の中で実生活の中で
普通に使えてなんぼです。
その為には、得意な部分の1つの感覚だけで
一点突破を目指そうとするのは
あまりにも非合理的です。
わざわざ受容体として研ぎ澄ませる部分を
ニッチにしているのですから。
それであるならば、
あらゆる感覚の得手不得手を理解した上で
定説だけでなく逆説も利用して
受容体を出来る限り複数にした方が
スピードの補完が可能となります。
僕が日頃から
「あらゆる感覚を無駄にしたら駄目だよ」
「一つに拘ったら駄目だよ」
「増やしていかないと駄目だよ」
と、話しているのはこの為なのですね。
より実戦で使える感覚を
身に付けてほしいわけですよ。
得意な部分を
伸ばすと同時に
不得手な面も
何故に苦手なのかを
考えてみると
そこも受容体として
使えるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います
様々なきっかけを無事に得る事が出来て
紆余曲折しながらも
今までの自分自身からの脱却を果たす。
そこまで到達するのは
道のりとして
非常に長いものです。
実際にそれを達成した時に、
まず訪れるのが安堵感です。
と、同時に自身の使命、
やるべき事を
ふと忘れてしまいがちになります。
何かと云うと、
これまでと「違う動き」をすることです。
誰にでも出来るものではない
脱却という進化を果たして
せっかく新たなフォームを手に入れても
動きや考え方が
従前の通りのままでいたのでは
何も意味がありません。
それまでの貴方というのは、
楽をメインとした
考え方と動き方をしていた訳です。
そんな自分がどうにもむず痒くて
あれやこれやと頑張った結果、
楽という池に溺れていて
俗欲に塗れていたのを
一生懸命に這い出してきた訳ですね。
となれば、
新たな動きをしなければ
いつでもまたこれまでと同じ様な
楽の誘惑に溺れてしまうのです。
そうなるのはもう嫌ですよね。
違う動きや考え方というのは、
新たなフォームを手に入れる段階で
実は既に教わっています。
それまでの貴方に欠けていたものを
意識して使っていくだけなのですよ。
人それぞれに欠落素因はありますが、
大抵の場合の共通項としては
素直さ、思い遣り、
何のため、誰のための言及と探求です。
こうやって話すと小難しく思えますが、
何も難しい話ではないのです。
但し、以前と比べると
遥かに苦しみは増します。
理由は簡単で、
それまでが究極に楽をしていたから。
本来、味わっていなければならなかった
苦しみをキャンセルしていたのですから
当然の流れなのですね。
けれどもやらねばならない
無碍にしない為にも
努力を続けるのが
使命なんやで