今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自身の中での価値観というのは
人に合わせて作るものではないです。
自分の中で確固たるものがあれば
それで充分なのですね。
但し、
その中身に至っては少し考えようで
常識的な一面というのも必要になります。
価値を決める上での常識というのは
一般教養の事を指します。
ここの教養という部分には
所謂、知識や学問が当て嵌まりますが、
常識的範疇での流行りやムーヴメントも
価値を決める上では必要になります。
「自身の中での確かな価値」
と
「一般的な価値」
これらを己の中で共存させる事で
世間と自身の「差」を知ることが出来ます。
ここの「差」の部分が特定の存在にとっては
愉しみに繋がる部分でもあり、
一般的な話となった場合には
全く理解されない部分という点となります。
つまり、この「差」を理解しておかないと
何かこれと言って特段非常識な事を
している訳でも無いのに、
結構な数の恨みや念を引取る事に繋がります。
何故かと云うと、
話が通じなくなるからです。
ここでの話とは深い部分での話ではなく、
表面上の浅い部分での話です。
自身と特定の存在のみでしたら、
この「差」というのは考えなくても
価値の共感が可能になります。
然しながら、鑑みなくてはいけないのは
この現世で生きるという現実です。
我々は自身と特定の存在だけで
現世を生きているのではなく、
縷々様々な存在を介して生きています。
詰まるところ、この「差」を理解する事で
「相手のため」という奉仕の精神、
思い遣りに繋がるポイントを
手にする事が可能となってきます。
全ての存在がスタンドアローンで
何の繋がりも無く独立独歩で生きているならば
こういった「差」を鑑みる事は不要ですが、
それこそ現実ではなく幻想です。
「自分だけが善ければいい」に
自動的に繋がってしまうのが、
この「差」を理解しないという怖さです。
自身が好きだの嫌いだのではなく、
自分以外の存在や支えてくれる存在に対する
思い遣りとしてこの「差」を理解する。
決して深くなくて良いんです。
すごく浅くて構いません。
世間との窓口を自身に設けておかないと
現実の中に居ながら幻想へ逃避する
そんな結果となってしまいますからね。
世間との差を理解しておかないと
結果として、人に苦痛や辛さを与えます。
これは実体験ですが、
僕は子供の頃に両親がこの「差」を
理解していなかったが為に、
狭い子供の世界の中での流行りや愉しみに
乗ったり付いていく事が出来なかったので、
周囲から疎外されていました。
家では虐待、外では虐め。
中々にヘビーでしたよ。
自身の価値観を持つ事は大切ですが、
それの保持や維持には「差」が必須です。
ましてや、価値観そのものを
押し付けてしまったり「差」を忌避する事は
自身の価値観ではなく特殊な価値観と変貌し
世間や社会、コミュニティからの
乖離を意味します。
それは、我々の生活環境からすれば
死活問題でしかありません。
現に僕の両親は結果として何もかもを失いました。
人や子が望むから必ずそれを与えたり
自身もその中身に乗るという意味ではなく、
節度を以て「差」を理解した上で、
適確に判別をする事が大切になってくるのです。
知らぬ存ぜぬで個として生きていけるほど
現世というものは甘くないですし、
自身の価値観だけを突き詰めるだけというのは
好きな事だけをやるという意味と同意義ですから
それは楽をしているのと
何が違うんでしょうかね。
自分勝手に生きて
自分中心で居るのと
何ら変わらない
人の善し悪しは
関係無しに
堕ちるんやで



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