2026年8月26日水曜日

震えてもいいから立ち向かえ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




誰のために
  何のために

普段から何度となくお話をしている
行動をする時の意識の置き場ですが、

分かってはいても自分の弱さや
駄目な自分が邪魔をしてしまって
上手く活用出来なかったりします。

例えば、
子供のためにも喧嘩をしないと
いけない場面なのに、

怖いと思ってしまったが故に
ハッキリとモノを言う事が出来なかったり。

波風を立てたくないと
思ってしまったが故に、
云うべき事実を言わずに終えてしまったり。

理想は全然違う筈なのに、
自分でも動き方が間違っていると
分かっているのに

自分の弱さや駄目な自分に
負けてしまって捻じ曲げてしまう。

そういう時に都合よく、
「逃げる事も大事」
みたいな言葉に救いを求めてしまう。

その結果、後々に訪れるのは
自己憐憫と自己嫌悪です。

貴方の事を何とも思っていない人や
他人事としか考えていない人は

上辺っ面の内容だけを示して

「逃げの一手」
「希望的逃避」

を、必ず勧めてきます。
そんなの仕方ないよ的な言い方で
話自体を理解したフリをしてみたり、

何も出来なかった事を差し置いて
「なんだって言うのよねぇ」みたいに、
相手の悪口を代弁してみたりするのです。




それらは誰のための動きですか。
何のための動きですか。

自分が本当に守りたかった相手に対して
胸を張って言える事ですか。

守りたかった相手に対して
泥を塗ったり突き飛ばしてるのと
同じではないですか。

大切な人を本気で護りたいのであれば、
仮に恐いなとか、嫌だなと思っても

自分の身勝手な心情を優先させずに
ぶつかる事や喧嘩する事も必要なんです。

端から見たらそれが非常識に映ったとしても
それで大切な存在を護る事が出来るのならば
別に構わないじゃないですか。

こういった精神を「義」と云います。

これに信用や信頼が入ると「信義」となり、
忠を尽くす心が入ると「忠義」となり、
理が合わさると「義理」となります。

そして、
相手のために義を尽くすことを
「奉仕の精神」と云うのです。

誰でもいいですが
大切な存在を護りたい、
護り抜きたいのであれば

口先だけの無粋な言動ではなく
自身の意志に属した堂々たる行動を以て
恥じぬ背中を視せるべきなのです。

見て見ぬ振りをせず
勇を用いて動きへ変える。

ひれ伏す前に藻掻き抗うことが出来るのも
自分自身の意志ですからね。

見て見ぬ振りをして
後出しする奴には
後出しで返せばいい
常識が通用するのは
常識を崩さずに
正攻法で挑んでくる
相手だけなんやで

2026年8月22日土曜日

護力(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




もう夏も終盤に差し掛かっていますが、
風物詩として肝試しなんかがありますね。

今で言うところの心霊スポット巡り

この心霊スポットっていうのは
なかなかに俗物的だなぁと
思わせてくれる代物です。

何かしらの曰く因縁のある場所を
心霊スポットと称して
わーきゃーする。

まぁ、好き好きなので
ご自由にとずっと昔から思っています。

大抵の場合、
心霊スポットと呼ばれている場所は
だからなんだの状態となっています。

不良の巣窟となっている事が多いので
そういう危険さの方が強いです。

僕自身、この心霊スポットという呼び名や
そういったランドマークを作ること自体が
どうしても好きにはなれません。

何故かと云うと、
態々そんな廃墟とかをスポット化せずとも
おっかない場所なんて五万とあるし、

そもそも因縁がある場所なんて
皆さん一人一人の徒歩圏内に
数か所はありますからね。




そういう場所には目もくれずに
見た目の恐さや忌避感のみで
ある場所にピントを合わせたところで

それはあくまでも表面上での話。
そこには誰かしらの生活や思い出があって
優しい話とかも沢山存在するんです。

にも関わらず、面白おかしく
自分達の欲のままにスポットとするのは
どうにも人の心が通っていなくて
嫌なのですよね。

どうせなら、そういう場所を
勝手に綺麗にする方が面白い。

綺麗にと言っても物理的な美しさではなくて
幽体的、霊体的に綺麗にしてしまう。

因縁のある場所ですとか、
ガチで悪霊が溜まりやすい場所とか、
そういった場所は結構あります。

そんな場所に勝手に行って
勝手に浄化をさせちまえばいい。
常々、僕がやっている事です。

どうせなら住み易かったり
何だか問題が減ったり
知らずと運気が上がったりした方が善きでしょ。

能力ってのはね、
そういう風に使うんです。

力ある者ならば
一緒になって
恐怖を誘発させたり
するんじゃなくて
光あれ幸あれの方へ
使うべきなんやで

2026年8月20日木曜日

光の柱(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




お化けや生霊に憑依されてしまったり
家に居座られてしまったり、
呪いやら恨みやら食らってしまったり

視えざる者や念絡みの話というのが
世の中には色々ありますね。

ですが、世の中に溢れている
この手の話の殆どは人の霊です。

正直言って、たかが知れています。
云っても人ですからね。

そして、
オカルト好きなら一度は聞いた事のある

「私には手に負えない」

という霊能者やそれらを気取った輩の言う台詞。
何を言っているのかと本気で呆れてしまいます。

その程度の相手に相対出来ない奴らが
何でもない時は神や仏を慕って
さも、自分がその力を得ているかの如き事を宣い
偉そうにしているんですね。

神や仏の力を持っているなら
対処出来るでしょ。
やれやれ...といった感じです。




そもそもたかが心霊スポットみたいな
「お遊戯場」でビビっている人が殆どですし。

動物霊や自然霊を認識する事すらも
出来ない連中が大半を占めていて、
そんな下郎が神や仏の名や力を語るなど
笑止千万といったところです。

神や仏を慕いたいなら、
まずは動物霊とお話出来ないとね。

その次に、
自然霊の信頼を得ないといけないのだけど

これには「霊格」という

非常に大きなハードルがあります。
これは個人の努力でどうこうなる様な
代物ではないのでほぼ無理だと思った方がいい。

自然霊の信を得るたった一つの方法としては、
霊格の適している存在を介して
自然霊と触れ得る事です。

これは実際に経験をしたことがある人であれば
どんな感じで、どんなものなのかが
肌身で分かると思います。あの感じですね。

最後に、本気で神や仏を慕いたいなら
一つ大切なことがあります。

(かみほとけ)
あいつらと本気で喧嘩することです。

そんな事出来る訳ないと思うでしょ。
世の中にはね、出来る人っているんですよ。
実際に証拠まで見せているくらいだし。

けれども、それが出来る人は極一部の
限られた条件下の人のみです。

ですからね、神さん仏さんに対して皆さんは
真摯にご挨拶をする程度が丁度良いんですよ。

大事なことやけど
神さんも仏さんも
何かを叶えてくれる様な
存在ちゃうかんね
もっと身近で
暖かい存在なんや
折が合えばの話やけどな

2026年8月17日月曜日

熱冷なる抑揚(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




愉しみを得ることの難しさは
言わずもがなな事ですが、

とは言え、
この難しさというものが
単なる「困難」だと思慮するのは
些か稚拙な話となります。

愉しみを得る上で一番の困難は

「相手のためを思考する」

必要があるからです。

例え、
その場に居るのが自分一人だとしても
常に相手つまり「自分以外の存在」を

感じ取っていなければならない。
それを忘れてはいけない。

この感覚と思考の使いようと云うのが
困難とさせている部分です。

しかし、
相手を想うというのは
本来のスピリチュアルに於ける
基本的思考でもありますから、
愉しみを得るのは誰にでも可能な事なのですね。




基本的思考にも関わらず
難しくさせている要因の一つとして

「自分本位」というのがあります。

ここでの自分本位とは
単純なわがまま等ではなく
自我・エゴと呼ぶ様な性格や自己認識

アイデンティティーとなる部分の事を
意味しています。

誰にでも好きなものや
嫌なものくらいありますね。
それを主張する事もありますね。

自分の中の得手不得手や好みというのは
色々なものから成り立っています。
性格然り、経験然り、環境然り、時代然り。

この自分を構成する些細な一部分を
何の気無しに主義主張する事で
「自分」というのは成り立っているのです。

その自分自身が愉しみを得るのを阻害する。
但し、それは自己の主張に
「溺れてしまったら」という話です。

逆に「流されてしまっても」アウトとなる。

自分自身を維持しつつ、主張はすれども
相手のためにバランスを整えた時に

「愉しみ」は得られるのです。

それを私達は自然とやってのけているのですね。
改めて考えてみると
何とも不思議な感じですよね。

そして、その得るための過程で
最も重要な触媒となるのが「努力」です。

これを欠いてしまうと、
どの道愉しみは得られません。
独りよがりとなって自分本位に溺れるか
周囲に流されて自身を失います。

自分というものを
しっかりと持って
徒に流されず
無理に押し付けず
相手との連動を
一番に考え動くのが
愉しみなんやで

2026年8月16日日曜日

無碍の残り香(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




何かしらの動きを行う際、
特に何も感じていなくても
動けている様に思えます。

確かにその通りで、
無意識だろうと何だろうと
動くことに関しては問題がありません。

けれども、
もう一歩を踏み出す時や
確実な結果を残したい時というのは

感情の大きさがモノを言う様になります。

一人で頑張っている時でも
相手が居て愉しんでいる時でも、

どうでもいい事ではない
動きをしている時は、
感情を入れたり表現をすることが

もう一歩の伸びを生むのですね。




目的がどこにあるのかでも変わります。
例えば、相手が居る場合ですと

自身の目的と相手の目的が
相違している状態では

感情の介在が発生しないと
思う様な結果には結び付き難いです。

ですが、相違状態だとしても
感情を表面的にでも介在させると
同一の目的の時と比べたら劣りますが

類似した結果を生む事が可能となります。

どこか今一つな結果となる場合は
感情の有無や感情の出し方、

表現の仕方を考えてみると
改善に繋がる可能性が高くなります。

また、意図して感情を込められないのに
無理に仮の感情を込めてしまった場合は、
その反動が自身にも相手にも必ず発生します。

自身も相手も分かり切った上だとしても
そうでないケースだったとしても
反動は大きく出てしまいます。

反動を小さくさせるには
相手への理解を高めていくか
超長期でのケアに努めるかの二点のみです。

その際に自身の自分本位を
露骨に出してしまった場合は
受取る念が倍加してしまうので

反動以上の思わぬ結果となってしまいます。

霊格の高さも
この時に
大きく関わります
相手が居れば
殊更関わります
油断するとえらい目に
あうんやで