2026年7月10日金曜日

経験の濃い失敗を好こう(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




誰にでも嬉しい事というのがあります。
その中の一つに「成果」があります。

何かをやり遂げた形
と、いう意味の言葉ですが、

ここには最終結果だけでなく
途上段階に於ける
中間的な結果も含まれます。

どうしても、
最終的な結果を皆さん追い求めガチですが、
スピリチュアル的な物事のみならず
そればかりを考えてしまうと

途中にある重要な内容を
気付かないで通り過ぎてしまう様な事に
繋がってしまいます。

答えも大切ですが、
その答えを導き出すための計算式は
もっと重要です。

単に答えが合っていれば
それだけで善いなんて事は
世の中では意外と少ないものなのです。

出した答えよりも
それまでの考え方の方に目を向ける。

答えだけを見詰める様になってしまうと、
それが一体どんな経緯で
どういう流れに沿ってどんな考え方で
導き出されたものなのか

省みる事すらやらなくなってしまいます。




競争心に駆られて手早い成功に拘るあまり、
途中の段階を疎かにするのは
次へ繋がる最善策をまるで考えない
というのと同じ話です。

先に繋げるという事は、
過去の失敗を受入れてその失敗から学び
対策を練るという事です。

但し、それは「成功」に固執していては
狙いどころが変わってしまうので、
当初目的からは大きく掛け離れてしまいます。

たった1つの成功よりも
100の失敗の方がその分の経験を
積む事が出来るのですから価値は大きいです。

ここでの経験の一つ一つこそが
「成果」に外なりません。

合っている合っていないだけでの
判断材料のみでは
失敗はゴミ同然の扱いを受けるだけで

何が原因で失敗したのか考察すらせずに
また次への歩を進めてしまいます。
それは更なる失敗を産む要因となって
降り掛かってきます。

その失敗は反省も無しに繰り返すと
失敗自体のサイズも肥大化していき
周りへの負の影響力ままた増大していきます。

小さい幸せが寄せ集まって大きい幸せへと
変化していく流れと同じで、

集まっていくのは「念」ですから、
それ相応の恨みを蓄積していく話となります。
必然的に嬉しい事とは
掛け離れた結果となってしまうのです。

失敗はゴミではなく、
要素の足りていないだけであって
悔しかったり哀しかったりするけれども、
形を変えた「成果の一つ」なのですね。

大きい答えばかりを求めていては
成果が手元に遣ってくる事はありません。
そこをよく考えて日頃から動きを
意識していく事が重要です。

変な拘りを持って
思考回路を
偏らせても
善い結果なんぞ
生まれては
来ないんやで

2026年7月5日日曜日

幸せを掴む(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




皆さん毎日の生活を頑張りながら
一生懸命に努力されていると思いますが、

一体何が幸せで、
そもそも幸せと云うのは何なのか。

と、考えた事が一度くらいは
あるのではないでしょうか。

「幸せ」と云うものは
個人単位でも変わりますし、
その個人の集まりたる社会によっても
大きく変わってきます。

例に挙げると、
マクロな目線で云えば
我が国と他国の幸せって違いますよね。

ミクロになると、
貴方と隣人の幸せも違いますよね。

それらがある種の目的や目標、
何かしらの一致点が発生した時に
共通認識としての「幸せ」へと変わります。

つまり、幸せというのは
基本的には「個人単位」という事なのです。

貴方が「幸せ」だと
認識している物事やその実感があったとしても

その認識がそっくりそのまま貴方以外の人に
無条件で通用する事は決してありません。

何かしらの条件が重なった場合にのみ、
幸せの共感が作用するのです。

お金かも知れないし、仕事かも知れないし、
好きという感情かも知れないし、
単に社会的地位かも知れないし、
通念上の価値観かも知れないし。

通念上の価値観というのは、
「みんながやっているから幸せ」みたいな
自己の認識よりも
他者の認識に合わせる価値観の事です。

パートナー(彼、彼女、夫、妻)が居るとか
人より早く結婚して見下したいとか、
同様に負けたくないとか、見返したいとか、

宗教観的な価値観や各種団体的な価値観、
日本代表を応援する的なあの感覚。
一部の人間にしか通用しないアレです。

これらが通念上の価値観です。

この様に幸せの条件など
何がどこで作用するのかなんて
全く理解出来るものでもないのです。




つまり、
幸せと云うのは自身で検討決断して
「自律的共感」をすることは是だとしても、

他者の押し付けによる「他決的共有」では有得ない。
と、いう事になります。

幸せのサイズの大小を問わず、
如何に自分自身の判断で
その幸せの本質を理解する事が出来るか。

他者の助言や導きは「きっかけ」として
得る事はあったとしても、
自身の意志による取捨選択が出来るか。

自己意思の介在しない幸福は、
「幸せ」ではない。と、認識出来るかどうか。

言い換えればですが、
そこに自己意思が介在しているならば
全てが「幸せ足り得る」と、云う事になります。

これがどういう事かと云うと
例えば、

「貴方は貧乏神になる事は幸せではない」と、
考えていたとしても、
貧乏神の人は自己意思を介在させて
そうなっているのですから

「貧乏神である事こそが幸せである」
と、考える方が自然なのですね。

現世へ生れ落ちる大義の云々は別として、
自己意思での選択結果がその道であるならば

その志を尊重するのもまた
想いの行使であり奉仕の精神の一つとなるのです。

仮に貴方が努力をして、友人知人や家族等の相手を
貧乏神への道を絶たせようとしたところで、
その相手が自己意志を介して拒絶の選択をしたら

それが相手にとっての「幸せ」に過ぎないのです。
意思表示した先に於ける貴方側の問答などは、
全て想いの行使ではなく「押し付け」です。
早い話が、余計なお世話なのですね。

貴方が現世を一生懸命に生きて浄土を目指すのは、
浄土に向かう事が貴方にとっての幸せに過ぎず、

貧乏神にとっては地獄へ赴く事が幸せなのです。

ならば、
努力の結果として無力だったのであれば
押し付けでは無く引導や餞別を渡してあげる事が、
奉仕の精神の完遂に結び付くのですね。

これは非常に苦しい選択ですが、
想いの行使はどんな場合でも痛みが伴います。

「想い」や「慈しみ」とは、
相手が素直に受け取っていて初めて機能する代物です。

そこを誤認しないように織り進めていくのが
本来のスピリチュアルのなのですから。

大義に於ける
善し悪しではなく
個々に於ける
自己意志を視る
幸せの種別を
最終的に決めるのは
その人なんやで