今回は動き方について
お話をしたいと思います。
前回の続きです。
自分本位というものが実際には
どういった箇所で出てくるのか。
これという場所や場面はありません。
決まっていないので
ありとあらゆる場面で
出てこようとします。
但し、一定のルールはあります。
1つが俗欲の絡む場合です。
俗欲と自分本位というのは
かなりの部分で似ています。
ですが、全く同じものではありません。
なので、出現箇所も当然に似てきますし、
影響の受け方も似てきます。
自分本位が俗欲に影響を受ける事もあれば
俗欲が自分本位に触発される場合もある。
俗欲がハード面だとしたら
自分本位はソフト面みたいな感じです。
俗欲が絡む場合の自分本位の
動き方は強力ですが表面的です。
直接的に出現する事が殆どですから
認識する事と制御は比較的簡単です。
見て分かる感じだと思えばいいですね。
当人でも他者でも見て分かります。
ですから、認識も制御も容易いのです。
もう1つが性格や感情に絡む場合です。
前述した場合と違い表面的ではなく
根の深い部分が起因となる自分本位ですので、
本格的に制御を目指さないといけないのは
こちらの自分本位となります。
表面的な出現ではないので
直接的な動きとしては出て来ないのが特徴です。
前回ちょろっと話に触れた「擬態」
と、いう表現をしたのはこの自分本位。
一見すると「想い」や「思い遣り」
という様な自分本位とは真逆に位置している
思考や業に似せて出て来ます。
物凄く小さい例で云うと、
「ええかっこしい」がその典型です。
見えている狭い範囲に焦点を絞って
目的をセットしてしまうため
自分だけが良ければいいとか、
自分が悪役になるのを忌避して起きる自分本位。
交差点などでの右折譲りみたいなやつが
これに該当します。
譲り合い自体は自分本位では無いです。
寧ろ、想いや思い遣りに入ります。
しかし、それは状況判断や状況把握が
しっかりと出来ている場合に限ります。
では、これが自分が先頭で渋滞中であったり
対向車の視野角が満足に取れない場合でしたら
果たしてどうでしょうか。
貴方が気にしないといけないのは
後ろ側であり対向車ではありません。
対向車は、待っていれば曲がれます。
元々の優先順位では最下位ですからね。
大渋滞しているのであれば
後続車の為にも前進するのが優先です。
(前方も詰まっているなら話は別ですよ)
このケースでは自分の中の良心を
思い遣りと称して出しているつもりですが、
実際には周りを視れていないだけの自分本位。
渋滞はしていなくとも
対向車の視野角が取れていない状態で
どうぞと譲ったらどうなるでしょうか。
右直事故を引き起こすリスクに繋がります。
ここでも気にすべきは後方であり
相手のためを考えるのであれば
相手が事故らないための状況把握が必須です。
両ケースに共通しているのが
悪役を忌避する思考です。
誰だって善い役を全うしたいものです。
けれども、それには悪役の重要性も
理解を示さないといけません。
勧善懲悪な思考で性格や感情があると
想いや思い遣りに擬態をした自分本位が
露呈する場面が増えていきます。
そうなると、決して悪い人ではないのに
不幸な事が続いたりして
端から見ると謎な現象が発生するのです。
その要因の一つが擬態した自分本位。
自分の中では善い事をしたと思っていても
周りからは全力で念を当てられてしまう。
想いの皮を被った自分本位を
想いであると認識して疑わないから
あらゆる場面で似た行動をしてしまうので
結果、念を加算的に引き寄せてしまいます。
この性格や感情という自身の根底が
トリガーとなる自分本位は
分かり易いケースが非常に稀なので
自身でも他者でも見分けが難しいです。
尚且つ、根底の認識問題である事と、
素直さ度という触媒も関わってくるので
指摘されてもその話すら拒否したり
意味そのものが理解出来ない場合も多いです。
ですが、実際に指摘を経験されて
制御や改善へ進んでいる方ならば
これらの説明でも直ぐにピンと来る筈です。
あまりにもケースバイケース過ぎて、
1つ1つの最適解を導き出すのは困難を極めます。
ですから、前回もお話をしましたが
「何のために」「誰のために」
と、いう問いを常に片隅へ留めておいて
抜き打ち的に使う事が
対策としても予防措置としても
重要となってくるのです。
ステルス化した
自分本位に
飲み込まれて
しまうんやで



