2026年7月5日日曜日

幸せを掴む(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




皆さん毎日の生活を頑張りながら
一生懸命に努力されていると思いますが、

一体何が幸せで、
そもそも幸せと云うのは何なのか。

と、考えた事が一度くらいは
あるのではないでしょうか。

「幸せ」と云うものは
個人単位でも変わりますし、
その個人の集まりたる社会によっても
大きく変わってきます。

例に挙げると、
マクロな目線で云えば
我が国と他国の幸せって違いますよね。

ミクロになると、
貴方と隣人の幸せも違いますよね。

それらがある種の目的や目標、
何かしらの一致点が発生した時に
共通認識としての「幸せ」へと変わります。

つまり、幸せというのは
基本的には「個人単位」という事なのです。

貴方が「幸せ」だと
認識している物事やその実感があったとしても

その認識がそっくりそのまま貴方以外の人に
無条件で通用する事は決してありません。

何かしらの条件が重なった場合にのみ、
幸せの共感が作用するのです。

お金かも知れないし、仕事かも知れないし、
好きという感情かも知れないし、
単に社会的地位かも知れないし、
通念上の価値観かも知れないし。

通念上の価値観というのは、
「みんながやっているから幸せ」みたいな
自己の認識よりも
他者の認識に合わせる価値観の事です。

パートナー(彼、彼女、夫、妻)が居るとか
人より早く結婚して見下したいとか、
同様に負けたくないとか、見返したいとか、

宗教観的な価値観や各種団体的な価値観、
日本代表を応援する的なあの感覚。
一部の人間にしか通用しないアレです。

これらが通念上の価値観です。

この様に幸せの条件など
何がどこで作用するのかなんて
全く理解出来るものでもないのです。




つまり、
幸せと云うのは自身で検討決断して
「自律的共感」をすることは是だとしても、

他者の押し付けによる「他決的共有」では有得ない。
と、いう事になります。

幸せのサイズの大小を問わず、
如何に自分自身の判断で
その幸せの本質を理解する事が出来るか。

他者の助言や導きは「きっかけ」として
得る事はあったとしても、
自身の意志による取捨選択が出来るか。

自己意思の介在しない幸福は、
「幸せ」ではない。と、認識出来るかどうか。

言い換えればですが、
そこに自己意思が介在しているならば
全てが「幸せ足り得る」と、云う事になります。

これがどういう事かと云うと
例えば、

「貴方は貧乏神になる事は幸せではない」と、
考えていたとしても、
貧乏神の人は自己意思を介在させて
そうなっているのですから

「貧乏神である事こそが幸せである」
と、考える方が自然なのですね。

現世へ生れ落ちる大義の云々は別として、
自己意思での選択結果がその道であるならば

その志を尊重するのもまた
想いの行使であり奉仕の精神の一つとなるのです。

仮に貴方が努力をして、友人知人や家族等の相手を
貧乏神への道を絶たせようとしたところで、
その相手が自己意志を介して拒絶の選択をしたら

それが相手にとっての「幸せ」に過ぎないのです。
意思表示した先に於ける貴方側の問答などは、
全て想いの行使ではなく「押し付け」です。
早い話が、余計なお世話なのですね。

貴方が現世を一生懸命に生きて浄土を目指すのは、
浄土に向かう事が貴方にとっての幸せに過ぎず、

貧乏神にとっては地獄へ赴く事が幸せなのです。

ならば、
努力の結果として無力だったのであれば
押し付けでは無く引導や餞別を渡してあげる事が、
奉仕の精神の完遂に結び付くのですね。

これは非常に苦しい選択ですが、
想いの行使はどんな場合でも痛みが伴います。

「想い」や「慈しみ」とは、
相手が素直に受け取っていて初めて機能する代物です。

そこを誤認しないように織り進めていくのが
本来のスピリチュアルのなのですから。

大義に於ける
善し悪しではなく
個々に於ける
自己意志を視る
幸せの種別を
最終的に決めるのは
その人なんやで

2026年7月4日土曜日

完璧主義の思考形態(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




日常の中にほんの少しで良いので
変化を付けてみましょう。

同じ様な動きの中でも、
僅かな違いを設けるだけで
ルーティン化は避ける事が出来ます。

ですが、
そのわずかな違いや少しの変化ですら、
気軽に設けられないタイプの人も
存在するのですね。

その人達が陥ってるのが
「完璧主義」です。

「ちゃんとやらないといけない」
「間違える事は悪」

これが完璧主義の基礎部分です。
その基礎に則って、事前に調べるとか
知識を得るというものであれば
何も問題は無いのですが、

そこで留まる事が出来るのであれば、
完璧主義にはならないのですね。

パーフェクトに拘るのだから
完璧主義な訳でして、
何もかも100%を目指す。

しかし、悲しいかなその反動で
冒険というものを拒絶する様になります。
完璧を目指すあまり、

「失敗を恐れる様になる」

極度なまでに失敗を恐れるから、
安全パイを狙う様になる。
この段階で、完璧には程遠いという事に
当の本人は気が付きません。

安全パイを狙うあまり、
小さい変化すら恐れる様になる。
その小さい変化はとても簡単なことだと
理解をしていても、

やらない理由、やれない理由を
別に探し始めて言い訳で塗り固める。

その言い訳の中で、
自身が原因だとは決して言えないので、
人や物に縋る様になる。

何故かと云うと、
失敗した時に文句を付けるためです。

自分は悪くない。
あれが悪いこれが悪いと、
さっきまで縋ってきた存在を悪と断じて
それらの所為にして自身の不出来を隠すのです。

そういった思考形態を是としている結果、
冒頭でお話をした様な少しの変化すら
自身で設ける事が出来ない。

どんなに小さな失敗でも
恐くて怖くて仕方がないから、
いつも同じ動きや同じ考え方に頼って
どこまでも「楽」をする様になるのです。




そして、
それが「楽」だと分かっていながら
周りから断じられるのも怖いので、

努力をしている人と同様に
自身もやっているのだと
見様見真似の虚勢を張る様になるのですね。

けれど、その虚勢はまさに虚ろなものですし、
その本質などは理解をしていないし
しようともしていないのだから、

益々立場や社会的なステータスに頼った
物言いをしてくる様になる。
完璧主義の人がやたらと上から目線だったり

お殿様気質、お姫様気質なのはこの為です。

何をどう云う風に装っても
ハリボテの作り物となってしまうのが
完璧主義の恐ろしいところです。

また、その依存性はとても高く、
脱するにはそれ相応の苦痛が必要です。
何をすれば良いのかは難しくありません。

小さな変化を設けるところから始めれば良い。

ですがね、いくらハリボテとは言え
それまで自身のアイデンティティーを
維持してきたものを否定する訳ですから、
一筋縄ではいかないのですね。

苦しみや悲しみ、辛さなどに
幼少期から向き合ってきた人達や、

今この瞬間や直近でそういった経験をして
人の想いに触れる事が出来た人達からすれば、

何にも難しくない事だとしても、
完璧主義の人にしてみたら
超高難度の挑戦となるのです。

なので、生暖かい目で見守りましょう。

     ではなくて

ガンガンに叱咤激励してあげないと
いけないのですよ。
これまでクソほど楽をしてきた訳ですし、
直ぐに楽へ逃避する癖があるのですから

その癖を上書きしてあげないと
完璧主義からの脱却は難しいのです。

「優しさを履き違えずに厳しさを出す」

苦痛に対して真摯に向き合ってきた
貴方達ならば優しさとして出来る筈です。
他者に対しても、自身に対してもね。

心苦しくも
叱った後に
潰れてしまうのは
貴方が原因ではなくて
相手の勝手です。
真摯に向き合わない
相手がバカなだけやで