皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
毎日を一生懸命に頑張る。
どんな人であっても
何処までいってもこれは変わりません。
但し、
皆が皆そうしているとは言っていません。
やっている人はやっている
と、いうだけの話です。
何もせずに
単調な暮らしをしているだけの人も居れば、
頑張っているフリをしている人も居るし。
頑張るという気概を
燃えるゴミの日に出してしまった様な
人だって居ます。
ここを読んでいる人は
頑張る事がデフォルトだと思いますから、
そこに注力して話します。
頑張っていると、
どうしても無理をしがちです。
頑張り過ぎ
やり過ぎ
抱えすぎ
焦り過ぎ
言い方や内容はどうであれ、
真剣勝負を挑み続けてしまうからこそ
無理をしてしまう。
しかし、
ここで問題点が生じてくるのです。
何かと云うと、
「甘んじる」という点。
頑張る事が出来てしまう反面、
休みや落ち着く期間が長いと
気を抜いてしまったり
同じ動きで楽をしてしまうと
頑張る事を忘れがちになってしまう。
そして、その後に自己嫌悪へ陥るので、
脱却を図るために
またしても無理をしてしまう。
このスパイラルに嵌っている人は
そこそこ多いと思います。
頑張っているからこそのジレンマ。
無理をするが故の落日。
このままではいけないと思っていても、
何かしらの策を考えてみても
やはり同じ道程を踏んでしまうのは、
あるものが足りていないからなのですね。
それは
「ゲーム性」
と
「限界突破」
この2点です。
邪魔を好むというのは、考え方です。
おそらくですが、
誰しもが邪魔を嫌います。
遮られるのって嫌ですものね。
けれど、人って面白いもので
邪魔が無いと怠けますし、
ヤル気が無くなってしまうんです。
マリオを思い出して下さい。
あれって邪魔しかないでしょ。
キノコやカメが突っ込んでくるし、
火まで飛んでくれば足場も崩れます。
現実で置き換えたらそれはもう酷いです。
あのヒゲオヤジは相当に頑張ってますよね。
もし、あれで邪魔が何も無かったら
どうでしょうかね。
何も面白くないですよね。クソゲーです。
邪魔は嫌だけども、敢えてそこを愉しむ。
「かかってきなさい」という気概で挑む。
限界突破というのは、
「意図して臨む無理」というやつです。
自身の持っている全てを使って無理をする。
そして、限界を超える。
無理をしない事を続けていると
楽勝過ぎてつまんないんですよ。
自分の力がどんなもんなのかと
試してみたくなるでしょ。
そこで、普段はやらない事なのだけど
目標を明確に定めてこれでもかと無理をする。
当然に疲れますが、
成功しようが失敗しようが
自身のボーダーラインを知る事が出来ます。
より一層強くなったと実感も出来れば
なにくそ魂でまた頑張る事も出来る。
ご自身の生活に置き換えてみると
至らない面や悩んでいる点で
往々にしてこれらが足りていないと
肌身で分かる筈ですよ。
怠け癖や
楽したい願望は
誰にだってあるし
消す事は出来ない
どうせやるなら
愉しみながら
やりたいやんか
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
誰のために
何のために
普段から何度となくお話をしている
行動をする時の意識の置き場ですが、
分かってはいても自分の弱さや
駄目な自分が邪魔をしてしまって
上手く活用出来なかったりします。
例えば、
子供のためにも喧嘩をしないと
いけない場面なのに、
怖いと思ってしまったが故に
ハッキリとモノを言う事が出来なかったり。
波風を立てたくないと
思ってしまったが故に、
云うべき事実を言わずに終えてしまったり。
理想は全然違う筈なのに、
自分でも動き方が間違っていると
分かっているのに
自分の弱さや駄目な自分に
負けてしまって捻じ曲げてしまう。
そういう時に都合よく、
「逃げる事も大事」
みたいな言葉に救いを求めてしまう。
その結果、後々に訪れるのは
自己憐憫と自己嫌悪です。
貴方の事を何とも思っていない人や
他人事としか考えていない人は
上辺っ面の内容だけを示して
「逃げの一手」
「希望的逃避」
を、必ず勧めてきます。
そんなの仕方ないよ的な言い方で
話自体を理解したフリをしてみたり、
何も出来なかった事を差し置いて
「なんだって言うのよねぇ」みたいに、
相手の悪口を代弁してみたりするのです。
それらは誰のための動きですか。
何のための動きですか。
自分が本当に守りたかった相手に対して
胸を張って言える事ですか。
守りたかった相手に対して
泥を塗ったり突き飛ばしてるのと
同じではないですか。
大切な人を本気で護りたいのであれば、
仮に恐いなとか、嫌だなと思っても
自分の身勝手な心情を優先させずに
ぶつかる事や喧嘩する事も必要なんです。
端から見たらそれが非常識に映ったとしても
それで大切な存在を護る事が出来るのならば
別に構わないじゃないですか。
こういった精神を「義」と云います。
これに信用や信頼が入ると「信義」となり、
忠を尽くす心が入ると「忠義」となり、
理が合わさると「義理」となります。
そして、
相手のために義を尽くすことを
「奉仕の精神」と云うのです。
誰でもいいですが
大切な存在を護りたい、
護り抜きたいのであれば
口先だけの無粋な言動ではなく
自身の意志に属した堂々たる行動を以て
恥じぬ背中を視せるべきなのです。
見て見ぬ振りをせず
勇を用いて動きへ変える。
ひれ伏す前に藻掻き抗うことが出来るのも
自分自身の意志ですからね。
見て見ぬ振りをして
後出しする奴には
常識を崩さずに
正攻法で挑んでくる
相手だけなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
もう夏も終盤に差し掛かっていますが、
風物詩として肝試しなんかがありますね。
今で言うところの心霊スポット巡り
この心霊スポットっていうのは
なかなかに俗物的だなぁと
思わせてくれる代物です。
何かしらの曰く因縁のある場所を
心霊スポットと称して
わーきゃーする。
まぁ、好き好きなので
ご自由にとずっと昔から思っています。
大抵の場合、
心霊スポットと呼ばれている場所は
だからなんだの状態となっています。
不良の巣窟となっている事が多いので
そういう危険さの方が強いです。
僕自身、この心霊スポットという呼び名や
そういったランドマークを作ること自体が
どうしても好きにはなれません。
何故かと云うと、
態々そんな廃墟とかをスポット化せずとも
おっかない場所なんて五万とあるし、
そもそも因縁がある場所なんて
皆さん一人一人の徒歩圏内に
数か所はありますからね。
そういう場所には目もくれずに
見た目の恐さや忌避感のみで
ある場所にピントを合わせたところで
それはあくまでも表面上での話。
そこには誰かしらの生活や思い出があって
優しい話とかも沢山存在するんです。
にも関わらず、面白おかしく
自分達の欲のままにスポットとするのは
どうにも人の心が通っていなくて
嫌なのですよね。
どうせなら、そういう場所を
勝手に綺麗にする方が面白い。
綺麗にと言っても物理的な美しさではなくて
幽体的、霊体的に綺麗にしてしまう。
因縁のある場所ですとか、
ガチで悪霊が溜まりやすい場所とか、
そういった場所は結構あります。
そんな場所に勝手に行って
勝手に浄化をさせちまえばいい。
常々、僕がやっている事です。
どうせなら住み易かったり
何だか問題が減ったり
知らずと運気が上がったりした方が善きでしょ。
能力ってのはね、
そういう風に使うんです。
力ある者ならば
一緒になって
恐怖を誘発させたり
するんじゃなくて
光あれ幸あれの方へ
使うべきなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
お化けや生霊に憑依されてしまったり
家に居座られてしまったり、
呪いやら恨みやら食らってしまったり
視えざる者や念絡みの話というのが
世の中には色々ありますね。
ですが、世の中に溢れている
この手の話の殆どは人の霊です。
正直言って、たかが知れています。
云っても人ですからね。
そして、
オカルト好きなら一度は聞いた事のある
「私には手に負えない」
という霊能者やそれらを気取った輩の言う台詞。
何を言っているのかと本気で呆れてしまいます。
その程度の相手に相対出来ない奴らが
何でもない時は神や仏を慕って
さも、自分がその力を得ているかの如き事を宣い
偉そうにしているんですね。
神や仏の力を持っているなら
対処出来るでしょ。
やれやれ...といった感じです。
そもそもたかが心霊スポットみたいな
「お遊戯場」でビビっている人が殆どですし。
動物霊や自然霊を認識する事すらも
出来ない連中が大半を占めていて、
そんな下郎が神や仏の名や力を語るなど
笑止千万といったところです。
神や仏を慕いたいなら、
まずは動物霊とお話出来ないとね。
その次に、
自然霊の信頼を得ないといけないのだけど
これには「霊格」という
非常に大きなハードルがあります。
これは個人の努力でどうこうなる様な
代物ではないのでほぼ無理だと思った方がいい。
自然霊の信を得るたった一つの方法としては、
霊格の適している存在を介して
自然霊と触れ得る事です。
これは実際に経験をしたことがある人であれば
どんな感じで、どんなものなのかが
肌身で分かると思います。あの感じですね。
最後に、本気で神や仏を慕いたいなら
一つ大切なことがあります。
(かみほとけ)
あいつらと本気で喧嘩することです。
そんな事出来る訳ないと思うでしょ。
世の中にはね、出来る人っているんですよ。
実際に証拠まで見せているくらいだし。
けれども、それが出来る人は極一部の
限られた条件下の人のみです。
ですからね、神さん仏さんに対して皆さんは
真摯にご挨拶をする程度が丁度良いんですよ。
大事なことやけど
神さんも仏さんも
何かを叶えてくれる様な
存在ちゃうかんね
もっと身近で
暖かい存在なんや
折が合えばの話やけどな
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
愉しみを得ることの難しさは
言わずもがなな事ですが、
とは言え、
この難しさというものが
単なる「困難」だと思慮するのは
些か稚拙な話となります。
愉しみを得る上で一番の困難は
「相手のためを思考する」
必要があるからです。
例え、
その場に居るのが自分一人だとしても
常に相手つまり「自分以外の存在」を
感じ取っていなければならない。
それを忘れてはいけない。
この感覚と思考の使いようと云うのが
困難とさせている部分です。
しかし、
相手を想うというのは
本来のスピリチュアルに於ける
基本的思考でもありますから、
愉しみを得るのは誰にでも可能な事なのですね。
基本的思考にも関わらず
難しくさせている要因の一つとして
「自分本位」というのがあります。
ここでの自分本位とは
単純なわがまま等ではなく
自我・エゴと呼ぶ様な性格や自己認識
アイデンティティーとなる部分の事を
意味しています。
誰にでも好きなものや
嫌なものくらいありますね。
それを主張する事もありますね。
自分の中の得手不得手や好みというのは
色々なものから成り立っています。
性格然り、経験然り、環境然り、時代然り。
この自分を構成する些細な一部分を
何の気無しに主義主張する事で
「自分」というのは成り立っているのです。
その自分自身が愉しみを得るのを阻害する。
但し、それは自己の主張に
「溺れてしまったら」という話です。
逆に「流されてしまっても」アウトとなる。
自分自身を維持しつつ、主張はすれども
相手のためにバランスを整えた時に
「愉しみ」は得られるのです。
それを私達は自然とやってのけているのですね。
改めて考えてみると
何とも不思議な感じですよね。
そして、その得るための過程で
最も重要な触媒となるのが「努力」です。
これを欠いてしまうと、
どの道愉しみは得られません。
独りよがりとなって自分本位に溺れるか
周囲に流されて自身を失います。
自分というものを
しっかりと持って
徒に流されず
無理に押し付けず
相手との連動を
一番に考え動くのが
愉しみなんやで