2026年6月19日金曜日

差を知って使い熟す(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自身の中での価値観というのは
人に合わせて作るものではないです。

自分の中で確固たるものがあれば
それで充分なのですね。
但し、
その中身に至っては少し考えようで

常識的な一面というのも必要になります。

価値を決める上での常識というのは
一般教養の事を指します。
ここの教養という部分には
所謂、知識や学問が当て嵌まりますが、

常識的範疇での流行りやムーヴメントも
価値を決める上では必要になります。

「自身の中での確かな価値」
「一般的な価値」

これらを己の中で共存させる事で
世間と自身の「差」を知ることが出来ます。

ここの「差」の部分が特定の存在にとっては
愉しみに繋がる部分でもあり、
一般的な話となった場合には
全く理解されない部分という点となります。

つまり、この「差」を理解しておかないと
何かこれと言って特段非常識な事を
している訳でも無いのに、

結構な数の恨みや念を引取る事に繋がります。




何故かと云うと、
話が通じなくなるからです。

ここでの話とは深い部分での話ではなく、
表面上の浅い部分での話です。

自身と特定の存在のみでしたら、
この「差」というのは考えなくても
価値の共感が可能になります。

然しながら、鑑みなくてはいけないのは
この現世で生きるという現実です。

我々は自身と特定の存在だけで
現世を生きているのではなく、
縷々様々な存在を介して生きています。

詰まるところ、この「差」を理解する事で
「相手のため」という奉仕の精神、
思い遣りに繋がるポイントを
手にする事が可能となってきます。

全ての存在がスタンドアローンで
何の繋がりも無く独立独歩で生きているならば
こういった「差」を鑑みる事は不要ですが、

それこそ現実ではなく幻想です。

「自分だけが善ければいい」に
自動的に繋がってしまうのが、
この「差」を理解しないという怖さです。

自身が好きだの嫌いだのではなく、
自分以外の存在や支えてくれる存在に対する
思い遣りとしてこの「差」を理解する。

決して深くなくて良いんです。
すごく浅くて構いません。

世間との窓口を自身に設けておかないと
現実の中に居ながら幻想へ逃避する
そんな結果となってしまいますからね。




世間との差を理解しておかないと
結果として、人に苦痛や辛さを与えます。

これは実体験ですが、
僕は子供の頃に両親がこの「差」を
理解していなかったが為に、

狭い子供の世界の中での流行りや愉しみに
乗ったり付いていく事が出来なかったので、

周囲から疎外されていました。
家では虐待、外では虐め。
中々にヘビーでしたよ。

自身の価値観を持つ事は大切ですが、
それの保持や維持には「差」が必須です。

ましてや、価値観そのものを
押し付けてしまったり「差」を忌避する事は
自身の価値観ではなく特殊な価値観と変貌し

世間や社会、コミュニティからの
乖離を意味します。

それは、我々の生活環境からすれば
死活問題でしかありません。
現に僕の両親は結果として何もかもを失いました。

人や子が望むから必ずそれを与えたり
自身もその中身に乗るという意味ではなく、

節度を以て「差」を理解した上で、
適確に判別をする事が大切になってくるのです。

知らぬ存ぜぬで個として生きていけるほど
現世というものは甘くないですし、
自身の価値観だけを突き詰めるだけというのは

好きな事だけをやるという意味と同意義ですから
それは楽をしているのと
何が違うんでしょうかね。

差を知らないとね
自分勝手に生きて
自分中心で居るのと
何ら変わらない
人の善し悪しは
関係無しに
堕ちるんやで

2026年6月18日木曜日

通りすがりのお説教(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




自身が自己憐憫に陥り易いかどうか
その境目となるのが

「支えられていると考えているか」
「支えていると思っているか」

この考え方の違いです。

「自身が周りから支えられている」と、
考えられるのであれば、
基本的な思考と動作や所作は

「相手のため」や「周りのため」

と、いうものに自然となっていきます。

この思考形態の場合ですと、
基準となるのが自分ではなくて
「自分以外のため」となりますから、

日常的に反省と考察を繰り返します。
次に繋げていく考え方が主となる感じです。

ですので、
憐憫とは距離を置く様な感覚に近いと
考える事が出来ます。

これとは逆に、
「自分が周りを支えている」
と、いう考え方の場合ですと、

基本的な思考や動作所作というのは
口先では、
「相手のため」や「周りのため」と
枕詞の様に付帯して行動しますが、

「自分のため」が主流となります。




一見すると、前者と似ている様に思えますが、
決定的な違いとして
「相手のため」等の言葉を口にする
という点が見受けられます。

一先ずは自分というのを置いておき、
自分以外のためにまず動くといった、

奉仕の精神での思考や行動が理解出来ないのと
周りには同様に考えている風に思われたいという
承認欲求が強い為です。

そして、反省や考察というものの
意味は理解をしていますが、

自身が失敗をした時にすべきものとの
認識が強いので、
日常の中での反省等は前者に比べると
極端に少ないのが特徴です。

自身の反省よりも人の失敗を見て楽しむ。
同時に極端に自身が失敗する事を忌避します。

結果として、失敗後も反省ではなく
言い訳や擦り付けが主となるので、

自身の失敗を目の当たりにした時に、
自分を「上手く出来ない被害者」
と、いう位置付けにしてしまいます。

ここが自己憐憫を加速させるポイントです。

反省よりも自身を善として
悪を構築させるのですね。
勿論これは逆恨みでもあり、
単なる我儘に過ぎません。

反省を日常的に利用していないので
使い方も理解していませんから、
思考は穿ったものとなり前進的な思慮よりも
停滞的な動きがメインとなります。

褒めると直ぐに調子に乗るという
分かり易い特徴も出てくるので
見極める事は容易いです。

相手のためを
思考出来れば
反省も考察も
日常的に使うのが理
失敗を敵視するから
それすらも出来なく
なってしまうんやで