2026年6月7日日曜日

力及ばずの苦渋(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




どんなに手を尽くしていたとしても
聴く側が教える側の痛みを
理解する事が出来なければ
そこで想いは途切れます。

痛みの理解というのは
その辛さや苦しさを
分かろうとする事に注力しがちですが、

それよりも大切になってくるのは
その後の動き方となります。

そこで痛みを理解しようとしているのか
痛みに対して見向きもしていないのかが
分かる様になるのですね。

仮に自身が下手を打った、
間違っていたと豪語していたとしても

そこで反省していると
言葉に出していたとしても、

動きや態度で示されていなければ
理解というものには程遠いです。

例えば、自身がミスをしたとして
それを相手に頭を垂れて直接謝罪する。
至極当たり前の事ですが、
これが出来ない人も中には居ます。

特段の事情も無いのに会おうともせず
文字で済まそうとしたり、

謝るべき当該者ではなく仲介者を通じて
代わりに伝えてもらおうとしたり、

謝ってもいないのに、周囲にだけは
謝罪した風の事を述べてみたり、

そして、勝手に泣き喚いて
挙げ句の果てには悲劇のヒロインを気取る。




自身の落ち度を棚に上げたまま
何も前に進ませようとせずに、
自己保身のみに徹しようとする姿を視て

一体誰が教える側の痛みを
理解してくれたと思うでしょうか。

普通の感覚であれば、
それで良しとする人はいないでしょう。

最初から最後まで自身の事しか
念頭に入れておらず、
真摯に向き合ってくれている相手すらも
スルーしている訳ですからね。

自分というのを大切にする事は
決して悪い事ではありません。

ですが、それはアイデンティティーの
維持や保護に徹する時の話であって、
何かしらの変化や変貌を加えたい時に
重要視する様な動きでは無いのです。

自分を取れば取る程、
相手の想いと云うのは薄れていきます。
自分本位に堕ちる訳ですから当然です。

その怠惰な動きが目に見える形で
映った時に、想いと云うのは途切れます。

そこが今生の別れの分岐点です。

誠意を持たぬ相手に対して
痛みと引き換えに希望を以て接する。

にも関わらず、とことんにまで
自分本位に溺れられてしまっては
手の施しようがありません。

力及ばずで苦渋を飲み
引導を渡す時というのは
何度味わっても善い気はしません。

僕が仕事をしている中での話ですが、
皆さんのプライベートでも
これは当て嵌まると思いますよ。

月単位年単位の
努力であっても
実らない事もある
その逆に
努力の実りも
多々あるから
救われてるんやで

2026年6月6日土曜日

意識の方向と痛み(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




別に僕みたいな存在で無くとも
人から何かしらの助言を
求められる事はあると思います。

その時に、
意識がどちらへ向いているか。

完全に相手なのか
一部のみ相手なのか
全て自分なのか

こういった意識の方向を考えて
助言というものは行われます。

また、その際に聞く側も同様でして
意識の方向はどこへ向いているのか。
上記と同じ問い掛けをする事が
大切になってきます。

助言をする側も聴く側も
意識の方向が自分自身へと向いていれば

助言の中身は薄っぺらくなりますし、
聞く姿勢も整わなくなります。

何故かと云うと、お互いがお互いにとって
都合の良い内容であり、都合の良い解釈を
連綿と続ける事になるからです。

所謂、綺麗事のオンパレードです。
当り障りの無い内容や
痛みの生じぬ薄愛な言葉の綴りです。




相手のためを想えば想うほど、
厳しい事実も口にする事が出来ます。
但し、そこには想いが存在するので、

相手にとってなるべく傷が浅くなる様に
気配りや気遣いは必ず行います。
言葉のチョイスというやつです。

例えるなら、手術みたいなものです。
切開をしないと治せないにしても、
最小限度の傷口で治めようとしますよね。

肉体の中にある傷付いた幽体を整える為に、
言葉を用いて響かせないといけません。
なのに、その言葉で傷の上塗りを
させる訳にはいきませんからね。

そこで、
今一度気に留めてほしいのですが、
厳しい事を口にするというのは

「決して伊達や粋狂でやっている訳ではない」

と、いう点です。

まして、相手のためを考えていれば、
助言する側が痛みを感じずに遊び半分や
余興程度で考えて出来るものではないのです。

相手の辛さや苦しさを
真剣に捉えれば捉える程、
相手に対して真摯に向き合えば向き合うほど、

助言する側の痛みは指数関数的に増加します。

しかし、その痛みは必定的なものとして
相手の辛さを分かち合える為の痛みとして
心内に留めながらお話をする訳ですね。

これは意識の方向をちゃんと相手に対して
定めている人であれば、
誰だって同じだと僕は考えます。

聴く側となった際にこれと同じベクトルで
聴く事が出来る人であれば、

何の疑いも懐疑もする事無く今この瞬間に
理解する事が出来る筈です。

教える側の抱えている内なる痛みを理解せずに
自身の痛みだけに溺れている様な人は、

恐らく一生、死んだ後でも本当の意味での
思い遣りというものを実感する事は難しいです。
相手に与えるとなれば皆無でしょうね。

それでも見捨てずに
どうにかしたいと
気張ってやるけど
何度話しても
無理なのであれば
切るしかないんやで
身が持たんさかい