2026年10月7日水曜日

まやかしと本質の狭間(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




信じるというのは難しいです。
特に、「自分を信じる」というのは、
超難関な業となります。

いや、そんなの簡単だよね。

と、思える人は出来ているから
そう断言することが可能なのですね。
(これは厭味ですからねw)

色々な場面で、
出来事や事象の大小を問わず
「自分を信じる」ようにするには、

「覚悟を決める」という意味なのです。
何の覚悟かと云うと、

「誰の所為にもしない」

と、いう覚悟です。

正直なところ、
これを実行するのは本当に困難を極めます。

人の所為や物の所為にする方が
自分の所為にするよりも簡単です。
責め立てれば良いだけですからね。

つまり、自分を信じるよりも
他人を信じる方が100倍は簡単なのです。

覚悟を決めなくても、
何かあった際にはそいつの所為にして
責め立てればいいだけですからね。

また、言う事も聴こえも
周りからすれば格好良く響きますからね。

尚、ここまで話しておいて何ですけども、
これって何も信じている事には
なりませんからね。




また、
「自分の事しか信じない」のと
「自分を信じる」というのは別物です。

「自分の事しか信じない」と口にする人は、
大抵の場合、自分の事も信じていません。

単に責任を逃れてフラフラとしているだけで
その場その時で、信じる先を変えていて
他者の話をあたかも自分に照らし合わせて

さも自分が生み出したり、
自分が口にしたかの様に
言いたいだけの人であって
覚悟を決めて口にしているなんて事は

萬に一つもありません。

以前にも話していますが、
自分の事しか信じないなら
周りの存在も信じないという意味ですからね。

前段でも話しましたが、
自分を信じるというのは

どんな場面だったとしても、
自己の動きや考えに責任を持つ事を指します。

当然、文句も言えば愚痴も口ずさみますから
100%完璧にという事は
原理原則としてあり得ないですが、

それを加味したとしても、
可能な限り自己の責任の名に於いて
覚悟を決めて行動をする。

自分を信じるという事は、
相手を信じるという話に繋がるのです。
何故なら、自分が覚悟を決めて
そうしようと決断した事なのでしょ。

相手を信じようと決めたは自分なのですから。
そういった覚悟を常々秘めながら
日頃の業を熟していく事が、

「自分を信じる」という事なのです。

どうしても善い事ばかりを想像して
自分を信じると使いがちになるでしょうけど、
自分を信じる先には結果として
失敗や自分にとって都合の悪いことも含まれます。

それらの全てをひっくるめで
「自分を信じる」が成り立つ訳ですから、

自分達がやれる事と云ったら

「信じられるに値する為の努力をする」
「覚悟を決める事が出来る様な知と経験を得る」

まずはここが基本となる訳です。
この基本を育てる場が「日頃の業」なのですね。

さて、貴方は自分を信じられていますか。

やればやるほど
難しさが身に沁みる
それが自分を信じる
という業なんやで

2026年10月5日月曜日

魂の座(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




家族、知人友人、職場、業務関係者、
日頃からコミュニケーションを取る為に
貴方はあの手この手で
悪戦苦闘している事と思います。

以前より話をしている通り、
コミュニケーションの基本であり
究極系は「会話」です。

単に言葉を交わすのが
「会話」ではありません。

そこに気持ちをしっかり乗せて
遣り取りをするのが「会話」。

その気持ちというのは、
想いでもあり念でもあります。

この手の話をすると
善い事ばかりを考える人や
無理にでもそちらへ結び付けようと

教え広める人が結構多いので
どうしても偏りがちなものでもあります。

実際のところ、「会話」というのは
想念の交錯がとても激しいです。
一瞬にして纏まることもあれば
爆散することもありますよね。

その時に、どうしても言葉のチョイスを
念頭に入れた成功や失敗を
考えてしまいますが、

実のところ、想いが入っていたか
念が入っていたか、

それらを意識していたかどうか
と、いうのが問題だったりします。

確かに、言葉のチョイスは必要です。
明らかに場違いな言葉を選定すれば
気分を害する人だっていますし、

大っぴらに誤解や勘違いを
招いてしまう危険性も出て来ます。

けれど、如何に適正な言葉を選ぼうとも
そこに気持ち、想いや念が乗っていなければ
会話としては意味を成さないのですね。

例え、眼の前で聴いていたとしても
スッと自身の中に入ってこないのです。

そして、その逆も然りです。
幾ら頑張っても相手に受け入れる器や
その気概が無ければ全く届かないのですね。

受け容れない訳ですから。




想いや念というのは
目に視えたり視えなかったりと
不確実性の高いものではありますが、

意外な部分で、
はたとその存在が視えたりします。

その一つが「抑揚」です。

こんな経験ありませんか。
会話ではないですけど、歌を聞いてる時に
音程も音階もバッチリなのに、

内容が全然入ってこなくて
感動もクソも無く聞くに堪えないという経験。
いわゆる満点の筈なのに良くないってやつです。

単に正しければ良いという訳でも無く、
揃っていればいいという訳でも無い。

そこに「気持ち」というのが乗っていないから
雑音にしか聴こえないのですね。

会話も同じです。
そこに「想い」や「念」が乗っているから
相手にも届くし自分にも響く。

ただ言っていますというだけでは
何も思わないでしょ。

当然、相手に届かせたいのであれば
努力が必要になりますが、
「相手次第」という不可分性もあります。

どんなに努力をしたとしても
相手の器が矮小だったり、
そもそも閉ざして塞いでいれば届きませんし
何も響きません。

それでも努力をする事が必要ですし、
自身に至っても理解する努力が必須となります。

そこで確実に視えている筈なのに
視えなくさせてしまっている本質と中身。

魂を宿らせているのかいないのか。
そこを意識して動く事が大切ですからね。

魂を座して使う
言葉も会話も
これを理解すれば
形だけの思い遣りも
隠れた自分本位も
純朴な想いも
見抜けるものなんやで

2026年10月2日金曜日

ありのままを...(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




貴方は人に何かを伝える時に
内容に編集を付け加えずに
そのままを話す事が出来ますか。

そんなの簡単だと思いがちですが、
これが実は結構難しいのです。

人には
自分本位という機能が備わっています。

この自分本位はあらゆる場面で
ひょっこりと顔を出すのですね。

どんなに小さい物事だとしても
人に何かを伝えようとする際も
それは変わらず存在します。

小さな出来事を大きく言ってみたり
出来事そのものに尾鰭を付けてみたり
逆に過少的な言葉で言ってみたり

ありのままそのままで
モノを伝えるというと
結構難易度が高い筈です。




そこには個人的な主観や好みも入ります。
貴方の立場や相手の立場などが
入り混じる場合もあります。

自分の事を善く見せたいという
俗欲が入る場合もあれば、

人から良く思われたいとか
恩を売る様な動きになる場合もありますね。

面白く伝える為に
嘘は云わずとも少し脚色をしてみたり

深刻な話になればなるほど
自分や自分のエピソードを現実よりも
色濃く見せようとしてしまったりもする。

これだけではないですが、
こういった事全てが自分本位です。

ありのままの出来事を
そっくりそのまま伝え話す。

相手が傷付かない様にとか
色々な意味で言い難い場合などは
言葉を選んだりはするにしても

ありのまんまというのは
知識、知恵、洞察力、語彙力、
理解力、認識力など様々な考えを用いなければ

どうにも難しい業(おこない)です。

けれども、相手のためや
自分以外の存在のためだと考えるのであれば
やらなくてはいけない業でもあります。

考えるよりも実践あるのみ。
やってみれば分かりますが、
頭では理解していても中々大変ですよ。

自分本位、つまり俗欲を制御したいのならば
避けては通れない業です。

思惑が交錯すると
シンプルに
なればなるほど
高難度になる
やってみれば
分かるんやで

2026年9月29日火曜日

恨みと余計なお世話(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




いつも縷々様々な形の自分本位を
ここではお話をしていますが、

身近な所で一番発生率が多いのが

「余計なお世話」です。

一見すると、
別に悪いことでも何でもないのだけど
相手の意に沿っていないので
要らぬ恨みを買う

と、いうのが「余計なお世話」です。

これの何が厄介かと云うと
当の本人に全く罪の意識が無い点です。

どういう意味かと云いますと、

自身の中では善い事や
喜ばれる事を率先して行っていると
信じ切っていて、相手の事など
微塵も考えていない

という事なのですね。

早い話が、「押し付け」なのです。

相手に対して何かをするというのは
自身の価値観で決め得るものではありません。

自身の価値観がそのまま相手に符合すると
考えること自体が烏滸がましいのです。
個々人で価値観は違いますからね。




例えば実際にみかけた話ですが、

スーパーの入口でガラガラに幼児を乗せている
主婦さんが居ました。
幼児は駄々をこねていて
泣いてはいないものの騒いでいる状態。

それを見かけた妙齢の御婦人が
宝物でも見付けたかの様に笑顔で近付き
当たり前の様に主婦さんへ話し掛けたのですね。

「あら~、だいじょうぶ」みたいな。

あの時の御婦人の笑顔と云えば
聞こえが良いですが
ハッキリ言って気持ち悪い笑い顔。

主婦さんも最初こそ社交辞令的な
作り笑いをしていましたが、
明らかに鬱陶しいなという感じです。

それをガン無視しして話し掛けるご婦人。

外は大雨です。
早く車に戻りたかったのでしょうね。
おまけに、幼児は泣き止む事が無いどころか
更に輪を掛けて騒いでました。

そして、御婦人はというと
善い事をしたという満足げな感じで
そのまま立ち去る始末。




この時の御婦人の表情は自分本位そのものです。
自分本位を主として行動する際、
人はその表情などにガッツリ特徴が出ます。

実際の行動も例に紛れず、
自分の気持ちは満たしているけども
相手さんの事は何一つ考えていません。

ここで御婦人が得たのは「恨み」だけです。

また、御婦人に余計なお世話をしたとの
自覚は全く起きていないでしょう。

意識の方向は自分へ向いており、
気にする点は世間体。

こういった無自覚な押し付けが
余計なお世話なのです。

誰しもが同じ価値観で動いている訳ではない。
中には同じ価値観の人も居るでしょうが、

世の中はそこまでシンプルでも無いし
人はそんなに単純でも無いのです。

この様な動きをなるべくせずに
ちゃんと相手の意に沿った動きであれば
似た様な状況の時に
「声を掛けない」という選択もあるのです。

これを「やらない勇気」と云います。

やるべき勇気とやらない勇気
この使い分けをする事が
余計な恨みを買わないで徳を最大限に
発揮する動きとなるのですね。

想いと念が
同じ場所にある様に
徳と恨みも
同じ場所にある
全ては相手次第であり
自分次第でもあるのを
忘れたらあかんで

2026年9月26日土曜日

バックドア構築(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自分本位というものは
制御をする事は可能ですが、

克服するという事はありません。
何故なら、消せないからです。

そして、
制御と言っても
完全制御という訳ではなくて
ちょっとした部分で何とか出来るかな

程度の制御です。

自分本位というものは
普段はどうにか制御が可能ですが、

喜怒哀楽や環境や状況によって
非常に簡単に表面化していきます。

哀しい時や怒っている時だけでなく
自身が浮かれている時や嬉しい時など
自分本位では無さそうな時だったとしても

要らぬことを言ってしまったり、
逆に感付く事が出来なかったりと
簡単に露見する様になります。

何故なら、周りが視えなくなるからです。




自分自身でも驚くほどあっさりと
自分本位は顔を出してきます。

克服したと考えている人になればなるほど
露骨なまでに自分本位は暴れます。

何故なら、口では克服と言いながらも
自分本位というものを拒否しているからです。

どんな時でも可能な限りの冷静さを保つ。
それが自分本位の制御に必要な因子です。

「常に裏側を視る」

という感情の覗き見。
今この瞬間に得ている感情の全てに
流されるのではなく、

どこか俯瞰視する様な感覚を持ち合わせる。
その上で、感情を爆発させたり表現をする。

でなければ、感情と云うのは激流と同じなので
瞬く間に飲み込まれてしまうのです。
それを手招きして待ち構えているのが

自分本位に他なりません。

常に裏側を思考する事により
感情の激流をある程度制御して冷静になり、
自分本位をしっかりと認めて

今この時に自身のどこに自分本位が
存在しているのかを探し、
意識して最低限の「力」として引き出すのです。

自分本位は溺れたらおっかないですが、
行動するためのきっかけでもありますからね。

嫌がるのではなく
恐がるのでも無く
己の要素として
認めて使うんやで