皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
もう夏も終盤に差し掛かっていますが、
風物詩として肝試しなんかがありますね。
今で言うところの心霊スポット巡り
この心霊スポットっていうのは
なかなかに俗物的だなぁと
思わせてくれる代物です。
何かしらの曰く因縁のある場所を
心霊スポットと称して
わーきゃーする。
まぁ、好き好きなので
ご自由にとずっと昔から思っています。
大抵の場合、
心霊スポットと呼ばれている場所は
だからなんだの状態となっています。
不良の巣窟となっている事が多いので
そういう危険さの方が強いです。
僕自身、この心霊スポットという呼び名や
そういったランドマークを作ること自体が
どうしても好きにはなれません。
何故かと云うと、
態々そんな廃墟とかをスポット化せずとも
おっかない場所なんて五万とあるし、
そもそも因縁がある場所なんて
皆さん一人一人の徒歩圏内に
数か所はありますからね。
そういう場所には目もくれずに
見た目の恐さや忌避感のみで
ある場所にピントを合わせたところで
それはあくまでも表面上での話。
そこには誰かしらの生活や思い出があって
優しい話とかも沢山存在するんです。
にも関わらず、面白おかしく
自分達の欲のままにスポットとするのは
どうにも人の心が通っていなくて
嫌なのですよね。
どうせなら、そういう場所を
勝手に綺麗にする方が面白い。
綺麗にと言っても物理的な美しさではなくて
幽体的、霊体的に綺麗にしてしまう。
因縁のある場所ですとか、
ガチで悪霊が溜まりやすい場所とか、
そういった場所は結構あります。
そんな場所に勝手に行って
勝手に浄化をさせちまえばいい。
常々、僕がやっている事です。
どうせなら住み易かったり
何だか問題が減ったり
知らずと運気が上がったりした方が善きでしょ。
能力ってのはね、
そういう風に使うんです。
力ある者ならば
一緒になって
恐怖を誘発させたり
するんじゃなくて
光あれ幸あれの方へ
使うべきなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
お化けや生霊に憑依されてしまったり
家に居座られてしまったり、
呪いやら恨みやら食らってしまったり
視えざる者や念絡みの話というのが
世の中には色々ありますね。
ですが、世の中に溢れている
この手の話の殆どは人の霊です。
正直言って、たかが知れています。
云っても人ですからね。
そして、
オカルト好きなら一度は聞いた事のある
「私には手に負えない」
という霊能者やそれらを気取った輩の言う台詞。
何を言っているのかと本気で呆れてしまいます。
その程度の相手に相対出来ない奴らが
何でもない時は神や仏を慕って
さも、自分がその力を得ているかの如き事を宣い
偉そうにしているんですね。
神や仏の力を持っているなら
対処出来るでしょ。
やれやれ...といった感じです。
そもそもたかが心霊スポットみたいな
「お遊戯場」でビビっている人が殆どですし。
動物霊や自然霊を認識する事すらも
出来ない連中が大半を占めていて、
そんな下郎が神や仏の名や力を語るなど
笑止千万といったところです。
神や仏を慕いたいなら、
まずは動物霊とお話出来ないとね。
その次に、
自然霊の信頼を得ないといけないのだけど
これには「霊格」という
非常に大きなハードルがあります。
これは個人の努力でどうこうなる様な
代物ではないのでほぼ無理だと思った方がいい。
自然霊の信を得るたった一つの方法としては、
霊格の適している存在を介して
自然霊と触れ得る事です。
これは実際に経験をしたことがある人であれば
どんな感じで、どんなものなのかが
肌身で分かると思います。あの感じですね。
最後に、本気で神や仏を慕いたいなら
一つ大切なことがあります。
(かみほとけ)
あいつらと本気で喧嘩することです。
そんな事出来る訳ないと思うでしょ。
世の中にはね、出来る人っているんですよ。
実際に証拠まで見せているくらいだし。
けれども、それが出来る人は極一部の
限られた条件下の人のみです。
ですからね、神さん仏さんに対して皆さんは
真摯にご挨拶をする程度が丁度良いんですよ。
大事なことやけど
神さんも仏さんも
何かを叶えてくれる様な
存在ちゃうかんね
もっと身近で
暖かい存在なんや
折が合えばの話やけどな
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
愉しみを得ることの難しさは
言わずもがなな事ですが、
とは言え、
この難しさというものが
単なる「困難」だと思慮するのは
些か稚拙な話となります。
愉しみを得る上で一番の困難は
「相手のためを思考する」
必要があるからです。
例え、
その場に居るのが自分一人だとしても
常に相手つまり「自分以外の存在」を
感じ取っていなければならない。
それを忘れてはいけない。
この感覚と思考の使いようと云うのが
困難とさせている部分です。
しかし、
相手を想うというのは
本来のスピリチュアルに於ける
基本的思考でもありますから、
愉しみを得るのは誰にでも可能な事なのですね。
基本的思考にも関わらず
難しくさせている要因の一つとして
「自分本位」というのがあります。
ここでの自分本位とは
単純なわがまま等ではなく
自我・エゴと呼ぶ様な性格や自己認識
アイデンティティーとなる部分の事を
意味しています。
誰にでも好きなものや
嫌なものくらいありますね。
それを主張する事もありますね。
自分の中の得手不得手や好みというのは
色々なものから成り立っています。
性格然り、経験然り、環境然り、時代然り。
この自分を構成する些細な一部分を
何の気無しに主義主張する事で
「自分」というのは成り立っているのです。
その自分自身が愉しみを得るのを阻害する。
但し、それは自己の主張に
「溺れてしまったら」という話です。
逆に「流されてしまっても」アウトとなる。
自分自身を維持しつつ、主張はすれども
相手のためにバランスを整えた時に
「愉しみ」は得られるのです。
それを私達は自然とやってのけているのですね。
改めて考えてみると
何とも不思議な感じですよね。
そして、その得るための過程で
最も重要な触媒となるのが「努力」です。
これを欠いてしまうと、
どの道愉しみは得られません。
独りよがりとなって自分本位に溺れるか
周囲に流されて自身を失います。
自分というものを
しっかりと持って
徒に流されず
無理に押し付けず
相手との連動を
一番に考え動くのが
愉しみなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
何かしらの動きを行う際、
特に何も感じていなくても
動けている様に思えます。
確かにその通りで、
無意識だろうと何だろうと
動くことに関しては問題がありません。
けれども、
もう一歩を踏み出す時や
確実な結果を残したい時というのは
感情の大きさがモノを言う様になります。
一人で頑張っている時でも
相手が居て愉しんでいる時でも、
どうでもいい事ではない
動きをしている時は、
感情を入れたり表現をすることが
もう一歩の伸びを生むのですね。
目的がどこにあるのかでも変わります。
例えば、相手が居る場合ですと
自身の目的と相手の目的が
相違している状態では
感情の介在が発生しないと
思う様な結果には結び付き難いです。
ですが、相違状態だとしても
感情を表面的にでも介在させると
同一の目的の時と比べたら劣りますが
類似した結果を生む事が可能となります。
どこか今一つな結果となる場合は
感情の有無や感情の出し方、
表現の仕方を考えてみると
改善に繋がる可能性が高くなります。
また、意図して感情を込められないのに
無理に仮の感情を込めてしまった場合は、
その反動が自身にも相手にも必ず発生します。
自身も相手も分かり切った上だとしても
そうでないケースだったとしても
反動は大きく出てしまいます。
反動を小さくさせるには
相手への理解を高めていくか
超長期でのケアに努めるかの二点のみです。
その際に自身の自分本位を
露骨に出してしまった場合は
受取る念が倍加してしまうので
反動以上の思わぬ結果となってしまいます。
霊格の高さも
この時に
大きく関わります
相手が居れば
殊更関わります
油断するとえらい目に
あうんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
想いというのを相手に届ける際、
もれなく念も付いてきます。
以前より想いと念は
表裏一体だとお話をしています。
想念は常に同じ位置、
同じ場所に存在をするものなのです。
例えば、
大切に考えるという「想い」も
度が過ぎれば「独占欲」という念です。
お手伝いをしてあげるという想いは
やり過ぎてしまえば
「支配欲」という念です。
こういった感じで、
同じ個所に存在するのが想念なのです。
想いを純粋無垢に届けるというのは、
実のところ非常に至難の業となります。
そこには人の意思の介在や
感情の流入が発生する事になるからです。
念を全く混入させずに想いを届ける
想いを受け取るというのは、
この現世に於いては不可能な業です。
それを両極端で成す事が出来るのが、
浄土と地獄という霊界です。
現世というのは、
霊界で学びきれない事を学ぶ場でもあり
得た経験を霊界へフィードバックさせる
そういった場でもあります。
なので、とある存在の意図が
強く反映されているために、
こういった想念の吸着が起こる訳です。
引き起こされていると言っても
過言ではありません。
とある存在と云うのは何者ぞ。
と、いう事になるのですが、
人ではないのは確かです。
もっと超越的な存在で創造した存在。
彼、彼等は霊界に於いても
浄土や地獄、獄界や天界など
人の及び至る事の出来る様な
空間、領域には在していません。
その遥か遠方で間近でもある場に在しています。
人の身で彼、彼等の空間に及ぶ事も無いです。
というか、そもそも行く事が出来ません。
認知する事自体が難しいです。
ただ、存在を肌で感じる事は誰でも可能です。
それを彼、彼等だと理解する事が
出来る存在は限られています。
霊格の高さが関係してきますからね。
死んだだけでは分からないというやつです。
偶にはこういう話も良いですよね。
単純な思考では
決して理解し得ない
肉体的思考ではなく
幽体的観点や
霊体的視野でないと
向こうの世界は
視ても分からんもんやで