皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自分の動きが鈍っていたり、
思うように動けない事があります。
記憶の混濁などもその内の一つで、
話を聴いていないと
思われてしまう事があったりします。
前に話した事をつい忘れてしまう。
会話をしていてちゃんと聴いていても
パッと出て来なかったり
うっかりしてしまったりする
なんて事がありますね。
聴いている事は確かだから
落ち着いて考えれば
割とハッキリ思い出す感じです。
そのタイミングで
「聴いてなかったからだ」
などと断罪をされると心を閉ざします。
考え事というのは誰にでもあります。
心が忙しない時などは特にそうで、
全てにおいて集中が出来る訳でもありません。
また、忙しなくなればなるほど
特に責任感が強くて
集中力の高い人であるならば
情報のソートが強めに出て来ます。
記憶の優先順位と切り分けですね。
未解決の話なのか、解決済みの話なのか、
重要度合いの区分です。
失敗が起きない為ではなく、
間違いが起きない様にする為に
ソートをきつめにセットするのですね。
そういう状況下に於いて
自身の動きを断罪される様な感じになると
そのダメージはかなりなものとなります。
一体何が起きているのかを
見詰めてあげて聴いてあげたりする事が
その人を救う手立てとなるのですね。
これが「器のサイズ」における
「寛容性」が具現化する瞬間です。
相手の状況に
寄り添うとは
程遠い動きです
これが自分本位に
溺れるなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
意思を伝えるという困難を
いとも簡単に熟せるのが浄土という場です。
向こうの世界では、簡単な事でも
肉体を纏ったこの現世に於いては
その肉体が障壁となって困難へと変わります。
何故、肉体が障壁となるのか。
それは肉体を得るのと同時に
俗欲を獲得するからなのですね。
俗欲というのは、
この現世で生きるために必要不可欠なものです。
これをやりたい
あれをやりたい
こうしたい
ああしたい
と、いう様々な渇望の総称です。
どんなに俗欲を嫌がったとしても
俗欲無くしては生きる事が出来ません。
そして、俗欲があるからこそ
「自分本位」というものが出来上がります。
自分本位は俗欲の中の一部分であり、
「自分」を中心に据えて
常に優位に捉えている渇望の塊です。
自己中心的なんて嫌だと思っていても
誰にだって自分本位は存在します。
簡単な場面で例えるならば、
お腹が空いた時
周りが視えなくなりますよね。
何かの限定品をゲットする時に
混雑していたらどうにかしたいと思うでしょ。
その人の許容と我慢への耐性と
器のサイズなどによって
その差は大きく変わります。
この差のことを「寛容」と云います。
誰にだって自分本位はあるものなので
消す事なんて無理なのですね。
無理なものを毛嫌いしても仕方ないです。
ならば、嫌いにならずに
ちゃんと認めてあげた方が建設的です。
そうだと分かっていても認められないのは
貴方自身が勧善懲悪を
判断の基準としているからに外なりません。
この思考回路の事を「完璧主義」と云います。
物事の判断は善悪で分けられるほど
甘く無いのです。
一定のルールや規範、規律を基にした時のみ
善と悪は判別が可能となります。
「法の下の平等」が一般的ですね。
特に法務紛争が起きていない状態で
善と悪をきっちりと分けるとなると
なかなかにエグイ結果となってしまいます。
思考が凝り固まってしまうのですね。
触媒があるからこそ
善と悪とに分けられるのであって
それ以外であるならば
善と善に過ぎません。
どちらも善を執行しているに過ぎず
正義と正義のぶつかり合いなのです。
で、あるならば
互いが互いの立ち位置をニュートラルにして
客観的な視点で観察し、
想いを基軸として会話を軸にし接し合う。
須らく理想論にはなりますが、
これが僕らが目指していかなくてはならない
生きる上での目標なのですよ。
向こうの世界では
これが当たり前に行われているので、
それを逆行的に目指す事で
思い遣りや想いの本質を理解する。
それこそが神さんや仏さんが
皆に求めることでもあり、
自分達自身が求めていることでもあるのです。
なので、自分本位は消そうとするのではなく
認めてしまった方が善き話となりますし、
ましてや浄土へ戻りたいのであれば
尚更な話なのですよ。
意味なく毛嫌い
すればするほどに
近付く場所は
浄土ではなく
地獄なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自分本位を毛嫌いするあまり
より一層自分本位となってしまう。
そういった現象が当たり前に起きます。
これは自分本位というものを
根本的に間違えて捉えている場合に
発生する動きです。
自分本位というのは、
何度となくお話をしております通り
僕らに元々備わっている
心情であり行動概念の一つです。
当たり前に持ち得ていて
自分本位を失くしたり
また、
出さない様にする事など出来ません。
寧ろ、標準装備されている段階で
必要不可欠なものなのだという
認識を持たないとならない代物です。
僕らが現世で生きる上で
何故この自分本位が必要不可欠であるのか。
自分優位に捉えて動く代物で
自分自身を苦しめる事も確定していて
剰え人様に対しても迷惑を掛ける事に
繋がっていく筈なのに
どうしてわざわざ装備されているのか。
それは、「思い遣り」や「想い」を
学んだり得たりするために外なりません。
自分以外の存在に対してまたは
自分以外の存在から
思い遣りや想いを与える
若しくは受け取るためには
その真逆に位置するものが必要となります。
それが自分本位です。
自分を優位に捉えて動くからこそ
相手を傷付け自分も傷付きますね。
その時々で、心ある対応をされたり
自身が心の入った対応をすると
窮屈だった心情から解放されて
まるで大空を仰ぐ様な感覚になりますよね。
暖かい何かに包まれた様な感覚
とも云えるのでないでしょうか。
自分を後回しにして相手に対して
優先的に動いてあげる為には
そもそも自身が優位であるという考え方、
思考回路が必要となります。
そうでなければ、思い遣りも想いも
成り立つことがありません。
この自分を優位に捉えるという考え方自体が
浄土では学べない。
実戦的な心深い意味での思い遣りを
根本的に得られないのです。
何故ならば、
意思を伝えるという現世で最大級の難関を
いとも簡単に熟してしまうのが
向こうの世界の浄土と呼ばれる空間です。
早い話が相手がどうしてほしいのかが
手に取る様に分かってしまうのです。
なので、いちいち考えを巡らせなくても
思い遣りや想いは染付いています。
と、いうよりもあまりに普通過ぎる事なので
考えに至るという点まで結び付かないのですね。
それは単に
綺麗に見せたい
あなたの俗欲に
過ぎないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
常日頃から話していますが、
物事と云うのは表裏一体で
成り立っています。
想いは想いだけで成立してるのではなく
念が同じ位置、同じ場所、同じ場面で
そこに居るから想いが成り立ち
その逆に念も想いがあるから
成立する様に出来ているのですね。
光があるから陰が出来て
陰があるから光が際立つ
考え方や
それに沿った動き方についても同様で
片側だけに偏らせずに
あくまでもニュートラルな視点で
ニュートラルな動き方をするというのが
大切なのですよと
以前から教えていますね。
例えばですが、
無理を続けていれば、健康を失うし
遠慮を続けていれば、機会を失くすし
悪口を続けていれば、信頼を失くして
我慢を続けていれば、己自身を失くす
挙げ始めればキリがないほどに
色々な物事や事象が
こういった動きに則っているんですね。
自身が嫌な状態ですとか、
辛い状況ですとか
上手くいかないと嘆いている時は
どこかで必ず何かを必要以上に続けていて
そこに相まって何かを失くしている。
その結果として辛さや苦しさが
表面化したり具現化したり
溢れてしまうという感じなのです。
改善させたいとか
脱却したいと考えるのであれば
まずは己の動きを視ないといけないですし、
宜しくない流れとなっていて
その渦中に
自ら飛び込んでいるのだという事実を
勇気を持って認めないといけないのですね。
駄目な自分を認めようというのも
元を質せばこういった表裏一体の原理から
導き出した話なのですよ。
前に進みたいなら
後ろも視るのさ
歩んできた道や
してきた事を
改めて見つめ
認める事が
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
悔しい出来事があった際に
恨み節を奏でてしまったり
過剰に自身を責めてしまったりするのは
少し違うと考えましょう。
大切なのは何故に悔しい思いをしたのか
真の原因というのは一体何なのか
と、いうのを探らなければなりません。
目先で起きた出来事から
1つ1つの要因を探っていく過程で
自分以外への批判や批難をしたり
致し方無しと逃避をしたり
色々な考えが巡る筈ですが、
原因を探るために真実へ潜ろうと
すればするほど、
自身が原因であり要因の一つであると
気が付いてしまうものです。
「あの時こうしておけば良かった...」
「こうする事が出来たのでは...」
「何故こう出来なかったのか...」
考えれば考えるほど
自己嫌悪や自己憐憫に陥りそうな感じですが
いつも教えている様に
お話をしている様に
冷静に俯瞰で視て
客観的にニュートラルに捉えてみると
自身に知識が無かった事や
経験が足りていなかったことなど
圧倒的な情報不足や経験の不足が
悔しさの要因であり原因であると
ハッキリ気が付くことができ
そして、理解することが出来る筈です。
その時の相手の発言だけに
耳を傾けがちになりますが、
その発言に対する自身の発言や
立ち回り方や先見の見出し方や
問題点の見抜き方や論点の落し処など
これまでの自分が手を抜かずに
日々の生活や日頃の業の中で
興味を持って行動し
勇を用いて飛び込んでいったり
そういった動きが多かったら
悔しい思いをする事自体が無かったと
理解してしまうはずです。
それらやそれらで得られるものこそが
即ち「知識」や「知恵」
つまり、「情報」そのものであり
「経験」であり「自信」なのですね。
その上で実感する事になるのですよ、
自分が何も知らないということを知り、
無知は罪であり、
知は力であるという現実を。
相手のためを
想って動けば
自分のためだと
動きが全く変わる
というのが
分かる筈なんやで