2026年6月20日土曜日

苦しみを背負い視る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




本来のスピリチュアルに於いて
とても重要になってくるのが

「ニュートラル」

と、いう考え方です。

中間に位置する場から
客観的に物事や事象を見極め判断する。

好き嫌いなどの偏った見方ではなく
その時に必要なものを冷静にチョイスする。

単なる善いとこ取りだと
考えられてしまいそうですが、
意味は全く異なります。

ニュートラルとは、
あくまでも「立ち位置」の話なのです。

どちらか一方へ偏らせるのは簡単です。
好みで決めれば良い話ですからね。
それが故に、
対面への否定感や拒否感が生じます。

その拒否感を正当化させる為の動きや
思考が主となっていくので、
自ずと偏りは増していきます。

そして、行き着くのが「完璧主義」です。




現世で我々が生きていく以上、
偏りや隔たりというのは避けられません。
それ自体は悪でもありません。

自身の意見や心情を万人万物へ
まともに伝える事すら叶わないのですし、

成長や進化という過程に於いて
隔たりも偏りもある種では必須となります。
そこで争いが生じますが、

融和というのは、
これらがあるから存在するものですし、
理解を成せるものなのです。

しかし、その途中過程に於いて
極端な偏りや隔たりを掲げたり、
立場の保持を主な目的としてしまう事があります。

これが「完璧主義」です。

片側に極端に寄せてしまって、
対面を思考する事が出来ない状態。
相反する思考は敵となり
矛盾を悪と断ずる考え方。

こうして話すと何となく視えると思いますが、
自分本位と同じですよね。

独りよがりを拗らせて、
思考的視野狭窄へと陥るがあまり
自身の世界を徒に狭くしてしまう。

結果として、
「受け容れ」も「受け止め」も出来ずに
心身共に惨めな状態へと堕ちてしまうのです。

この状態を回避して、その先へ進む為の
考え方が「ニュートラル」です。




立場や思想に極端な固執をせずに
中間ではなく「中空」より視線を拡げ
対局ではなく「大局」を視る。

優しさと厳しさの同居を理解し、
矛盾という名の選択の自由を行使する。

自身の考えを芯に捉えつつも
他者の考えは自身には思い付きもしなかった
「宝物」だという思考を創る。

相手との遣り取りは
意思の押し付け合いではなく

意志の受け容れ合いであり
心情の受け止め合いであるという捉え方。

その中での係争は一過程に過ぎないので、
それが目的ではなくあくまで手段という認識。

故に、相互意思の齟齬は必然であり、
ご都合主義の完全融和などは存在せず、
相手を好みで選ぶのではなく
互いの違いを認め合う「間接融和」を信条とする。

ほんの一部に過ぎませんが、
これらが本来のスピリチュアルに於ける
基本概念であり、ニュートラルという考え方です。

現世でありながら
向こうの世界の理を実践する。

辛く苦しいですが、そこを見詰めて
活かし生きる。

文字で読むと面倒臭そうですが、
やってみるともっと面倒臭いですw。
ですけどね、価値はありますよ。

いつでも誰でも
気軽に出来て
辞めるのも自由
ってか、
言われてやる様な
もんでもないんやで

2026年6月19日金曜日

差を知って使い熟す(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自身の中での価値観というのは
人に合わせて作るものではないです。

自分の中で確固たるものがあれば
それで充分なのですね。
但し、
その中身に至っては少し考えようで

常識的な一面というのも必要になります。

価値を決める上での常識というのは
一般教養の事を指します。
ここの教養という部分には
所謂、知識や学問が当て嵌まりますが、

常識的範疇での流行りやムーヴメントも
価値を決める上では必要になります。

「自身の中での確かな価値」
「一般的な価値」

これらを己の中で共存させる事で
世間と自身の「差」を知ることが出来ます。

ここの「差」の部分が特定の存在にとっては
愉しみに繋がる部分でもあり、
一般的な話となった場合には
全く理解されない部分という点となります。

つまり、この「差」を理解しておかないと
何かこれと言って特段非常識な事を
している訳でも無いのに、

結構な数の恨みや念を引取る事に繋がります。




何故かと云うと、
話が通じなくなるからです。

ここでの話とは深い部分での話ではなく、
表面上の浅い部分での話です。

自身と特定の存在のみでしたら、
この「差」というのは考えなくても
価値の共感が可能になります。

然しながら、鑑みなくてはいけないのは
この現世で生きるという現実です。

我々は自身と特定の存在だけで
現世を生きているのではなく、
縷々様々な存在を介して生きています。

詰まるところ、この「差」を理解する事で
「相手のため」という奉仕の精神、
思い遣りに繋がるポイントを
手にする事が可能となってきます。

全ての存在がスタンドアローンで
何の繋がりも無く独立独歩で生きているならば
こういった「差」を鑑みる事は不要ですが、

それこそ現実ではなく幻想です。

「自分だけが善ければいい」に
自動的に繋がってしまうのが、
この「差」を理解しないという怖さです。

自身が好きだの嫌いだのではなく、
自分以外の存在や支えてくれる存在に対する
思い遣りとしてこの「差」を理解する。

決して深くなくて良いんです。
すごく浅くて構いません。

世間との窓口を自身に設けておかないと
現実の中に居ながら幻想へ逃避する
そんな結果となってしまいますからね。




世間との差を理解しておかないと
結果として、人に苦痛や辛さを与えます。

これは実体験ですが、
僕は子供の頃に両親がこの「差」を
理解していなかったが為に、

狭い子供の世界の中での流行りや愉しみに
乗ったり付いていく事が出来なかったので、

周囲から疎外されていました。
家では虐待、外では虐め。
中々にヘビーでしたよ。

自身の価値観を持つ事は大切ですが、
それの保持や維持には「差」が必須です。

ましてや、価値観そのものを
押し付けてしまったり「差」を忌避する事は
自身の価値観ではなく特殊な価値観と変貌し

世間や社会、コミュニティからの
乖離を意味します。

それは、我々の生活環境からすれば
死活問題でしかありません。
現に僕の両親は結果として何もかもを失いました。

人や子が望むから必ずそれを与えたり
自身もその中身に乗るという意味ではなく、

節度を以て「差」を理解した上で、
適確に判別をする事が大切になってくるのです。

知らぬ存ぜぬで個として生きていけるほど
現世というものは甘くないですし、
自身の価値観だけを突き詰めるだけというのは

好きな事だけをやるという意味と同意義ですから
それは楽をしているのと
何が違うんでしょうかね。

差を知らないとね
自分勝手に生きて
自分中心で居るのと
何ら変わらない
人の善し悪しは
関係無しに
堕ちるんやで