2026年9月11日金曜日

本質を知る為の動き(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




意思を伝えるという困難を
いとも簡単に熟せるのが浄土という場です。

向こうの世界では、簡単な事でも
肉体を纏ったこの現世に於いては
その肉体が障壁となって困難へと変わります。

何故、肉体が障壁となるのか。
それは肉体を得るのと同時に

俗欲を獲得するからなのですね。

俗欲というのは、
この現世で生きるために必要不可欠なものです。

これをやりたい
あれをやりたい
こうしたい
ああしたい

と、いう様々な渇望の総称です。

どんなに俗欲を嫌がったとしても
俗欲無くしては生きる事が出来ません。

そして、俗欲があるからこそ
「自分本位」というものが出来上がります。

自分本位は俗欲の中の一部分であり、
「自分」を中心に据えて
常に優位に捉えている渇望の塊です。

自己中心的なんて嫌だと思っていても
誰にだって自分本位は存在します。




簡単な場面で例えるならば、

お腹が空いた時
周りが視えなくなりますよね。
何かの限定品をゲットする時に
混雑していたらどうにかしたいと思うでしょ。

その人の許容と我慢への耐性と
器のサイズなどによって
その差は大きく変わります。

この差のことを「寛容」と云います。

誰にだって自分本位はあるものなので
消す事なんて無理なのですね。

無理なものを毛嫌いしても仕方ないです。
ならば、嫌いにならずに
ちゃんと認めてあげた方が建設的です。

そうだと分かっていても認められないのは
貴方自身が勧善懲悪を
判断の基準としているからに外なりません。

この思考回路の事を「完璧主義」と云います。

物事の判断は善悪で分けられるほど
甘く無いのです。

一定のルールや規範、規律を基にした時のみ
善と悪は判別が可能となります。
「法の下の平等」が一般的ですね。

特に法務紛争が起きていない状態で
善と悪をきっちりと分けるとなると
なかなかにエグイ結果となってしまいます。

思考が凝り固まってしまうのですね。

触媒があるからこそ
善と悪とに分けられるのであって

それ以外であるならば
善と善に過ぎません。

どちらも善を執行しているに過ぎず
正義と正義のぶつかり合いなのです。

で、あるならば
互いが互いの立ち位置をニュートラルにして
客観的な視点で観察し、

想いを基軸として会話を軸にし接し合う。

須らく理想論にはなりますが、
これが僕らが目指していかなくてはならない
生きる上での目標なのですよ。

向こうの世界では
これが当たり前に行われているので、
それを逆行的に目指す事で

思い遣りや想いの本質を理解する。

それこそが神さんや仏さんが
皆に求めることでもあり、
自分達自身が求めていることでもあるのです。

なので、自分本位は消そうとするのではなく
認めてしまった方が善き話となりますし、
ましてや浄土へ戻りたいのであれば
尚更な話なのですよ。

自分本位を
意味なく毛嫌い
すればするほどに
近付く場所は
浄土ではなく
地獄なんやで

2026年9月10日木曜日

理由あり備わり(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自分本位を毛嫌いするあまり
より一層自分本位となってしまう。

そういった現象が当たり前に起きます。
これは自分本位というものを
根本的に間違えて捉えている場合に
発生する動きです。

自分本位というのは、
何度となくお話をしております通り

僕らに元々備わっている
心情であり行動概念の一つです。

当たり前に持ち得ていて
自分本位を失くしたり

また、
出さない様にする事など出来ません。

寧ろ、標準装備されている段階で
必要不可欠なものなのだという
認識を持たないとならない代物です。

僕らが現世で生きる上で
何故この自分本位が必要不可欠であるのか。

自分優位に捉えて動く代物で
自分自身を苦しめる事も確定していて

剰え人様に対しても迷惑を掛ける事に
繋がっていく筈なのに
どうしてわざわざ装備されているのか。

それは、「思い遣り」や「想い」を
学んだり得たりするために外なりません。




自分以外の存在に対してまたは
自分以外の存在から
思い遣りや想いを与える
若しくは受け取るためには

その真逆に位置するものが必要となります。
それが自分本位です。

自分を優位に捉えて動くからこそ
相手を傷付け自分も傷付きますね。

その時々で、心ある対応をされたり
自身が心の入った対応をすると
窮屈だった心情から解放されて

まるで大空を仰ぐ様な感覚になりますよね。
暖かい何かに包まれた様な感覚
とも云えるのでないでしょうか。

自分を後回しにして相手に対して
優先的に動いてあげる為には
そもそも自身が優位であるという考え方、
思考回路が必要となります。

そうでなければ、思い遣りも想いも
成り立つことがありません。
この自分を優位に捉えるという考え方自体が

浄土では学べない。
実戦的な心深い意味での思い遣りを
根本的に得られないのです。

何故ならば、
意思を伝えるという現世で最大級の難関を
いとも簡単に熟してしまうのが

向こうの世界の浄土と呼ばれる空間です。
早い話が相手がどうしてほしいのかが
手に取る様に分かってしまうのです。

なので、いちいち考えを巡らせなくても
思い遣りや想いは染付いています。
と、いうよりもあまりに普通過ぎる事なので
考えに至るという点まで結び付かないのですね。

嫌なものと
決め付けても
それは単に
綺麗に見せたい
あなたの俗欲に
過ぎないんやで

2026年9月5日土曜日

天視地認(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




常日頃から話していますが、
物事と云うのは表裏一体で
成り立っています。

想いは想いだけで成立してるのではなく
念が同じ位置、同じ場所、同じ場面で
そこに居るから想いが成り立ち

その逆に念も想いがあるから
成立する様に出来ているのですね。

光があるから陰が出来て
陰があるから光が際立つ

考え方や
それに沿った動き方についても同様で

片側だけに偏らせずに
あくまでもニュートラルな視点で
ニュートラルな動き方をするというのが
大切なのですよと

以前から教えていますね。




例えばですが、

無理を続けていれば、健康を失うし
遠慮を続けていれば、機会を失くすし
悪口を続けていれば、信頼を失くして
我慢を続けていれば、己自身を失くす

挙げ始めればキリがないほどに
色々な物事や事象が
こういった動きに則っているんですね。

自身が嫌な状態ですとか、
辛い状況ですとか
上手くいかないと嘆いている時は

どこかで必ず何かを必要以上に続けていて
そこに相まって何かを失くしている。

その結果として辛さや苦しさが
表面化したり具現化したり
溢れてしまうという感じなのです。

改善させたいとか
脱却したいと考えるのであれば
まずは己の動きを視ないといけないですし、

宜しくない流れとなっていて
その渦中に
自ら飛び込んでいるのだという事実を

勇気を持って認めないといけないのですね。

駄目な自分を認めようというのも
元を質せばこういった表裏一体の原理から
導き出した話なのですよ。

前に進みたいなら
後ろも視るのさ
歩んできた道や
してきた事を
改めて見つめ
認める事が
大切なんやで

2026年9月3日木曜日

無知、悔恨、起死回生(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




悔しい出来事があった際に
恨み節を奏でてしまったり
過剰に自身を責めてしまったりするのは

少し違うと考えましょう。

大切なのは何故に悔しい思いをしたのか
真の原因というのは一体何なのか

と、いうのを探らなければなりません。

目先で起きた出来事から
1つ1つの要因を探っていく過程で

自分以外への批判や批難をしたり
致し方無しと逃避をしたり

色々な考えが巡る筈ですが、

原因を探るために真実へ潜ろうと
すればするほど、
自身が原因であり要因の一つであると

気が付いてしまうものです。




「あの時こうしておけば良かった...」
「こうする事が出来たのでは...」
「何故こう出来なかったのか...」

考えれば考えるほど
自己嫌悪や自己憐憫に陥りそうな感じですが

いつも教えている様に
お話をしている様に
冷静に俯瞰で視て
客観的にニュートラルに捉えてみると

自身に知識が無かった事や
経験が足りていなかったことなど

圧倒的な情報不足や経験の不足が
悔しさの要因であり原因であると

ハッキリ気が付くことができ
そして、理解することが出来る筈です。

その時の相手の発言だけに
耳を傾けがちになりますが、

その発言に対する自身の発言や
立ち回り方や先見の見出し方や
問題点の見抜き方や論点の落し処など

これまでの自分が手を抜かずに
日々の生活や日頃の業の中で

興味を持って行動し
勇を用いて飛び込んでいったり

そういった動きが多かったら
悔しい思いをする事自体が無かったと
理解してしまうはずです。

それらやそれらで得られるものこそが
即ち「知識」や「知恵」
つまり、「情報」そのものであり

「経験」であり「自信」なのですね。

その上で実感する事になるのですよ、

自分が何も知らないということを知り、
無知は罪であり、
知は力であるという現実を。

相手のためを
想って動けば
自分のためだと
動きが全く変わる
というのが
分かる筈なんやで

2026年8月30日日曜日

邪魔を愉しめ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




毎日を一生懸命に頑張る。
どんな人であっても
何処までいってもこれは変わりません。

但し、
皆が皆そうしているとは言っていません。
やっている人はやっている
と、いうだけの話です。

何もせずに
単調な暮らしをしているだけの人も居れば、
頑張っているフリをしている人も居るし。

頑張るという気概を
燃えるゴミの日に出してしまった様な
人だって居ます。

ここを読んでいる人は
頑張る事がデフォルトだと思いますから、
そこに注力して話します。

頑張っていると、
どうしても無理をしがちです。

頑張り過ぎ
やり過ぎ
抱えすぎ
焦り過ぎ

言い方や内容はどうであれ、
真剣勝負を挑み続けてしまうからこそ
無理をしてしまう。




しかし、
ここで問題点が生じてくるのです。

何かと云うと、
「甘んじる」という点。

頑張る事が出来てしまう反面、
休みや落ち着く期間が長いと
気を抜いてしまったり

同じ動きで楽をしてしまうと
頑張る事を忘れがちになってしまう。

そして、その後に自己嫌悪へ陥るので、
脱却を図るために
またしても無理をしてしまう。

このスパイラルに嵌っている人は
そこそこ多いと思います。

頑張っているからこそのジレンマ。
無理をするが故の落日。

このままではいけないと思っていても、
何かしらの策を考えてみても
やはり同じ道程を踏んでしまうのは、

あるものが足りていないからなのですね。
それは

「ゲーム性」
「限界突破」

この2点です。




邪魔を好むというのは、考え方です。
おそらくですが、
誰しもが邪魔を嫌います。
遮られるのって嫌ですものね。

けれど、人って面白いもので
邪魔が無いと怠けますし、
ヤル気が無くなってしまうんです。

マリオを思い出して下さい。
あれって邪魔しかないでしょ。
キノコやカメが突っ込んでくるし、
火まで飛んでくれば足場も崩れます。

現実で置き換えたらそれはもう酷いです。
あのヒゲオヤジは相当に頑張ってますよね。

もし、あれで邪魔が何も無かったら
どうでしょうかね。
何も面白くないですよね。クソゲーです。

邪魔は嫌だけども、敢えてそこを愉しむ。
「かかってきなさい」という気概で挑む。

限界突破というのは、
「意図して臨む無理」というやつです。

自身の持っている全てを使って無理をする。
そして、限界を超える。
無理をしない事を続けていると
楽勝過ぎてつまんないんですよ。

自分の力がどんなもんなのかと
試してみたくなるでしょ。

そこで、普段はやらない事なのだけど
目標を明確に定めてこれでもかと無理をする。

当然に疲れますが、
成功しようが失敗しようが
自身のボーダーラインを知る事が出来ます。

より一層強くなったと実感も出来れば
なにくそ魂でまた頑張る事も出来る。

ご自身の生活に置き換えてみると
至らない面や悩んでいる点で
往々にしてこれらが足りていないと
肌身で分かる筈ですよ。

怠け癖や
楽したい願望は
誰にだってあるし
消す事は出来ない
どうせやるなら
愉しみながら
やりたいやんか