2026年11月1日日曜日

まずは基本を思い出そう(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




思い遣りというのは想像しているほど
簡単なものではありません。

ですが、
誰でもやれるものでもあります。
人を想いそこに自分本位を
入れなければ思い遣りは出来上がります。

けれど、そんな場面ですら
邪魔をしてくるのが自分本位であって

如何に自分以外を優先させるかが
鍵となってくるのですね。

そこで誰しもがやろうとしてしまうのが
「自分本位の抑え込み」です。

自分本位を嫌うがあまり
恐れるがあまり
どうにか出て来させない様にと

自分自身の中に抑え込もうとする。

もしくは、自分本位そのものを
消してしまおうと考えてしまう。




しかし、それは愚行なのです。
自分本位というのは俗欲でもあります。

俗欲という事は、「念」とも言えます。

「念」という事は
「想い」と背中合わせの存在。

つまり、消そうにも消せない
自分の大切な一面なのですね。

それを無理に抑え込もうにも
そもそもですが、そう考えている時点で
俗欲なのですよ。

何のために抑え込みたいのか。
どうして自分本位を忌み嫌っているのか。

自分が嫌な思いをしないために
自分本位を抑え込もうとしても
言う事なんて聞いてくれません。

大切なのは自分本位やそれを具現化している
「駄目な自分」を認める事です。

抑え込むのではなくて仲良しになる。

この考えに基いた動き方が出来ないと
思い遣りというのは表面上で留まってしまい
結果として恨みを買うことに繋がりますからね。

いつでも
何処でも
自分本位は
出て来くんねん
人は楽をする
生き物やからね

2026年10月27日火曜日

純朴なる知は力なり(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




「正直者が馬鹿を見る」
と、いう言葉があります。

個人的には非常に好まない言葉なのですが、
世の中的を描写するという意味では

これほどピッタリな言葉は
無いのではないかと僕は考えています。

学校や職場、または知人友人や
家族間や親族間などの対人関係などで
この言葉がマッチする場面は多々ありますよね。

ここで、正直者は何ら問題無く善い方で
そうでないズルい奴が何もかも悪いのだと
言い切ってしまう人も居ると思いますが、

それは少々間違っています。
正直だから何ら過失無く善いのかというと
そういう事ではないのです。

正直に進ませたいのであれば、
ありとあらゆる知識や情報を余すことなく
取り入れる努力をしなくてはいけません。

そういった努力をせずに
単に正直に突き進むというのは、
武器を揃えている敵陣へ丸腰で突っ込むのと
同義とも云える様な愚行です。

ズルい相手というのは、
どんな立ち位置であろうとも「楽」をして
自分の事を善く魅せたいという存在なのですから

そこに立ち向かうには知識を以て
理論武装し相対するよりほか打つ手がないのですね。

そういう努力をせずにへこたれたりしていても
何も解決などする事はありません。

この知識と云う武装の中には、
「相手の特徴を見極める」というものも入ります。

一体、どういった思考回路なのか。
何が目的なのか。何をしたいのか。

そういった特徴は言うなれば攻略のヒントです。
また、このヒントは必ず表に出ています。
隠す事が至難の業なのですね。

特にズルい相手というのは、
自己顕示欲と承認欲求に酔いしれていますから
フィクションに出てくる様なスーパーヴィランは
まぁ居ないと思った方が良いです。

つまり、「バカ」ということです。




そして、ズルい相手というのは、
「絶対安全圏」からでないと攻撃してきません。

ここで云う絶対安全圏というのは、

ズルい相手が「得意とすること」や
「反論をされない場所」や
「立場や地位を振りかざせる場所」という領域を指します。

それは暴力かも知れないし、暴言かも知れないし、
意地悪かも知れないし、職場かも知れないし、
家の中かも知れないし、教室や学校の中かも知れないし、
スクールカーストかも知れないし、役職かも知れない。

ネットの中でのみという場合すらありますし、
これらのハイブリットだったり混合だったりと
様々な領域が相手の絶対安全圏なのですね。

こうして書くと絶望的な感じがしてきますが、
実は結構狭いものなのです。
相手が多人数に膨れ上がる事もままありますが、
それはあくまで一時的な共感や強要によるものなので

時間経過や立場の欠損と共に瓦解していきます。
要は、「繋がりが脆い」という意味です。

これら絶対安全圏を相手は隠そうとしませんから、
どの範疇でどの範囲なのかは見て直ぐに分かります。

それであるならば、その土俵に乗らなければ良い。
同じ土俵で馬鹿正直に戦おうとするからバカを見るのです。

どうせやり合うならば、自分の土俵に乗ってもらう。
相手からすればアウェー戦です。
そうなる様に誘導をしてあげるのです。

考える事をほぼほぼ放棄している様な方々なので、
楽が出来るのであれば自ら誘いに乗ってきます。
バカとはそういう存在ですからね。

いじめや各種ハラスメントといった
コンプライアンス違反をしてくる相手と対峙するならば
こういった知識が絶対条件として必要なの。

こういう事も考えずに、
「正直者が...」などと云ってたり
自ら手を尽くさずに他人へ助けを請ったところで

今度はそこで良い様にされるだけですからね。

「よく視て」「よく聴いて」「よく考える」

実戦で培った基本的な動作と思考の三原則は
何よりも効果を発揮しますよ。
本来のスピリチュアルは現実の中でこそ活かすもの。

それを忘れずに普段より不断の努力を積む事が
正直者がバカを見ないで済む第一歩ですからね。

机上の空論や
夢物語的な
理想論ではなく
傷付きながらも
実戦の中で
得たものは
裏切らないんやで

2026年10月24日土曜日

肩を張らずに苗床を作る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




日頃から様々な物事に
興味を持つ事が出来るかどうかで
その先の対応や対処が変わってきます。

興味を持つという事は、
色々な知識を手にすることに繋がります。

知識と云うのは
「情報」とも言い換えられます。

この世の中と云うのは、
全てが全てマニュアルやシナリオに沿って
動いている訳ではありません。

お題を設けてくれる事もありますが、
それはほんの一部に過ぎません。

大半の物事や事象というのは、
「突発的な内容」によって作られています。

「今日はこれをやりましょう」
「お題はコレです」

と、云うような感じで
内容の指定がされたりする事もありますが、
これらが道標通りに進むという確約など
実際にはどこにもないのですね。

突発的な物事への対処や対応というもので
武器として使えるのは、

「知識」と「経験」のみです。

「経験」と云うのは、
読んで字の如くな代物です。
その場の空気感的なものも此処に含まれます。

肌身で感じ取ったもの
視聴きして触れ得たもの

というのが経験です。
また、過去の成功だけではなく
失敗も含まれます。




知識というのは、前述した通り情報です。
情報を得るだけならば、
一方的に流れてくるものもありますから
興味など持たなくてもくても別にいいです。

ですが、興味を持って得たものの方が
得ている知識・情報の品質が高くなります。

一方的に垂れ流された情報のみならず、
自身から率先して情報を掬い取りに行くので
少なからず精度を上げたくなるのですね。

そこに俗欲や自分本位が絡んでくると
クオリティは著しく下がりますが、
そうでなければ確度は上がります。

誰もが必ずしも高品質化しないのは、
興味を持った事に対する認識力や理解力、
変換能力での差が生じるからです。

これは個人別での性質や体質の違いなので、
善いも悪いもありません。
平たく言えば、「個性」です。

ここでの差が、後にシングル仕様となるか
マルチプル仕様となるかに分かれます。

1つの物事から一つの事しか抽出出来ないのか、
それとも1つの物事から複数の情報を
得る事が出来るのか、という意味合いです。

何でもない普段の生活をしながら
有事ではなく平時に於いて
如何にこれを実行出来るのかが、

アクシデントが起きた際に活かす事の出来る
テクニックへと換える事が可能なのですね。

興味を持たずに放置をしておくと
人は物凄い速さで自分本位が強くなっていきます。
何故なら、興味を持たない事自体が
「楽」へと繋がっていくからです。

興味を持つ言うても
専門家になる必要は
全く無いんやで
あくまでも情報や
経験を得るための
きっかけの話やで

2026年10月19日月曜日

苦悩感情解放戦線(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




辻褄の合わない事を言われたりすると
ムカつきますよねぇ。

では、貴方はどうですか。

いつも整合性のある思考回路で
キッチリした事を述べていたり
全てに於いて間違いが無いと言い切れますか。

一定の状況下や条件下に於いて
整合性や合理性というのは

社会秩序や規範を補う上で絶対的と呼べるほど
必須な思考ではあります。

然しながら、
そこへ注力ばかりをしていると
まともな社会生活など送れる事はありません。

時と場合、ケースバイケース、その時々、

言い方は何でもよいですが、
一方向のみで堅く捉えること無く

柔軟性を全面的に出した動きをする事が
本来のスピリチュアルでは大切になってきます。

矛盾という言葉自体を覚える時に
当然ながら「辻褄のあわないこと」だと
誰しもが教わりますので、

その時点で
善い印象を抱く人は少ないと思います。

けれども、よくよく考えてみると
特別悪い事であるとは
言い切れないのが事実です。




実際に、人の思考と云うのは
「矛盾そのもの」であると僕は考えます。

今考えている事であっても、
それ以前の事であっても、
筋を通し切っているものもあれば
割と簡単に捻じ曲げてしまうものもある。

どんな物事でも一方向からの視野であるならば
その反対に位置している事を思考すれば
何に於いても辻褄は合わなくなります。

ましてや、思想や信条に関わる事なら尚更です。

感情や心情に於いても例外ではなく、
ニュートラルな立ち位置での思考でない限り
矛盾は発生します。

ここで、気が付く人は気付きます。

矛盾そのものを消去する事は出来ない。
寧ろ、その矛盾を愛でるくらいの
「視野の広さ」と「器の大きさ」が
生きる為には必要なのだという点です。

観念を固定化させずに、
必要であるならば反対側に位置するものでも
柔軟に使うこと、使える事が大切なんですね。

自由度の高いライブラリーやアーカイブを
自身の中に設ける様な感じです。

ここでの気を付けるべき点と云えば、
決して「いいとこどり」ではないという面。

自身にとって嫌な事や辛い事であったとしても
そこに該当するので使うという点です。
ライブラリーやアーカイブですからね。

過去ログみたいなものでもあるので、
選り好みなんて節操の無い真似は
出来ないのですよ。

悩んで辛い時からの解放は
柔軟性を以てして矛盾を愛でれば善いのです。

矛盾を愛でるのは
ある意味で
自分との戦いや
それまでの自分
これからの自分
色々あった方が
ええと思わん

2026年10月18日日曜日

楽と無理(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




前回は頑張るという話をしました。
その中で、

「楽をする」と「無理をしない」
と、いうワードが出てきました。

本来のスピリチュアルに不慣れな方は
少々混乱されたかなと思います。

同じなのではないかと思えるこの二つ、
実は明確に違います。

動きとしては確かに似通っています。
肩を張らない的な意味合いに
違いは無いですからね。

然しながら、その意味の指す
意識の方向が変わるのです。

楽をすると云うのは
「自分のため」であって
意識の方向は内側へ向いています。

無理をしないと云うのは
「自分以外のため」であって
意識の方向は外側へ向いています。

所謂、「何のために」という点で
大きな違いが出てくるのですね。




ワードだけを取って見ていると
違いなんて無いものだと思えても当然です。

けれど、
ここでは「頑張る」という業の中での
この二つの立ち位置の話なのですね。

それを理解していれば、
説明が無くとも意味は薄っすら分かってきます。

「自分のために」という動きをすると
動きはどんどん緩慢になっていき、
やがては何もしなくなります。

元々、人はだらしのない生き物です。
動かなくて良いのであれば
何もしたくないのが本音ですからね。

それが自分中心となれば尚更加速します。
「楽をする」の行き着く先は
「動かない」であって

つまりは、「堕落」へと繋がってしまうのです。

それの裏側に位置しているのが
「無理をしない」という動きです。

「自分以外のために」という動きと云うのは
活力が湧いてきます。
動きとしては加速する感じです。

けれど、そこに落とし穴があって、
今度は無理をしてしまうのですね。

そうなった時に、余計な事をしてしまう。
「もっともっと」という俗欲が
ひょっこりと顔を出してしまうのです。
自分本位のお目見えです。

前回もお話をしましたが、
それではせっかくの頑張りも
本末転倒な結果となってしまう。

なので、自分以外のために「無理をしない」
この辺で止めておこう。
と、いう匙加減を使う事が出来るのです。
それは「昇華」へと繋がります。

同じ様に視えて全然違う二つの業。
これらの意味を理解して、
使い熟す事が想いの遣り取りには
必要になってくるものなのですよ。

楽と無理を
理解する
頑張ることが
普通じゃないのは
こういうところで
分かるんやで