皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
色々な内容の相談を受けたり
こうして話をする事が多いのですが、
その中で
「繰り返し」
という事について、
話をする事があります。
様々な出来事の繰返しがあるのですが、
その中でも人生において
よく言いますよね
「また同じ事を繰り返して」
みたいな感じのやつです。
この生きている上で
善くも悪しくも
どうしてもやってしまう繰返し
人によってはループとも言いますね。
これは本当のところ
繰返しではないのですよ。
と、いう話をするんです。
実際のところは、
ループではなくスパイラルです。
繰り返しではなく螺旋です。
繰り返しというのは
動線で表わすと円になります。
ですが、
実際にはそれだと要素が足りていなくて
現実的な話にはならないのですね。
何が足りていないのかというと、
「時間」という要素です。
僕らはどんな状況になっていても
時間という括りの中で生きています。
これを排除して考えてしまうと
どんな内容においても
善し悪し問わず繰返しという事になってきます。
しかし、
進行方向へ向けた時間が
僕らには必ず圧し掛かります。
現在から将来へ向けた時間ですね。
この要素を忘れがちなのです。
出来事や事象のみを語るのでしたら
確かにループですが、
そこには確実に時間が関係してきます。
前へ進む力が加わる訳です。
その瞬間から円ではなく螺旋に変わります。
ループと違ってスパイラルなので
同じポイントに戻って来ないんですね。
この時間という要素の付け加えを
思考回路へ確実に組み込む事で
モノの捉え方は多分に変わってきます。
もし、今何かで悩まれている人や
悩みがちな人は騙されたと思って、
その悩み散らかしている中に
将来へ向けた時間を組み込んでみて下さい。
視えなかった事が
きっと視えてくる様になりますから。
考え方は
大きく変わる
そんでその要素は
決まって身近な
ものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
努力と云うのは
様々な形がありますが、
その価値を最大限に発揮する為には
状況の把握と結果の報告や
事実確認という動きが必要となってきます。
そして、そこの動きの中で
気を付けないといけないのが
「ひけらかし」です。
「ここまでやった」とか
「こんなに頑張った」とか
「こういう努力をした」とか
言いたくなる気持ちも分かりますし、
言わないといけない場面もあります。
然しながら、基本的なスタンスは
「ひけらかさない」です。
必要以上の物言いはしない。
全く言わないのではなく、
必要以上にと云う点が重要です。
昨今の世間的な動きですと、
何でもかんでも白日の下に晒すのが
是という動きになってきています。
全てに於いて宜しくないとは言いませんが、
あまり褒められたものでもない。
色々なものを知れる
というメリットがある反面、
知れるからこそ興味が薄れるデメリット。
一度見聞きしたが故に、
知った風になってしまって
それ以上のものへと昇華させる事や
利用するという事が
無くなってしまっている現状。
それを実際に動く側、努力する側としては
相手のためにを考えた時に、
敢えて必要以上には言わない
という選択をする事が重要になってくるのですね。
以前にお話をした「陰徳」です。
必要なところへ必要なものを流す。
そのヒエラルキーは絶対なもので、
不要な場へ流したところで
努力の価値は薄知減実となるのみです。
感じ取れる存在とのみ
最大限の共感をして感覚を共有する。
不平等だと思うかも知れませんが、
本来のスピリチュアルに於ける
これが現実というものなのですね。
不平等という
不自由さの中で
色々と経験をして
身に付けるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自己の意思の有無に関わらず
霊的な作用を受けたり
与えたりする事があります。
これを「影響力」と、云います。
乳児期や幼児期から影響力を発したり
授受したりする事もあれば、
ある一定の時期から起きる事もありますし、
ほぼ自覚せずに人生を終える
と、いう場合もあります。
詳細な内容について今回は省きますが、
影響力自体には
「正の影響」と「負の影響」の
大きく分けてこの2種があります。
これは本人ベースで捉えた時と
周囲ベースで捉えた時では
例え同じ内容だったとしても
正負のそれは異なったりもします。
影響力というのは想像以上に絶大で、
特定の一個人のみに対するものから
相当数の人員に与えるまで
その効果範囲はかなりフレキシブルです。
また、霊格や過去の経験という要素も
大きく作用します。
過去の経験というのは、
それまで熟してきた人生の数と
得てきた事の「含み」を意味します。
「含み」というのは、
複数回の人生に於いて蓄積してきた
努力の内容です。
皆さんがよく使う「学び」
というものとは異なります。
学びは1つの得た結果であり目標値であり、
含みは過程での内容と産物です。
影響力の伸びもまた面白く、
正の影響力は「連鎖」であり
負の影響力は「波紋」です。
この意味合いが理解出来ると
例えばですが、
霊からの干渉などを受けた際の対処法や
善き流れへ導く際や導かれる際の動きなどが
自ずと分かる様になってきます。
備わっていて
正か負かは自身で
選べるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自分の動きが鈍っていたり、
思うように動けない事があります。
記憶の混濁などもその内の一つで、
話を聴いていないと
思われてしまう事があったりします。
前に話した事をつい忘れてしまう。
会話をしていてちゃんと聴いていても
パッと出て来なかったり
うっかりしてしまったりする
なんて事がありますね。
聴いている事は確かだから
落ち着いて考えれば
割とハッキリ思い出す感じです。
そのタイミングで
「聴いてなかったからだ」
などと断罪をされると心を閉ざします。
考え事というのは誰にでもあります。
心が忙しない時などは特にそうで、
全てにおいて集中が出来る訳でもありません。
また、忙しなくなればなるほど
特に責任感が強くて
集中力の高い人であるならば
情報のソートが強めに出て来ます。
記憶の優先順位と切り分けですね。
未解決の話なのか、解決済みの話なのか、
重要度合いの区分です。
失敗が起きない為ではなく、
間違いが起きない様にする為に
ソートをきつめにセットするのですね。
そういう状況下に於いて
自身の動きを断罪される様な感じになると
そのダメージはかなりなものとなります。
一体何が起きているのかを
見詰めてあげて聴いてあげたりする事が
その人を救う手立てとなるのですね。
これが「器のサイズ」における
「寛容性」が具現化する瞬間です。
相手の状況に
寄り添うとは
程遠い動きです
これが自分本位に
溺れるなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
意思を伝えるという困難を
いとも簡単に熟せるのが浄土という場です。
向こうの世界では、簡単な事でも
肉体を纏ったこの現世に於いては
その肉体が障壁となって困難へと変わります。
何故、肉体が障壁となるのか。
それは肉体を得るのと同時に
俗欲を獲得するからなのですね。
俗欲というのは、
この現世で生きるために必要不可欠なものです。
これをやりたい
あれをやりたい
こうしたい
ああしたい
と、いう様々な渇望の総称です。
どんなに俗欲を嫌がったとしても
俗欲無くしては生きる事が出来ません。
そして、俗欲があるからこそ
「自分本位」というものが出来上がります。
自分本位は俗欲の中の一部分であり、
「自分」を中心に据えて
常に優位に捉えている渇望の塊です。
自己中心的なんて嫌だと思っていても
誰にだって自分本位は存在します。
簡単な場面で例えるならば、
お腹が空いた時
周りが視えなくなりますよね。
何かの限定品をゲットする時に
混雑していたらどうにかしたいと思うでしょ。
その人の許容と我慢への耐性と
器のサイズなどによって
その差は大きく変わります。
この差のことを「寛容」と云います。
誰にだって自分本位はあるものなので
消す事なんて無理なのですね。
無理なものを毛嫌いしても仕方ないです。
ならば、嫌いにならずに
ちゃんと認めてあげた方が建設的です。
そうだと分かっていても認められないのは
貴方自身が勧善懲悪を
判断の基準としているからに外なりません。
この思考回路の事を「完璧主義」と云います。
物事の判断は善悪で分けられるほど
甘く無いのです。
一定のルールや規範、規律を基にした時のみ
善と悪は判別が可能となります。
「法の下の平等」が一般的ですね。
特に法務紛争が起きていない状態で
善と悪をきっちりと分けるとなると
なかなかにエグイ結果となってしまいます。
思考が凝り固まってしまうのですね。
触媒があるからこそ
善と悪とに分けられるのであって
それ以外であるならば
善と善に過ぎません。
どちらも善を執行しているに過ぎず
正義と正義のぶつかり合いなのです。
で、あるならば
互いが互いの立ち位置をニュートラルにして
客観的な視点で観察し、
想いを基軸として会話を軸にし接し合う。
須らく理想論にはなりますが、
これが僕らが目指していかなくてはならない
生きる上での目標なのですよ。
向こうの世界では
これが当たり前に行われているので、
それを逆行的に目指す事で
思い遣りや想いの本質を理解する。
それこそが神さんや仏さんが
皆に求めることでもあり、
自分達自身が求めていることでもあるのです。
なので、自分本位は消そうとするのではなく
認めてしまった方が善き話となりますし、
ましてや浄土へ戻りたいのであれば
尚更な話なのですよ。
意味なく毛嫌い
すればするほどに
近付く場所は
浄土ではなく
地獄なんやで