皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
頑張ることは大切です。
仕事だろうと日常の生活だろうと
何をするに於いても
頑張れることが重要になってきます。
ですが、ここが考え様な部分でもあって
頑張り過ぎてしまうと
色々と壊してしまうのですね。
頑張るという事自体が
結構勘違いされるものでして、
何となく「誰でもやれるもの」
と、いう感じの解釈で過ごされている方が
多いかと思うのですが、
実はそうではないのですね。
世の中には頑張れない人や
頑張ることを知らない人も多いです。
自身で設定したかどうかは別として
目標や目的に向かって頑張る。
これが、金銭や物品じゃないと
動く事すら出来ない人も居れば、
ごく短期間などでないと動けない人も居る。
相当に限定的な状況や環境だったり
明確な物質的見返りを得られないと
頑張ることが出来ない。
手っ取り早く
手間を掛けずに
ただ只管に楽をして
簡潔に動きたい
自身で考えることすら放棄して
人に考えてもらって
その通りに動いて
利益だけを手にしたい
そういったタイプの人が存在します。
少なくともこれは頑張りではないです。
頑張るということは普通の事ではなくて
実は結構特殊な事なのですね。
度合いや頻度にもよりますが、
頑張るためには
相当に意識を高めたり維持したりと
かなり努力をしないといけません。
何よりも、自身で考えないといけません。
目標の設定、目的の選定、手段の精査、
何のためなのか
誰のためなのか
何がしたいのか
いつまで掛かるのか
最初から最後まで終わりの見える事もあれば
闘病など終わり自体が視えないことだってある。
全てに於いて
厳しさを求めるものではないけれど、
楽というものとは懸け離れたものであることは
間違いないのが「頑張る」という業です。
だからこそ、常日頃から頑張っている人は
「無理をしない」
という心掛けが必要になるのです。
頑張ることはとても大切ですが、
無理をしてしまうと
その頑張り自体が、自身の肉体や幽体自体が
潰れてしまったりすることもあります。
それでは本末転倒です。
なので、頑張っているのであれば無理はしない。
無理をすると幾ら自分以外のために
動いていたとしても、その奉仕の精神が
無理によって自分のためという
自分本位へと知らぬ間に変貌してしまうのです。
これによって起こる弊害、想いと念の反転を
「過剰蓄積」と云います。
楽をするのではなく、無理をしない。
頑張るために必須な心掛けですからね。
忘れない様に動いていきましょう。
楽と無理をしない
似ている様で
全く違う
そこはまた今度
お話するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
苦しみも悲しみも愉しみも嬉しさも
日々感じる事が出来る感覚は
全て同じところにあります。
例えばですが、
苦しみを感じている時は苦しさだけで
愉しみなんか感じ得ない
そういった具合で
考えてしまいがちですが、
実際のところは、
苦しみを感じている時でも
愉しみを同時に感じているものですし、
その逆も然りです。
苦しみや愉しみを同じ事象や出来事で
同時に感じ得るという事でもありません。
仕事で叱責されて苦しんでいたとしても
同時に趣味のものなどやプライベートな事を
やったり考えたりするなると
愉しんで愉しんで愉しみまくれたりするでしょ。
あたかも心の中は苦しみに支配されていると
考えてしまっている様な時でもです。
人は、1つの感覚や一つの感情で
心の中や精神性を支配しようとしたり、
合理的に纏めようとしたりする癖があります。
悲しい時は悲しく
嬉しい時は嬉しく
苦しい時は苦しく
愉しい時は愉しく
ですが、そう単調に切り分けられる程
人と云うのは簡単なものではないのです。
感情や感覚というのは同じ位置にあって
表裏一体で存在しているものなのです。
片側だけに偏らせて意識をしようとしても
上手くいく事など土台難しい事です。
偏らせて思考したところで
一時的に上手く立ち回れたとしても
その反動は必ず自分に戻ってきます。
で、あるならば両方を思考する様な感じで
動こうとした方が無難ですし建設的です。
愉しい事ばかりを得ようとしていれば
その最中に苦しい事が起きた時に
容認できない様な状態となって
動きの中で落ち着きを失いますし、
悲しい事ばかりを考えていれば
その最中に嬉しい事が起きた時に
過剰に反応したり過大評価した状態となって
動きの中で誤った選択をする事に繋がります。
やはり落ち着きを失ってしまうのですね。
何かしらの感覚や感情を中心核に据えて
業を実行している最中だとしても
そこには対面となる感覚や感情も存在する。
その理屈を常に頭の片隅へ置いておくだけで
冷静さと云うのは身近なものへと
変わっていくのですからね。
感覚や感情は
簡単どころか
困難の極みなんや
それを無理に
簡単に考えるから
得られるものすら
得られないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
常に落ち着いて冷静でいましょう。
色々な場面に於いての
理想の動き方ではありますが、
ある場面だけ限定的に冷静になるとか
ピンチの時に落ち着いて動くとか、
自分の都合で簡単に出来るものではないです。
これは普段から心掛けていなければ
絶対と言い切れる程
やれるものではありません。
では、何を心掛けるのかと云うと
落ち着いて冷静になりたいのだから、
いつも落ち着いて心静かにしていれば
良いみたいに捉える人がいるのですが、
それは全力で間違っています。
そんな事をしていても
冷静に判断したり動いたりする事は
出来る様になりません。
大切なのは、
反復練習とマインドセットです。
反復練習というのは、身近な所で云うと
小学校とかで行った避難訓練などが
分かりやすい例となります。
ある一つの出来事や事象を想定して
それに伴った事後の動きを身体で覚える。
こういった動きを定期的に行う事で
例え慣例化していたとしても、
いざという時に一定の動きは
自然と出来る様になります。
但し、反復練習時に気を抜いているか
気を入れているかで、
有事の時の判断は変わります。
テキトーにやってても大丈夫という事は
あり得ないって話ですね。
マインドセットというのは、
状況の判断と優先順位の構築を指します。
何か問題が発生した際に、
頭の中に在る常識を一定の段階を踏んで
自ら壊していく事です。
常識と云うのは、
生活の中に於いて必要な規範ですから
僕らには切っても切れない代物です。
と、同時に有事の際には
動きや判断を縛ってしまう足枷にもなるのです。
いざ動かなければならない状況や
即断しないといけない状況に於いて、
「様子見」をしてしまったりする
要因の一つなのですね。
状況に応じた動きを思考レベルで構築する。
それがマインドセットです。
例えば、何でも無い時の常識で云うならば
暴漢に襲われたら「手を出すな」と、
誰もが教わりますが、有事でのそれは間違いです。
襲われている時点で反撃をしなければ
どこまでもやられてしまいます。
この時に、段階を踏むのがマインドセット。
逃げる隙を作るために敵を遠ざける動きをするのか
逃げられないから徹底的に敵を排除するのか
その判断を一瞬で行って気を入れるのです。
つまり、「覚悟を決める」という意味です。
路上で襲われたパターンと
家に不届き者が入ってくるパターンと
状況は全然変わりますよね。
前者は逃げる選択がありますが、
後者はそもそも逃げられない。
それを理解した上での覚悟です。
これらをより詳細にシミュレートして
普段の生活の中に落とし込む事が必要になります。
その為に必須な動きと云うのが、
「よく視て」「よく聴いて」「よく考える」
と、いう基本動作です。
自身の置かれている状況を緻密に観測して
自分が今何をしているのかをしっかりと理解する。
この動きそのものを普段から行っている事で
災害だろうが事件だろうが、事故だろうが、
有事の際は数段の違いが出て来ます。
ボケっとせずに意味を理解して動く。
本来のスピリチュアルは
神秘性や奇跡的な事ではなくて、
「現実の中にこそ在る」
と、いうのを実感できる筈ですよ。
今自分が何をして
どうしているのかを
ちゃんと考えて
理解しながら動くのが
冷静さを手にする為の
第一歩なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
みんな大好き個人力。
あんな力やこんな力など
能力には様々なものが存在します。
実際に、感覚を基礎として
僕のところでも色々なものが使える様に
やり方だけではなくて、
個人力としての力の開発や
どうやったら元々備わっているその力を
呼び戻す事が出来るのかなど、
色んなことを教えているのですが
その中に俗欲の制御というのがあります。
何度となくお話をしていますね、
「俗欲の制御」。
俗欲の制御というのは
やりたい事をやらないとか、
無闇矢鱈と我慢をするとか、
煩悩がどうのこうのとか、
そう云った様な
単に欲を抑えるという意味ではなくて
相手を想い、思い遣った上で
その場その時々での最適解を導き出す為の
「自身の気持ちのコントロール」となります。
キーワードは「自分以外のため」です。
単に各種俗欲を我慢するみたいなのは
その場凌ぎに過ぎませんから
「意味を考えない」
と、いう動きが出て来てしまうのですね。
これですと中心核となるのが
自分になってしまうのです。
要するに、自分本位を誘発するだけなのです。
それでは本末転倒です。
思い遣るなんて何処吹く風に等しくなります。
そうではなくて、
あくまでも自分以外の相手を想って
発動させる「動き」が
「俗欲の制御」なのですね。
例え、その場に居ないとか、
自分以外には視えていなかったとしても
自分を中心核に据えずに思考して
相手を思い遣り動く。
この動きが出来ないとどんな個人力を
使えたところで自己満足で終えてしまう。
「自分の能力が凄いでしょ」
「こんな事が出来るの」
「私は分かる力を持っているから」
と云うようなクソ程くだらない自己陶酔に
陥る様になってしまうんですね。
そして、高確率でその際には
誰かをダシにするのです。
何でもかんでも伝える事や教える事が
全て正しいのか、最適解とは何なのか。
生きている存在のみならず、
生きていない存在について能力を使う時でも
歓びに溢れる事ばかりではなく、
そこには遺族や関係者など知ったら傷付くであろう
存在が居るという事を考えて動いているのか。
個人力というのは「想いの延長線上」に在って
「俗欲との境界線上」に在るものだというのを
理解しないといけないのですからね。
自分のために
使っている内は
能力なんてのは
堕ちていくのみやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
信じるというのは難しいです。
特に、「自分を信じる」というのは、
超難関な業となります。
いや、そんなの簡単だよね。
と、思える人は出来ているから
そう断言することが可能なのですね。
(これは厭味ですからねw)
色々な場面で、
出来事や事象の大小を問わず
「自分を信じる」ようにするには、
「覚悟を決める」という意味なのです。
何の覚悟かと云うと、
「誰の所為にもしない」
と、いう覚悟です。
正直なところ、
これを実行するのは本当に困難を極めます。
人の所為や物の所為にする方が
自分の所為にするよりも簡単です。
責め立てれば良いだけですからね。
つまり、自分を信じるよりも
他人を信じる方が100倍は簡単なのです。
覚悟を決めなくても、
何かあった際にはそいつの所為にして
責め立てればいいだけですからね。
また、言う事も聴こえも
周りからすれば格好良く響きますからね。
尚、ここまで話しておいて何ですけども、
これって何も信じている事には
なりませんからね。
また、
「自分の事しか信じない」のと
「自分を信じる」というのは別物です。
「自分の事しか信じない」と口にする人は、
大抵の場合、自分の事も信じていません。
単に責任を逃れてフラフラとしているだけで
その場その時で、信じる先を変えていて
他者の話をあたかも自分に照らし合わせて
さも自分が生み出したり、
自分が口にしたかの様に
言いたいだけの人であって
覚悟を決めて口にしているなんて事は
萬に一つもありません。
以前にも話していますが、
自分の事しか信じないなら
周りの存在も信じないという意味ですからね。
前段でも話しましたが、
自分を信じるというのは
どんな場面だったとしても、
自己の動きや考えに責任を持つ事を指します。
当然、文句も言えば愚痴も口ずさみますから
100%完璧にという事は
原理原則としてあり得ないですが、
それを加味したとしても、
可能な限り自己の責任の名に於いて
覚悟を決めて行動をする。
自分を信じるという事は、
相手を信じるという話に繋がるのです。
何故なら、自分が覚悟を決めて
そうしようと決断した事なのでしょ。
相手を信じようと決めたは自分なのですから。
そういった覚悟を常々秘めながら
日頃の業を熟していく事が、
「自分を信じる」という事なのです。
どうしても善い事ばかりを想像して
自分を信じると使いがちになるでしょうけど、
自分を信じる先には結果として
失敗や自分にとって都合の悪いことも含まれます。
それらの全てをひっくるめで
「自分を信じる」が成り立つ訳ですから、
自分達がやれる事と云ったら
「信じられるに値する為の努力をする」
「覚悟を決める事が出来る様な知と経験を得る」
まずはここが基本となる訳です。
この基本を育てる場が「日頃の業」なのですね。
さて、貴方は自分を信じられていますか。
やればやるほど
難しさが身に沁みる
それが自分を信じる
という業なんやで