今回は動き方について
お話をしたいと思います。
例えばですけども、
誰かがやろうとしている物事を
貴方の方が出来るから
分かるからと言って
考えもせずに何でもかんでも
「やってしまおう」としたり、
「やってしまう」とします。
一見すると率先していますから
良さそうにも思える動きなのですが、
貴方がいざ
「教える」という立場になった瞬間
極悪な所業と化します。
人というのは、
何かにチャレンジする際に
「失敗をしないと覚えられなかったり」
「叱られないと分からなかったり」
痛い思いを経験して
初めて理解出来る事が多いのです。
それを先んじて抑えてしまうのが、
「やってしまう」という愚行。
貴方が相手に
何かを教えるという立場であれば
指示はしたとしても
余計な口出しも手出しもしない
そういう「やらない覚悟」が必要です。
貴方がやってしまえば
物事の解決は出来たとしても
相手は何も覚える事が出来ないどころか
経験する機会すら失うのです。
そして、貴方が相手を差し置いて
率先してやった事で満たされるのは、
貴方の自尊心のみです。
これは「相手のため」の動きではなく、
自分自身の為の動きでしかない。
あまりにも人としての器が狭隘すぎます。
もっと言うとですが、
貴方がやってしまうという事は
もし、相手がちゃんと動いて
上手く出来た場合の「成功体験」や
貴方に「褒めてもらえる」という
相手からすると「嬉しい経験」も
貴方自身が貴方自身を優先させて
取り上げてしまうのです。
それは物凄く悲しい事ですよ。
相手が大人の場合でも
子供の場合でも
そこまでして自分自身を取る人は
必ずと言っていい程
下記の台詞を口にします
「こんなにやってあげているのに」
「やってあげたから上手く出来た」
「やってあげたよ良かったね」
これは
本来のスピリチュアルで云うところの
最低で最悪な台詞の一つです。
どうしてもやるならやるとして、
「相手の機会を貴方が奪ってしまう」
「貴方自身の承認欲求を置き去りにする」
と、いう様な、
「やる覚悟」を持たないといけません。
やらない覚悟も苦痛ですが
やる覚悟はもっと苦痛です。
やってしまった分の埋め合わせを
貴方の責任で別の機会に
必ず補わないといけませんし、
それはなるべく近い期間でないと
意味がありません。
無理にでも何でも用意しないといけない。
相手の機会を奪うというのは
それほどまでに罪なのです。
では、何の罪となるのか。
八罪で云うところの
「他への辱め」←機会を奪った
「信に徹さない」←相手を信じなかった
「伝に務めない」←言う聴くを怠けた
「勇を用いない」←失敗する恐怖に負けた
少なくともこの4罪です。
そこに承認欲求の誇示が入ると
「自に堕ちる」も追加されますから5つ。
小さい事で大袈裟に思うかも知れませんが、
小さい事でも出来ない人が
大きな物事でどうして出来るのですか。
想いも念も小さいモノの積み重ねや累積で
大きいモノへと積落します。
「相手のため」をしっかりと考えた
普段の生活の中での
「やる覚悟」「やらない覚悟」が
貴方の日頃の業となるのですからね。
お子さんを持つ親御さん
お孫さんを持つ祖父母さん
お弟子さんを持つお師匠さん
教える側としての立場の人の
吉美な嗜みが
「やる覚悟」「やらない覚悟」ですからね。
人生は大きく
変わるんやで
分からなければ
貧乏神路線確定やで

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