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2026年8月17日月曜日

熱冷なる抑揚(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




愉しみを得ることの難しさは
言わずもがなな事ですが、

とは言え、
この難しさというものが
単なる「困難」だと思慮するのは
些か稚拙な話となります。

愉しみを得る上で一番の困難は

「相手のためを思考する」

必要があるからです。

例え、
その場に居るのが自分一人だとしても
常に相手つまり「自分以外の存在」を

感じ取っていなければならない。
それを忘れてはいけない。

この感覚と思考の使いようと云うのが
困難とさせている部分です。

しかし、
相手を想うというのは
本来のスピリチュアルに於ける
基本的思考でもありますから、
愉しみを得るのは誰にでも可能な事なのですね。




基本的思考にも関わらず
難しくさせている要因の一つとして

「自分本位」というのがあります。

ここでの自分本位とは
単純なわがまま等ではなく
自我・エゴと呼ぶ様な性格や自己認識

アイデンティティーとなる部分の事を
意味しています。

誰にでも好きなものや
嫌なものくらいありますね。
それを主張する事もありますね。

自分の中の得手不得手や好みというのは
色々なものから成り立っています。
性格然り、経験然り、環境然り、時代然り。

この自分を構成する些細な一部分を
何の気無しに主義主張する事で
「自分」というのは成り立っているのです。

その自分自身が愉しみを得るのを阻害する。
但し、それは自己の主張に
「溺れてしまったら」という話です。

逆に「流されてしまっても」アウトとなる。

自分自身を維持しつつ、主張はすれども
相手のためにバランスを整えた時に

「愉しみ」は得られるのです。

それを私達は自然とやってのけているのですね。
改めて考えてみると
何とも不思議な感じですよね。

そして、その得るための過程で
最も重要な触媒となるのが「努力」です。

これを欠いてしまうと、
どの道愉しみは得られません。
独りよがりとなって自分本位に溺れるか
周囲に流されて自身を失います。

自分というものを
しっかりと持って
徒に流されず
無理に押し付けず
相手との連動を
一番に考え動くのが
愉しみなんやで

2026年6月27日土曜日

決して楽にはなれぬ現実(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




悪霊と云う存在がいます。
死してなお俗欲に執着を
続ける存在の総称になるのですが、

この悪霊とは、
どの様にして生まれるのでしょうか。

端的に云うと、
何かしらの執着を切り離せない場合に
死後悪霊と化します。

生への執着かも知れませんし、
やりたい事への執着かも知れません。

単に生前の思考を
肉体が無い状態で続けようとする執着
と、いう場合もあります。

強い恨みなどで悪霊化してしまう様な
ケースもあります。

この「恨み」という部分は、
言い難いのですが殺害されてしまった等の
悲しいケースも含まれます。

ただ、
1つ誤解の無い様にして頂きたいのは、

「悲惨な死を遂げたからと言って
必ず悪霊と化す訳ではない」

と、いう点です。

悪霊と化すのは俗欲への執着が基本です。
仮に悲しくも
非業の死を遂げてしまったとして

亡くなった方がどんな形でも
それを受入れているのであれば、
悪霊と化す事は無いのです。




寧ろ、俗欲への執着という点で云うならば、
手を下した人間の方が悪霊化し易いです。
何故ならば、俗欲に溺れた結果
手を下した訳ですからね。

また、恨みの連鎖や負の螺旋という
影響力が働きますから、
亡くなられたご遺族などの方が死後に
悪霊化してしまうという事も少なくないです。

これらはどんな形であれとても悲痛な事です。
出来る事なら悪霊化は防止したい。
僕がずっと胸に秘めている
原動力たる想いです。

その中に、
貧乏神化防止というものがあります。

生前に貧乏神と化してしまうと、
その存在は死後確実に悪霊と化します。

貧乏神という存在は、
現世に於ける社会の中での善悪は
まるで関係の無い存在です。

つまり、
普通の人でも貧乏神にはなるのです。

本来のスピリチュアルは、
ここを可能な限り防ぐためにあるものです。
ですが、それは当人に
委ねられるものですので

自ずと限界点が生じてしまいます。

人らしく生き、俗欲に溺れずに制御する。
失敗を恐れずに人間味を大切にして、
前へ向かって進む過程で
向こうの世界の理を護る努力をする。

早い話が、「想い」を軸とした
考え方や動き方をしようねってやつです。

悪霊と化した存在の末路は悲惨ですからね。

哀しみどころか
世代を超えて
連綿とした
恨みの連鎖を
生んでしまうのが
貧乏神や悪霊化です
ええこと無いんやで

2026年6月20日土曜日

苦しみを背負い視る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




本来のスピリチュアルに於いて
とても重要になってくるのが

「ニュートラル」

と、いう考え方です。

中間に位置する場から
客観的に物事や事象を見極め判断する。

好き嫌いなどの偏った見方ではなく
その時に必要なものを冷静にチョイスする。

単なる善いとこ取りだと
考えられてしまいそうですが、
意味は全く異なります。

ニュートラルとは、
あくまでも「立ち位置」の話なのです。

どちらか一方へ偏らせるのは簡単です。
好みで決めれば良い話ですからね。
それが故に、
対面への否定感や拒否感が生じます。

その拒否感を正当化させる為の動きや
思考が主となっていくので、
自ずと偏りは増していきます。

そして、行き着くのが「完璧主義」です。




現世で我々が生きていく以上、
偏りや隔たりというのは避けられません。
それ自体は悪でもありません。

自身の意見や心情を万人万物へ
まともに伝える事すら叶わないのですし、

成長や進化という過程に於いて
隔たりも偏りもある種では必須となります。
そこで争いが生じますが、

融和というのは、
これらがあるから存在するものですし、
理解を成せるものなのです。

しかし、その途中過程に於いて
極端な偏りや隔たりを掲げたり、
立場の保持を主な目的としてしまう事があります。

これが「完璧主義」です。

片側に極端に寄せてしまって、
対面を思考する事が出来ない状態。
相反する思考は敵となり
矛盾を悪と断ずる考え方。

こうして話すと何となく視えると思いますが、
自分本位と同じですよね。

独りよがりを拗らせて、
思考的視野狭窄へと陥るがあまり
自身の世界を徒に狭くしてしまう。

結果として、
「受け容れ」も「受け止め」も出来ずに
心身共に惨めな状態へと堕ちてしまうのです。

この状態を回避して、その先へ進む為の
考え方が「ニュートラル」です。




立場や思想に極端な固執をせずに
中間ではなく「中空」より視線を拡げ
対局ではなく「大局」を視る。

優しさと厳しさの同居を理解し、
矛盾という名の選択の自由を行使する。

自身の考えを芯に捉えつつも
他者の考えは自身には思い付きもしなかった
「宝物」だという思考を創る。

相手との遣り取りは
意思の押し付け合いではなく

意志の受け容れ合いであり
心情の受け止め合いであるという捉え方。

その中での係争は一過程に過ぎないので、
それが目的ではなくあくまで手段という認識。

故に、相互意思の齟齬は必然であり、
ご都合主義の完全融和などは存在せず、
相手を好みで選ぶのではなく
互いの違いを認め合う「間接融和」を信条とする。

ほんの一部に過ぎませんが、
これらが本来のスピリチュアルに於ける
基本概念であり、ニュートラルという考え方です。

現世でありながら
向こうの世界の理を実践する。

辛く苦しいですが、そこを見詰めて
活かし生きる。

文字で読むと面倒臭そうですが、
やってみるともっと面倒臭いですw。
ですけどね、価値はありますよ。

いつでも誰でも
気軽に出来て
辞めるのも自由
ってか、
言われてやる様な
もんでもないんやで

2026年6月19日金曜日

差を知って使い熟す(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自身の中での価値観というのは
人に合わせて作るものではないです。

自分の中で確固たるものがあれば
それで充分なのですね。
但し、
その中身に至っては少し考えようで

常識的な一面というのも必要になります。

価値を決める上での常識というのは
一般教養の事を指します。
ここの教養という部分には
所謂、知識や学問が当て嵌まりますが、

常識的範疇での流行りやムーヴメントも
価値を決める上では必要になります。

「自身の中での確かな価値」
「一般的な価値」

これらを己の中で共存させる事で
世間と自身の「差」を知ることが出来ます。

ここの「差」の部分が特定の存在にとっては
愉しみに繋がる部分でもあり、
一般的な話となった場合には
全く理解されない部分という点となります。

つまり、この「差」を理解しておかないと
何かこれと言って特段非常識な事を
している訳でも無いのに、

結構な数の恨みや念を引取る事に繋がります。




何故かと云うと、
話が通じなくなるからです。

ここでの話とは深い部分での話ではなく、
表面上の浅い部分での話です。

自身と特定の存在のみでしたら、
この「差」というのは考えなくても
価値の共感が可能になります。

然しながら、鑑みなくてはいけないのは
この現世で生きるという現実です。

我々は自身と特定の存在だけで
現世を生きているのではなく、
縷々様々な存在を介して生きています。

詰まるところ、この「差」を理解する事で
「相手のため」という奉仕の精神、
思い遣りに繋がるポイントを
手にする事が可能となってきます。

全ての存在がスタンドアローンで
何の繋がりも無く独立独歩で生きているならば
こういった「差」を鑑みる事は不要ですが、

それこそ現実ではなく幻想です。

「自分だけが善ければいい」に
自動的に繋がってしまうのが、
この「差」を理解しないという怖さです。

自身が好きだの嫌いだのではなく、
自分以外の存在や支えてくれる存在に対する
思い遣りとしてこの「差」を理解する。

決して深くなくて良いんです。
すごく浅くて構いません。

世間との窓口を自身に設けておかないと
現実の中に居ながら幻想へ逃避する
そんな結果となってしまいますからね。




世間との差を理解しておかないと
結果として、人に苦痛や辛さを与えます。

これは実体験ですが、
僕は子供の頃に両親がこの「差」を
理解していなかったが為に、

狭い子供の世界の中での流行りや愉しみに
乗ったり付いていく事が出来なかったので、

周囲から疎外されていました。
家では虐待、外では虐め。
中々にヘビーでしたよ。

自身の価値観を持つ事は大切ですが、
それの保持や維持には「差」が必須です。

ましてや、価値観そのものを
押し付けてしまったり「差」を忌避する事は
自身の価値観ではなく特殊な価値観と変貌し

世間や社会、コミュニティからの
乖離を意味します。

それは、我々の生活環境からすれば
死活問題でしかありません。
現に僕の両親は結果として何もかもを失いました。

人や子が望むから必ずそれを与えたり
自身もその中身に乗るという意味ではなく、

節度を以て「差」を理解した上で、
適確に判別をする事が大切になってくるのです。

知らぬ存ぜぬで個として生きていけるほど
現世というものは甘くないですし、
自身の価値観だけを突き詰めるだけというのは

好きな事だけをやるという意味と同意義ですから
それは楽をしているのと
何が違うんでしょうかね。

差を知らないとね
自分勝手に生きて
自分中心で居るのと
何ら変わらない
人の善し悪しは
関係無しに
堕ちるんやで

2026年5月23日土曜日

向き合い方(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




本来のスピリチュアルを知っていくと
必然的に「駄目な自分」というものへと
ぶつかる事になります。

この駄目な自分については
今まで散々話していますが、

要するに善い自分と対を成す部分です。

面接とかで聞かれる様な
長所と短所みたいに

善い自分と駄目な自分を
分離して考えてしまいがちですが、
そういう類の物ではありません。

対を成すものなので、
同じ位置の表裏で存在する自分です。

ですから、
善い自分が1000あれば
駄目な自分も1000存在する。

例えば、

のんびり屋さんなところが
善い自分だとするならば
危機感や緊張感に欠けるところが
駄目な自分という事になります。




そんな駄目な自分というのも自分です。
以前から話していますが、
どんなに嫌だと思ったところで
消去する事は叶いません。

寧ろ、毛嫌いする方がどうかしていて
その駄目な自分も自分なのだと認めて
如何に愛でる事が出来るかが

運気を上げたり、
生活を愉しくさせたりするための
必須条件の一つなのですね。

そして、駄目な自分というのは
大枠でのそれこそ誰が見ても
自分でも分かる様な部分もあれば、

核心的な部分や真に迫る部分、
自身の内面深くに根付いている様な
駄目な自分となると、

自分の事なのに自分では決して分かりません。

分かったとしても、
それを認めるという事が難しいのです。

では、どうするのか。

自分以外の存在に教えてもらう外
方法が無いのですね。




他者や周りの存在に
教えてもらうという事は
そこに意見を伺うという事になります。

その意見というのは、聴く側からすれば
とても辛辣な内容となります。
なので、聴いたとしても受け入れるのが難しい。

聴きたくも無い内容ですからね。

ですが、その内容を教えて欲しいと
願い請うのは貴方の自身なのです。

それなのに受け入れないというのは
人として礼節に欠けますよね。

ですから、聴くのであればどんな事でも
覚悟を以て聴かなければいけないし、
受入れる様に努力をしないといけない。

聴く貴方も苦しいですが、
話す側の相手はもっと苦しいのです。

にも、関わらず
その受入れる努力を怠ったらどうでしょうか。

その姿勢を相手さんは視ています。
もう何もまともな向き合い方はしてくれません。
それはつまり、駄目な自分に気付く手段を
永遠に失うという事になるのです。

苦しいからと言って自分を庇い
相手を蔑み自分を守ろうとする
これが自分本位です。

どんな時でも相手のためを考え
自分よりも優先的に捉えて動く
これが思い遣りです。

自身から頭を垂れて聴いたのであれば
相手に対して徹底的に真摯に向き合う。
それは聴いた時だけに留まらず、

寧ろ、聴いた後が本番なのです。

その場だけ真摯に向き合うのではなく
その場に相手が居ない時こそ
相手に対して真摯に向き合う。

この動きが出来る様になって
初めて分かる様になるもの
それが「想い」です。


想いが分かる人は
想いという言葉を
軽々しくは
口にしません。

その重みと苦しみを
理解しているからやで

2026年5月20日水曜日

振り撒く憎悪(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人の悪口陰口を叩いたり、
理不尽な妬み嫉みを露骨に向ける。

これらは喜んでやる様な事ではないし
一般的にも
やってはいけない事ではありますが、

憎悪を振り撒くと云う行為でいうならば
実は結構軽めです。
割と簡単に想いでの相殺が可能ですからね。

かと言って、やっても平気などとは
思わない方が良いです。

それよりも、物凄く強烈に
相手に対して周りに対して
憎悪を振り撒く所業があります。

それは、「自虐」です。

これは陰口や悪口などの程度を
遥かに超えた憎悪の振り撒きで、

想いでの相殺がとても難しい代物です。




「自らを虐げる」と書いて自虐。

負の感情の矛先が自身に向くと同時に
聞いた人全てに対して憎悪を振り撒き、
更に憎悪を抱かせる。

陰口や悪口も依存度が高いですが、
自虐の依存度と比べたら可愛いものです。

一度、自虐を主体とした思考へ嵌ると
早々簡単には抜け出せません。
自身を見つめ直すにも何かにつけて
DDを発動してしまいますし、

理不尽さでも周りを圧倒してしまう。

しかも、その理不尽というのが
自分で自分に向いているので、
論ずる事が不可能に近くなるのです。

つまり、
会話が成立しないという意味ですね。

そうなってしまうと、
手の打ち様が無いのが現実です。

自身の殻を何重にも塗り固めてしまって
人の話が入り込む隙すら無く、
言い訳に言い訳を重ねた状態で纏まります。

自身の都合一色での解釈が優先されますから
どんな正論も曲解の渦に飲み込まれます。

「どうせ自分は~だから」

を口癖や枕詞に使っている人を見掛けたり
目にする事があったとしたら
決して耳を貸さないのが妥当です。

話半分以下にしておくことをお薦めします。

妙な優しさを発動させて
まともな受け答えをしてしまうと、
貴方自身がその禍根の渦に飲み込まれて
人としての尊厳を破壊してしまいますからね。

優しさを以て
接するならば
相手は必ず
見定めなさい
でないと自分も
同じになるで

2026年5月8日金曜日

苦しみの先に(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




生きている以上は、
様々な苦しみに直面します。

その苦しみから逃れたいと考えたり
苦しみそのものを拒絶したいと考えたり
色々な形で「苦しみ」について
考える事が多いものです。

苦しみはその中身によって
種類も種別も変わります。

自分の我儘で発生した苦しみなのか
生きていく上での必然として
発生した苦しみなのか。

罰としての苦しみなのか
人生や経験としての苦しみなのか

理不尽な中での苦しみなのか。
先を見据えた上での苦しみなのか。

単に苦しいから楽になりたいと
考えてしまうのであれば
それは些かお粗末すぎます。




その苦しみには必ず理由があります。
貴方が考えただけでは
分からない理由かも知れないですし、

貴方が考えないといけない理由かも知れない。
貴方が一番分かっている理由かも知れない。

相手の一方的な理由かも知れない。

どういう苦しみに於いても
理由を必ず考えないといけません。

知らないけれど何となくや
知りたくも無いとか
考えたって分からないから考えないとか

そういう逃げや放棄をするのではなく
しっかりと理由を考えるのです。

時間が掛かっても良いし、
分からないなら聞いたって良いのです。

ただ、必ず考える。
考えた上でヘルプを求めるなり
何かしらの外の手段を使うのです。

理由を考えるという事をせずに
人に頼る様な真似をすると
苦しみの先に在るのは荒涼とした世界だけです。

考え方が
分からないなら
それだって
聴けばいいんやで
聴かないで
分かったフリが
一番の怠惰なんやから

2026年4月29日水曜日

視えないものが視える時(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




感情を突き動かされた際に、
どこへ向かってその感情を押し出すのか。

これは意識の方向のお話ですが、
人の内面を視る上で
非常に分かり易いポイントでもあります。

感情を動かされる点というのは
日頃から多々ありますが、

あまりに小さいものですと
逆に分かり難くなりますので、
ここでの例えでは冠婚葬祭とします。

人生の中で儀礼として
御身内出なくとも
幾度かは参列をすると思います。

この時に、果たしてどこへ向かって
感情を投げ掛けているのか。

誰のために感情を出しているのか。
これを視るのですね。

こうして文字で読むと難しく思えますが、
実際には至極簡単に見抜けます。

主となる相手に対して涙を流したり
微笑んだりしているのか。

自分に対して、
泣いたり笑ったりをしているのか。

周りへのアピールとして
演じているのか。

第三者として視てみると
面白い様に見抜けます。




気持ちや心、想いや念というのは
想像している以上に形として出るのです。
それはどんなに気を付けていても出ます。

ましてや、
疾しい感情が出ているとなると
視ている側が嫌になるレベルで分かります。

純粋に主となる相手へ真摯に向き合って
動いているのであれば、
その所作は自然体として現れます。

そして、それは儀礼外の部分でも
何ら変わる事がありません。

過去の思い出などという意味で
自分に対して向いている場合も、
割と自然体として出ます。

感情面で希薄になる事も多いですから、
却って薄情者だと勘違いされたりもします。

問題は周りへのアピールの場合。
これは露骨に感情を出しますが、
その出し方が過度となるので違和感を生じます。

大袈裟と考えれば分かり易いですね。
けれども、単に演じているだけですから
驚くほど長続きしません。

そもそもやりたくない事なので、
長続きさせる事自体が出来ないのです。

独りになっている時、
その場から離れている時、
人の目から離れている時、

全ての感情がリセットされて
行動が一気に自分本位へ傾きます。
発言から所作、ほんの少しの動きに至るまで
それまで抑えていた自分本位が

堰を切ったかの様に出てきてしまいます。

人の本性を見抜きたいのであれば、
こういった点を押さえるのですね。

普段から自分本位なのだから、
早く楽をしたい気持ちが秒単位で高まります。
いつもやらない事をやるのですから、
耐えられるものではないのですよ。


人のヤバさを
目の当たりにしたら
迷う事無く
距離を取るべきやで
情を掛けたら
引き込まれて
自分も終わるで

2026年4月25日土曜日

自身錯誤を見詰めて(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




想いと念というのは
常に同じ場所にあります。

想いを使う時は念もその場にあって
同時に拠出しているという意味です。

思い遣りも同様で、
常に同じ場所には自分本位が居ます。
背中合わせの状態ですから

思い遣りを使う時には自分本位が
出易いという事になります。

相談事をされたり意見を述べる時などが
とても分かり易いです。

人は相談をされたり
意見を求められたりすると
自分の中では意識をせずに立場を作ります。

自然と「自分の方が上」という
認識が出来上がってしまうのですね。

これはどんな場面でも同じです。
そんな事は無いと思いたいところですが、
こういうのが自然の摂理なのです。

その上で、意見を述べたりするのですが、
ここで「思い遣り」というのを
しつこいまでに意識をしないと、
自分本位に支配されてしまいます。

意見を求められているのですから、
当然に話をします。

それもかなり自由に言いますね。

そこで、相手の立場や状況、性格などを
しっかりと考える事が出来ていない場合だと
意見は意見でも無理難題を
押し付けてしまったりするのです。

そして、その事実に意見する側は
全く気が付く事はありません。

後になって考えてみても分かりません。

自分が言われる側になって
初めて理解が出来るのです。
思い遣りだと思っていた事が自分本位だったと。




人に意見を求められるのは
とても気持ちが良いものです。
頼られているという快楽を得ますからね。

落とし穴はそこにあります。
嬉しい気持ちと快楽に溺れてしまうあまり、
相手のためという目的を逸脱してしまう。

一個人に対する意見なのだから、
その個人が行動可能な範囲で
意見をしないといけない。

にも関わらず、
個人ではなく組織に対する意見を述べてしまったり
苦言を呈してしまったりする。

しかも、自分は安全圏に居るので、
言う事は好き放題になります。

これが思い遣りでしょうか。
どう考えても自分本位に外なりません。

こういった場面でその人その人の
駄目な自分というのが露見されます。

どんな時でも「相手のため」「何のため」を
考えなくてはいけないですし、

これ自体は言うは易しで実際にやるとなると
普段からその動きをしていなければ
到底出来ない程に困難な動きでもあるのです。

思い遣りと自分本位、
想いと念は常に背中合わせです。
少しのお手伝いもやり過ぎてしまえば
「余計なお世話」となりますよね。

日頃からの積み重ねが出来ているかどうか
よくよく考えて業を熟していきましょう。
善い事ばかりを考えていると
気が付けば念塗れとなってしまいますよ。


意見を求められた時に
自分達が発した
言葉をよく考えて
考察してみるんやで
あにきとの違いが
よく分かるはずや


2026年4月21日火曜日

自分本位という病(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




あらゆる場面で自分本位というのは
顔を出してきますが、
これそのものはコントロールが可能です。

但し、
それは自身が制御したいと思えばの話。

そのままにしておけば、
必ず自分本位に飲み込まれます。

飲み込まれる事に、人の違いはありません。
子供でも年寄りでも
男性だろうが女性だろうが

職業も関係無いですし、
見た目の感じも関係ありません。

どんな人でも飲まれる時は飲まれる。
それが自分本位というものです。

そして、それは徹底的なまでに
自分自身が原因となります。

誰が彼がと云ったところで
自分が飲まれる事を許容しなければ
飲まれる事はないのですからね。

人が原因でとか
病気が原因でとか
怪我が原因でとか

何を云ったところで、
それを許容し身に帯させたのは
誰でも無い自分自身なのですから。

甘えようと思えば
幾らでも甘えられるのが自分本位です。

おまけに、甘えれば甘える程に
快楽を得るのでどっぷりと嵌ってしまう
それが自分本位の最も悍ましい点です。




身近なところに居ませんか

「だって俺は...」
「どうせ私は...」
「でも僕は...」

と、いう台詞を
免罪符かの如く口に出して動く人。

その人の動きを視ていれば分かりますが、
意識が完全に己にしか向いていないので

周りの人の好みや要望ですとか、
こうしたら善いのではないかという予測とか
自分がされたら嫌な事、嫌な言い回しを
平然と何も問題が無いかの様にしている筈です。

この手の類の輩を、もし、身近な所
例えば、家族や親族で発見したらどうしますか。

そのままにしておきますか。
家族という社会通念を優先させて放置しますか。

それとも、徹底抗戦しますか。
理解をさせるという意味ではなく、
その素行に対して気持ち悪いからと抗いますか。

そのままにしておくのであれば
貴方もその輩と同じです。

きっと、自分は大丈夫とか
自分は自分本位に溺れたくないと過剰に意識して
主語を「自分」にした上で思考している事でしょう。

その段階で充分過ぎる程、自分本位に溺れています。
同類ですね、おめでとうございます。

そんな稚拙な思考回路なので、
自分に対してまともな意見を述べてくれたり
叱咤してくれる家族よりも
我儘を行使したり甘えてくる家族などを優先させてしまう。

そういう思考で居ると気が付いた時には、
叱咤してくれた人は去っていき
二度とまともな話をしてくれなくなります。

幻滅しているのですから当然ですね。
その先に訪れるのは、言い様の無い孤独です。

本当の意味での孤独と云うのは
想像を絶する程に厳しいものです。
貴方が口にしている我儘も甘えも
聞き入る人が居てくれるから言えるのですよ。

そういう人が全く居なくなるのが「孤独」です。

自分本位に溺れた
異形の存在の
成れの果てが貧乏神
貧乏神は貧乏神で
集まるんやけどな
何も満たされないんやで

2026年4月17日金曜日

行動理念で視る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人には、
「動く人」と「動かない人」が居ます。

「動く人」というのは、
黙っていても動きます。
当然に目的をしっかりと定めますが、

その目的は、物などで無くても平気で
気持ちや想いという類の「相手への心情」でも
自身を突き動かせます。

「動かない人」というのは、
黙っていると動く事はありません。

動く為の目的を求めますが、
利害を第一に思考します。
ですので、
金品などの物質が優先となり易いです。

相手への心情を目的にする事もありますが、
その心情は想いや気持ちなどではなく

自身の利益になるかどうかの
「見返り」という点でのみ作用します。




動く人と動かない人とでは、
意見の一致が非常に困難となります。

差しさわりの無い表面上の話や
データをベースとした様な話であれば
一定の一致は叶いますが、

経験則から得た話などの場合ですと、
根本的に合う事が無いと考えた方が良いです。

これは、行動理念の不一致が原因です。

先述した通り、動く人と動かない人とでは
行動理念がまるで異なります。

前者は心情のみでも行動可能なのに対し、
後者は利害と見返りのみで行動を起こします。

前者の方は動く過程の中で
利害行動を重視した動きも経験しますが、
後者の方に至っては心情では動けないので
非常に偏った経験のみとなります。

また、原則として「動かない」訳ですから、
経験値自体が乏しくなります。

全ての動きに於いて当て嵌める事は不可能ですが、
基本的な部分での思考の乖離で
関係性を逡巡してしまっている方は

この考え方を念頭に入れて見極めると
後々の選択や考察時に有用となる。

と、本来のスピリチュアルでは考えます。

動く人にも
善い事ばかりではなく
動き過ぎてしまう
という悪癖がある
何でもやり過ぎは
善くないんやで