皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
愉しみを得ることの難しさは
言わずもがなな事ですが、
とは言え、
この難しさというものが
単なる「困難」だと思慮するのは
些か稚拙な話となります。
愉しみを得る上で一番の困難は
「相手のためを思考する」
必要があるからです。
例え、
その場に居るのが自分一人だとしても
常に相手つまり「自分以外の存在」を
感じ取っていなければならない。
それを忘れてはいけない。
この感覚と思考の使いようと云うのが
困難とさせている部分です。
しかし、
相手を想うというのは
本来のスピリチュアルに於ける
基本的思考でもありますから、
愉しみを得るのは誰にでも可能な事なのですね。
基本的思考にも関わらず
難しくさせている要因の一つとして
「自分本位」というのがあります。
ここでの自分本位とは
単純なわがまま等ではなく
自我・エゴと呼ぶ様な性格や自己認識
アイデンティティーとなる部分の事を
意味しています。
誰にでも好きなものや
嫌なものくらいありますね。
それを主張する事もありますね。
自分の中の得手不得手や好みというのは
色々なものから成り立っています。
性格然り、経験然り、環境然り、時代然り。
この自分を構成する些細な一部分を
何の気無しに主義主張する事で
「自分」というのは成り立っているのです。
その自分自身が愉しみを得るのを阻害する。
但し、それは自己の主張に
「溺れてしまったら」という話です。
逆に「流されてしまっても」アウトとなる。
自分自身を維持しつつ、主張はすれども
相手のためにバランスを整えた時に
「愉しみ」は得られるのです。
それを私達は自然とやってのけているのですね。
改めて考えてみると
何とも不思議な感じですよね。
そして、その得るための過程で
最も重要な触媒となるのが「努力」です。
これを欠いてしまうと、
どの道愉しみは得られません。
独りよがりとなって自分本位に溺れるか
周囲に流されて自身を失います。
自分というものを
しっかりと持って
徒に流されず
無理に押し付けず
相手との連動を
一番に考え動くのが
愉しみなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
愉しい日々を求めるのか
それとも
自ら進んで愉しい日々を創っていくのか
同じ様に感じられる事ですが、
ここの少しの違いと云うのは
思っている以上に大きいです。
待ち構えているのか
切り拓いていくのか
果たして貴方はどちらでしょうか。
どちらが善くてどちらが悪いという
意味合いに取るのであれば
その考え方は辞められた方が賢明です。
待っているから得られる愉しみも
存分に存在しますし、
率先して動くからこそ
手にする事が出来る愉しみもあります。
基本的には自ら切り拓いていく姿勢が
重要にはなってきますが、
場によっては待たなくてはならない事も
確実に発生します。
その状況や状態を確実に掴んで
臨機応変に対応出来るようにする事が
何よりも大切になってきます。
そして、「動く」という行為の中には
「待つ」という動作も含まれます。
つまり、厳密に言えば
どちらも同じという事に繋がります。
だからこそ、
「場への理解」が最重要となるのです。
そこに着目せずに、
常に同じ考えで同じ動きをしていると
それはつまらない結果へと帰結します。
表面上の言葉のみを受け取って
自ら率先して動く事ばかりを意識していたら
いつしか「待つ」が一つの動作ではなく
動いていないという認識へと変わります。
そうなってしまえば、
待てなくなる思考となってしまいますから
きっかけを多々失う事となるのですね。
言葉の受け取りや理解と云うのは
ほんの少しの差分で成り立っています。
その差分の中に本質的な意味合いが
仕込まれていて、その部分を理解して
意図的に認知し利用する事が出来るか否かが
貴方にとってプラスへ転じる
きっかけの一つとなるのですよ。
馬鹿の一つ覚えでループさせるのではなく
多種多様で柔軟な思考を用いて
似て非なるスパイラルな動きを目指すのです。
愉しみと云うのは、
そういった知的認識力を以って得る事が出来る
高潔なものなのですからね。
言われた事のみをアホみたく
繰返すのは
愉しみから
一番遠退く
愚行なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
愉しみを得ると嬉しい気持ちになります。
と、同時に
そこからの努力をしなくなっていきます。
愉しみを得る事は目的になりますが、
終着点ではなくて通過点です。
その愉しみを如何に
「維持継続」させるか。
ここが重要になってきます。
1つの目標、1つの目的を
達成させたいがあまり、
そこで力尽きてしまう。
本末転倒な話ですが、
往々にして繰り広げられている現実です。
本来のスピリチュアルに於いて
少なくとも、この現世には
ゴールというものが存在しません。
強いて云うなら、
自身の得た「愉しみ」や「想い」を
永年で維持させていく事こそが終着点です。
愉しみや想いというのは
サイズの違いに関係なく基本的に
「持続性を有した一過性のもの」です。
但し、その持続性を発揮させるには
日頃からの努力を
続けていかなければなりません。
それが出来なければ、
単発の一過性で終わるのです。
つまり、貴方が今の今
愉しみや想いを得たとしても
そこで安心して動きを止めてしまったら
その愉しみや想いというものにある
持続性は雲散霧消するので、
そこまでで立ち消えてしまいます。
この持続性は非常に繊細で、
思い遣りや徳の表現型でもある
「日頃の業」を通じてでしか
養う事も強化する事も、
ましてや、使い熟す事も叶いません。
そして、日頃の業というのは、
自分本位を代表とした己の念によって
常に掻き消される状態にあります。
これを「相殺(そうさい)」と言います。
だからと言って、己の念というのを
消す事は叶いません(表裏一体の原則)。
なので、念を理解し、認め
上手に付き合っていくしかないのです。
如何にその「付き合い」を
柔軟に熟し続けるか。
日頃の業を続けられるか。
どこまでも柔軟にストイックに
制御をし続けていく。それこそが、
愉しみや想いを維持継続させる
唯一の方策なのですね。
途上でしかない
自分に甘え
続けている内は
真の幸せなど
手に入らないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
生き易さというのは
自分自身にとって都合よく動いたり
何かを都合よく動かす様なものではなく、
生きる苦しみというのを
理解する必要があります。
生きる苦しみ...
本来のスピリチュアルでは
意思の疎通と
そこに至るまでの流れそのものが
最も身近で最も大きい苦しみだと
都度話していますね。
相手に意思を伝える。
相手の意思を汲み取る。
思っている事、考えている事、
今の心情や抱えている気持ちなど、
言葉を介しているにも関わらず
意思そのままの100%を
伝え汲み取る事が難しい。
何度言っても分からない事もあれば、
分かったと思っていて
何も分かっていないなど、
肉体を得ているが故の
個々体に存する俗欲の固着が
いとも簡単に意思の伝達を阻害する。
そんな馬鹿なと思うのであれば
貴方の思っている事を
抱えている心情を
今その隣に居る相手へ
ネットワークの先に居る相手へ
伝えてみて下さい。
確実にその意思を伝えるのって
かなりの労苦を要する筈です。
この伝に務める苦しみを
相手と共感する事が生き易さには
必須な要素となってきます。
その苦しみの中で、
例え微々たる部分であっても
伝え汲み取る事が出来たり
出来てくるようになると、
相手との共感という形で
「想い」が形を成してきます。
これが基本的な「愉しみ」です。
これを分かち合う事こそが
生き易さへと繋がるのですね。
にも関わらず、
途中途中にある意思を伝える苦しみ
意思を汲み取る労苦から逃れ得たいと
楽に溺れるあまり、
自身にとって都合の良い解釈や
都合の良い言葉
都合の良い思考を選定して
相手を差し置いて行動をしてしまう。
ここで述べてる"楽"とは
"俗欲"を意味します。
これがご都合主義です。
眼の前にある現実から目を背け、
伝えられるという点に於いての
信に徹さない動き方がご都合主義。
この場合、その場凌ぎでの対応は
可能だったとしても、
その後に必ずリバウンドが生じます。
「伝わらない」「分からない」という
苦しみから逃れたいが為の妄言は
一時的な労苦からの解放は得られても
「相手のため」という触媒、
愉しみを得る為の華美なエッセンスを
消失してしまっており、
「全ては自分のため」という
禍愚な意思の下での動きですから、
そこには「想い」よりも
「念」が湧出するので
「恨み」となって
自身へと還元される訳です。
「想いを拠出し想いを得る」
この流れの中にあるのが
生き易さとなりますから
「念を排出し念が還る」という
負の螺旋に陥ってしまうご都合主義が
如何に生き易さと掛け離れているか
想像するのは容易い事だと思います。
それでもやってしまうのが
ご都合主義の恐い点であり、
自身の意志の弱さや駄目な自分を
知らねばならない点でもあります。
ご都合主義気味の思考が
染付いてしまっている貴方は
まずは大好きな「自分自身」から
一旦離れてみて下さい。
そして、自身の物差しで
相手を計る悪癖を辞めましょう。
貴方の基準は貴方にしか通用しません。
「相手のため」と口にしているのであれば
相手の基準に理解を示せる様な寛容性と
そこに至らしめる為の努力をしましょう。
自己優先、自分本位を支持したところで
得たい生き易さなどは
離別していくばかりですからね。
相手の基準へ
理解を示せ
互いの基準の隙間を
埋めるのではなく
縮める努力をするんや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
幸せは痛みを伴ったり
痛みを意識した先に存在します。
勉強等がその典型例ですね。
普段の学習という苦痛を乗り越えた先に
テストの結果を得られる訳です。
本来のスピリチュアルも同様で、
教わったものを使うという事や
使う努力をする事、
つまり、
自分から率先して動くという
「苦痛」を乗り越えた先に
「愉しみ」という幸せを
得る事が出来るのですね。
また、貧乏神と接した際の
苦痛も同様です。
嫌な思いという苦痛を得るから
同じ様にはなりたくないと
その苦痛を乗り越える様に努力する。
その先に幸せがあります。
貧乏神に近い存在へと
成りかかってしまった際も同様で、
そこから抜ける為の努力
とりわけ、俗欲の制御という業は
かなりの苦痛を伴います。
平穏無事な人が行う
俗欲の制御と比べると、
天と地ほどの差があるくらいの
相当な苦痛です。
その苦痛を乗り越えるから
想いというものを理解する事が出来る
幸せを得られるのです。
しかし、
その苦痛に屈服して楽を取った場合は
努力を途中で放棄するのと同意義ですから
幸せは手で掬った水の様に
零れてしまい、
そこに存在すらしていなかったかの様に
影も形も無くなります。
あにきと一緒に頑張ってきた皆さんなら
この意味が分かる筈ですよ。
仲良しなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
愉しみを愉しみとして
理解する事が出来る歓びというのは
誰もが味わう事が出来て
誰でも味わえるものではないのです。
「愉しむ」という権利そのものは
皆最初から持っています。
けれども、
「愉しみ」自体を取得するのは
貴方の努力次第なのですね。
目標や目的を定めて
そこへ向かって努力する。
その渦中に色々とある訳なのですが、
俗欲へと溺れてしまえば
手段が目的となってしまいますし、
努力を怠って他人任せや
他力本願に陥れば
やはり得られるものは乏しくなります。
愉しみを得るというのは
目的ではなくて
あくまでも「通過点」に過ぎません。
「副産物」と言っても善いです。
何かに向かって努力をしていく中で
俗欲などの「念」ではなくて
相手や人に対する「想い」という
触媒を使って自身を突き動かし
業を全うさせる。
その結果として、
得る事が出来るのが「愉しみ」です。
自分の独りよがりや
勝手な動きに溺れていては
到底得る事などは出来ない代物です。
優しくもあり厳しくもある
貴方自身が努力をして初めて
手にする事が出来る宝物
それが「愉しみ」。
誰もが味わえるけど
誰でも手に入るものではない。
業によって自然と選ばれる代物であり
選ぶのは誰でもない「貴方」ですけどね。
神だの仏だの
そういう存在が
選ぶのではなく
貴方の事は
貴方自身が
選ぶものなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
愉しみというのは
そこら辺に沢山転がっています。
気が付けるかどうかは
人によりますが、
数で言うと膨大なものです。
ですが、今までも話している通り
その「愉しみ」は
自分が「想いを」無碍にした瞬間に
綺麗さっぱり消えてしまいます。
人に併せるものでもなければ
自分だけが善くなろうと
するものでもなく、
「相手の意を汲む」
と、いう点が肝になるのですね。
一度失った愉しみは
二度と手に入る事はありません。
何度でも大丈夫と思いがちですが、
同じ愉しみは二度と手に入りません。
一生に一度なのですね。
その時間、その場での愉しみは一度きり。
類似した愉しみを
後に得る事は可能ですが、
その時に失った愉しみと
同じという事は絶対にありません。
あくまでも代替なのです。
かと言って、全ての愉しみを
手の内にするというのも
これまた無理な話となります。
ですから、
手にするチャンスを得たのならば
それを反故にする様な真似は
貴方にとって
確実なマイナスになる訳ですから
出来る限りしない方が良いのです。
そして、
反故にしたり無碍にしたりする時は
決まって貴方が
貴方自身の俗欲や駄目な自分を
優先させた時だというのを
忘れてはいけません。
念には念で
バッチリ
返ってくるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
これから話す事は
皆さんにとってしてみれば
もはや当たり前の事なので
何を今更と煩わしさすら
感じられるかも知れません。
何かしらの業の達成を目指す際に
目的を以て動き相手に対して
想いを抱えて行動をしていると思いますが、
この「想い」というものは
一方通行で決するものではありません。
出だしに関してはどうしても
片道となってしまいますが、
これは仕方ありませんね。
ですが、その後に達成となる際には
相手からの想いを受け止めて
初めて成り立ちます。
要は、相互通行でないと
達せないという事ですね。
この時に想いを動きに「載せる」事で
思い遣りを発生させ、
相手からの想いを受け取る事で
「愉しみ」が完遂します。
これらの総合的な事象が
「業(おこない)」
なのですね。
当たり前の事を当たり前に進める。
今回の話に関しても当たり前過ぎる話です。
ですから、
真新しさの欠片も無い話なので
飛ばしてもらっても結構ですよ。
こうして当たり前と思しき動きを
連綿と日々続けていると、
とりわけ日頃の業を始めとした
継続や努力というのは
とても地味な動きですから
何時しかその当たり前の意義や
意味を見失ってしまうんですね。
「想いは相互作用で成り立っている」
と、いう理解している筈の基本概念を
知らぬ間に忘れ始めてしまい、
それのみに留まらずあろうことか
「これだけ自分は想っているのに」
と、云う承認欲求を強く抱いたり、
「どうせ自分なんか」
と、自己憐憫に溺れてしまう様な事が
間々起きるものなのです。
想いの対局に位置していて
相互作用を引き起こしているのは
「念」です。
ですから、
前項で述べた様な状態となるのは
特段恥ずる事でもないですし、
必至な事象とも言えます。
かと言って、そのまま放置をして
反省をしないという選択肢は存在しないので、
ここで思考しないといけないのは
「何を忘れてしまったのか」という点です。
そう。貴方は想いも、
想いを載せる事もちゃんと覚えていた筈です。
ですが、その先の「紡ぐ」という
最終工程を忘れてしまっていたのですね。
想いは「送る」「受ける」だけでなく、
「紡ぐ」を行って初めて完遂となります。
想いを「糸」だと想像すれば分かり易いです。
一本の糸先を相手に渡し、今度は
その糸先を相手が貴方に持ってきてくれる。
そのままではただの返却となってしまうから
糸先を「結わいて紡ぐ」のです。
肝心なここの部分を忘れていたから
念に溺れてしまったりするのですね。
想いは紐で終わらすのではなく、
「結び糸」
に、しないといけないのですよ。
付き物なんやで
想いは紡いで
なんぼやからね
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
普段からの心掛けとして
「明日は我が身」
という言葉があります。
周りで何か起きた時に他人事だからと
楽観的に捉えずに、
自身の中にも危機感を
ちゃんと植え付けておきましょう。
と、いう様な意味合いの言葉です。
何事に於いてもこれは当て嵌まります。
自身の中の危機感というのは、
意識をしていない内はとても貧相なものです。
その貧相な危機感が故に
何某かの問題が発生した際、
自身の中で混乱を生じさせてしまい
正常な判断をする事が出来なくなります。
普段からの心掛けの中で
非常に重要な考え方の一つです。
何も考えずに他人事として
自身の中で処理をしていると
その災禍というのは、
いずれ必ず自身に降り掛かってきます。
それを回避させる為に、
「自身に対して置き換えて思考する」
という業が必要となります。
但し、ここで気を付けるべきは
決して同情ではないという点です。
自身に置き換えるのは、
あくまでも危機感であって
場面場面での感情や
気持ちの便乗ではないという事ですね。
それですと、心が硬直してしまって
思考停止をした時と同様に
行動が取れなくなってしまいます。
云うなれば、自己満足に過ぎません。
危機感を心に常駐させる事が
運気を上げたり、生活を向上させたり、
愉しみを増やしたりする為の
第一歩なのだと考える事が大切です。
運気アップとは
危機管理能力を
向上させること
なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
何かしらの問題や事案が発生して
それらの改善に向けて
あれやこれやと思案すると思います。
その過程の中で、
人にアドバイスを求めたり
物に力を求めたり
神仏霊魂へ救いを求めたりするのが
皆さんの動き方です。
ですが、この動き方を実行していても
思うように改善しないから
人は悩み苦労をします。
何故に改善へ進み難いのかと言うと、
「自ら歩みを止めてしまう」からです。
己以外の存在へと
助言を求めたりするのは善いのですが、
その際に手段と目的を
入れ違えてしまう事が問題なのです。
助言はあくまでも助言であり、
何をするにも先ずは
己が動く前提でなければいけません。
例えば、
罹患して病院へ行き
処置や薬を処方してもらうのも助言です。
改善が「目的」であって、
病院や医師は貴方にとっての「手段」です。
当然に処置や薬も「手段」です。
けれども、
いつしか診断が目的となってしまい
そこで歩みを止めてしまう。
ここでの「歩み」と、いうのは、
「思考」を含んだ業です。
つまり、思考停止が相まって他力本願となり
自分は動く事がなくなってしまう。
その結果、
改善には程遠いものへと変貌していく。
スピリチュアルや霊的なものに対して
自身の改善を求めていながらも、
一向に改善へと進まないのは
個々の歩みを止めてしまっているのが
ほぼ全ての原因だと僕は考えます。
そして、その歩みを止める因子が
教える側にある場合もあれば、
神秘性や奇跡を言い訳にして
自ら止めてしまう場合もあります。
それですと何も進みません。
どんな事象であっても改善に向ける為には
自分から動く事が基本となります。
そこには
自分を信じたり自分に打ち勝ったり
駄目な自分を認めたり、愉しみを得たりと
ありとあらゆる物事が必要となるのです。
何をするにしても、
改善を欲するのであれば思考停止をしない事。
己の歩みを決して止めない事。
その先に初めて
貴方の求める安らぎがありますからね。
周りの存在も
含まれるんやで