今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人に教える側に立った際に
優しさを履き違えると
とんでもない目に遭います。
優しさとは厳しさでもあります。
「相手のため」と、云う一心で
動きや言葉で示すものが
本来のスピリチュアルでの優しさです。
ですから、
単に聴こえの良い言葉ですとか
相手に合わせた動きですとか
よちよちいい子でちゅねー的な
動きや言葉は優しさとは言いません。
厳しい事を口にすると
毛嫌いされる風潮がありますが、
だったら何ですか。
「そんなものはクソ喰らえ」
と、云うくらいの考えの方が
確実に相手のためとして動けます。
ここで注意しないといけないのが
相手のためと言いながら、
「自分のため」という選択をする事です。
厳しい事を口に出来なかったり
自分自身に対して叱咤出来ない人というのは
決まってここで自分を取ります。
早い話が「楽を取る」という事です。
人に対して助言や苦言
それこそ叱咤激励をする場合、
以前にもお話をしましたが
教える側の心が痛みます。
この痛みは地味に響きますから
覚悟を以て耐え忍ばないといけません。
然しながら、この痛みに負けてしまって
あろう事か自分自身を取ってしまう。
相手のためと自分に言い聞かせながら、
その実は自身の楽を選択してしまう。
本来であればそういう場面でこそ、
自身が痛みを飲み込まなければ
「相手のため」と、いう奉仕の精神は
貫徹する事が出来ないのです。
厳しくする事で
「かわいそうだから」とか
「駄目になってしまうかも」とか
「倒れたらどうしよう」とか
これら総てが言い訳であり、
そういう思考の時の貴方の意識は
どちらに向いてらっしゃいますか。
本当に相手に向いてますか。
十中八九、自分自身へと向いている筈です。
そんな状態で折衷案や
間違った優しさを提示しようものなら
もっと大切にしなければならないものを
一生失う事に繋がりますからね。
相手のためを以て
苦しみから解放してあげたいのならば
まずは自身が覚悟を決めて死地へ赴く。
自分だけ安全な場所から
何をどういう風に指示しても
誰もまともになんぞ聴いてくれませんし、
バカしか生まれませんからね。
苦しみや苦悩の
共有を目指す
本当の意味での
楽というのは
苦痛の先にあるのを
理解せなあかんで


