皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
誰のために
何のために
普段から何度となくお話をしている
行動をする時の意識の置き場ですが、
分かってはいても自分の弱さや
駄目な自分が邪魔をしてしまって
上手く活用出来なかったりします。
例えば、
子供のためにも喧嘩をしないと
いけない場面なのに、
怖いと思ってしまったが故に
ハッキリとモノを言う事が出来なかったり。
波風を立てたくないと
思ってしまったが故に、
云うべき事実を言わずに終えてしまったり。
理想は全然違う筈なのに、
自分でも動き方が間違っていると
分かっているのに
自分の弱さや駄目な自分に
負けてしまって捻じ曲げてしまう。
そういう時に都合よく、
「逃げる事も大事」
みたいな言葉に救いを求めてしまう。
その結果、後々に訪れるのは
自己憐憫と自己嫌悪です。
貴方の事を何とも思っていない人や
他人事としか考えていない人は
上辺っ面の内容だけを示して
「逃げの一手」
「希望的逃避」
を、必ず勧めてきます。
そんなの仕方ないよ的な言い方で
話自体を理解したフリをしてみたり、
何も出来なかった事を差し置いて
「なんだって言うのよねぇ」みたいに、
相手の悪口を代弁してみたりするのです。
それらは誰のための動きですか。
何のための動きですか。
自分が本当に守りたかった相手に対して
胸を張って言える事ですか。
守りたかった相手に対して
泥を塗ったり突き飛ばしてるのと
同じではないですか。
大切な人を本気で護りたいのであれば、
仮に恐いなとか、嫌だなと思っても
自分の身勝手な心情を優先させずに
ぶつかる事や喧嘩する事も必要なんです。
端から見たらそれが非常識に映ったとしても
それで大切な存在を護る事が出来るのならば
別に構わないじゃないですか。
こういった精神を「義」と云います。
これに信用や信頼が入ると「信義」となり、
忠を尽くす心が入ると「忠義」となり、
理が合わさると「義理」となります。
そして、
相手のために義を尽くすことを
「奉仕の精神」と云うのです。
誰でもいいですが
大切な存在を護りたい、
護り抜きたいのであれば
口先だけの無粋な言動ではなく
自身の意志に属した堂々たる行動を以て
恥じぬ背中を視せるべきなのです。
見て見ぬ振りをせず
勇を用いて動きへ変える。
ひれ伏す前に藻掻き抗うことが出来るのも
自分自身の意志ですからね。
見て見ぬ振りをして
後出しする奴には
常識を崩さずに
正攻法で挑んでくる
相手だけなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
お盆休みが始まりました。
「さぁ連休だ」と
ウキウキの方も居れば
お構いなしにお仕事の方も居ますね。
世間的に長期休業などの期間というのは、
空気感が普段のそれと比べると
大きく様変わりします。
同時に、
高揚感か倦怠感かは別として
多かれ少なかれ
私達個々人の気分や心持ちも変化します。
ここで気を付けないといけないのが
「意識の方向」
「影響力」
この二点です。
普段以上にこのポイントについて
気を付けていないと
あっという間に流されてしまいます。
何に流されるのかと云うと、
「自分自身」or「自分を囲む周囲」です。
愉しかったり浮かれたりしていると
その気分が自分自身を支配します。
これが「内側の影響力」です。
他者からではなく、自身の高揚感などが
発生元となる影響力で
当然に自身発で
周囲に影響を与える力なのですが、
ここで意識の方向が内側へ向き過ぎていると、
本来であれば
周囲に与える筈の影響力が
内側のベクトルに変化してしまい、
自身の中で蓄積する様になります。
その結果何が起きるのかと云うと
「思考的視野狭窄」です。
冷静さを欠いてしまうので、
所謂、「視ている様で視ていない」や
「瞬発力のある判断が出来ない」等の
怠惰な行動が増していきます。
この時に本人には自覚がありませんから、
集中力の欠如やケアレスミスが多発します。
ヒヤリハット的な
単なるミスで済めばいいですが、
日常に落とし込むとそうもいかなくて
交通違反や怪我、業務上でのミスなど
手痛い失敗が起こり得ます。
逆に、
つまらないとか愉しくないなどの
気分の場合でも自分自身を支配します。
その場合、
意識の方向が外側へ向き過ぎていると
もらい事故的な物事が起きたり、
嫌な存在に纏わり付かれたりなど、
周囲の面倒事や念を基軸とした存在を
自ら呼び寄せて影響を受けてしまいます。
ここでの注意点としては、
正しい業を行っている人ほど
この状況になり易いという点です。
愉しく浮かれている時というのは
意識の方向が自然と外側へ働きます。
なので、冷静さを得る為にはその逆側の
内側へ意識の方向をシフトします。
つまらなかったり無力的な時というのは
意識の方向が自然と内側へ働きます。
ですから、冷静さを得る為にはその逆側の
外側へと意識の方向をシフトさせます。
先述した状態を見て頂くと分かるのですが、
動き方としては正しい動きをしているのです。
では、何がいけないのかという点ですが、
内側だろうと外側だろうと
「向き過ぎてしまう」
と、いうのが問題なのですね。
何故向き過ぎるのか。
ここで出てくるのが周囲からの影響力です。
自身の影響力に周囲の影響力がプラスされます。
更に、
大衆イベント的な環境が重なる訳ですから
周囲の影響力が普段よりも強くなります。
ですので、
普段から正しい業をされている方の場合、
平常通りの状態ですと
それだけで影響力が過加算となるのですね。
結果、「向き過ぎる」という状態に陥ります。
いつも通りの事をやるにしても
周囲の状況を見定めて加減をする。
こう云った状況把握をする事も
本来のスピリチュアルでは教えていますね。
いつも同じなどという事は有り得ない
というのを今一度胸に叩き込まないと、
つまらない結果を
自身で招く事になりかねませんよ。
普段から業が出来ているのは
大いに結構ですが
状況把握が
伴わないと
簡単にダメージを
喰らってしまうんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人に教える側に立った際に
優しさを履き違えると
とんでもない目に遭います。
優しさとは厳しさでもあります。
「相手のため」と、云う一心で
動きや言葉で示すものが
本来のスピリチュアルでの優しさです。
ですから、
単に聴こえの良い言葉ですとか
相手に合わせた動きですとか
よちよちいい子でちゅねー的な
動きや言葉は優しさとは言いません。
厳しい事を口にすると
毛嫌いされる風潮がありますが、
だったら何ですか。
「そんなものはクソ喰らえ」
と、云うくらいの考えの方が
確実に相手のためとして動けます。
ここで注意しないといけないのが
相手のためと言いながら、
「自分のため」という選択をする事です。
厳しい事を口に出来なかったり
自分自身に対して叱咤出来ない人というのは
決まってここで自分を取ります。
早い話が「楽を取る」という事です。
人に対して助言や苦言
それこそ叱咤激励をする場合、
以前にもお話をしましたが
教える側の心が痛みます。
この痛みは地味に響きますから
覚悟を以て耐え忍ばないといけません。
然しながら、この痛みに負けてしまって
あろう事か自分自身を取ってしまう。
相手のためと自分に言い聞かせながら、
その実は自身の楽を選択してしまう。
本来であればそういう場面でこそ、
自身が痛みを飲み込まなければ
「相手のため」と、いう奉仕の精神は
貫徹する事が出来ないのです。
厳しくする事で
「かわいそうだから」とか
「駄目になってしまうかも」とか
「倒れたらどうしよう」とか
これら総てが言い訳であり、
そういう思考の時の貴方の意識は
どちらに向いてらっしゃいますか。
本当に相手に向いてますか。
十中八九、自分自身へと向いている筈です。
そんな状態で折衷案や
間違った優しさを提示しようものなら
もっと大切にしなければならないものを
一生失う事に繋がりますからね。
相手のためを以て
苦しみから解放してあげたいのならば
まずは自身が覚悟を決めて死地へ赴く。
自分だけ安全な場所から
何をどういう風に指示しても
誰もまともになんぞ聴いてくれませんし、
バカしか生まれませんからね。
楽の共感よりも
苦しみや苦悩の
共有を目指す
本当の意味での
楽というのは
苦痛の先にあるのを
理解せなあかんで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
別に僕みたいな存在で無くとも
人から何かしらの助言を
求められる事はあると思います。
その時に、
意識がどちらへ向いているか。
完全に相手なのか
一部のみ相手なのか
全て自分なのか
こういった意識の方向を考えて
助言というものは行われます。
また、その際に聞く側も同様でして
意識の方向はどこへ向いているのか。
上記と同じ問い掛けをする事が
大切になってきます。
助言をする側も聴く側も
意識の方向が自分自身へと向いていれば
助言の中身は薄っぺらくなりますし、
聞く姿勢も整わなくなります。
何故かと云うと、お互いがお互いにとって
都合の良い内容であり、都合の良い解釈を
連綿と続ける事になるからです。
所謂、綺麗事のオンパレードです。
当り障りの無い内容や
痛みの生じぬ薄愛な言葉の綴りです。
相手のためを想えば想うほど、
厳しい事実も口にする事が出来ます。
但し、そこには想いが存在するので、
相手にとってなるべく傷が浅くなる様に
気配りや気遣いは必ず行います。
言葉のチョイスというやつです。
例えるなら、手術みたいなものです。
切開をしないと治せないにしても、
最小限度の傷口で治めようとしますよね。
肉体の中にある傷付いた幽体を整える為に、
言葉を用いて響かせないといけません。
なのに、その言葉で傷の上塗りを
させる訳にはいきませんからね。
そこで、
今一度気に留めてほしいのですが、
厳しい事を口にするというのは
「決して伊達や粋狂でやっている訳ではない」
と、いう点です。
まして、相手のためを考えていれば、
助言する側が痛みを感じずに遊び半分や
余興程度で考えて出来るものではないのです。
相手の辛さや苦しさを
真剣に捉えれば捉える程、
相手に対して真摯に向き合えば向き合うほど、
助言する側の痛みは指数関数的に増加します。
しかし、その痛みは必定的なものとして
相手の辛さを分かち合える為の痛みとして
心内に留めながらお話をする訳ですね。
これは意識の方向をちゃんと相手に対して
定めている人であれば、
誰だって同じだと僕は考えます。
聴く側となった際にこれと同じベクトルで
聴く事が出来る人であれば、
何の疑いも懐疑もする事無く今この瞬間に
理解する事が出来る筈です。
教える側の抱えている内なる痛みを理解せずに
自身の痛みだけに溺れている様な人は、
恐らく一生、死んだ後でも本当の意味での
思い遣りというものを実感する事は難しいです。
相手に与えるとなれば皆無でしょうね。
気張ってやるけど
何度話しても
無理なのであれば
切るしかないんやで
身が持たんさかい
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
本来のスピリチュアルで云うところの
視線や視野、視点というのは
教わって直ぐにとか
ふと思い立ったからと言って
簡単に構築出来るものではありません。
日頃の生活の中で使っているからこそ
その身に沁み込んでいくものです。
では、どういった場面や部分で
その感覚をやしなっていくのかと云うと。
まずは、視線や視野や視点自体に
気が付く為の基礎を作る必要があります。
その基礎というのは、
主に動きの中に隠れています。
どういった動きに注力するのかというと、
「無意識」です。
無意識という動きは
僕らの日常の中に溢れています。
普段はあまり考えないと思いますが、
日常の生活というのは
実は無意識の動きの方が多いです。
歩く、立つ、座る、寝る、
見る、聞く、嗅ぐ、食べる、触る
これらの混合動作であり
連動した動きでもあり、
明確な動作があるにも関わらず
それらを軽視したり
失念したりする動きや思考、
それが無意識というものであり
無意識を纏う動きです。
例えば、歩くというのは
そこに明確な動作がありますよね。
脚を上げる、踏む、踏みつける、
支える、腕を振る等です。
かなりの混同動作であり連動動作ですが
いちいちそれを考える事はないものです。
その考える事の無い部分に対して
意図的に意識を向けます。
自分が今何をしていて、
どういう動きをしているのか。
どこをどう動かして、
どういう力加減でどんな感覚なのか。
それを得るのです。
ここで注意しないといけないのは、
「自身のみが分かれば良い」
で、終わらせない事です。
自分の向けた意識から得た感覚を
他者にも伝えられる様に文言化させます。
紙に書くとかではなく、
ましてや、纏め抜いている作文でもなく
ある程度の説明が可能になるレベルでの
文言化を自身の中で行います。
ここをやるのとやらないのでは
その後の結果に大きな差が生まれます。
単に自分の中での理解のみで
終わらそうとしてしまうと、
記憶に遺す割合が減ってしまいます。
要は効率が悪くなるのですね。
また、他者に伝えようとするにしても
纏まった文章や作文として思考すると
今度は綺麗に見せたいという
余計な考えが浮かんできます。
そうすると事実との乖離が発生します。
これではやはり効率が悪いですし、
そもそも目的から逸脱してしまいます。
そして、
なるべく分かり易い文言で
オノマトペの類に甘えすぎずに
比喩や例えを交えながらも簡潔にさせる。
物凄く煩わしさを覚えると思いますが、
これらには自分本位を制御させる為の
意味合いが入っているのです。
どんなに無意識に対して意識を向けても
自分本位に流されてしまえば
動きの意味など消失します。
どんな場面でも必ず出てくるのが
自分本位というものなのですから、
それを認めずして感覚を掴んだり
視野を構築するなど不可能に近いのですね。
こういう地味な動きを日頃の生活へ組み込み
実践して使っていく事で、
見えていなかった事が視える様な視野を
作れる様になっていくのです。
方向に
視界を向けるのが
運気アップには
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
考えや動きがあって言葉は連動します。
そこに通ずる意味は
読んで字の如しなのですが、
本質的な意味となると
事後に考えなければ
理解へと繋がる事は皆無です。
「待つ」という言葉があります。
これを「動かない」「何もしない」と
捉える方が多いです。
言語的な意味合いとしてはその通りですからね。
しかし、
本来のスピリチュアルで述べると
そこの解釈は誤りで、
待つというのは
「動きの中の選択肢の一つ」であり、
「動いた後の業の一つ」となります。
何もしないのではなく
待機という名の「動き」の最中に居る状態です。
そして、
何かしらの動きを以った後での業であり
正に実行中である動きの一つなのですね。
動いていないという動き。
これを言葉通りに受け止めてしまうと、
今まさに自分が動いていると認識出来ずに
動きたいけど抑えているという
「抑制」へと思考が働いてしまいます。
すると、動きたいという願望や
待っていられないという欲求が強くなり
待たなくても良い様な理由や
身勝手な言い訳を思考し始めます。
こうして、己の中で自分本位が芽吹いていき
極短時間で「何の為」という目的を見失う。
同時に、待たなくていい為の手段を
目的とする事によって
自己正当化へと繋げてしまうのですね。
自己を正当化した後に待ち受けているのは
業の不履行による信頼の失墜のみです。
これが「自に堕ちる」状態であり、
「堕落」と言います。
常日頃から話している通り
考え方や動きは多元的に捉えるべきものです。
これはそのまま言葉にも当て嵌まります。
言葉というのは考えや動きを助長し
補完するものなのですから当然の形ですし、
その流れから会話という業へも繋がります。
意識の方向を「外側」へ向ける時に
多元的な視点を持つのであれば、
意識の方向を「内側」へ向ける際も
多元的な視点を心得なくてはなりません。
相互作用の存在を失念したその隙を
自分本位は突いてきますからね。
感じ取れる様に
なってくると
真面目ではなく
真摯に向き合うの意味が
スッと入る様に
なるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
きつい事や辛い事、
殊更、自分自身が
やらかしてしまった時など
意識の方向は内側へと傾きます。
自分本位の発動です。
そうなってしまうと
外界の情報を遮断してしまうので、
自身の中では
同じ情報が更新をされずに
単一のまま巡り繰り返されます。
この繰返しの中では積極性思考よりも
消極性思考の優先度が上がります。
繰返し過程での思考内の事実は
最新の内容へと更新が出来ませんから、
「事実」から「想像」へと
変化していきます。
そこでは、消極性思考が積極性思考より
優先される状態となっていますから、
「想像」へと変化した内容に
自分本位の要素である、
「都合の良い解釈」が加わります。
すると、想像は完全に自己完結する
異形となりますので「妄想」へと変わります。
この妄想への変化を
「肥大化」と言います。
意識の方向を認識していない状態で
肥大化を起こしてしまうと
自己解決は非常に困難なものとなります。
内側へ向き過ぎた意識を
外側へと向ける為には、
少なからず外界の協力が必要になります。
つまり、「周りの協力が必須」という事です。
ここで述べている「周り」とは、
人限定ではなく「存在」を指します。
動物かも知れませんし、植物かも知れません。
自然霊や補助霊などを始めとした
視えない存在かも知れません。
それら「周りの存在」の協力を経た上で、
意識の方向が外側へと向く事が出来れば
肥大化から脱する事が可能となります。
人で気が付ければ一番早いですが、
必ずしもそこに協力者が居るとも限りませんし
塞込んで人をシャットアウトしている
場合も多々あります。
そうなってしまった際に、
その他の存在が手助けをしてくれます。
動きやイメージ、音、縷々様々な方法で。
その些細な変化や動態に気が付ければ
意識が外側へ向くきっかけとなって、
脱肥大化が始まります。
これが「最速最短の事後」です。
肥大化は誰にでも起こりますし、
決して気分の善いものでもありません。
そして、脱肥大化をする為には、
多かれ少なかれ「気付き」が必要です。
自身が気が付こうにも、
気が付く為には感覚の手触りが必要です。
これが「五感の強化」です。
その感覚というのは、
普段から使ってその手触りを認識していないと
使おうと思って使えるものでもありません。
なので、日頃から五感を研ぎ澄まして
感覚を養う事が鍵となってくるのですね。
五感を軽視するのは
気付きを得る上で
本当に愚の骨頂
事実は動きを経て
事後となり
それは五感で
感じ取るんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
良かれと思って何かの動きを執った際に
自分の思っていた事とは
真反対の結果となってしまった。
と、いう経験があると思います。
何も学ばない人は、
こういった動きをした時、
一体自分の何が駄目だったのかを考えずに
「自分は悪くない」
「良い事をしたのに」
「悪気はない」
と、云う様な
「言い訳」を主軸に考えます。
それ故に、物事の本質へは届かないので
同じ過ちを繰り返すのです。
反して、事実を学べる人は、
こういった動きをした時
「自分が何を目的に動いていたのか」
「誰のために動いていたのか」
「動くに至った根拠は何か」
と、云う様な
「意識の方向」を主軸に考えます。
それ故に、
口先では「相手のため」と言いながらも
その実では、自分の俗欲や自尊心を
満たすためだけに動いていたという
「行動の本質」へと辿り着くので、
同じ過ちを繰り返さないための
対策を練る方向へと舵を切ります。
どんなに善い事だと自分が思っていても
ちゃんと相手の目線に立たなければ、
ただの迷惑であり
余計なお世話に過ぎません。
その行動原理は先述した通り
意識の方向が内側へと
向き過ぎている為に起こる
俗欲の表現型です。
承認欲求や自己顕示欲ですね。
また、単に俗欲の制御が効かずに
自分本位依存となってしまっている
という様なケースもあります。
この場合ですと、
「自分の考える事は正しいに違いない」
「自分の考える事と皆同じに違いない」
と、云った具合の思考形成となる上、
自身が執った行動は「思い遣り」であると
信じて已まない状態ですので、
仮に正論と呼ばれる促しを行っても
逆に激高したり、話そのものに対して
一切聞く耳を持たなくなります。
どうしてこの様な事が起こるのか。
自分本位に依存しているが故の結果
ではあるのですが、
「思い遣り」という業に対する
認識違いが原因と捉えます。
自分本位依存状態となると、
思い遣りというのは
「(相手に)先んじて行うもの」
と、いう認識となります。
例えば、
相手がやる前に
自分がやってあげるのだから
相手はやらなくて良いわけだし
喜ぶに違いない
であり、意思に関しても
「自分の意思=相手の意思」
という形となります。
ですが、本来のスピリチュアルに於ける
思い遣りというのは
「相手を尊重した上での自身の行為」
でしかありませんから、
「自分の意思≠相手の意思」であると
理解して勝手な行動は慎みます。
つまり、自身が動く事による
相手へ与える影響度合いの「予測」が
思い遣りの根幹であるのだと認識しますので、
必ずしも「先んじた行為」とは
ならないのですね。
もし、貴方が「良かれやらかし」を
してしまいがちならば
一旦立ち止まれる様にする為に、
何をする時でも自身の行動は
「誰のため」「何のため」であるのかを、
常に考える様に努力して下さい。
遠回りで面倒に思えるかも知れませんが、
これが一番効果的です。
何故なら、
その時に止まろうと思っても
止まれないから
やらかしている訳ですし。
悪癖を矯正するには
より強力な癖で上書きする方法が
特効薬なのですよ。
していかないと
その先には
進めないんや
急がば回れやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人の話をよく聴く。
人との会話をする時
人から何かを教わる時
よく聴くという基本的な所作が
とても大切になってくるのですが、
「よく聴く」を実践しながら若しくは
実践した後に行う
「よく考える」
という所作も忘れてはいけません。
人の話を聴いている時、聴いたあと、
理解する努力をするのか
理解したと自分に言い聞かせるのか
「よく考える」という業は、
ここで差が視えます。
理解したと自分に言い聞かせてしまう人は
「言語的な理解」と「本質的な理解」を
一緒くたに捉えてしまう癖があります。
例えば、何かを教えてもらった際に、
「分かりました」
または
「分かります」「確かに」
と、条件反射的な反応で
答えてしまう事が多いです。
これとは別に
理解する努力が出来る人は、
言語的な理解と「本質的な理解」を
分けて考える伝える事が出来ます。
どういう事かと言うと
例えば、何かを教えてもらった際に
「分かりました」
ではなくて
「言葉については分かりました。
ですが、内容については分かりません。」
みたいな感じで、何が分かっていて
何が分からないのかという様な
修飾を口に出して上手に使います。
本来、話をしている最中ましてや
何かを教示してもらっている時というのは、
原則として自身の知らない事や
自身の中で不明瞭な部分の解説となります。
つまり、言葉や知識の海を
処女航海している様なものです。
早い話が未知でよく分からない状態。
けれども、話している言語は理解が出来る。
皆さんは日本人だから日本語話者でしょ。
日本語で話をしてもらっているのですから
そこで使われている「言葉」は
多かれ少なかれ即時理解が出来ますよね。
これが「言語的な理解」です。
この言語的な理解と、
話の本質的な理解というのを
その場でイコールとさせるには、
土台となるそれ相応の知識が必要です。
つまり、知らぬ状態の話を聴きながら
本質まで理解を示すのは
現実的にほぼ無理という事なのです。
但し、その補完材料として話者による
話し方や解説の上手さが存在します。
この場合、それを理解していて
相手のためを考えてくれる話者であれば
思考停止を防ぐ為に、
「今の今、理解しなくても大丈夫ですよ」
「分からなかったら質問をどうぞ」
みたいな事を、必ず諭してくれます。
これら上述した両者の差となるのが、
「想念のベクトル」であり
「意識の方向」です。
意識の方向が自身に向いていれば
「認められたい」
「負けたくない」
などの、承認欲求や自己顕示欲の類が
強く出てしまうので、
「理解をしたと
自分へ言い聞かせる動き」をします。
同時に思考停止もしますし、
分かりもしないのに背伸びした結果
自ら質問をする機会すら手離す事になります。
反対に、意識の方向が相手に向いていれば、
「ちゃんと答えたい」
「もっと詳しく知りたい」
「もっと教えてほしい」
と云った具合に、
自身が今相手と何をしているのか
その行為に対して真摯に向き合って
粗相の起きない様な心情を働かせます。
要は、相手目線を仮想した共感を求めるので、
細かく丁寧な言い回しをする様になるのです。
この様に、問答一つで
相手や自身の「意識の方向」をチェックする。
「何が」分かっていて
「何が」分からないのか
会話という日頃の業に直結する所作の中で
互いに見極めたり、気付いたり、
気付かせてあげる事が出来るのが
本来のスピリチュアルであり、
そして、
あくまでも現実的で実戦型である
と、云うのも忘れてはいけません。
楽に溺れるのが
どういう意味かを
思い返して
考えてみてや。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
怒り酔いをしている時や
哀しく落ち込んでいる時、
とにかく自分の中で気持ちが
グルグルしてしまっている時など
色々な理由で
気分が混濁する事があります。
そういった際の切り替え方や
直し方で非常に優れものなのが
「大切な人を想う」
と、いうものです。
これは意識の方向を切り替えるのが
目的となっているもので、
内側へと向き過ぎている意識の方向を
極力外側へと推し向ける事を指します。
意識の方向はその状況に応じて
内側にも外側にも向ける必要があります。
どちらに偏り過ぎても宜しくなくて、
結果として「視野狭窄」が発生します。
そうなってしまうと思考が鈍重となり
いずれは思考停止状態へと沈み込みます。
その渦中で起きているのが、
先述した怒り酔いですとか
過剰な落ち込みですとか、
頭の中がグルグルみたいなやつです。
こうした際に
大切な人を想う事で意識の方向と
その時点で重きを置いている
「意識の場所」が変わります。
その上で感情が荒れた原因を
しっかりと見つめるのが解決への道筋です。
例えば、車を運転している時を
思い出してみて下さい。
前の車が遅いとか
急な割込みとか
サクサクと進まない際に
イラっとする事がありますよね。
車の運転でなくても
レジ待ちですとか何かの列や順番に
並んで待っている際など、
些細な事でイラつく事があると思います。
そうした時というのが、
内側に意識が向き過ぎている時です。
自分が自分がと、
己の事しか考えられていない。
つまり、自分本位状態です。
こういう時に大切な人を想う。
何もわざわざその場で怒りをぶつけなくても
哀しみに落ち過ぎなくても
意識を混濁し過ぎなくても
良いという事に気が付くはずです。
サラッと意識の方向を転換させて
気持ちを切り替える。
普段から気持ちの制御や俗欲の制御を
意識している皆さんならばこそやれる
実戦でのメンタルコントロールです。
これは業ですから、
そこら辺の人が見様見真似で
実際に出来る様な代物ではなく
あにきの話がある程度理解出来る人限定の
上級編にはなりますが、
これまでの努力が形と成る
分かり易い業でもあります。
「抑える」のではなく「切り替える」
貴方が今まで出来なかった事ですよね。
実際には既に
出来てる事なんやで