2026年1月28日水曜日

杠ノ様ニ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




何かを教え、何かを教わる。

普段の生活の中、縷々様々な場面で
教えたり教わったりが
繰り広げられています。

学校や習い事だけでなく、
家庭での育児などもその内の一つですね。

教える側というのは、
教わる側やその相手に対しどうしても

「理解をさせようとしたり」
「分かってもらおうとしたり」

その思考が、
さも当然の如く働いてしまいがちです。

ですが、実際は理解をさせるというのは
ナンセンスでしかないのが事実です。

教える側の目的はあくまでも「教示」であり
教わる側の目的は「享受」です。

理解をするしないというのは、
教える側の目的でもなければ
教わる側の目的でもなくて、

1つの「結果」に過ぎません。




理解をするしないというのは、
その途中に存在する経過の一つであり
個々人に委ねられた結果でしかないのです。

そこを闇雲に教える側が
理解をさせようとしたところで、

個々人に対する無理を誘発させますから
致命的なskilloutを生じさせてしまいます。

skilloutとは
"堕情"や"没落"や"惰願"を意味します。

個々人の能力は
個人力という形で表現出来ますが、
その中には認知力や理解力と云った

「基礎認識能力」も含まれています。

この能力値は個人により差があり、
決して一定値というものではありません。

ですから、教える側というのは、
教わる側に於ける個々人の能力値を
適宜把握した上で、教示する必要があります。

然しながら、それは個人間であっても
現実的な対応とは言い難いものです。

何故なら、どの様な物事に於いても
教える側と教わる側の適用比率に
極端な差があるからですね。

簡単に云うと、
「付きっ切りとか無理だしw」って話です。




教える側は教示に徹し、教わる側は享受に徹す。

その経過の中で生じる理解というのは
個々人へ委ねて見守る。

それでも理解へ向けて
教える側に出来る事と云うなれば、
考え方そのものの教示する事であり

その他で遣れる事など
皆無に等しいのが現実です。

そして、享受へ向けた
きっかけとしての教示を導じたなら、
教わる側へ信任して教示の一線からは退く。

これは1つ1つのカテゴリー内に至っても
何ら変わらないです。

人は甘え楽をしようとする生き物です。
過度な教示は怠惰を招き、
いずれ堕落へと転じさせます。

それは目的とは程遠い結果であり、
決して選択してはならない罪の一つです。

教示を済ませたならば

「信じ 任せ 委ね 退く」

育てたいのであれば手を出さずに
潔く身を退く事が思い遣りとなるのです。

全力での対応も
細かな後押しも
やり過ぎたら
意味が無いんや
硬軟織交は
教える側自身にも
適用するんやで