今回は動き方について
お話をしたいと思います。
駄目な自分を認める事が
何よりも大切な事なのですよと
前々からお話をしています。
その際に、駄目な自分を
抑えようとする事は
「愚行」
とも、お話をしています。
物事を抑えようとすると
どうなりますか。
違った要らぬところが出てくるか。
大切な所が凹みます。
そして、抑えられている部分は
必ず反発をして
元に戻ろうとするのです。
この戻ろうとする時の力は、
それまで必死に抑えていた分の力量を
多分に含んでいますから、
今度は抑えられなくなって
飲み込まれてしまうか、
その力によって破壊に繋がるか。
どちらにしても、善い結果など
生まれる事はありません。
それなら、
駄目な自分を認めてしまう方が良い。
認めた上で「これも自分だよな」と、
笑い飛ばしてしまった方が
自身への負担は少ないものとなるのです。
これが「首輪を付ける」と、いうやつです。
どんなに毛嫌いしても
駄目な自分だって「自分」なのですから、
出てくるものですし、
出てこようとするものなのですよ。
そんな自分を毛嫌いして、
ましてや消そうと考えるなど
善い部分だけを欲しているという事ですから
それは立派な俗欲ですよ。
しかも、かなり強力なやつです。
善い部分だけを見せたり欲したりするなら
表裏一体の原則を無視するという事ですから
貧乏神へと堕ちて
人間らしさを捨てるしか方法がありません。
烏滸がましい話ですね。
駄目な自分を出したくないのであれば、
駄目な自分を「飼い慣らす」のです。
無理に抑え込んで
「出て来るな」
と、やればやるほど出たくなる。
そうではなくて、
「今は出ないでね」
と、優しく諭してあげる。
その為には、どこかで駄目な自分を
表に出してあげる事だって必要になります。
限られた場面にはなるけれども
ちゃんと表に出してあげてれば、
駄目な自分が出てほしくない場面で
言う事を聞かせる事は可能です。
駄目な自分を毛嫌いするから
善い自分すらも表に出せなくなるのです。
物事の判別を「善悪二択」で考える愚行。
善悪二択しかないと思っている陳腐さ。
同じ事を幾度も教えてもらっているのに
胸の内へ落とせない自身の低い素直さが
何よりもの根源だとも気が付かない浅はかさ。
だから、
分からない事を分からないと聞けずに
分かった振りをして済まそうとする。
何が分かって、何が分からないのかを
素直に尋ねる様にする事が
駄目な自分を認める最初の一歩ですからね。
認めずに
抑えたいなら
やってみればええ
やってみればええ
確実に痛い目を見る
だけやさかい



