今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自分の時間を設けるという事は
相手の時間についても
設けてあげるという事です。
同一の時間という事もあれば
自分の時間を
設けさせてもらえたのだから
相手にも時間を設けてあげる
という意味です。
日頃の生活の中で
家族の中で
こういった時間の必要性を
無視してしまう動きがあります。
自分の時間というのは、
必ずしも纏まった時間という事も無く
自身の状況や場合によっては
ほんの数分や数十分の寄り道でも
自分の時間に相当します。
例えば、僕で言うと
買い物の行き帰りの間の数十分が
毎日に於ける
貴重な自分の時間の一つです。
それとは別に存在する自分の時間。
これは余暇とか休暇とか
それ相応に纏まった時間を指します。
短時間であろうが長時間であろうが
自身で工夫をしなければ
設ける事は難しいです。
と、同時にその時間というのは
「設けさせてもらっている時間」
である事を忘れてはいけません。
なので、自身以外の相手
例えば、家族とか大切な人とかですね
そういう人達の自分の時間も
設けさせてあげる。
これが本来のスピリチュアルに於ける
奉仕の精神の考えです。
では、普段の生活ではどうでしょうか。
ほんの少し時間を使っただけで
「何処に行った」だの
「何をしている」だの
さも、自身が管理をしているかの如く
言われてしまう事とか無いですか。
そういう経験をされている方は
その台詞を吐いている相手を
よく視てみましょう。
大抵の場合、その相手は
自分の時間を好き勝手に満喫しています。
リアルタイムで苦言を口にする人も
帰宅後などに苦言を口にする人も、
苦言は口にしなくても
さも忙しそうにしたり
辛そうにしていたりと、態度で表わす人も
全て同罪となります。
何の罪なのか。
向こうの世界の八罪に於ける
「他への辱め」と「信に徹さない」です。
そういう方々は
自分の時間を設けてもらっておいて
相手の時間を設けようとしない。
大きな場面だけを見て
小さい場面を考慮していない。
普段自分が好きに出来るのは
相手の考慮と動きによる結果だというのを
立場を使って軽視してしまっている。
自分が「自分の時間」を設けられるなら
相手にも同等クラスの「自分の時間」を
快く設けてもらう。
幾ら体裁だけを繕って
それっぽく見せていても、
こういう信に基いた
「思い遣り」を実施出来なければ
いずれは自分本位が勝っていき
貧乏神へと堕落するだけですからね。
動きも含めた
思い遣りの
カタチなんやで



