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2026年7月5日日曜日

幸せを掴む(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




皆さん毎日の生活を頑張りながら
一生懸命に努力されていると思いますが、

一体何が幸せで、
そもそも幸せと云うのは何なのか。

と、考えた事が一度くらいは
あるのではないでしょうか。

「幸せ」と云うものは
個人単位でも変わりますし、
その個人の集まりたる社会によっても
大きく変わってきます。

例に挙げると、
マクロな目線で云えば
我が国と他国の幸せって違いますよね。

ミクロになると、
貴方と隣人の幸せも違いますよね。

それらがある種の目的や目標、
何かしらの一致点が発生した時に
共通認識としての「幸せ」へと変わります。

つまり、幸せというのは
基本的には「個人単位」という事なのです。

貴方が「幸せ」だと
認識している物事やその実感があったとしても

その認識がそっくりそのまま貴方以外の人に
無条件で通用する事は決してありません。

何かしらの条件が重なった場合にのみ、
幸せの共感が作用するのです。

お金かも知れないし、仕事かも知れないし、
好きという感情かも知れないし、
単に社会的地位かも知れないし、
通念上の価値観かも知れないし。

通念上の価値観というのは、
「みんながやっているから幸せ」みたいな
自己の認識よりも
他者の認識に合わせる価値観の事です。

パートナー(彼、彼女、夫、妻)が居るとか
人より早く結婚して見下したいとか、
同様に負けたくないとか、見返したいとか、

宗教観的な価値観や各種団体的な価値観、
日本代表を応援する的なあの感覚。
一部の人間にしか通用しないアレです。

これらが通念上の価値観です。

この様に幸せの条件など
何がどこで作用するのかなんて
全く理解出来るものでもないのです。




つまり、
幸せと云うのは自身で検討決断して
「自律的共感」をすることは是だとしても、

他者の押し付けによる「他決的共有」では有得ない。
と、いう事になります。

幸せのサイズの大小を問わず、
如何に自分自身の判断で
その幸せの本質を理解する事が出来るか。

他者の助言や導きは「きっかけ」として
得る事はあったとしても、
自身の意志による取捨選択が出来るか。

自己意思の介在しない幸福は、
「幸せ」ではない。と、認識出来るかどうか。

言い換えればですが、
そこに自己意思が介在しているならば
全てが「幸せ足り得る」と、云う事になります。

これがどういう事かと云うと
例えば、

貴方は「貧乏神になる事は幸せではない」と、
考えていたとしても、
貧乏神の人は自己意思を介在させて
そうなっているのですから

「貧乏神である事こそが幸せである」
と、考える方が自然なのですね。

現世へ生れ落ちる大義の云々は別として、
自己意思での選択結果がその道であるならば

その志を尊重するのもまた
想いの行使であり奉仕の精神の一つとなるのです。

仮に貴方が努力をして、
友人知人や家族等の相手に対して
貧乏神への道を絶たせようとしたところで、
その相手が自己意志を介して拒絶の選択をしたら

それが相手にとっての「幸せ」に過ぎないのです。

意思表示した先に於ける貴方側の問答などは、
全て想いの行使ではなく「押し付け」です。
早い話が、余計なお世話なのですね。

貴方が現世を一生懸命に生きて浄土を目指すのは、
浄土に向かう事が貴方にとっての幸せに過ぎず、

貧乏神にとっては地獄へ赴く事が幸せなのです。

ならば、
努力の結果として無力だったのであれば
押し付けでは無く引導や餞別を渡してあげる事が、
奉仕の精神の完遂に結び付くのですね。

これは非常に苦しい選択ですが、
想いの行使はどんな場合でも痛みが伴います。

「想い」や「慈しみ」とは、
相手が素直に受け取っていて初めて機能する代物です。

そこを誤認しないように織り進めていくのが
本来のスピリチュアルのなのですから。

大義に於ける
善し悪しではなく
個々に於ける
自己意志を視る
幸せの種別を
最終的に決めるのは
その人なんやで

2026年6月27日土曜日

決して楽にはなれぬ現実(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




悪霊と云う存在がいます。
死してなお俗欲に執着を
続ける存在の総称になるのですが、

この悪霊とは、
どの様にして生まれるのでしょうか。

端的に云うと、
何かしらの執着を切り離せない場合に
死後悪霊と化します。

生への執着かも知れませんし、
やりたい事への執着かも知れません。

単に生前の思考を
肉体が無い状態で続けようとする執着
と、いう場合もあります。

強い恨みなどで悪霊化してしまう様な
ケースもあります。

この「恨み」という部分は、
言い難いのですが殺害されてしまった等の
悲しいケースも含まれます。

ただ、
1つ誤解の無い様にして頂きたいのは、

「悲惨な死を遂げたからと言って
必ず悪霊と化す訳ではない」

と、いう点です。

悪霊と化すのは俗欲への執着が基本です。
仮に悲しくも
非業の死を遂げてしまったとして

亡くなった方がどんな形でも
それを受入れているのであれば、
悪霊と化す事は無いのです。




寧ろ、俗欲への執着という点で云うならば、
手を下した人間の方が悪霊化し易いです。
何故ならば、俗欲に溺れた結果
手を下した訳ですからね。

また、恨みの連鎖や負の螺旋という
影響力が働きますから、
亡くなられたご遺族などの方が死後に
悪霊化してしまうという事も少なくないです。

これらはどんな形であれとても悲痛な事です。
出来る事なら悪霊化は防止したい。
僕がずっと胸に秘めている
原動力たる想いです。

その中に、
貧乏神化防止というものがあります。

生前に貧乏神と化してしまうと、
その存在は死後確実に悪霊と化します。

貧乏神という存在は、
現世に於ける社会の中での善悪は
まるで関係の無い存在です。

つまり、
普通の人でも貧乏神にはなるのです。

本来のスピリチュアルは、
ここを可能な限り防ぐためにあるものです。
ですが、それは当人に
委ねられるものですので

自ずと限界点が生じてしまいます。

人らしく生き、俗欲に溺れずに制御する。
失敗を恐れずに人間味を大切にして、
前へ向かって進む過程で
向こうの世界の理を護る努力をする。

早い話が、「想い」を軸とした
考え方や動き方をしようねってやつです。

悪霊と化した存在の末路は悲惨ですからね。

哀しみどころか
世代を超えて
連綿とした
恨みの連鎖を
生んでしまうのが
貧乏神や悪霊化です
ええこと無いんやで

2026年6月21日日曜日

解き放ち善きに転じる(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




人には誰一人として例外無く
「駄目な自分」というのがあります。

簡単に云うならば、しょうもない自分です。
「善い自分」の対極に位置するもので
駄目とは言っても自分は自分なので、

拒否も否定も出来ません。

この駄目な自分を如何に制御するかで、
運気というものが大きく変わってきます。

間違えてはいけないのは、

「制御(control)」であって
「消去(delete)」ではない点です。

「駄目」という部分を意識するあまり
消去を考えてしまいそうになりますが、
それは絶対に無理なのです。

何故なら、駄目な部分ではあるけれども、
それも「自分」に過ぎないからです。

見せなくする事も、見えなくする事も
聴こえなくする事も
ましてや、
感じなくさせる事すらも叶いません。

自分に変わりないのですから、
何をしたってそこに存在します。

けれども、
この駄目な自分を野放しにしてしまうと
いずれ善い自分を喰らってしまい、

駄目な自分が支配をしてしまいます。
全面的に駄目な自分に溺れた存在が
所謂「貧乏神」です。




なので、そうはならない様にする為に
駄目な自分を制御するのですが、
制御に必要なコツは2つあります。

1:「認めてやる」
2:「使ってやる」

1は、以前から話しているので、
ここでは割愛します。
2は、駄目な自分を認めた上で
意図的に「使ってやる」事を意味します。

駄目なのだから「使わない」方へと
シフトしがちですが、
それでは拒んでいるのと同じですので
振り出しに戻ってしまいます。

1の段階で、駄目な自分も
「自分の大切な一部分」だと認めたのだから、
意図的にちゃんと使ってあげるのですね。

善い自分ばかりを使っていたら
依怙贔屓になってしまうし、
駄目な自分がもっと捻くれてしまって

果ては暴走してしまうでしょ。
そうなったら、一気に溺れてしまいます。
それでは努力が水の泡です。

駄目な自分を意図して使えば、
それは人にとって
「面白い(funny)」部分へと変貌します。

これを「人間味」と云います。

いくら駄目な自分を認めてあげても
意図的に使ってあげなければ、
「隠蔽」や「拘束」をしているのと同じです。

もし、貴方が徒に縛り固められていたら
そこから脱したいと思うでしょ。
フラストレーションもストレスも
酷いことになりますよね。

その先に何が起きるのかは
想像するのが容易い筈です。

認めて使う。
「制御」という言葉の意味を
ちゃんと理解すればこうして言われなくても
答えは簡単に出る筈です。

誰の前でも
解放するのではなく
信じられる人の前で
ほんの少し解放させる
お金ください(ピエン)
って、堂々と
言えるかどうかやで

2026年6月20日土曜日

苦しみを背負い視る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




本来のスピリチュアルに於いて
とても重要になってくるのが

「ニュートラル」

と、いう考え方です。

中間に位置する場から
客観的に物事や事象を見極め判断する。

好き嫌いなどの偏った見方ではなく
その時に必要なものを冷静にチョイスする。

単なる善いとこ取りだと
考えられてしまいそうですが、
意味は全く異なります。

ニュートラルとは、
あくまでも「立ち位置」の話なのです。

どちらか一方へ偏らせるのは簡単です。
好みで決めれば良い話ですからね。
それが故に、
対面への否定感や拒否感が生じます。

その拒否感を正当化させる為の動きや
思考が主となっていくので、
自ずと偏りは増していきます。

そして、行き着くのが「完璧主義」です。




現世で我々が生きていく以上、
偏りや隔たりというのは避けられません。
それ自体は悪でもありません。

自身の意見や心情を万人万物へ
まともに伝える事すら叶わないのですし、

成長や進化という過程に於いて
隔たりも偏りもある種では必須となります。
そこで争いが生じますが、

融和というのは、
これらがあるから存在するものですし、
理解を成せるものなのです。

しかし、その途中過程に於いて
極端な偏りや隔たりを掲げたり、
立場の保持を主な目的としてしまう事があります。

これが「完璧主義」です。

片側に極端に寄せてしまって、
対面を思考する事が出来ない状態。
相反する思考は敵となり
矛盾を悪と断ずる考え方。

こうして話すと何となく視えると思いますが、
自分本位と同じですよね。

独りよがりを拗らせて、
思考的視野狭窄へと陥るがあまり
自身の世界を徒に狭くしてしまう。

結果として、
「受け容れ」も「受け止め」も出来ずに
心身共に惨めな状態へと堕ちてしまうのです。

この状態を回避して、その先へ進む為の
考え方が「ニュートラル」です。




立場や思想に極端な固執をせずに
中間ではなく「中空」より視線を拡げ
対局ではなく「大局」を視る。

優しさと厳しさの同居を理解し、
矛盾という名の選択の自由を行使する。

自身の考えを芯に捉えつつも
他者の考えは自身には思い付きもしなかった
「宝物」だという思考を創る。

相手との遣り取りは
意思の押し付け合いではなく

意志の受け容れ合いであり
心情の受け止め合いであるという捉え方。

その中での係争は一過程に過ぎないので、
それが目的ではなくあくまで手段という認識。

故に、相互意思の齟齬は必然であり、
ご都合主義の完全融和などは存在せず、
相手を好みで選ぶのではなく
互いの違いを認め合う「間接融和」を信条とする。

ほんの一部に過ぎませんが、
これらが本来のスピリチュアルに於ける
基本概念であり、ニュートラルという考え方です。

現世でありながら
向こうの世界の理を実践する。

辛く苦しいですが、そこを見詰めて
活かし生きる。

文字で読むと面倒臭そうですが、
やってみるともっと面倒臭いですw。
ですけどね、価値はありますよ。

いつでも誰でも
気軽に出来て
辞めるのも自由
ってか、
言われてやる様な
もんでもないんやで

2026年6月11日木曜日

邪なるもの(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




何か上手くいかないとか
微妙に調子が乗らないとか
明らかに運気が下がっている様な
気がしているとか

途中まで良い感じであったとしても
最初からダメダメだったとしても

状態が芳しくない時と云うのは
誰にでもありますし
起こりえる事態です。

そういった際に、
外に原因を求めてしまうのは
とても矮小な考えですよと

以前からお話をしていますね。
原因たるものは決まって自分だからです。

それを理解した上で、
悪化の原因ではなく要因や遠因を
知るために外へ目を向ける事は
とても有用な一手となります。

但し、この時に死者のみに対して
目を向けてしまうのはナンセンスです。

自身にとって宜しくない事の原因が
全て死人だと考える事は
あまりにも世界観が狭すぎます。

現実を直視していないと言ってもいいです。




嫌な事や辛い事が起きている原因は
自分自身だと認識をしているのですから、

その要因や遠因も限りなく現実視しないと
お話になりません。
何故なら、我々は現世を生きているのです。

要因や遠因もまずは現世の存在の関与を
思慮する事が順を追う上でも
大切な事となってきます。

筋というやつですね。

現実をちゃんと視ずに
脊髄反射的に死者や死人へ敵意を向けたり
忌避する気持ちを抱く事は

幻想への逃避そのものと云えます。

死者や死人よりも先に近寄ってくるのは
生きている存在です。

そして、邪な存在の最たる例は
自分自身の中の駄目な自分であり、
自分本位に溺れている自分そのものです。

その部分の「臭い(雰囲気)」を嗅ぎ付けて
生きている者が近寄ってきます。
この臭いの部分を「隙」と称します。

俗欲を制御せずに溺れてしまった結果、
自分自身が邪なるものへと変わってしまう。
もしくは、その臭いを出してしまう。

その隙を邪な存在である念基軸の者が嗅ぎ付け
貴方が溺れている俗欲や
自分本位を刺激する様な動きで
一人また一人と近寄ってくるのです。

その状況で周囲を固められて
悪影響を浴びまくる状態へとなった先に
死者や死人がズルズルと近寄ってきます。
これが悪霊による憑依です。

自分に都合が悪いからと言って
いの一番に視線を外へ向けるのではなく
まずは自身を改める姿勢が重要です。

外の世界からしてみれば
貴方だって日頃の業をちゃんとしていなければ
十分に邪なるものとして認識されるのですからね。

自分は大丈夫とか
思っちゃっている
段階で既に貴方は
邪なるものの
筆頭候補なんやで

2026年5月30日土曜日

渇望するが故の(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




想いや思い遣りというのは
自分のみで確認ができる代物ではありません。

何故かと云うと、
相手が存在する事と
相手へ向けてのものだという事と、
相手共感して初めて成り立つものだからです。

また、「想い」は相手の受取り方次第で
どうとでもその内容が変わってしまいます。

自身が善しとする事であったとしても
それは貴方自身にとっての事であって
相手も同じとは限らないからですね。

この点をしっかり理解をすると
無闇矢鱈と「想いを...」などと云う台詞を
吐く様な真似はしませんし、

口にする事自体を忘れます。

例えば、
教える側の存在が
純粋に教える事を目的として
「想い」という台詞を言う場合はあります。

言わないと分かりませんからね。

それともう一つは、
お互いがお互いの想いを理解し合っていて、
その価値観を高度に共感している場合です。

これらの事例以外で口にしている場合は
基本的に想いというのを
理解していないから発しているか、

それっぽい言葉を吐き出して
何か不埒な事を画策しているか、

このどちらかとなります。
なので、
人を視る時の一つの指標となるのですね。




想いで相手に接して、それを想いとして
受け止めてもらえた場合の行為のことを

「思い遣り」と、云います。

同じ事をしても相手が想いとして
受取らなかった若しくは
受け止められなかった時は、

思い遣りとしては不成立となります。
下手をすると念に変わります。

例に出すと、
「余計なお世話」というのが分かり易いですね。

そのくらい、本来のスピリチュアルでは
思い遣りと云うのはハードルが高い代物です。
意図的に確立させようとして
出来る様なものではないという事なのですね。

それを理解した上で、
決して蓄縮せずに積極的に自身から
行動する事が出来るか否かが重要となります。

そこで失敗を恐れてしまい
己の中の完璧主義を壊す事が出来ないでいると
思い遣りどころか想いを喪失して
全ては「念」へと帰依するようになります。

その成れの果てが「貧乏神」という事になります。

これを防止する為、日頃から
「何のためなのか」「誰のためなのか」を意識して
行動する事が大切になってくるのです。

意識が自身の
内側へと向き過ぎると
念が増していき
想いを渇望するので
「想い」
という台詞を
多用するんやで

2026年5月22日金曜日

自分を持つ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




何をするにしても上手く捗らない
行動の結果に至るまでの因果の中で
原因を他へ求めてしまう。

物や人の所為にするというやつですね。

この状態に陥ってる時は
高確率で自分というものを見失っています。

もう少し掘り下げてみると、
「人に合わせてしまっている」状態です。

何かの判断や決断をする際に
人の意見を聞いたり、
きっかけを貰う事は間々あります。

しかし、それはあくまでも
第三者からの助言や提唱であって

決断をするのは自分自身なのですね。

この意見を聞くという段階で
自分で思考する事を放棄してしまっていると

その他者の意見を
都合よく自身の意見として捉えるので
己の責任すらも他へ転嫁してしまいます。

当然ながら、
そこから派生する判断や決断も
他人任せという流れとなります。

この様な態様を至極当然だと認識する人は
何をやっても上手くいく事はありません。

そこに「自身の意思」や「自分を持つ」
と、いう思慮そのものが存在しないからです。




自己意思や自分を持たないで
先述した通り他者任せとなってしまうと、
そこに努力の価値を見出す事が適いません。

所謂、「ヤル気が出ない状態」となるのですね。

自らの意思で自らが決断し覚悟を決めるから
前へ動こうとする推進力を得る事が出来ます。

どんな事でも良いですが、想像してみて下さい。
人に「やれ」と言われて行う事よりも
自分で「やろう」と考えた方が
断然動き易くなりますよね。

例え、行動した結果が失敗だったとしても
自身で覚悟を決めて動いた事であれば

そこに一定の責任を背負いこみますから
決して後悔などはしない筈です。

また、それに伴う反省をする事も可能です。

これらの動きを本来のスピリチュアルでは
「正の螺旋」と呼称しています。




善い動きの因果律の中で、
どうしても繰返しと捉えがちですが
そこには時間と空間の概念が必ず加味されます。

つまり、物事や事象に関しては
時間が進む力が物理的に添加されるという意味です。

なので、繰返しですとその形状は「円」ですが、
円に対して推進力を加えると
それはスパイラル=螺旋という形状となるのです。

同じ様な事をしていたとしても、
全く同じには成り得ない事象の進み方の概念です。

少し話が逸れましたが、
この正の螺旋に乗る為に必要なのが
「自分(自己意思)」です。

この自分を持つために必須な動きが、
「やたらと人に合わせない」という姿勢です。

人に合わせれば合わせる程に、
自己意思の減衰は速度を増します。

社会通念上、合わせる必要がある善い部分と
楽を目的とした合わせようとする俗欲の部分。

これらをしっかりと見定めて
腹を括って決断し率先して動く
と、いう業が出来ないと

念頭でお話をした様な上手く捗らない状態へと
滑落していくのです。

この上手くいかない流れの事を
「負の螺旋」と呼称しています。

そして、負の螺旋の流れは
「堕落」そのものですから、行き着く先は
生きている内は「貧乏神」
死んだ後は「悪霊化」を経て「地獄行き」となります。

どの道、皆さんが望む様な幸せとは
程遠い結果となるという流れなのですね。

文字や言葉でこういった事を視聴きしても
この流れがどれだけヤバいのかは
全くピンと来ないと思います。

元々、分かり難い話ですし
そういった内容なので全然構わないのですが、

せっかくなのでこの「ヤバさ」を
記載した本日より三日間の内に
皆さんの夢の中で味わえる様にしてみますね。
2026.5.22~2026.5.25

偶にはこういった遊びもいいでしょう。

貧乏神、生霊、
悪霊、地獄とその先
これらの一端を
視れる様に頑張ります
おっかなくても
ノークレームで
お願いなんやで

2026年3月21日土曜日

自分愛しや勇知らず(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人との関係性だけでなく
ありとあらゆる関係性に於いて

自分優先にしたり
自分本位を剥き出しにする事が
宜しくないことだというのは
ここでは既に常識ですね。

その業の中で自分のためではなく
相手のためを考えて
率先して動くことが大切なのだと
常々お話しておりますが、

相手のためを考えて動くと
自分のためと考えた時と比べて

一体何が変わってくるのでしょう。

答えは1つではないので
色々とあるのですが、
大きく変わってくるのは

「勇を用いる」という点です。

自分のためを第一優先にして
行動を起こした場合、
少なからず相手を傷付けたり
辛い思いをさせたりする事になります。

その分、自分はとても楽です。
辛さや苦しさからは逃れられますからね。

では、逆に相手のためを想って
自分ではなく相手を優先させたら
どうなるでしょうか。




自分の希望や願望を一先ず置いといて
相手の事を優先させるのですから、
簡単に云えば我慢をする事になります。

我慢ってやつは苦しいし辛いですよね。

相手のためを想えば何のその。
苦しませるくらいならば自分が。

と、分かってはいてもやはり苦しい。
そして、辛いのも容易に想像出来るから

達成させるのであれば
気合いを入れないといけない。
これを「覚悟」と、云います。

この「覚悟を決める」までの過程で
必要になってくるのが「勇気」です。

苦しみも辛さも確実に眼前にある。
そこに向かって態々行かないといけない。

自分を優先させれば
その苦しみも辛さも感じずに済む。
どうしようか。楽したい。

そんな葛藤を振り払うのが勇気です。

実際のところ、相手のためという
奉仕の精神が普通の状態の人であれば
こんな事考えもしないのですが、

皆がみんなそうではないですし、
今以て自分本位に翻弄されまくりで
グルグルしている人は多いですからね。

こういうメカニズムを知っておくのは
とても有用だと考えます。




少し話が逸れましたが、
自分のためで行動を
起こしてしまう人というのは、
勇気を用いてないのです。

自分よりも相手が苦しめばいいという
想いとは程遠い考え方がデフォルトで、
「勇を用いる」という言葉の意味さえも
理解が出来ない状態なのですね。

それなのに、相手を傷付ける事は
決して宜しい事ではないのは知っているから

さも自分は想いを大切にしていると
豪語してみたり思い遣りだと
言ってみたりする。

ですが、それはあくまでも詭弁であって
自分の卑怯さを見せない為の戯言だから
豪語する割には態度では示せない。

ましてや、普段から勇を用いてないから
見て見ぬ振りが当たり前の状態となって
絶対安全圏でないと何も出来ない様な
究極の内弁慶となるのです。

逆に云うと、
こういう状態から抜け出たいのであれば
勇を用いて覚悟を決めれば良いだけです。
意外と簡単な事なのですよ。

それでもやれないという事は、
貴方にとって相手が然程大切でないか
貴方自身が貧乏神なだけか
そのどちらかという事なのです。

まぁ、心が弱くて残念な人って事ですね。

勇を用いない奴の
言葉ってのは
薄っぺらいから
話しているだけでも
本性が分かるんやで

2025年12月13日土曜日

頑張れる人、頑張れない人(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




「頑張れる人」と「頑張れない人」

と、いうのがあります。
読んで字の如くとはなるのですが、
少々内容が深いです。

ここで示す
頑張れる頑張れないと云うのは
努力の形を意味します。

例えば、

頑張れる人というのは、
自身で思考して努力を出来る人。

このタイプの人は、
周りが黙っていても自身を奮い立たせて
様々な形で努力をする事が出来ます。

また、必ずではないにしても
自身の責任というのを理解しているので
潔さも持ち合わせています。

但し、
努力する方向が間違っていたとしても
猛進邁進するという特徴も存在しますので、

簡単に自己の意見を変えられない等の
頑固さが強く出たり、

慎重になり過ぎるが故に、
先行した動きや新たな思考に適用する為の
時間を多分に要する悪癖や

責任感の高さから発生する
心的ストレスを負い易いといった面も多いです。

現実的思考が中心となり
幻想を好み、決して嫌いではないが
現実というものを理解出来るので
幻想へは逃げない考え方を持ちます。




頑張れない人というのは、
他者の指示や思考に則った形での
努力が出来る人。

このタイプの人は、
他者からの引立てや圧力を得る事によって
一定の努力をする事が出来ます。

1つの目標や目的、
大衆意識に則った思惑などに対しては
漫然と突き進んでいける様な力があり、
自己意識を抑えているので
柔軟性は高いのですが、

その高すぎる柔軟性の結果
周りの意見に迎合は出来ても
自己の意見をそもそも持てなかったり、

変更の判断や意思決定が自前で出来ない等
必ず他者の指示や意見、

物や見えない存在の力に頼ろうとする様な
風見鶏的思考の特徴が強く出ます。

また、
自己意思が希薄であるが故に
責任感への理解や慎重さを軽視してしまう
という傾向が強く、

それまで頼っていた存在ですら
容易に捨ててしまうので、言い訳をしたり
人や物の所為にする癖が顕著に出ます。

理想的思考が中心となり
幻想を好み得ています。
現実は理解する事が出来ますが、
綺麗事や幻想へ逃げ易くなります。




頑張れる人、頑張れない人という
思考回路の造りを
大枠で説明するとこうなります。

また、同じ人だとしても
部分部分や場面場面によって
両方の特徴が入れ替わる事もありますが、
軸的な部分は概ね固定化されています。

あくまでも思考回路の造りですので
善悪の判断をここでする事は
不可能となります。

また、性格についても同様で、
ここからの反映は確かに存在しますが

どちらかと云うと
当人が在する環境やそれまでの人生経験や
輪廻の回数、霊格の高さなどの方が
色濃く影響を与えるものなので、

やはり、
ここのみで判断するのは不可能と考えます。

然しながら、
個々人に対する運気の向上や
維持という観点については、

対象を見極めなくてはならない箇所となります。

本来のスピリチュアルに於いて
運気とは自身で創り上げるものです。
その維持もまた同様ですね。

自身の考え方や動き方と相反する対象と
動を一にしていれば、不必要な齟齬や
永遠の不理解や不共感が発生し、

負の螺旋への動きへと繋がり易くなります。

ですので、適切な距離を得る為に
自身も含めたこのポイントを抑えて
見極めていく必要があるのです。

違いを知って
適正距離を作る
全てが同一の
距離感には
ならない事も
また事実なんやで

2025年12月10日水曜日

思い悩みの論理点(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




生活の中で、
おいそれとは口にしないけれども
縷々様々な悩みを
抱えている人は多いです。

僕がよく聴く悩みの中で
上位に位置しているのが
身内の問題です。

「いびり」とか
「たかり」とか
「嫁姑」とか
「謂れなき難癖」とか

身内だからこそ起きやすく、
身内だからこそ対処に困る。

ご家族に相談をしてみても
話が平行線で終わる事など当たり前ですし、

自分は何も悪くないのに
気が付いたら悪の権化みたいな扱いに
なってしまう事もあります。

これが、職場とかであれば
辞めるとか辞めさせるみたいな
パワープレイが可能なのですが、

身内の場合というのは
そう簡単には辞められません。

ましてや、身内であるが故に
時間も何も関係無しに
どこまでも責め立てられてしまう。

そんな中、この手の問題を
一般論で解決しようとすると
必ず出てくる綺麗事が

「普通にしていれば大丈夫」
「すぐに飽きるから平気」
「正しい人が最後は勝つから我慢」

みたいな台詞です。




ハッキリ言いますが、
そんなやり方で解決なんか出来ないですし

四六時中責め立てられている様な
理不尽がまかり通っている中で、
普通にしていて解決なんかする訳ないと

少し考えれば分かる事なのですね。

虐められている人に対して、
「黙っていれば良い」と
言っているのと同じ愚行です。

言い換えれば、虐めている人の方の
肩を持つという事です。

そんなの筋が通らないでしょ。

そうこうしている内に、
責め立てられている人は
何かしらの異常を来して肉体的な疾病を患い、
その後確実にメンタル崩壊しますよ。

それだけは絶対に避けないといけないです。
参考までにですが、お肌に異常が出始めたら
それはメンタルの黄信号ですからね。

どんな場所にも貧乏神は存在します。
身内他人の別を問わずに存在します。

特に身内に存在する場合は、
先述した通り、他人の場合よりも
逃げ場が圧倒的に少ないのですから

「(日常的な)心の拠り所」と
「気持ちの吐き出し」と
「論理的に捉えた修整」というのが

常設的に必須となってくるのです。




拠り所と吐き出しというのは
何となく分かると思いますが、
「論理的に捉えた修整」というのは
イマイチ理解が難しいと思います。

これは何かと云うと、

どんな物事でも理不尽でも
必ず自分にも原因があるというのを

客観的に教えてもらってしっかりと理解をする

と、いう流れの総称です。
人は皆同じではなくて、皆違うのです。
貴方の基準が他者の基準とは
成り得ないのと同様に、

他者の基準が貴方の基準にも成り得ない。

貴方が善しとする事であっても
他者からすれば悪にも成り得る。

僕もこれが原因で
過去に虐めやハラスメントを経験しています。

そこの違いを論理的に理解する為に、
苦しんでいる御本人の過度な被害者意識や
綺麗事などを失くさせる。

これが修整です。

この一連の動きを身内の人が客観的に
行う事も不可能ではないですが、
大抵の場合は利害関係が生じてくるから
経験のある第三者でないと中々に難しい。

そして、この「論理的に捉えた修整」は
相手を許す為に行うのではありません。
徹底抗戦をする為に行うのです。

世の中はね、そんなに優しくないのですよ。
弱い奴を見れば叩きたくなるし、
弱気になればあっという間に潰される。

綺麗事もクソも無い状況に陥ってるのに
そんな悠長な事なんかしてられないでしょ。

貴方に何かがあったら、
困るのはお子さんやご家族なのですから。

現実で生きている以上は現実をちゃんと視て、
現実的な動きをする為の
実戦型アドバイスをするのが
本来のスピリチュアルです。

本当に助かりたいのであれば、
生温い一般論なんか
クソ喰らえってやつですよ。

理不尽かます奴に
まともな理屈は
通用せぇへん
知恵知識五感
あらゆるものを
総動員して覚悟決めての
総力戦やで