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2026年8月12日水曜日

神律の衣(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




想いというのを相手に届ける際、
もれなく念も付いてきます。

以前より想いと念は
表裏一体だとお話をしています。
想念は常に同じ位置、
同じ場所に存在をするものなのです。

例えば、
大切に考えるという「想い」も
度が過ぎれば「独占欲」という念です。

お手伝いをしてあげるという想いは
やり過ぎてしまえば
「支配欲」という念です。

こういった感じで、
同じ個所に存在するのが想念なのです。

想いを純粋無垢に届けるというのは、
実のところ非常に至難の業となります。

そこには人の意思の介在や
感情の流入が発生する事になるからです。

念を全く混入させずに想いを届ける
想いを受け取るというのは、
この現世に於いては不可能な業です。

それを両極端で成す事が出来るのが、
浄土と地獄という霊界です。




現世というのは、
霊界で学びきれない事を学ぶ場でもあり
得た経験を霊界へフィードバックさせる
そういった場でもあります。

なので、とある存在の意図が
強く反映されているために、
こういった想念の吸着が起こる訳です。

引き起こされていると言っても
過言ではありません。

とある存在と云うのは何者ぞ。
と、いう事になるのですが、
人ではないのは確かです。

もっと超越的な存在で創造した存在。

彼、彼等は霊界に於いても
浄土や地獄、獄界や天界など
人の及び至る事の出来る様な
空間、領域には在していません。

その遥か遠方で間近でもある場に在しています。

人の身で彼、彼等の空間に及ぶ事も無いです。
というか、そもそも行く事が出来ません。
認知する事自体が難しいです。

ただ、存在を肌で感じる事は誰でも可能です。
それを彼、彼等だと理解する事が
出来る存在は限られています。

霊格の高さが関係してきますからね。
死んだだけでは分からないというやつです。

偶にはこういう話も良いですよね。

単純な思考では
決して理解し得ない
肉体的思考ではなく
幽体的観点や
霊体的視野でないと
向こうの世界は
視ても分からんもんやで

2026年7月5日日曜日

幸せを掴む(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




皆さん毎日の生活を頑張りながら
一生懸命に努力されていると思いますが、

一体何が幸せで、
そもそも幸せと云うのは何なのか。

と、考えた事が一度くらいは
あるのではないでしょうか。

「幸せ」と云うものは
個人単位でも変わりますし、
その個人の集まりたる社会によっても
大きく変わってきます。

例に挙げると、
マクロな目線で云えば
我が国と他国の幸せって違いますよね。

ミクロになると、
貴方と隣人の幸せも違いますよね。

それらがある種の目的や目標、
何かしらの一致点が発生した時に
共通認識としての「幸せ」へと変わります。

つまり、幸せというのは
基本的には「個人単位」という事なのです。

貴方が「幸せ」だと
認識している物事やその実感があったとしても

その認識がそっくりそのまま貴方以外の人に
無条件で通用する事は決してありません。

何かしらの条件が重なった場合にのみ、
幸せの共感が作用するのです。

お金かも知れないし、仕事かも知れないし、
好きという感情かも知れないし、
単に社会的地位かも知れないし、
通念上の価値観かも知れないし。

通念上の価値観というのは、
「みんながやっているから幸せ」みたいな
自己の認識よりも
他者の認識に合わせる価値観の事です。

パートナー(彼、彼女、夫、妻)が居るとか
人より早く結婚して見下したいとか、
同様に負けたくないとか、見返したいとか、

宗教観的な価値観や各種団体的な価値観、
日本代表を応援する的なあの感覚。
一部の人間にしか通用しないアレです。

これらが通念上の価値観です。

この様に幸せの条件など
何がどこで作用するのかなんて
全く理解出来るものでもないのです。




つまり、
幸せと云うのは自身で検討決断して
「自律的共感」をすることは是だとしても、

他者の押し付けによる「他決的共有」では有得ない。
と、いう事になります。

幸せのサイズの大小を問わず、
如何に自分自身の判断で
その幸せの本質を理解する事が出来るか。

他者の助言や導きは「きっかけ」として
得る事はあったとしても、
自身の意志による取捨選択が出来るか。

自己意思の介在しない幸福は、
「幸せ」ではない。と、認識出来るかどうか。

言い換えればですが、
そこに自己意思が介在しているならば
全てが「幸せ足り得る」と、云う事になります。

これがどういう事かと云うと
例えば、

貴方は「貧乏神になる事は幸せではない」と、
考えていたとしても、
貧乏神の人は自己意思を介在させて
そうなっているのですから

「貧乏神である事こそが幸せである」
と、考える方が自然なのですね。

現世へ生れ落ちる大義の云々は別として、
自己意思での選択結果がその道であるならば

その志を尊重するのもまた
想いの行使であり奉仕の精神の一つとなるのです。

仮に貴方が努力をして、
友人知人や家族等の相手に対して
貧乏神への道を絶たせようとしたところで、
その相手が自己意志を介して拒絶の選択をしたら

それが相手にとっての「幸せ」に過ぎないのです。

意思表示した先に於ける貴方側の問答などは、
全て想いの行使ではなく「押し付け」です。
早い話が、余計なお世話なのですね。

貴方が現世を一生懸命に生きて浄土を目指すのは、
浄土に向かう事が貴方にとっての幸せに過ぎず、

貧乏神にとっては地獄へ赴く事が幸せなのです。

ならば、
努力の結果として無力だったのであれば
押し付けでは無く引導や餞別を渡してあげる事が、
奉仕の精神の完遂に結び付くのですね。

これは非常に苦しい選択ですが、
想いの行使はどんな場合でも痛みが伴います。

「想い」や「慈しみ」とは、
相手が素直に受け取っていて初めて機能する代物です。

そこを誤認しないように織り進めていくのが
本来のスピリチュアルのなのですから。

大義に於ける
善し悪しではなく
個々に於ける
自己意志を視る
幸せの種別を
最終的に決めるのは
その人なんやで

2026年5月22日金曜日

自分を持つ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




何をするにしても上手く捗らない
行動の結果に至るまでの因果の中で
原因を他へ求めてしまう。

物や人の所為にするというやつですね。

この状態に陥ってる時は
高確率で自分というものを見失っています。

もう少し掘り下げてみると、
「人に合わせてしまっている」状態です。

何かの判断や決断をする際に
人の意見を聞いたり、
きっかけを貰う事は間々あります。

しかし、それはあくまでも
第三者からの助言や提唱であって

決断をするのは自分自身なのですね。

この意見を聞くという段階で
自分で思考する事を放棄してしまっていると

その他者の意見を
都合よく自身の意見として捉えるので
己の責任すらも他へ転嫁してしまいます。

当然ながら、
そこから派生する判断や決断も
他人任せという流れとなります。

この様な態様を至極当然だと認識する人は
何をやっても上手くいく事はありません。

そこに「自身の意思」や「自分を持つ」
と、いう思慮そのものが存在しないからです。




自己意思や自分を持たないで
先述した通り他者任せとなってしまうと、
そこに努力の価値を見出す事が適いません。

所謂、「ヤル気が出ない状態」となるのですね。

自らの意思で自らが決断し覚悟を決めるから
前へ動こうとする推進力を得る事が出来ます。

どんな事でも良いですが、想像してみて下さい。
人に「やれ」と言われて行う事よりも
自分で「やろう」と考えた方が
断然動き易くなりますよね。

例え、行動した結果が失敗だったとしても
自身で覚悟を決めて動いた事であれば

そこに一定の責任を背負いこみますから
決して後悔などはしない筈です。

また、それに伴う反省をする事も可能です。

これらの動きを本来のスピリチュアルでは
「正の螺旋」と呼称しています。




善い動きの因果律の中で、
どうしても繰返しと捉えがちですが
そこには時間と空間の概念が必ず加味されます。

つまり、物事や事象に関しては
時間が進む力が物理的に添加されるという意味です。

なので、繰返しですとその形状は「円」ですが、
円に対して推進力を加えると
それはスパイラル=螺旋という形状となるのです。

同じ様な事をしていたとしても、
全く同じには成り得ない事象の進み方の概念です。

少し話が逸れましたが、
この正の螺旋に乗る為に必要なのが
「自分(自己意思)」です。

この自分を持つために必須な動きが、
「やたらと人に合わせない」という姿勢です。

人に合わせれば合わせる程に、
自己意思の減衰は速度を増します。

社会通念上、合わせる必要がある善い部分と
楽を目的とした合わせようとする俗欲の部分。

これらをしっかりと見定めて
腹を括って決断し率先して動く
と、いう業が出来ないと

念頭でお話をした様な上手く捗らない状態へと
滑落していくのです。

この上手くいかない流れの事を
「負の螺旋」と呼称しています。

そして、負の螺旋の流れは
「堕落」そのものですから、行き着く先は
生きている内は「貧乏神」
死んだ後は「悪霊化」を経て「地獄行き」となります。

どの道、皆さんが望む様な幸せとは
程遠い結果となるという流れなのですね。

文字や言葉でこういった事を視聴きしても
この流れがどれだけヤバいのかは
全くピンと来ないと思います。

元々、分かり難い話ですし
そういった内容なので全然構わないのですが、

せっかくなのでこの「ヤバさ」を
記載した本日より三日間の内に
皆さんの夢の中で味わえる様にしてみますね。
2026.5.22~2026.5.25

偶にはこういった遊びもいいでしょう。

貧乏神、生霊、
悪霊、地獄とその先
これらの一端を
視れる様に頑張ります
おっかなくても
ノークレームで
お願いなんやで

2025年8月27日水曜日

自分本位の行く末(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




我儘だったり理不尽だったり
どうしようもなく自分本位な人
というのが、
現世には一定数存在します。

寧ろ、そっち側の人の方が多いです。
それと言うのも当然で、

人は"楽"をする生き物です。

産まれてくる前に
誰でも無く
自分自身でそう設定しています。

つまり、
己から努力をしないで
漫然と流されて生きていけば

自然と自分本位となりますし
果ては貧乏神となって地獄堕ちとなる。

これが現世に於ける
僕らのデフォルトでの設定なのです。
要は、地獄へ行く切符は
最初から持っているという事なのですね。




浄土に居た存在が
何故に転生してまで地獄行きの切符を
初期装備で手にしているのか。

答えは単純で、
「現世には苦痛を得に来ている」からです。

実のところ浄土では苦痛を味わえません。
一口に苦痛と言いますと
物理的な痛さとかを想像しがちですが、
ここでの苦痛は全然違いまして。

では、何が苦痛なのかと申しますと、

「意思疎通」の苦痛です。

浄土という場所は、
想いを具現化した場所です。
文字だと表現が難しいのですが、
簡単に言うなれば

考えている事が一瞬で伝わる環境
一瞬で理解出来る環境

だと、理解してくれれば良いです。
もっと細かくお話は出来るのですが、
この場ではこの程度の認識で結構です。

で、
そんな浄土はとっても楽チンなのだけど、
想いやその先にある

「愛」や「愛情」

と、いう存在や概念は

意思疎通の過程に於ける苦痛、
端的に言うと「煩わしさ」なのですが

その苦痛を経る事でないと
入手は疎か触れる事すら難しいのですね。




浄土に居れば「愛」を知っていると思いきや
その本質など、実は分かっちゃいない。

浄土は全部で8つ在るのですが、
その中でも一番深い浄土でないと
ハッキリとした理解をしている人は居ません。

それを理解出来る様になる為に
苦痛を求めて輪廻を通して
現世へ"自ら望んで"赴いているのです。

この「苦痛」は現世でしか得られませんからね。
長い期間を掛けて、少しずつ積み重ねていく。

これが現世へ赴く最大の目的の一つです。
では、何故に自分本位が駄目なのか。

そもそもが意思疎通の「苦痛」を

肉体という不完全な代物を纏って、
俗欲という使い方を間違えると
一気にヤバくなる劇物を身に付けてまで
収穫しに来ているのに、

端っからそれをぶっ飛ばしてしまう業が
自分本位だからです。

自分から進んでお勉強したい
頑張ってくるよと言って
色んな人の助力を得てまでして
この現世へ来ているのに

全力で苦痛から逃れエンジョイかましている
そんな状態だからです。

不義理にも程がある。




但し、この状態というのは、
肉体を纏って俗欲を手にした瞬間から
誰にでも起こり得ることなのですね。

意識の有無は別として
当初目的を思い出すか思い出さないか
気が付くか気が付かないかは本人次第。

浄土の記憶は基本的に
現世へ来た段階で忘れますからね。

そんな状態ですから、
自分本位を謳歌してしまうリスクがある。

それを見越して地獄行きのチケットは
既に配られているという事なのです。

浄土に戻りたければ、
それなりの努力をして
切符のグレードアップを
自分で施さないといけない。

それが出来ないのであれば、
あとで後悔するだけの話です。

「あとで」と言うのは、
死後だけでなくそこに至る迄の間の
生前の期間も含みます。

自分本位で周りに迷惑を掛けた代償は

人によっては天罰として
人によっては過酷な生き恥として
人によっては満たされぬ欲として

その他縷々様々な酷がありますが、
必ずツケを支払わされる事となるのです。

自分ばかりを
考えてたら
エライ目に
遭うんやで

2025年6月6日金曜日

闇の領域(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




向こうの世界、
とりわけ霊界に於いて

善い所は「浄土」
怖い所は「地獄」

と、位置付けられています。
ここで言う闇の領域は「地獄」です。

(地獄の先にも又はその手前にも
闇の領域が存在しているのを、
僕と直接話をした事のある方々は
御周知の通りだと存じていますが
ここでの解説は割愛しますね)

では、この闇の領域という面ですが、
我々のいる「現世」には
存在するのか否か。

結論から言いますと、
領域としては存在しません。

但し、向こうの世界に於ける
闇の領域へ堕ちてしまう側面は
存在しています。

それが、「念」です。

念というのは今更ですが
「想い」の対となるものです。

「恨み」とも形容できますね。




念というのは基本的に
自分本位などの俗欲を中心とした
思考を基として形成されるものです。

この、「念」の発生数や発生率、
抱える量や誰かに飛ばす総量が
多ければ多いほど、

「貧乏神」という形態へと変貌します。

この貧乏神と呼ばれる形態となって
死を迎えてしまうと

概ね100%の確率で
地獄かその先へ行く事が確定します。

闇の領域へと堕ちるという事です。

ですので、現世に領域としての
闇のエリアは存在していないですが、

いずれ闇の領域へ向かう事の出来る
単体としては、存在しているのです。

そして、これは一切の例外無く
現世の存在の誰しもが持ち得ているものです。

人だけではなく全ての存在です。

向こうの世界の闇の領域は
皆さんの想像以上に過酷な場所ですし、
間違ってもおススメは出来ません。

地獄堕ちを避ける為にも
日頃から俗欲を制御して
念の力場の生成を極力抑える等の努力をして
前向きに生きてほしいなと切に思います。

自分は大丈夫など
間違っても
思える事では
ないんやで

2024年3月29日金曜日

浄土へ行くのは簡単なの?(知識UPシリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は、単純な事について
お話をしたいと思います。





人生を全うした後、

良い所へ行きたいか
嫌な所へ行きたいか

こう尋ねられたら、
誰しもが良い所へ行きたいと
考える筈です。

では、
実際のところ良い所へ行くのは
簡単なのでしょうか?

特段、難しくなく
行けるものなのでしょうか?

あにきに言わせると、
そんな簡単なものではないです。
ただボケっと生きているだけでは、
ほぼほぼ地獄堕ちします。

そんな簡単に浄土へ行けるのであれば
何もわざわざ
この世に産まれてくる必要なんて無いです。





浄土へ行ける絶対条件の一つに

「幸せの度合いの向上」

というのがあります。

人には一人一人
幸せの度合いというのがありまして、
それを人生内にて如何に増やすか

つまり向上させる事が出来るか?

というのが、
人共通の生きる上でのお題目です。

で、
これをある程度向上する事が出来た人が
浄土へ行く切符を手に入れられます。

それは、かなりの難易度でして、
この世に居るのだから
この世の理、人の世の理を
守っていれば行ける訳でなく

この世に居ながらにして
向こうの世界の理を守りつつ
業を積み重ねていく。

というのが鍵となります。





この世の理を馬鹿の一つ覚え宜しく
ただ守っているだけでは駄目なのです。

それであるならば、
この世の理、要は人の法のみを
遵守していれば良いという事になります。

それですと、国や地域によって
差が発生しますよね。
何よりも、神仏を否定する事に繋がります。

人をベースにして
守っていれば良い訳ですから
どんな売り文句を述べたって、
神仏などただのお飾りという事になります。

これ、普通に考えて、
とても大きなパラドックスです。
日本に居るとピンと来難いですが、

世界を見渡すと宗教をベースにしている法や
国が結構多いですからね。

それを否定すれば、良い所へ行ける?
別にあにきは宗教家ではないですけれど、
それって何か違くね?





それに、この論理でいきますと、
この世の理さえ守っていれば
どんなクズでも良い所へ行ける。
という話にもなります。

生きていれば分かりますが、
皆が皆、必ずしも
法で裁かれる訳ではないですよね?

明らかに罪が黒の人でも、
法に違反さえしていなければ
裁かれる事は無いです。

貴方の周りを見渡してみて下さい。
皆さん罪なき真っ白で良い人ですか?

貴方自身はどうですか?
心も体も真っ白クリーン?

どう考えてもそれはないです。
それであるならば、
この世はもっと平和ですもの。
警察すら必要ないですよね。

基本的にボケっと生きていると
自然と罪を作ってしまうのが人。
その罪というのは、
この世の理に於ける罪ではなくて、

向こうの世界の理に於ける罪です。





以前にもご紹介しましたが、
向こうの世界の理での罪は大枠で
【 八罪 】
というのが、あります。

【業の断ち切り】
【業の放棄】
【他への辱め】
【自への辱め】
【信に徹さない】
【伝に務めない】
【勇を用いない】
【自に堕ちる】

これですね。

簡単に言えば、
この世の理を守りつつ
これを犯さない様にしながら
生きていく。

とても難しいですが、
その過程の中での苦楽を経験する事で
幸せの度合いが向上していく。

詰まるところ、徳を積むという話です。
ただ、徳を積むって言っても
よく分からないだろうから、

あにきとしては、
まずは小さい幸せを見付けてこうね!
っていう、とても簡単な方法で
教えている訳です。

どうしてもこういうのって
自分の周りだけで考えがちですが、
人なんですから、
全人類単位で考えないといけません。

そうやって考えると、
良い所へ行くのなんて簡単な訳ないって
直ぐに分かりそうなものですけどね。

先ほども述べましたが、
国境線を跨いだ瞬間に文化や法が
変わるんですよ?

それとは別の基準が存在していると
考えるのが普通だと思います。
(実際に存在しているんだけども...)

言及はしませんけどね、
簡単だと言うのであれば、
何か別の思惑が存在していると
考えるのが妥当だと思いますよ。



2024年1月6日土曜日

安らぎは得るもの?求めるもの?(知識UPシリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は安らぎについて
お話をしたいと思います。





ここでの「安らぎ」とは、
死後の事を指します。

つまり、向こうの世界へ行った後の
話になりますね。

で、タイトルの問い掛けと
なるのですが、

安らぎは得るものなのか?
それとも
求めるものなのか?

これはですね、
どの場面での問い掛けなのかで、
答えが大きく変わります。

例えば、
生きている状態での話ですと、
求めるものでもあり、
得るものでもありますね。

特に問題なく亡くなれば得られるし、
生きてる内は求めますからね。





では、亡くなった後はどうでしょうか?

ただ亡くなっただけで、
向こうの世界へ行っていない状態の場合は
まだ、安らぎを求めている感じです。
得てはいませんね。

どうしてかと言うと、
まだ霊界という場所へ行っていないからです。
三途の川を渡っていませんからね。

この場合は、現世に限りなく近い
「狭間の世界」という所にいます。

簡単に言うと、
単に肉体が無いだけで生きている時と
感覚はほぼ同じです。
なので、まだ本当の意味での安らぎは
得られていない。という話です。

では、三途の川を渡った後は
どうでしょうか?





これは、行き先によって変わりますね。
ブログ上ですから細かい話は抜きにして

とりあえず、
浄土なのか?地獄なのか?
で、考えてみましょう。

地獄の場合ですと、
安らぎを未だ求めていますね。
得られてもいません。
安らげない場所ですからね、地獄って。

生きている時よりも渇望します。
本当に嫌な場所ですよ、地獄は。

ですが、そこへ行く人って、
考え方を変えると
行きたくて行ってるのと
同じ様なものですからね、

ある意味では安らぎを得ているとも
言えるかも知れませんね。





浄土の場合ですと、
安らぎを得ても無ければ求めてもいません。

完全に安らぎを「忘れています」。

三途の川を渡って浄土へ着くと、
瞬時に自分の一生とか産まれてくる前とか
何をしなきゃいけなかったとか
あれやこれやと色々思い出すんですね。

生きている時には忘れていた事の全てを
一瞬で思い出します。

と、同時に生きている時の辛さを
忘れはしませんが、
一瞬で完全に過去の話となり、

「浄土の感覚のそれが普通」
という状態となってしまうんです。

来たばかりなのに既に安らいでいる感覚です。
なので、「安らぎを忘れている」
というのが、もっとも適した表現となります。





面白いものですよね。
今の感覚は、本当に今だけの感覚
という事なのですよ。

ですから、
辛い事があっても頑張らないといけないし、
かと言って、無理をするのも少し違う。

細かく考えてしまうと動けなくなるので、
それであるならば、

「明るく愉しく元気よく!」
今、この瞬間瞬間を過ごすことが
大切になってくる訳です。

ちなみにですが、
明るく愉しく元気よくというのは、
馬鹿になれって言ってるのではなくて、

常に感情を大切にしましょう。
という意味なんですね。

喜怒哀楽を大切にして、
その時その場に全力を注ぐ。
そして、
決してだらしなくせずに、
分を弁えて過ごす。

浮かれ過ぎず、怒り過ぎず、
哀しみ過ぎず、楽をし過ぎず、

今風に表すならば、
感情のTPOをちゃんと考えて過ごす
という感覚です。

貴方にとっての安らぎが
どこの何になるのか?
願わくば、忘れられます様に...


2023年6月21日水曜日

おしえて!あにきさーん(大きいお友達編1)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回も、あにきユーザーではない
大きいお友達の方々より戴いた
ご質問についての回答になります(^^)/




Q1:
「パワーストーンは本当に効き目があるの?」

A:
効き目があるか無いかで言うと、

効き目はあります!

但し、作る側の人間が
ちゃんと石の特性や特徴を理解していて
一定以上のグレードの石を保持しており、
小粒な物で誤魔化さない。

俗欲(金欲等)などの雑念を込めずに
作ることができる。

メンテナンスをちゃんとしてくれて、
石の状態等のアドバイスのみならず、
装着者の状態(意)も汲んでくれる。

無料や無償等を悪戯に謳わずに
品質(クオリティ)を重視している。

最低でも、これらをクリアしている
作り手さんであること。

また、装着者も同様に...

自身の状態を理解して、
物に頼り過ぎないこと。

石を粗雑に扱わないこと。

外道に堕ちる様な真似をしないこと。

少なくともこれらを意識できるかどうかで、
効果は大幅に変わってきます。

ですが、石を持っているからといって
それだけで幸せになれるとか、
そういう事はまずありません。

石とは、
持っている人の想いの力を強めてくれる
単なる増幅装置です。

その意味を理解した上で持てば、
メリットやデメリットも
分かるようになりますし、効果も発揮します。





Q2:
「守護霊さんって、視えるの?」

A:
視えますけど、本当の守護霊の事を
視える人は極少数に限られています。

守護霊という存在を誤認している
霊能者はかなり多いです。

大体の自称霊能者は、
前世の姿やサポート役の存在の事を
守護霊と言っていますね。

これ以上を知りたい場合は、
大変申し訳ないのですが、
あにきのセッションへお越し下さい。

ブログで書いてしまうと、
似非霊能者や詐欺師といった連中に
情報を与えてしまう事になり兼ねないので。


Q3:
「死後に、会いたい人に会えますか?」

A:
死後に向こうの世界で会えるか?
再会できるかどうか?
というご質問だと思いますので、
そのつもりでお答えをします。

会えると言えば会えますが、
条件が伴っていないと無理です。
様々な条件があるのですが、

例えば、
一方が地獄、一方が浄土の場合では難しいです。
浄土側の方のリスクが大きすぎます。

両方とも浄土であっても、
行き先が違えば格の差が生じますので
格の低い側の方は自由に会う事が出来ません。
(浄土は8つあります)

会いたい人に逢いたいのであれば、
生前に格の下がる業(おこない)をしない様に
徳を積む努力をしていく事が重要ですね。




Q4:
「霊とお友達になることってありますか?」

A:
普通にありますよ^^

だって、死んでるだけで人ですからね☆


Q5:
「自分の意識は、死んだ後も続くのですか?
続くとしたら、いつまで?転生するまで?」

A:
仰る通りで、転生するまで意識は続きます。
ですが、生前の意識そのままでというのは
転生できる条件を満たしている場合のみです。

例えば、そこら辺を彷徨っている悪霊とか、
更にそれを拗らせた存在とか、
そういう輩にグレードダウンした場合は、
とことんまでに馬鹿になるので、
意識はどんどん薄れていってなくなります。

また、転生するチャンスはほぼ皆無になります。


Q6:
「人生って、変えられるんですか?」

A:
変えようと思えば変えられますよ。
善くしたければ、
それを本気で望んで努力すれば良いですし。
何もしなければ悪い方向で変えられます。

また、元々設定してある寿命以上に
命を延ばしたりとかは無理です。