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2026年8月4日火曜日

貰い与える不偏の原理(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




毎日何かしらのストレスを抱えて
暮らしていますよね。

だからこそ、様々な形で癒しを求めて
それを愉しみにされていると思います。

人と会ったり
美味しいものを食べに行ったり
身体を動かしたり

単に横になる人も居れば、
ショッピングで発散や
自然に囲まれて...なんかもありますね。

癒しはとても大切です。
疲れたままではいずれ身体を壊しますから。

そういった中で
何かを求めて動くのが常となっていますが、
忘れてはいけない事が一つあります。

それは、
自分は与えられる側だけでなく

同時に「与える側でもある」

と、いう点です。
癒しだろうとストレスだろうと
この点だけは変わらないのですね。

どうしても人は
戴く側の思考に偏りがちです。
しかし、物事や事象というのは
常に表裏一体です。

貰う事があるならば
そこには与える事も発生します。

ストレスを受けて苦しいと考えますね、
そんな貴方は
誰にもストレスを与えていないですか。

癒されて幸せと感じているだけで
貴方は誰にも癒しを与えていないのですか。

相手が人であろうと違う存在であろうと
ここの原理だけは変わらない。
それがこの現世なのです。




例えば、

貴方が自然に対して癒しを求めている時、
貴方は自然に対して
癒しを与えている側でもあるのです。

環境を大切にしようとかって話ではないです。
それは人の創ったエゴでしかない。

話はもっと単純明快で、
貴方が単にそこに居れば同じ効果を
貴方も与えていますよという話です。

影響力が大きかろうが小さかろうが
癒しは癒しですし、ストレスはストレスです。

自然だろうが人だろうが動物だろうが、
相手がなんであろうとも
物理的物質的な効果以前の
ミクロでマクロなカオスとヒーリング

それらを発生させるのが、
想いと念なのですね。

目先の効果を頼り切るがあまり
その根本の原理を無視してしまう甘え。
想いや念という意識の変遷が
全てを司っているという事実。

それらは人のみではなく
万物に於ける基本的な行動概念なのですね。

その簡便な言い回しを

「想い遣り」

と、云うのですよ。

例えば、パワースポットへ行ったとしてもね
運気を善くさせようという念を
ゴリゴリに抱えているから

運気が劇的に悪化するんですよ。

相手が誰であろうと
想い遣りの原理は
必ず適用されます
それを忘れなければ
率先して動くという
奉仕の精神の重要性も
自然と分かるものやで

2026年7月5日日曜日

幸せを掴む(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




皆さん毎日の生活を頑張りながら
一生懸命に努力されていると思いますが、

一体何が幸せで、
そもそも幸せと云うのは何なのか。

と、考えた事が一度くらいは
あるのではないでしょうか。

「幸せ」と云うものは
個人単位でも変わりますし、
その個人の集まりたる社会によっても
大きく変わってきます。

例に挙げると、
マクロな目線で云えば
我が国と他国の幸せって違いますよね。

ミクロになると、
貴方と隣人の幸せも違いますよね。

それらがある種の目的や目標、
何かしらの一致点が発生した時に
共通認識としての「幸せ」へと変わります。

つまり、幸せというのは
基本的には「個人単位」という事なのです。

貴方が「幸せ」だと
認識している物事やその実感があったとしても

その認識がそっくりそのまま貴方以外の人に
無条件で通用する事は決してありません。

何かしらの条件が重なった場合にのみ、
幸せの共感が作用するのです。

お金かも知れないし、仕事かも知れないし、
好きという感情かも知れないし、
単に社会的地位かも知れないし、
通念上の価値観かも知れないし。

通念上の価値観というのは、
「みんながやっているから幸せ」みたいな
自己の認識よりも
他者の認識に合わせる価値観の事です。

パートナー(彼、彼女、夫、妻)が居るとか
人より早く結婚して見下したいとか、
同様に負けたくないとか、見返したいとか、

宗教観的な価値観や各種団体的な価値観、
日本代表を応援する的なあの感覚。
一部の人間にしか通用しないアレです。

これらが通念上の価値観です。

この様に幸せの条件など
何がどこで作用するのかなんて
全く理解出来るものでもないのです。




つまり、
幸せと云うのは自身で検討決断して
「自律的共感」をすることは是だとしても、

他者の押し付けによる「他決的共有」では有得ない。
と、いう事になります。

幸せのサイズの大小を問わず、
如何に自分自身の判断で
その幸せの本質を理解する事が出来るか。

他者の助言や導きは「きっかけ」として
得る事はあったとしても、
自身の意志による取捨選択が出来るか。

自己意思の介在しない幸福は、
「幸せ」ではない。と、認識出来るかどうか。

言い換えればですが、
そこに自己意思が介在しているならば
全てが「幸せ足り得る」と、云う事になります。

これがどういう事かと云うと
例えば、

貴方は「貧乏神になる事は幸せではない」と、
考えていたとしても、
貧乏神の人は自己意思を介在させて
そうなっているのですから

「貧乏神である事こそが幸せである」
と、考える方が自然なのですね。

現世へ生れ落ちる大義の云々は別として、
自己意思での選択結果がその道であるならば

その志を尊重するのもまた
想いの行使であり奉仕の精神の一つとなるのです。

仮に貴方が努力をして、
友人知人や家族等の相手に対して
貧乏神への道を絶たせようとしたところで、
その相手が自己意志を介して拒絶の選択をしたら

それが相手にとっての「幸せ」に過ぎないのです。

意思表示した先に於ける貴方側の問答などは、
全て想いの行使ではなく「押し付け」です。
早い話が、余計なお世話なのですね。

貴方が現世を一生懸命に生きて浄土を目指すのは、
浄土に向かう事が貴方にとっての幸せに過ぎず、

貧乏神にとっては地獄へ赴く事が幸せなのです。

ならば、
努力の結果として無力だったのであれば
押し付けでは無く引導や餞別を渡してあげる事が、
奉仕の精神の完遂に結び付くのですね。

これは非常に苦しい選択ですが、
想いの行使はどんな場合でも痛みが伴います。

「想い」や「慈しみ」とは、
相手が素直に受け取っていて初めて機能する代物です。

そこを誤認しないように織り進めていくのが
本来のスピリチュアルのなのですから。

大義に於ける
善し悪しではなく
個々に於ける
自己意志を視る
幸せの種別を
最終的に決めるのは
その人なんやで