2026年4月29日水曜日

視えないものが視える時(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




感情を突き動かされた際に、
どこへ向かってその感情を押し出すのか。

これは意識の方向のお話ですが、
人の内面を視る上で
非常に分かり易いポイントでもあります。

感情を動かされる点というのは
日頃から多々ありますが、

あまりに小さいものですと
逆に分かり難くなりますので、
ここでの例えでは冠婚葬祭とします。

人生の中で儀礼として
御身内出なくとも
幾度かは参列をすると思います。

この時に、果たしてどこへ向かって
感情を投げ掛けているのか。

誰のために感情を出しているのか。
これを視るのですね。

こうして文字で読むと難しく思えますが、
実際には至極簡単に見抜けます。

主となる相手に対して涙を流したり
微笑んだりしているのか。

自分に対して、
泣いたり笑ったりをしているのか。

周りへのアピールとして
演じているのか。

第三者として視てみると
面白い様に見抜けます。




気持ちや心、想いや念というのは
想像している以上に形として出るのです。
それはどんなに気を付けていても出ます。

ましてや、
疾しい感情が出ているとなると
視ている側が嫌になるレベルで分かります。

純粋に主となる相手へ真摯に向き合って
動いているのであれば、
その所作は自然体として現れます。

そして、それは儀礼外の部分でも
何ら変わる事がありません。

過去の思い出などという意味で
自分に対して向いている場合も、
割と自然体として出ます。

感情面で希薄になる事も多いですから、
却って薄情者だと勘違いされたりもします。

問題は周りへのアピールの場合。
これは露骨に感情を出しますが、
その出し方が過度となるので違和感を生じます。

大袈裟と考えれば分かり易いですね。
けれども、単に演じているだけですから
驚くほど長続きしません。

そもそもやりたくない事なので、
長続きさせる事自体が出来ないのです。

独りになっている時、
その場から離れている時、
人の目から離れている時、

全ての感情がリセットされて
行動が一気に自分本位へ傾きます。
発言から所作、ほんの少しの動きに至るまで
それまで抑えていた自分本位が

堰を切ったかの様に出てきてしまいます。

人の本性を見抜きたいのであれば、
こういった点を押さえるのですね。

普段から自分本位なのだから、
早く楽をしたい気持ちが秒単位で高まります。
いつもやらない事をやるのですから、
耐えられるものではないのですよ。


人のヤバさを
目の当たりにしたら
迷う事無く
距離を取るべきやで
情を掛けたら
引き込まれて
自分も終わるで

2026年4月27日月曜日

生き方を考えよう(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




眠りから目覚めて一連の動きをして
また眠りに就く。

特に小難しい事を考える訳でも無く、
息が出来て水が飲めて飯が喰えていれば
生きることが出来ます。

現実的に考えた時、
息を吸うこと以外の動きには金銭が掛かります。

なので、何かしらの労働をして
対価としての駄賃を獲得しないといけません。

単に起きてからフラフラとしていれば良い
と、いう程この世は甘くないですね。
この定義は現在の地球上に居る限り
変わる事はありません。

また、国が変われば子供も年寄りも
この定義に加わります。

「生きる為に必要な事を当たり前に行う」

人に限らず生ける者総てが
この定義に則して当然の摂理の中で
同じ時間を過ごしています。

そこで考えが抜け落ちてしまうのが
「生き方」なのですね。

先述したのは「生きる」という
最低限の「動き方」つまり、手段なのであって
生き方という目的を意味する
「考え方」ではないのです。

考え方を思考するのはとても困難であると同時に
態々得ようとしなくてもいい代物です。
生きる事自体は可能となってしまいますからね。




だからこそ、考えなくてはいけない。
この考えの中に「思い遣り」や
「想い」というのが包まれており、

その中枢には個人であれば「素直さ」があり
多数であれば「協調性」が存在します。

それを形に成したものが「文化」であり
「会話」であり、慣わしや習慣でもあります。

私達はこの複雑で複合的な絡み合いの中で、
にも関わらず、個々人という狭隘度の高い状況に
晒されながら毎日を生きているのですね。

ですから、本質的には
大なり小なりの「目的」が必須となります。

実際に自分は何のために生き、
誰のために生きるのか。

一人きりではどうにもこうにも出来ず、
とてもではないけれど太刀打ちも不可能なので
想いを軸とした「生き方」を人だけでなく
万物から得なくてはいけないのです。

どう見積もっても善い事なのに、
何故か意識して思考しないといけないのが
「生き方」という考え方。

デフォルトでセットされていなければ
おかしい筈の思考回路が
どういう訳かオプション設定になっているのが
この現世に生きている私達なのですね。

そして、いちいち考えないといけない部分に
貴重で重要なものが詰まっているので、
考え方に想いが在しており、
その逆の動き方には念が在しています。

これが自然の摂理です。
考えなくても成せる部分を考えるからこそ
その先へ遵じた流れへと向かえるのですね。

これは別に物珍しい話でも無く、
海の向こうでも似た様な事を教えていて
エスキモーが話すユピック語では

生き方というのを
「ユウヤラック(yuuyaraq)」と云い、
単に生きるだけでなく感謝や思い遣り
尊敬や気遣いという「想い」を含んだ
文化的協調性や自然との共生を意味しています。

徒にカテゴライズせずに
現世の中の生ける形を正しく認識すれば、
どこに居たって答えは同じ罫線上のもの
同じ螺旋上のものとなるのですよ。

本来のスピリチュアルというは
万物を総べるものですからね。

意味の無いものか
意味のあるものかを
紡ぐのも選ぶのも
全ては自分なんやで

2026年4月25日土曜日

自身錯誤を見詰めて(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




想いと念というのは
常に同じ場所にあります。

想いを使う時は念もその場にあって
同時に拠出しているという意味です。

思い遣りも同様で、
常に同じ場所には自分本位が居ます。
背中合わせの状態ですから

思い遣りを使う時には自分本位が
出易いという事になります。

相談事をされたり意見を述べる時などが
とても分かり易いです。

人は相談をされたり
意見を求められたりすると
自分の中では意識をせずに立場を作ります。

自然と「自分の方が上」という
認識が出来上がってしまうのですね。

これはどんな場面でも同じです。
そんな事は無いと思いたいところですが、
こういうのが自然の摂理なのです。

その上で、意見を述べたりするのですが、
ここで「思い遣り」というのを
しつこいまでに意識をしないと、
自分本位に支配されてしまいます。

意見を求められているのですから、
当然に話をします。

それもかなり自由に言いますね。

そこで、相手の立場や状況、性格などを
しっかりと考える事が出来ていない場合だと
意見は意見でも無理難題を
押し付けてしまったりするのです。

そして、その事実に意見する側は
全く気が付く事はありません。

後になって考えてみても分かりません。

自分が言われる側になって
初めて理解が出来るのです。
思い遣りだと思っていた事が自分本位だったと。




人に意見を求められるのは
とても気持ちが良いものです。
頼られているという快楽を得ますからね。

落とし穴はそこにあります。
嬉しい気持ちと快楽に溺れてしまうあまり、
相手のためという目的を逸脱してしまう。

一個人に対する意見なのだから、
その個人が行動可能な範囲で
意見をしないといけない。

にも関わらず、
個人ではなく組織に対する意見を述べてしまったり
苦言を呈してしまったりする。

しかも、自分は安全圏に居るので、
言う事は好き放題になります。

これが思い遣りでしょうか。
どう考えても自分本位に外なりません。

こういった場面でその人その人の
駄目な自分というのが露見されます。

どんな時でも「相手のため」「何のため」を
考えなくてはいけないですし、

これ自体は言うは易しで実際にやるとなると
普段からその動きをしていなければ
到底出来ない程に困難な動きでもあるのです。

思い遣りと自分本位、
想いと念は常に背中合わせです。
少しのお手伝いもやり過ぎてしまえば
「余計なお世話」となりますよね。

日頃からの積み重ねが出来ているかどうか
よくよく考えて業を熟していきましょう。
善い事ばかりを考えていると
気が付けば念塗れとなってしまいますよ。


意見を求められた時に
自分達が発した
言葉をよく考えて
考察してみるんやで
あにきとの違いが
よく分かるはずや


2026年4月21日火曜日

自分本位という病(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




あらゆる場面で自分本位というのは
顔を出してきますが、
これそのものはコントロールが可能です。

但し、
それは自身が制御したいと思えばの話。

そのままにしておけば、
必ず自分本位に飲み込まれます。

飲み込まれる事に、人の違いはありません。
子供でも年寄りでも
男性だろうが女性だろうが

職業も関係無いですし、
見た目の感じも関係ありません。

どんな人でも飲まれる時は飲まれる。
それが自分本位というものです。

そして、それは徹底的なまでに
自分自身が原因となります。

誰が彼がと云ったところで
自分が飲まれる事を許容しなければ
飲まれる事はないのですからね。

人が原因でとか
病気が原因でとか
怪我が原因でとか

何を云ったところで、
それを許容し身に帯させたのは
誰でも無い自分自身なのですから。

甘えようと思えば
幾らでも甘えられるのが自分本位です。

おまけに、甘えれば甘える程に
快楽を得るのでどっぷりと嵌ってしまう
それが自分本位の最も悍ましい点です。




身近なところに居ませんか

「だって俺は...」
「どうせ私は...」
「でも僕は...」

と、いう台詞を
免罪符かの如く口に出して動く人。

その人の動きを視ていれば分かりますが、
意識が完全に己にしか向いていないので

周りの人の好みや要望ですとか、
こうしたら善いのではないかという予測とか
自分がされたら嫌な事、嫌な言い回しを
平然と何も問題が無いかの様にしている筈です。

この手の類の輩を、もし、身近な所
例えば、家族や親族で発見したらどうしますか。

そのままにしておきますか。
家族という社会通念を優先させて放置しますか。

それとも、徹底抗戦しますか。
理解をさせるという意味ではなく、
その素行に対して気持ち悪いからと抗いますか。

そのままにしておくのであれば
貴方もその輩と同じです。

きっと、自分は大丈夫とか
自分は自分本位に溺れたくないと過剰に意識して
主語を「自分」にした上で思考している事でしょう。

その段階で充分過ぎる程、自分本位に溺れています。
同類ですね、おめでとうございます。

そんな稚拙な思考回路なので、
自分に対してまともな意見を述べてくれたり
叱咤してくれる家族よりも
我儘を行使したり甘えてくる家族などを優先させてしまう。

そういう思考で居ると気が付いた時には、
叱咤してくれた人は去っていき
二度とまともな話をしてくれなくなります。

幻滅しているのですから当然ですね。
その先に訪れるのは、言い様の無い孤独です。

本当の意味での孤独と云うのは
想像を絶する程に厳しいものです。
貴方が口にしている我儘も甘えも
聞き入る人が居てくれるから言えるのですよ。

そういう人が全く居なくなるのが「孤独」です。

自分本位に溺れた
異形の存在の
成れの果てが貧乏神
貧乏神は貧乏神で
集まるんやけどな
何も満たされないんやで

2026年4月17日金曜日

行動理念で視る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人には、
「動く人」と「動かない人」が居ます。

「動く人」というのは、
黙っていても動きます。
当然に目的をしっかりと定めますが、

その目的は、物などで無くても平気で
気持ちや想いという類の「相手への心情」でも
自身を突き動かせます。

「動かない人」というのは、
黙っていると動く事はありません。

動く為の目的を求めますが、
利害を第一に思考します。
ですので、
金品などの物質が優先となり易いです。

相手への心情を目的にする事もありますが、
その心情は想いや気持ちなどではなく

自身の利益になるかどうかの
「見返り」という点でのみ作用します。




動く人と動かない人とでは、
意見の一致が非常に困難となります。

差しさわりの無い表面上の話や
データをベースとした様な話であれば
一定の一致は叶いますが、

経験則から得た話などの場合ですと、
根本的に合う事が無いと考えた方が良いです。

これは、行動理念の不一致が原因です。

先述した通り、動く人と動かない人とでは
行動理念がまるで異なります。

前者は心情のみでも行動可能なのに対し、
後者は利害と見返りのみで行動を起こします。

前者の方は動く過程の中で
利害行動を重視した動きも経験しますが、
後者の方に至っては心情では動けないので
非常に偏った経験のみとなります。

また、原則として「動かない」訳ですから、
経験値自体が乏しくなります。

全ての動きに於いて当て嵌める事は不可能ですが、
基本的な部分での思考の乖離で
関係性を逡巡してしまっている方は

この考え方を念頭に入れて見極めると
後々の選択や考察時に有用となる。

と、本来のスピリチュアルでは考えます。

動く人にも
善い事ばかりではなく
動き過ぎてしまう
という悪癖がある
何でもやり過ぎは
善くないんやで

2026年4月13日月曜日

祓いへの纏わり(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




「祓い」という動きがあります。

悪霊を祓ったり生霊を祓ったりする
あの「祓い」です。

この動きは中々に労力を要します。
取り分け集中力の消費は結構なもので、
数時間ぶっ通しでやるのが常になりますからね。

僕の場合は、祓いに道具も何も使いません。
使う必要が無いからです。

どうしても、祓いと云うと
仰々しいものを想像してしまいがちですが、
実際にはどんなに
リンリンシャンシャンしたところで

一時的に気分は逸れたとしても、
あんなもの効果もクソもありませんからね。

何をしていても、話さえ出来れば
事足りるのが現実です。

そして、祓い自体の時間は掛かりません。
悪霊にしても生霊にしても
やっつける事自体は簡単なのです。

力を振りかざせば良いのですから。
事実、ものの数分で終わります。

ですが、それよりも祓いというものを
困難なものにさせているのは、

相手さんのケアなのです。




以前にもどこかでお話をしたと思いますが、
結局のところ相手さんの状態そのものを
改善させる方向へ進めないと
意味が無い話となるのです。

付け入られたりする"隙"が
相手さんに生じているから、

憑依されたり家に居座られたりするのですね。

その"隙"をどうにかしない限り、
いつまで経っても同じ事を繰り返します。

それどころか、確実な悪化を招きます。

要するに、単に悪霊や生霊を
追っ払ったり、やっつけただけでは
付け焼刃に過ぎないのです。

では、何をするのかと云うと、
ここも内容的にはかなりシンプルで

相手さんの考え方を変えるのです。

ご自身の持っている"隙"
つまり、弱点であるポイントを
再認識させて改善する方法を教えてあげます。

与えるのはきっかけのみです。

そこへ至る経緯と主だった原因なども
かなり細かく説明をします。

正直なところ、相手さんにとってしてみれば
耳の痛い話になる事が多いです。
そこをまずは懇切丁寧に話します。

素直に聞き入れられない様であれば、
素直に聞ける様になるまで話します。

何で素直になれないのか、までも話します。




祓いに必要なのは、
神秘性でも仰々しさでもなくて
「論理性」と泥臭いまでの「忍耐力」なのですね。

こちら側が何をどうしたところで、
相手さんに変わってもらえなかったら意味が無い。

更には、24時間手取り足取り
サポートする事なんて出来ないのですから、
改善や同じ轍を踏まない様にするには

相手さんご自身に
日々頑張ってもらわないといけません。

なので、「きっかけ」と「方法」を
その場で納得出来るまでお話をして、

あとは後日のケアとフォローが
重要になってくるのです。

ここも理屈は簡単でして、
自身の弱点だった訳ですから
油断をすればいつでも元に戻ろうとしてしまう。

その作用が僕らには例外無く存在します。
「楽をする」と、いう動きです。

新しく変わろうとするというのは、
非常に疲れますし、
場合によっては苦痛すら伴います。

それでも、二度と憑依などを
受けたくないのであれば、
悲しい方向へ進みたくないのであれば、

ご自身で頑張るより方法が無いのです。

しかし、それだけでは危険性の回避に
暗雲が立ち込めてしまい易くなるので、
長い目で見てケアとフォローをして

いずれはご自身で
対策や対処が出来る様になってくれれば
それが一番なのです。

その為に身を粉にして動けるのが
ホンモノなのですから。
必要なのは意地と根性です。

力と威厳を振りかざすのが
ホンモノではないですからね。

日頃の健康管理と
同じでね
自身でどうにか
するのが基本です
その為の知識を
ちゃんと教えるのが
本物ってもんや

2026年4月12日日曜日

気付こうとしない(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




嫌な事が起きている時
または起きた後で

「どうしたら良いのだろうか」

と、思い悩む人が割と多いですよね。
単刀直入に申し上げますが、
そのタイミングでは遅すぎなんですよ。

嫌な事が起きたり起きてから思い悩む
と、云うことは、

それまでに発生していた異変や変調に
全く気が付いていなかったり、

無視をしていたという事です。

色々な場面で様々な存在が
シグナルを発しています。

その信号を如何にキャッチして
自身の動きに添加していくのかが
鍵となる部分です。

そのシグナルを掴む為には
ピントを合わせないといけません。

信号は色々な部分で発生します。
本当に多種多様です。

その人によっても違いますし、
状況や状態によっても変わります。

自身の外側で発生するとも限りません。
純然に自身の内側で起きる事もあれば、
その更に内側で起きていることもあります。

それらに対して臨機応変にピントを合わせる。

あちらこちらと目を向けて
意味や本質を理解する為に耳を傾け、
余すことなく頭を動かし思考する。




そして、これらを活用していると
必ず分かるのが「全ては事後である」という点。

成功の部分のみに信号があるとは限らない。
失敗の部分に成功への信号があるかも知れない。
成功自体が失敗への信号というのもあり得る。

成功しようが失敗しようが
浮かれて何も気が付かなかったから、

嫌な事に「苛まれているだけ」ですからね。

嫌な事と云うのは失くせません。
貴方にとって意味があるのだから、
多かれ少なかれ必ず発生します。

ですが、もし、貴方が信号に気が付ければ、
気付けていれば、嫌な事が起きたとしても
その趣旨や概念自体が変わるので

受け取り方も変わってくるのです。

嫌な事が起きてから

どうしよう
困った
助けてほしい

と、自分本位を剥き出しにして
己だけが救われようとしている内は、
更なる嫌な事が起きる様になるのは必定です。

何故なら、
その時点に於いてもまだ
信号に気付く為のピントを
合わせようとしていないのですから。

ピントを合わせる為に
必須なのが
素直さ度の高さなんや
DD連発させてたら
いつまで経っても
嫌な事は続くんやで

2026年4月8日水曜日

おこない[業]を考える(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自身の日頃の業の善し悪しというのは
その場その場で
分かるものではないですが、

時間が経った後に
その結果は必ず分かる様に出来ています。

どういった点で分かる様に
なっているのかと云うと、

例えば、
自身の喜びを分かち合って
もらえるか否かとか

困った時に助けてもらえるか否かとか
嫌な事を回避できるか否かとか

そういった事象での判断となります。

また、完全に善いことばかりとか
完全に嫌な事ばかりとか

極端な振り方や寄り方もしません。
あくまでも
その都度の善し悪しのバランスで
内容は決する様に出来ています。




かと言って、
嫌な事を回避したいが為に
善き事ばかりを意識して動こうとすると

確実にその逆方向へと
結果は流れていきます。

何故ならば、
善き事ばかりを望むという行為自体が
「俗欲」に過ぎないからです。

善き事というのは、
結果を望んでやることではありません。
見返りを望まずに動くことに意味があります。

考えるべきは
相手からの結果ではなくて
相手のためという素直なまでの「想い」です。

「こうでありたい」
「こうなりたい」

ではなくて、

「こうあってほしい」
「こうしてあげたい」

と、云う純朴なまでの想いが重要です。
この思考と感情が
日頃の業に大きな影響を与えます。




ですが、完璧は存在し得ません。
この逆の思考と感情も
人は持ち合わせています。

想いではなく「念」ですね。

自分本位や俗欲といった念に纏わる
思考と感情も人は常に発しています。

これを無視して想いだけに偏らせて
業を全うするなどという事は
生きている内だけでなく
向こうの世界へ行ったあとでも無理です。

そして、善くない点の日頃の業、
念に纏わる部分というのは
意識をせずとも発することが出来ます。

善い点の日頃の業、
想いに纏わる部分というのは
意識をしないと発する事が出来ません。

つまり、日頃の業というのは
何のため誰のためを特に何も意識せずにいると
善くない方へ全振りしてしまうのですね。

しかし、想いの方は全振り出来ない。
この絶妙なバランスで日頃の業というのは
成り立っており、

その結果への反映も
このバランスを基準にして設けられるのです。

自身を律した上で
日頃の業を
考えなければ
得られる結果は
目に見えているんやで

2026年4月5日日曜日

身を護る術の基本(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




信じるという事が大切です。
しかし、
これは無闇にという意味ではなく

ちゃんと考えを持たないといけません。

また、「信じる」には
度合いとランクが存在します。

度合いというのは、
相手に対する信じる分量みたいなものです。

ランクというのは、
どの程度の立ち位置で信じられるかの
優先順位や分類ですね。

信じるにしても、
誰でも彼でも同じとはいかない訳です。

例えば、

ちょっとした部分だけ信じる事が出来る相手と
特に問題なく信じる事が出来る相手とは
その度合いもランクも違いますね。

ここをちゃんと認識する事が大切です。




そして、
その認識は自身がしっかりと策定して
管理していかないといけません。

また、自身の策定した認識を
相手がちゃんと理解してくれるとも限りません。
基本的に自身の基準は
自身にしか通用しないものですからね。

自分がちょっとした部分のみ
信じる事が出来る相手と思って接していても
相手は全般的に信じているかも知れません。
その逆も然りです。

ここの焦点が合っていなかったり
認識が不足していたりすると

気持ちが通じなかったり
面倒事に巻き込まれてしまったりします。

それを回避させる為に、
意思表示は曖昧にせずに
しっかりと行わないといけません。

特に、面倒事に巻き込まれない様に
する為には分かり易いくらいの
意思表示が必須となってきます。

人の心や相手の気持ちを理解する前に
自身の事ばかりを押し付けてくる人が
老若男女問わず多い世の中です。

自分勝手な解釈をされたり、
自分本位剥き出しな対応をされて
嫌な思いをしてしまう前に

自分の意思というのは大袈裟なくらいに
ハッキリと出来る様にしていきましょう。

まともな人達が
思っている以上に
世間ってのは
自分勝手な輩が
跋扈している
ものなんやで

2026年4月2日木曜日

先んじない(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




スピリチュアルという割には
僕の話の中には
霊という存在があまり出てきません。

ここの内容でもそうですし、
実際にお会いしてお話をしている時も
ほぼ出て来ないです。

二言目には霊が霊がと
口にする人や世間一般の感覚での
スピリチュアルからすると

驚く程にその存在について
触れる事は少ないです。

その理由はとてもシンプルでして、
「幻想に逃げてほしくない」からです。

確かに、霊という存在を中心に据えて
何かにつけて話をしていれば
聞く側にとっての浪漫はあると思います。

けれども、それですと話の中身に
重量を発生させる事は叶いません。

どこまでも似非神秘であり
どこまでもホラー要素でしかなく、
おまけに現実逃避というオプションまで
くっ付いてくる始末です。

それでは何も意味がありませんし、
エンターテインメントに過ぎません。

そうではなくて、
実際にはもっともっと身近な存在であり
論理的に思考し相対する事が出来るのが

「霊」なのですね。

つまり、現実を現実として
確実な認識を出来るようでないと
霊と云う存在の本質は理解出来ないのです。




感覚についてのお話でもしていますが、
第六感というのは
身体的五感の先に存在するものです。

五感を先んじての第六感は在しない。

五感という現実を真摯に受け入れるからこそ
六感というものの本質が視えてくる。

これが本来のスピリチュアルに於ける
基本的概念ですから、
霊という存在への認識についても
それは変わらないのですね。

仮に、霊を前面に押し出して
話を吐出し続けた場合、

五感つまり現実を軽視する様になるのは
自明なのですね。

現実を軽視するから、
元来から恐れるべき存在だけではなく
讃えたり、敬ったり、愛でるべき存在である
「霊」に対して畏怖の念を覚えるのです。

現実というのは知識であり情報です。
五感というのも知識であり情報です。

霊を語りたいのであれば
霊体だけでなくその世界構造までを
熟知していなければ、

結局のところスポット的視点
要は一元的視点に留まるのみですので、
本質からは逆に遠ざかる結果となるのですね。

その先に待ち受けているのは、
生半可な薄い知識を手に入れ己惚れて
自に堕ちていく稚拙で残念な結末のみです。

それを態々誘発させる様な真似は出来ませんし、
どうせ話すのであれば皆さんが堕ちずに
前へと進められる様な
確固たる内容の方が善きですからね。

知っているからこそ、
順を追って知り得る人にのみ話す。
向こうの世界の理に対して真摯に向き合うと
自然とこういった流れとなる訳です。

決してひけらかさずに
どこまでも
相手のためを想う
現実を切に想えば
幻想は現実のものと
信に徹せられる様に
なるんやで

2026年4月1日水曜日

自分本位と薄い知識(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




知識を得るというのは
僕らが生きていく上でとても大切な
要素の一つです。

知識を得る事によって
知恵を獲得します。

知恵を得る事によって
創意工夫が行えるようになります。

これが動き方に繋がっていくのですね。
動き方に繋がるのですから、
それは日頃の業へと連動していきます。

この様に「知識を得る」という過程が
如何に重要であるのかが分かると思います。

ましてや、知識の中身となると
更に重要度は増大します。

この知識を得る過程で要となるのが
「考え方」です。

同じ知識を得るにしても、
考え方一つでその表情と中身は
天地変容するほどの差となって現れます。

ここでお話をしている考え方に
影響を与えるのが
「自分本位」や「想い」です。




自分本位というのが強くなると
俗欲や念という存在に連動します。
この連動が発生すると
確実に中心となる考え方が「楽をする」です。

自分本位がメインで楽をする考え方が
中心になっている状態ですと、
只管に自慢や誇示を優先させようとします。

その対象は基本的に、
自身よりも立ち位置や立場が下の存在です。

自分よりも知識を持っていないとか
仮に持っていても反論が出来ないとか
問答無用の肯定しか出来ないとか

如何なる場面に於いても
自身に反しない相手に持ち得る知識を
ひけらかそうとするのですね。

然しながら、ここでよく思考してみて下さい。
この場合の考え方は「自分本位」がメインです。

と、いう事は、その知識の得方も
例外無しに「楽をする」事が中心となります。

つまり、知識を得る過程に於いても
想いを中心に捉えている人、
誰のため、何のためを思考している人と比べて

極端すぎる程に浅はかになるのですね。
早い話が追究をしないのです。




知識の得方は非常に粗製なもので、

例えば、
有名な人が言っているというだけで
その知識を採用し、仮に後々誤りが見つかれば
その人の所為にして逃げる。

若しくは、自身が言った事すら忘れる。

追究というものを行わないですし、
その概念すらもありませんから
自身での更新が発生しないので
知識自体が「薄く」なります。

ここで注意しなければならないのは、
知識を深堀する為に、
知識自体を得る為のきっかけとして行う
「広く浅い知識」とは

根本的に異なるのが「薄い知識」です。
薄い知識とは、その場限りの知識であって

知識自体に興味を持ったり
知識の本質を理解しようと
探求する為のものではなく

前述した通り、自身の誇示や自慢などの
醜い目的を達するための手段に過ぎない代物です。

この様に、自分本位が主となった存在は
どこまでもこの動き方と考え方を続けます。
そうして信頼や信用を失っていくと同時に、

楽を続ける訳ですから、追究をしないので
年数や日数などの時間から得られる知識量や
知識の質量の比例化が発生しないのですね。

これが何を指し示すのかと云うと、
時間が経てば経つほどにスッカラカンになる
と、いう意味です。

にも関わらず、
自身の立場だけは保持しようとするので
端から見ると人の形をしただけの
「歪な生き物」へと変容するのです。

知識を得ると言っても、
自身の得意な部分のみに限定せずに
あらゆる側面を意識して視点を作り
そこからの知を得る(さとりをえる)。

限定的に捉えて楽をすればするほどに
お山の大将となるのですから、
それは非常に情けない結末となります。

そうならない様な考え方や動き方を
日頃の業を通じて錬成していく事が大切です。

薄い知識を
ひけらかす奴は
直ぐに感情的になり
逆ギレしたり
小馬鹿にするから
判別しやすいんやで