2026年3月29日日曜日

善きと呼ばれる動き方(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




想いというのは様々ありますが、
必ずしも
自身の思い描いている質量そのままに
相手に届くとは限りません。

そこには相手さんの性格もあれば
考え方や生き様、立場、

貴方に対する想いの形や質量など
色々な分類要素があるのですね。

何もかもが自身と同じだと
考える方が烏滸がましい限りで
それを中和して

融和させていく努力が必要です。

相手に対して何を想うのか。
自分はどういうスタンスなのか。

自分をどこまで押し出すのか。
ちゃんと優先順位を考えているのか。




自身の想いの質量を
徒に減らす事無く
相手に届けたいのであれば

それまで以上の努力の維持継続が
大切になってくるのです。
全ては受取る側次第なのですからね。

自分を抑え込んでも駄目。
相手に忖度し過ぎても駄目。

ありのままの姿で
ありのままのを理解し認める。
努力するべきポイントは
その認知と理解度の共感にあります。

辛く苦しければ辞めれば良いですし、
それでも努力を続けるのであれば
それまで以上にやればいいだけ。

但し、そこに相手がちゃんと居て
相手の方を見据えていて
目的を逸脱しないこと。

頑張る事に集中し過ぎると
その頑張りという手段自体が
目的となってしまい、

気が付けば自分本位に
飲み込まれてしまいます。

自分をしっかりと管理して
自分を大切に出来る様でないと
相手のためを想うというのは
非常に困難なものへと変貌します。

想いと念は同一のモノで
常に表裏一体です。

自身が想いを重用している時は
念もまた自身を見つめている事を
忘れてしまってはいけませんよ。

一方向のみを思考したり
一方向のみに動く事は
「楽」に該当するのですからね。

目指すべきところは
「想い合い」です。

努力と怠惰は
別物と思いきや
実は背中合わせ
意識は常に
両方向へ向けて
動く事が
重要なんやで

2026年3月28日土曜日

新たな自分を獲得する(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




過去の失敗があるから
次は間違えない様に努力する。

生きていく上での基本的な動き方です。
失敗を基にして成功の鍵を探る。

失敗という一つの結果を
恐れていては先に進めませんから、

誰しもがこの動きをするのが
妥当だという事になります。

ですが、
実際には過去の失敗があるにも関わらず
また同じ事を繰り返してしまう。
そういうケースの方が多かったりします。

失敗そのものは認めていても
過去の自身の過ちを認めていなかったり

失敗したポイントの解釈を間違えていたり
自身の中で極度な決め付けをしていたり、

こういった場合ですと、
同じミスを繰り返したり
重要なチャンスを自ら逃したりします。

今までに経験した事の無いケースだから
奥手になってしまうとか、
より一層の安全パイを利用しようとするとか

自己防衛の視線で捉えると
妥当だと考えがちです。

然しながら、
これらを言い換えてみると
「勇を用いる」を拒絶しているのですね。




何の考えも無しに飛び込んでみる
という意味ではなくて、
支えてくれる相手やサポートしてくれる相手、
理解してくれる相手が居るのであれば、

ましてや、それが
信ずるに値する存在であるならば
そこを信じて飛び込んでみる。
(これが「信に徹する」です)

この時に、自身の優先度は下がって
相手の優先度が自然と上がります。
(これが「奉仕の精神」です)

信ずるに値しないのであれば
自身を優先させて自己防衛に徹する事は
間違いではありません。
問題のポイントが違いますからね。

いつもながら難しく聴こえますが、
これは成長と進化のお話なのですね。
成長や進化というのは、
想像以上に身近なものなのです。

「過去を乗り越える為に如何に勇を用いるか」

「前へと進む為に如何に信に徹するか」

「信ずるに値するために如何に伝に務めるか」

これらをどれだけ使い熟して
これまでの自身から脱却させるか
そこには想いや思い遣りが存在していて
それらを受け取るからこそ前へと進められる。




子供が新しい動作を獲得する時も
(おトイレとかお風呂とか自転車とか勉強とか)

大人が行き詰まりや幸せを目指す時も
(ビジネスとか恋愛とか生活そのものとか)

どんな年齢になろうとも
この流れと中身だけは変わるものではないのです。

それまでの自身や
それまでの考えに拘り続けると云う事は
過去の恐怖に身を委ねているのと同義です。

確かに恐いものではありますが、
それを言っていたら何も成長しませんし
進化する事も出来ません。

恐いからこそ、その根源をちゃんと視る。
信ずるに値させる為によく会話をする。
(ここでの会話には触れ合いも入ります)
信ずる相手との共感によって分散させる。

これらを放棄する動きが過去への拘りであり
過去への自身への甘え
つまり、「自分本位」となるのです。

僕らは常に成長と進化を目指しています。

そのサイズはとてもとても小さいですが、
その小さいものの積重ねが
大きいものの獲得へと繋がるのですからね。

恐怖に負けて楽を取り
自に堕ちるような真似をしない様に
努力をしていくことが
僕らが産まれてきた目的の一つなのですから。

型に嵌らず
新たな面を目指し
新たな気持ち
新たな感覚
新たな知識
新たな経験を
得ていくんやで

2026年3月26日木曜日

出現箇所と予防措置(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




前回の続きです。
自分本位というものが実際には
どういった箇所で出てくるのか。

これという場所や場面はありません。
決まっていないので
ありとあらゆる場面で
出てこようとします。

但し、一定のルールはあります。
1つが俗欲の絡む場合です。

俗欲と自分本位というのは
かなりの部分で似ています。
ですが、全く同じものではありません。

なので、出現箇所も当然に似てきますし、
影響の受け方も似てきます。

自分本位が俗欲に影響を受ける事もあれば
俗欲が自分本位に触発される場合もある。
俗欲がハード面だとしたら
自分本位はソフト面みたいな感じです。

俗欲が絡む場合の自分本位の
動き方は強力ですが表面的です。

直接的に出現する事が殆どですから
認識する事と制御は比較的簡単です。
見て分かる感じだと思えばいいですね。

当人でも他者でも見て分かります。
ですから、認識も制御も容易いのです。




もう1つが性格や感情に絡む場合です。
前述した場合と違い表面的ではなく
根の深い部分が起因となる自分本位ですので、

本格的に制御を目指さないといけないのは
こちらの自分本位となります。

表面的な出現ではないので
直接的な動きとしては出て来ないのが特徴です。

前回ちょろっと話に触れた「擬態」
と、いう表現をしたのはこの自分本位。

一見すると「想い」や「思い遣り」
という様な自分本位とは真逆に位置している
思考や業に似せて出て来ます。

物凄く小さい例で云うと、
「ええかっこしい」がその典型です。

見えている狭い範囲に焦点を絞って
目的をセットしてしまうため
自分だけが良ければいいとか、
自分が悪役になるのを忌避して起きる自分本位。

交差点などでの右折譲りみたいなやつが
これに該当します。

譲り合い自体は自分本位では無いです。
寧ろ、想いや思い遣りに入ります。
しかし、それは状況判断や状況把握が
しっかりと出来ている場合に限ります。

では、これが自分が先頭で渋滞中であったり
対向車の視野角が満足に取れない場合でしたら
果たしてどうでしょうか。

貴方が気にしないといけないのは
後ろ側であり対向車ではありません。

対向車は、待っていれば曲がれます。
元々の優先順位では最下位ですからね。
大渋滞しているのであれば
後続車の為にも前進するのが優先です。
(前方も詰まっているなら話は別ですよ)

このケースでは自分の中の良心を
思い遣りと称して出しているつもりですが、
実際には周りを視れていないだけの自分本位。

渋滞はしていなくとも
対向車の視野角が取れていない状態で
どうぞと譲ったらどうなるでしょうか。

右直事故を引き起こすリスクに繋がります。
ここでも気にすべきは後方であり
相手のためを考えるのであれば
相手が事故らないための状況把握が必須です。

両ケースに共通しているのが
悪役を忌避する思考です。




誰だって善い役を全うしたいものです。
けれども、それには悪役の重要性も
理解を示さないといけません。

勧善懲悪な思考で性格や感情があると
想いや思い遣りに擬態をした自分本位が
露呈する場面が増えていきます。

そうなると、決して悪い人ではないのに
不幸な事が続いたりして
端から見ると謎な現象が発生するのです。

その要因の一つが擬態した自分本位。

自分の中では善い事をしたと思っていても
周りからは全力で念を当てられてしまう。
想いの皮を被った自分本位を
想いであると認識して疑わないから

あらゆる場面で似た行動をしてしまうので
結果、念を加算的に引き寄せてしまいます。

この性格や感情という自身の根底が
トリガーとなる自分本位は
分かり易いケースが非常に稀なので
自身でも他者でも見分けが難しいです。

尚且つ、根底の認識問題である事と、
素直さ度という触媒も関わってくるので
指摘されてもその話すら拒否したり
意味そのものが理解出来ない場合も多いです。

ですが、実際に指摘を経験されて
制御や改善へ進んでいる方ならば
これらの説明でも直ぐにピンと来る筈です。

あまりにもケースバイケース過ぎて、
1つ1つの最適解を導き出すのは困難を極めます。
ですから、前回もお話をしましたが

「何のために」「誰のために」

と、いう問いを常に片隅へ留めておいて
抜き打ち的に使う事が
対策としても予防措置としても
重要となってくるのです。

善い部分だけに
気取られていると
ステルス化した
自分本位に
飲み込まれて
しまうんやで

2026年3月25日水曜日

自分本位のコントロール(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




自分本位というものは
いつ何時も場所や状態を問わずに
出てこようとします。

何なら形を変えて思い遣りに擬態したり
想いそのものに擬態したり、

ありとあらゆる方法で
出現しようとしますし、
自分本位そのものに
溺れさせようともしてきます。

かと言って、自分本位そのものが
「悪」かと云うとそうではないのです。

自分という個別の存在を護るための
自衛手段でもあり防衛本能でもありますし、

俗欲や欲自体に影響力を与えたり
与えられたりする思考ですから、

何かの行動を始める場合の原動力ともなります。

つまり、
生きる為に必須のものでありつつ
重篤な害を成す事もある劇物なのですね。

自分本位を「完全悪」や「絶対悪」と
決め付けてしまう事が
著しく危険な行為だという意味は

生きる為に必須なモノだからです。

嫌な思いや辛い経験をしたからと云って
脊髄反射的に
自分本位を忌み嫌う人が居ますが、

そんな事をしても改善を目指すのであれば
全くの無意味ですし

そもそも我々という存在の
構成要素の一つなのですから、
消そうとしても消せません。

消そうとしたり抑え込もうとする事自体が
馬鹿げている行動なのですね。

忌み嫌って消そうとする動きや
抑え込む動きをすればするほど、
自分本位は指数関数的に威力や効果範囲、
影響範囲やその出現方法が増していきます。




こうなってしまうと、
最早自身ではどうする事も叶いません。
自分本位に流されてしまって支配されます。

そうならない様に、こんな自分本位も
「自分なのだと」認めてあげるのです。

忌み嫌うから否定をするというのは、
嫌なものには蓋をしたり
目に入らない位置に遠ざけたりする事を指します。

それですと実態解明へ向けた
一切の行動や業を放棄するのと同じ事です。
同時に、野放しにする事にもなります。

野放しにしてしまったら、
もう何が何だか分からなくなります。
それを避ける為にも「勇を用いて」
認めてあげるのです。

そして、自分本位を事前に自分本位だと
認識する事はほぼ不可能です。
全ては事後で確立されます。

要は、やっちまった後でなければ
分からないという意味です。
如何にやっちまってからの最速最短で
気が付く事が出来るかが勝負となります。

そこへ結び付ける為のチェッカーとして
「意識の方向の認識」が存在します。

簡単に云えば、何かの業ごとに
「何のために」「誰のために」
と、云うクエスチョンを
常に頭の片隅へ留めておく思考です。

我々は常に楽をしようとする存在です。

その楽こそが自分本位の具現化した姿ですが、
絶対に「楽をしては駄目」なのではなくて
ここの楽には意味があるのかという疑義を持つ。

動きの楽、思考の楽、感情の楽、心的な楽、

何処にでもあって何処にでも生まれるのが「楽」。
便利と手抜きや思考停止との狭間で
成長要素としての「苦労苦心」を棄てていないか。

そこへ目を向けてあげる事が
「認める」という業です。

これが出来なければ
自分本位のコントロールなど不可能と言えます。

ありのままの姿を
ありのままの姿で
認めてあげる事が
運気アップや
貧乏神化防止に
繋がるんやで

2026年3月23日月曜日

経験を重ねて(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




物事を考えたり捉えたり
ましてや、自身で進めたりする際に
大枠で思考し過ぎがちです。

然しながら、
実際は人体の細胞の如く
小さい物事の積重ねであり集合体です。

善きことも嫌な事も
小さいことが積重ね起きるのです。

小さい善きことが積重なるから
大きい善きことが手に入ります。
小さい嫌な事が積重なるから
大きい嫌な事へと発展してしまう。

人生もそうですね。

寿命を考えた時、この先何十年みたいに
数字上の大枠で捉えてしまうが故に
あっという間だなと考えてしまう。

ですが、実際は
この先何十年だったとしても
それは日々の生活の積重ねです。

一日一日を疎かにしていれば
その無駄な時間が積重なっていくだけですし、

24時間という限られた時間を
フルに活用して一日に於ける経験を
その感覚を大切にしていけば
それらの積重ねが確実に形と成るのです。




ちなみに、
一日は24時間ですが実際のところ
睡眠を抜いた意識的に使える時間は
もっと少ないですね。

仕事で使う時間、
家庭に費やす時間、
自分に費やす時間、

これらを週・月・年単位で掛け算すると
一日の貴重さがよく分かります。

そこに病気や怪我、各種イベントなどで
消費する時間を考慮すると
更にその貴重性が増してきます。

これを有用に利用活用するのか
無駄にして投げ棄てるのか
答えは考えるまでも無いのですけどね。

この限られた小さい小さい時間の中で
縷々様々な物事や事象を消化していく。

そして、
その些末とも思える様な螺旋の中で
想いや念や愉しみや辛さ苦しさがあり、
それを形として紡いでいくのですね。

活かすも殺すも自分次第。

生殺与奪は自分が手にしているのですから
どうせなら無駄にしない様に
心掛けていくのが賢明だと考えるのが
本来のスピリチュアルの基本です。

難しく考えずに
ありのままの姿を
ありのままの姿で
よく視て
よく聴いて
よく考える
これに限るんやで

2026年3月21日土曜日

自分愛しや勇知らず(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人との関係性だけでなく
ありとあらゆる関係性に於いて

自分優先にしたり
自分本位を剥き出しにする事が
宜しくないことだというのは
ここでは既に常識ですね。

その業の中で自分のためではなく
相手のためを考えて
率先して動くことが大切なのだと
常々お話しておりますが、

相手のためを考えて動くと
自分のためと考えた時と比べて

一体何が変わってくるのでしょう。

答えは1つではないので
色々とあるのですが、
大きく変わってくるのは

「勇を用いる」という点です。

自分のためを第一優先にして
行動を起こした場合、
少なからず相手を傷付けたり
辛い思いをさせたりする事になります。

その分、自分はとても楽です。
辛さや苦しさからは逃れられますからね。

では、逆に相手のためを想って
自分ではなく相手を優先させたら
どうなるでしょうか。




自分の希望や願望を一先ず置いといて
相手の事を優先させるのですから、
簡単に云えば我慢をする事になります。

我慢ってやつは苦しいし辛いですよね。

相手のためを想えば何のその。
苦しませるくらいならば自分が。

と、分かってはいてもやはり苦しい。
そして、辛いのも容易に想像出来るから

達成させるのであれば
気合いを入れないといけない。
これを「覚悟」と、云います。

この「覚悟を決める」までの過程で
必要になってくるのが「勇気」です。

苦しみも辛さも確実に眼前にある。
そこに向かって態々行かないといけない。

自分を優先させれば
その苦しみも辛さも感じずに済む。
どうしようか。楽したい。

そんな葛藤を振り払うのが勇気です。

実際のところ、相手のためという
奉仕の精神が普通の状態の人であれば
こんな事考えもしないのですが、

皆がみんなそうではないですし、
今以て自分本位に翻弄されまくりで
グルグルしている人は多いですからね。

こういうメカニズムを知っておくのは
とても有用だと考えます。




少し話が逸れましたが、
自分のためで行動を
起こしてしまう人というのは、
勇気を用いてないのです。

自分よりも相手が苦しめばいいという
想いとは程遠い考え方がデフォルトで、
「勇を用いる」という言葉の意味さえも
理解が出来ない状態なのですね。

それなのに、相手を傷付ける事は
決して宜しい事ではないのは知っているから

さも自分は想いを大切にしていると
豪語してみたり思い遣りだと
言ってみたりする。

ですが、それはあくまでも詭弁であって
自分の卑怯さを見せない為の戯言だから
豪語する割には態度では示せない。

ましてや、普段から勇を用いてないから
見て見ぬ振りが当たり前の状態となって
絶対安全圏でないと何も出来ない様な
究極の内弁慶となるのです。

逆に云うと、
こういう状態から抜け出たいのであれば
勇を用いて覚悟を決めれば良いだけです。
意外と簡単な事なのですよ。

それでもやれないという事は、
貴方にとって相手が然程大切でないか
貴方自身が貧乏神なだけか
そのどちらかという事なのです。

まぁ、心が弱くて残念な人って事ですね。

勇を用いない奴の
言葉ってのは
薄っぺらいから
話しているだけでも
本性が分かるんやで

2026年3月20日金曜日

思い遣りと自己主張(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




思い遣りというのを考える時、
譲り合いや譲ることだと教わる事が
しばしばあると思います。

確かに間違いではないですし、
お先にどうぞ的な意味合いでも使いますね。

ですが、「思い遣り=譲り合い」
と、断定して捉えてしまうのは
少々危険なことでもあります。

思い遣りというのは、

「相手のためを思考し
可能な限りを予測し率先して動く事」

であると、
本来のスピリチュアルでは考えます。
要は、その場面によって内容が変わる
という事ですね。

譲るという選択が最適解の場合であれば
それが思い遣りとなりますし、

逆に先行して取ったりする事が
その場の最適解であれば
それが思い遣りとなるのです。

どこに目的を置いていて、
優先順位は何なのかを理解しているかどうか。

そして、その優先順位は状況により
変動するものだと認識しているかどうか。

相手の受け取り方次第でも
意図が変わるものだと承知しているかどうか。

「思い遣り=全き善」

とは、成り得ないと考えられるかどうか。
思い遣りとは、これらが組み合わさった際に
最小範囲で出来上がるものとなります。

思い遣りを発動させる時は、
意識の方向を外側に向けて目的をセットします。

また、この際に「善い行動をしよう」とか
「善い人に思われたい」などと考えるのは
意識の方向が内側へ向いてますので
思い遣りが発動する要件とはなりません。




内側へと向き過ぎている場合は、
思い遣りではなく単なる「自己主張」となります。

一見すると自己主張に見えてしまう様な
思い遣りも実存します。

例えば、相手に何かを教えたりする場合、
自己主張ギリギリの尖点でないと
意思の授受が出来ない事があります。

こういった際に受け取り側によっては
思い遣りではなく自己主張だと
捉えられてしまう可能性があるのですね。

相手側の意思や意図、本質を聞き出したり
調和や融和を促す際に
こちら側の話を軸として伝えます。

その時に、相手側の認識が浅かったり
自身の言葉が足りていなかったりすると
思い遣りとしてではなく自己主張として
視えてしまったりするのですね。

目的さえハッキリとしていれば
誤解は融解するものですが、
相手の認識次第という側面もありますので
それ相応の覚悟も必要となります。

一目見て分かり易い動きの思い遣りもあれば
即時に理解する事自体が困難を極める様な
思い遣りも存在します。

ええかっこしいのみでは成り立たないのが
思い遣りという業ですから、

想い遣るのであればその対面たる部分を
理解して動かなければいけないのですよ。

「善い部分だけを考えていては駄目」

と、いう意味です。

想いを遣うなら
想いを考える
のではなくて
念を理解する様に
努力するんやで

2026年3月19日木曜日

心の理解度(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




人と話をする中で「分かる分かる」と
簡単に共感が出来る物事などは

非常に浅い領域の話であって
どうでもいい事が殆どです。

真に共感をしてほしい事や
分かってもらえると安心したり
嬉しかったりする物事というのは、

聴いているその人が経験した事のある
物事でないと、その共感は得られません。

ましてや、理解などと云う事は
はたはた遠い話となります。

この共感を「心の理解度」と云います。

過去に有った体験が元となって
人は性格を形成していきます。

嬉しい事や幸せなことだけでなく
心を傷付ける様な出来事や
苛烈な出来事が起きたりすると

ちょっとした歪みが作られたりします。

その歪みは一般常識や社会通念とは
ごく微量ではありますが
懸け離れたりするもので

自身は常識を全うしているのに、
何故なのかと深く思い悩んだりします。

また、それを人に相談した際に
話を聴く側の経験が乏しい場合や
同様の経験を熟していない場合ですと、

相談の意図や話の真意、
心根の深さを共感する事が不可能となるので

答えるにしても
当たり障りのない回答であったり、
聴く側の保身に走る内容であったりします。




その回答は相談する側の
求めているものではないので落胆に繋がります。

そういう事を繰り返してしまいますから
結果として、

「言っても分からない話はしない」

と、いう結論となってしまいます。
この手の経験をされている方々は、

元々ニッチな経験や過去だというのを
理解していますからね
当りが少ない事自体を承知しているのです。

それでも相談をしたり、
話を聴いて欲しい時がある。

しかし、中々真意が伝わらないから
自己解決が常となってしまうのです。
とても哀しい現実です。

全く常識外れではないのに、
世間的な声としては常識外れとなってしまう。

そのズレや歪みを胸の中に抱えたまま
ある種の偽りを貫いていくという過酷な現実。

大きく心を傷付ける事無く、
普通に何ら問題なく生活をしてきた人には
決して分からない矛盾だらけの心内。

例え、家族であっても理解に繋げるのが困難な
「痛みの咀嚼」や「心の共感」
と、いうものがあるのです。

この点を理解出来る人は限られていますから、
そうでない人であるならば
テキトーな事を答えるのではなく、

「自分には分からない」
と、明言する勇気が必要です。

手持ちのデバイスで調べればそれっぽい答えが
直ぐ分かる世の中ですが、それは正答ではない。

便利な時代だからこそ、
分からないものは分からないと素直に言えないと
信に徹するには程遠いものとなってしまうのですよ。

経験したからこそ
本質を共感出来る
そういう存在に
なれる様に
努力するんやで

2026年3月17日火曜日

素直さと反復反芻(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




いつも色々と教えていると
その人の性格は基より

その根っこにある大元の思考が
浮き彫りになって視えてきます。

その一つが素直さなのですが、
これは本当に人それぞれ違いまして
素直さ度が高い人も居れば
残念でしたという様な人も居ます。

素直さ度の高低によって
何が変わってくるのかというと
動き方そのものが変わってくるのですね。

その一つが
反復反芻(はんぷくはんすう)。

何度も意味を噛み締めて考えて
その理解度を増して活かす。

と、いう意味の言葉であり動き方です。




素直さ度が高いとこの動きを
自然と行えるものなのですが、
逆に低いとこの頻度が下がります。

何故かと云うと、
その場その場での解釈に固執するからです。

もっと言うならば、
相手の教えたい内容よりも
自身の中の勝手な解釈が優先されるからです。

何につけてもカテゴライズするとか
枠組みを決めないと動けないのが
素直さ度の低さの特徴で、

連続した繋がりの思考というのが
非常に苦手なのですね。

例えば、
今日はこれについて教えます。
明日はこれについて教えます。
話の内容は違いますけど、
全て繋がっているお話です。

学校のお勉強もこういう流れで細分化させて
教わったり教えたりすると思いますが、
その目的は後日必ず繋がりますよね。

足し算と引き算を覚えるから
掛け算と割り算を覚えられるし、
その先の分数や百分率や方程式などに繋がる。

何ら難しくないお話ですし、
細分化した部分については理解が出来る。

けれども、あくまで細分化した部分で
ピリオドを打たないと理解が及ばないので、

全てが繋がっているのだという
考え自体が浮かんでこない。
これが素直さ度の低い人の特徴なのです。




結果、その場凌ぎに偏る様になります。
教わった瞬間に理解した気になってしまい、
復習という概念が生まれない。

仮に復習をしたとしても
全体の繋がりが理解出来ないので
得意な部分や好きな部分のみに偏ってしまう。

そして、それすらも続かないので、
三日坊主となり記憶から消えていく。

学校での学習であればテストという形で
その目的が維持出来ますからまだ良いですが、

世間に出てからの学習つまり
人間関係や社会生活となると
テストなんて有りもしないですから、

とことんにまで何もしなくなっていく。
本来必要不可欠な反復反芻という動きを
全くと言って良い程やらなくなるのですね。

早い話が我儘になっていくのです。
ただそこで生きているだけの存在となる。

眼の前に自分が興味を持てる餌があれば
なんとか動けるので、
人の指示や命令を待つようになり

自己意思は好き嫌いを選択する為だけの
超簡略化されたもののみとなっていく。

これが素直さ度の低い人が辿る道です。
畜生と化した人生はつまらないですから、
満足度を得る為に好きなものだけを
欲する様になっていく(餓鬼)。

こうしてどんどんと俗欲中心に動くので
自分本位が自身の中に溢れ続けていき、
果ては貧乏神へと堕ちるのですね。

さて、貴方は今どんな状態でしょうか。

意味は一度で
理解が出来る程
簡単ではない
どんな物事でも
それは同じなんやで

2026年3月13日金曜日

動きを意識する(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




本来のスピリチュアルで云うところの
視線や視野、視点というのは

教わって直ぐにとか
ふと思い立ったからと言って
簡単に構築出来るものではありません。

日頃の生活の中で使っているからこそ
その身に沁み込んでいくものです。

では、どういった場面や部分で
その感覚をやしなっていくのかと云うと。

まずは、視線や視野や視点自体に
気が付く為の基礎を作る必要があります。
その基礎というのは、
主に動きの中に隠れています。

どういった動きに注力するのかというと、
「無意識」です。

無意識という動きは
僕らの日常の中に溢れています。

普段はあまり考えないと思いますが、
日常の生活というのは
実は無意識の動きの方が多いです。




歩く、立つ、座る、寝る、
見る、聞く、嗅ぐ、食べる、触る

これらの混合動作であり
連動した動きでもあり、

明確な動作があるにも関わらず
それらを軽視したり
失念したりする動きや思考、

それが無意識というものであり
無意識を纏う動きです。

例えば、歩くというのは
そこに明確な動作がありますよね。
脚を上げる、踏む、踏みつける、
支える、腕を振る等です。

かなりの混同動作であり連動動作ですが
いちいちそれを考える事はないものです。

その考える事の無い部分に対して
意図的に意識を向けます。

自分が今何をしていて、
どういう動きをしているのか。
どこをどう動かして、
どういう力加減でどんな感覚なのか。

それを得るのです。
ここで注意しないといけないのは、

「自身のみが分かれば良い」

で、終わらせない事です。
自分の向けた意識から得た感覚を
他者にも伝えられる様に文言化させます。

紙に書くとかではなく、
ましてや、纏め抜いている作文でもなく
ある程度の説明が可能になるレベルでの
文言化を自身の中で行います。

ここをやるのとやらないのでは
その後の結果に大きな差が生まれます。




単に自分の中での理解のみで
終わらそうとしてしまうと、
記憶に遺す割合が減ってしまいます。

要は効率が悪くなるのですね。

また、他者に伝えようとするにしても
纏まった文章や作文として思考すると
今度は綺麗に見せたいという
余計な考えが浮かんできます。

そうすると事実との乖離が発生します。

これではやはり効率が悪いですし、
そもそも目的から逸脱してしまいます。

そして、
なるべく分かり易い文言で
オノマトペの類に甘えすぎずに
比喩や例えを交えながらも簡潔にさせる。

物凄く煩わしさを覚えると思いますが、
これらには自分本位を制御させる為の
意味合いが入っているのです。

どんなに無意識に対して意識を向けても
自分本位に流されてしまえば
動きの意味など消失します。

どんな場面でも必ず出てくるのが
自分本位というものなのですから、

それを認めずして感覚を掴んだり
視野を構築するなど不可能に近いのですね。

こういう地味な動きを日頃の生活へ組み込み
実践して使っていく事で、
見えていなかった事が視える様な視野を
作れる様になっていくのです。

今まで全く
向けていなかった
方向に
視界を向けるのが
運気アップには
大切なんやで