今回は大切な考え方について
お話をしたいと思います。
日頃の生活の中で、
嫌な事というのはどんなに小さい事でも
記憶に残ります。
例えば、
今朝から今の今に至るまでの間でも
キレたりムカついたり
純粋に嫌だと思う事の方が
頭の中を占めている人が多いと思います。
ですが、
少し疑問に思いませんか?
本当に嫌な事ばかりでしたか?
善い事なんて一つも無かったですか?
嫌な事は覚えているのに
善い事は覚えていない?
そんなに嫌な事だらけでしょうか?
半々とかならいざ知らず
全く覚えていない
全くないというのは、
普通に考えておかしいと思いませんか?
ぶっちゃけた話、
1(嫌な事):9(善い事)の割合で
実際には善い事の方が多いです。
では、どうして善い事というのは
覚えていないと錯覚するのか。
それは、善い事があまりにも小さいのと
本当の意味での善い事というのは
俗欲に属さない事だからです。
あまりにも小さくてあまりにも多いから
感覚がバグっていて視えなくなっている。
森の中に居ながら
「木はどこにある?」と、
間抜け面して探している様なものです。
普段の生活の中で、
特段の嫌な事が無い状態が普通なのに、
どういう訳か嫌な事を作ろうとする。
少なくとも自分には善い事尽くめだなと
思う事が出来るのなら、
ほんの少しの嫌な事などは
気にも留めない筈です。
ですが、気に留めるどころか
気になって仕方ないレベルまで
嫌な事を記憶してしまうのは、
思っている以上に善い事に
囲まれているから。
善い事というのは想像以上に小さいです。
当たり前の事が当たり前に行える。
それが本当の意味での善い事の典型。
この理の中に属しながら
この理屈が理解出来ない。
だからこそ、
(欲を芯に据えた)
自分にとっての善い事
皆が羨むような善い事
を探そうとする。
けれども、それは欲中心ですから
善い事ではなく嫌な事の方に
属するものなのですね。
つまり、
善い事=小さい幸せ
という事に気が付けないと、
嫌な事を忌避すると言いつつ
嫌な事を望む様になっていき
本当に嫌な事が重なっていって
貧乏神の入口に立ち、
やがては地獄堕ちする。
欲と言うのは消せません。
寧ろ、この現世で生きていくのに
必須のものです。
欲は手段でありきっかけです。
決して目的とするものではないのです。
だから、制御をしなければいけないし、
欲というものを理解しないといけない。
自分は幸せな環境にいる
というのを理解しないで、
もっともっと moer and more と
あれやこれや欲し続ける。
結果、善い事が分からなくなって
嫌な事ばかりが目に付いていく。
もっと周りを視て、
もっと自分を覗いてみましょう。
足るを知る事に注力すれば
善い事の数や輝きがハッキリと視えますよ。
善い事を決して忘れる事はありませんからね。




