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2025年2月12日水曜日

数の魔力(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




日常の中、個々人単位で
何かを考える時に、
一つの目安となるのが

「数や数値」です。

この時に、選定の基準として
多い方を選んでみたり、

はたまた、自分自身が
多数に向かって邁進してみたりと、

何かにつけて数に翻弄されます。
これが、
「数の魔力」です。

どうしても、「多数は正義」
と、いう風潮がありますので
ある程度は仕方ないのですが、

そこに自身の意識を向けすぎると
俗欲に埋没してしまう結果と
なってしまいます。




かと言って、中身の無い少数へと
何かを委ねなさい
「少数こそが正義」という様な
阿保らしい極論ではないです。

大切なのは、
数に惑わされずに

「本質を見極める」

と、いう点となります。

数での解釈は社会を円滑に進める上で、
とても合理的な手法です。

然しながら、
思考停止を誘う面もあるので
非常に危ういのも事実です。

何でもかんでも多数に頼り過ぎると
物事を検証したり、分析したり、

早い話が
自分なりに思考するという
手間を掛けない様になっていきます。

つまり、完全なる思考停止路線へと
進んでいきますので、
馬鹿になるという事です。




物事や事象の目安としての
多数などは重要となりますが、
本質を見極める思考を失っては
元も子もありません。

これから先の世界は、
ほぼ間違いなく質が重視される方向へと
進んでいきます。

スピリチュアル業界もまた
例外ではなくて、
教える人や導く人のみならず
教わる人や付いてくる人の

「クオリティ」が間違いなく
問われていくと思います。

この時に数の魔力や
俗欲の制御に対する理解度が
低いままであれば、

話し手も受け手も貧乏神化が
進行していき、
過去と同じ結果となって
眉唾から解放されずに終わります。

この哀しき流れを打破出来るのは
想いの遣り取りに目を向けた業

要は、
「クオリティ」のみとなります。

何かを広める
タイミングも
重要やが
広める手法の
本質を理解せな
あかんで

2025年2月8日土曜日

激情の湧きどころ(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




例えば、
急いでいる時や焦っている時、
揉めている時やカチンと来た時、
朝の清々しさや雨の日の寂しさ、

日常生活の中では様々な場面で
感情を揺さぶられる事があります。

この時に、自身の感情が
激流の如き流れに変化して
貴方の中で渦を巻きます。

これを「激情」と、言います。

この激情ですが、
果たして本当に貴方の生み出した
感情なのでしょうか。

結論から言いますと、

実際には、周りの存在からの
影響を受けて作り上げられた
自分以外の感情だと
言いきれてしまいます。

自身が何かしらの感情を
芽吹かせる時というのは、
原則的に

「外側からの事後取得」

と、なります。




貴方が何かを見聞きしたから
そこに感情を芽吹かせて
激情へと変貌させるからです。

それまでの感情から、
極端に変化させてしまうので
「激情」という事なのですね。

その外側からの影響、
つまり問題点そのものを
しっかりと見極められれば、

そもそも激情化自体は
避けられるものなのです。

無闇矢鱈と原因も理解せずに

「落ち着け落ち着け」
「抑えろ抑えろ」
「キレるな」
「冷静に」

と、やったところで
激情そのものの湧きどころを
目視してもいなければ、

その原因が自身には無関係
という事自体を理解してないので、

セルフマネジメントなど
出来る由も無いのです。

問題点の見極め、
つまるところ

「よく考える」を

如何に実行するかが、
メンタルマネジメントの
基本となりますし、

「運気の維持の原理原則」

と、なりますからね。

ボケっと
していると
驚く程に
流されるんやで

清浄なるもの(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




何か辛い事があった時や
疲れてしまった時などに
自分を整えるという意味合いで

好きな事をしたり、
リラクゼーションに励んだりする
皆さんその様な動きをした事が
あるのではないでしょうか。

この様な、
心身をリラックスさせたり
気持ちの高揚をさせたり
澄ませる動きをする事を

「清浄化(しょうじょうか)」

と、言います。

清め洗い流すという意味なのですが、
この時に意識すべき事の一つに

「透明度」

と、言うものがあります。




何の透明度かと言いますと、
簡単に表すならば「心」です。

よく世間で言い表わされている

「心を無にする」とか
「感情を無にする」

というよりは
字の如くなのですが、

「心を透き通らせる」

と、いうイメージです。
実際には何をしているのかと言えば
透明度を増加させる事で、

俗欲を一時的に減衰させて
半ば強制的に向こうの世界へ
幽体を触れさせている感じです。

ここでの向こうの世界とは
浄土とかではなく、狭間となります。




その為のイメージと言いますか
コツみたいなものになりますが、

心をイメージさせるというよりかは

「肉体を透明にさせる」
「肉体の質量を限りなく無くす」

という様なイメージをすると
非常にやり易いです。

幽体の話なので、
どうしても心や感情にイメージや
意識を向けがちですが、

それらは元から
目に映るものではないので
却ってイメージがし難いのですね。

それであるならば、肉体の方が
普段から目にしてますから
逆にイメージをし易いのです。

上手くやれると、
質量を忘れた様な感覚を覚えます。
その後は物凄くリラックス出来ますから
お手軽ですしお薦めですよ。

色んなイメージが
ポンポン
湧いてきたりも
するんやで

2025年2月2日日曜日

思考停止への誘い(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




世の中は完全完璧ではないですが、
漫然とその考えが蔓延っています。
所謂、完璧主義ですね。

人は不完全であるが故に
完全たる存在や事象を目指します。

その中で、
自身や万物の不完全を認めて
常に考え続け、
一人一人一つ一つの答えを
求め続ける事に現世の意義はあります。

完璧を目指す事そのものは
決して悪ではありません。
誰しもスタートはそこにありますからね。

憧れや希望、願望という類の感情は
総て完璧を主眼に置いた感情です。

これが無ければ始まらないので、
完璧自体は悪ではないのです。

ところが、この「完璧」という幻想に
溺れ過ぎてしまうと、たちどころに人は
動く事が出来なくなります。

その中枢にあるのが

「思考停止」です。




考えるのを止めるという意味ですが、
これは自身から率先して
思考停止する人も居れば、
思考停止状態へ誘う人も多いです。

人は、思考を停止すると
周辺の存在の意思に流される様になります。

それはまるで
操り人形の様相だと形容しても
過言ではない状態です。

誰かが何かをいい様にしたい時、
決まってそのターゲットたる人を
思考停止へと誘います。

ビジネス然り、犯罪然り、
勧誘然り、社会通念然り、
縷々様々な場面でこれは使われます。

本来であるならば、
自身の意思を以って判断すべき点を
自分以外の存在の意思に委ねてしまう。

その流れに身を任せてしまう。
考えさせずに盲信させてしまえば、
言いなりに出来てしまいますからね。




スピ業界などはその最たるもので、
元来では一人一人の思考を
率先して潤滑させる為のものが
スピリチュアルであるにも関わらず、

善くなりたいという
人の「俗欲」に漬け込んで

逆に、思考停止へと誘い込み
物を売りつけたり、
過剰な金銭を支払わせたりする。

まともな意思であるならば、
現状以上に考えさせる様に
導く事はあっても、

思考を停止させる様な真似を
誘因する事は決してありません。

何故ならそれは、
悪霊や生霊や貧乏神の手口と
全く同じでもあるからです。

これらの存在は、
ターゲットの霊体に対して
直接干渉を施して、思考停止へと誘い
やがて死へと歩ませます。

それが如何に歪で悍ましい行為かを
知っている者であれば、
必ず阻止に務めるものなのです。

人が意思を自ら捨てる様にさえしなければ
騙されたり、徒に不幸へ堕ちる事など
決して起こり得ませんからね。

よく考えるために
よく視て
よく聴いて
判断するんやで

2025年1月31日金曜日

痛みの共感(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人は自身が痛みを知らないと
それが如何に大変なのかを
他者と共感する事が出来ません。

身体的な痛み然り、
心の痛み然りです。

また、個々人で
痛みに対する耐性も異なります。

ほんの少しのチクッとする注射を
この世の終わりと言わんばかりの
痛みと形容する人も居れば、

10針を無麻酔で縫合する様な
人も居たりします。

心の痛みについても同様ですね。

特に心の痛みに関しては、
本当の痛みを経験して知っていないと
まず共感する事が難しいです。




痛みを知る者からすると
共感を得たいと考えますが、
実際のところそれはナンセンスです。

知らないものを体験は出来ませんし、
体験談を通じて話を見聞きしたとしても
他人事には変わりないので、

「そういうものなのか...」

と、いう程度で終わります。
また、非現実の話題を出して
疑似的な体験をさせようとしても、

これもやはり他人事ですし
一過性の物となりますので、
共感までには至りません。

つまり、
経験者が分かってもらおう
分からそうとしても、

相手にその受け皿的経験が
存在しなければ、
それは決して叶う事が無いのです。




それであるならば、
理解を得ようと感情論に
任せるのではなく

「意思を伝える」

と、いう点に特化させる事の方が
明らかに効果は出ます。

体験を理解させるのではなく、
知識として記憶させるのです。

その為には、感情論ではなく
冷静な理論が必要となります。

それには、
非現実的なフィクションや
ファンタジーなどではなく

圧倒的に現実的な話の方が有効です。
状況にオブラートを被せずに
そのままを伝える勇気も必要です。

それほどまでに人は、
他者の痛みに関する事に対しては
無知蒙昧を晒している生き物です。

あくまでも現実の中で
現実的な話を伝える。

日々の生活の中で、
ファンタジーに逃避しても
何一つ改善されないですよね。

本来のスピリチュアルというのは、
現実の中でこそ
活かされるものです。

実戦型スピリチュアルであり
攻撃型スピリチュアルというものだと
忘れない様にしなければなりません。

感情論に委ねても
非現実に逃げても
何一つスピ的には
成就出来ないんやで

2025年1月29日水曜日

常に敵なし(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




日常生活を営んでいると
あらゆる場面で貧乏神や
その類の輩と遭遇してしまう
そんな事が多々あります。

これらの存在を見極める事も
大切なのですが、
見極めはとうの昔に出来ているけど

どうしても接触を
避けられないのであれば、
対処が優先順位の第一位となります。

様々な方法がありますが、
何よりも大切になってくるのは

「なぁなぁにしない」

と、いう点です。

貧乏神の特質や特性を
既に掴んでいるでしょうから、
この所作が如何に大切かは
理解して頂けるかと思います。




貧乏神らは、ありとあらゆる方法で
「揺さぶり」を掛けてきます。

その揺さぶりに乗ってしまえば
自身の中に混乱が生じ始めてしまい
貧乏神の良い様にされて終わりです。

それまで培ってきたものは
無残にも崩れ去ります。

それを避ける為にも

「ハッキリと物を言う」事が

必須条件となる訳です。
この時にただ突っぱねるのではなく
論理的な説明に徹するのがコツです。

決して、感情論になってはいけません。
それでは貴方が流されて終わりです。

感情の片鱗は出すのは善いですが、
それはあくまでも「フリ」であり
内容は必ず論理的なものに徹する。




以前の記事にも書きましたが、
貧乏神というのは、
自身の様に思考停止をしている
「感情論者」を求めます。

言い換えればそれは、

「論理的思考を嫌う」という意味。

ですから、貴方はそこに徹すればいい。

その為には、リアルタイムでの分析と
冷静さを維持しながらの組み立てが
必要となります。

「よく視て、よく聴いて、よく考える」

諄い程にこの考え方を
教え込んでいるのは、
いざという時に必ず対処が出来る様に
という思考回路の構築の為なのですね。

日頃の努力は
最大の防御であり
最大の攻めでも
あるんやで

2025年1月28日火曜日

剥き出しの欲(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




どなたにでも例外無く

「駄目な自分」

と、いう側面があります。

この駄目な自分を理解したり
認めたり、制御する事で
要らぬ恨みを買わずに済むので、

「運気の維持」

と、いう業が出来る様になります。

しかしながら、
駄目な自分をその目で直視する事は
相当な痛みを伴います。
「心の痛み」です。

人は誰でも何かしらの形で
自分以外の存在を
傷付けてしまっています。

その傷付けてしまう場面に於いて
大抵の場合、
駄目な自分という側面が
表現化している時であり、

俗欲などが
剥き出しとなっている状態である

と、表わす事が出来ます。




この「剥き出しの欲」が
多ければ多い程、
相手に対して傷を付けてしまう。

然もそれは、
知らず知らずの内に
繰り返してしまうものなのです。

何故ならば、
剥き出しの欲というのは
非常に依存性が高く、

一種の「快楽状態」とも表せる
反応となりますので、

周囲へ目線を拡げる事が
限り無く不可能となるからです。

これを思考の「視野狭窄」と言います。

相手を一方的に傷付ける訳ですから
当然に相手からの念や恨みを被ります。




恨みや念というのは、
原則的に自身が起因となって
相手が発するものですから、

いくら水際で恨みや念を
堰き止めようとしても、
その発生源である駄目な自分を
認知しない事には、

ほぼ永久的にこのサイクルが
止まる事は無いのですね。

つまり、
駄目な自分を認識及び認知する
という事は、

これ迄に貴方が原因となって
相手が被ってきた「心の痛み」を
貴方自身がその身を以って
「再認識」するという事になるのです。

なので、
先述した通り駄目な自分の理解や
認識をする事は、想像以上の痛みを伴う
と、いう事に繋がります。

その反面、
駄目な自分を理解せずに
剥き出しの欲を晒し続けるという事は、
心の痛みを知らぬ
人としての恥であるとも表現出来ます。

八罪内の「辱め」へと連鎖する道筋が
出来上がってしまうので、
運気は維持するどころか
堕ちる一方となります。

この連鎖に
どっぷりなのが
貧乏神なんやで

2025年1月25日土曜日

普段の中に(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




スピリチュアルが好きだと
標榜している人に多い思考が

「特別の検索」です。

どこかにつけて、何かにつけて
自分だけの「特別」を
追い求める思考です。

殊更その特別というのは、
利己的なものである事を占めます。

早い話が俗欲ですね。
分かり易い事で言うと、

「良い事が起きてほしい」とか
「金運を上げたい」とか。

その思惑にかこつけて、
「奇跡や神秘」といったものを
大袈裟に追い求める思考ですね。




本来のスピリチュアルで
云うところの「奇跡や神秘」は
俗欲とは反する場に生じます。

つまり、特別の検索をしたところで
奇跡も神秘も手に入らないですし、
目の当たりにする事も無い。
という事になります。

俗欲を基軸とした視線での特別など、
所詮は同一価値を共有する者でしか
感受する事の出来ない特別です。

それは万物という概念の中では
余りにも矮小過ぎる価値観に過ぎません。

「俗欲中心となると視野狭窄に陥る」
という形容は、
ここから得ている概念なのですね。

元来、礎となる要素は
「万物」に他なりません。




では、その万物とは
一体どこに存するのかを
考えてみましょう。

言うも得も無く、
万物の在りし場所とは何の事は無い
皆さんの周りを指し示します。

要するに、
皆さんの送っている日常や
普段の生活の中そのものが、

「万物の苗床」であり
「万物そのもの」である

と、言えるのですね。

皆さんが目を凝らして、
感覚を研ぎ澄ませて得ようとする
神秘や奇跡というのは、

実は既に身の回りで常態化している。
けれども、
それ自体に気が付けない程に
エゴや俗欲などの「多の価値」によって

「視界を混濁されてしまっているだけ」

に過ぎないものなのです。
その混濁を取り払うものが
思い遣りなのですよ。

利己的思考は
総ての感覚を
濁して穢して
つまらない
結果になるやで

2025年1月20日月曜日

実戦型(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




前々より個別ごと、
ブログ、秘密結社を問わず
お話をしてきましたが、

スピリチュアルというのが
かなり注目を集め始めています。

それが良い事なのか
どうなのかと言いますと、
あにきとしては
然程歓迎はしていません。

何故ならば、
その殆どが欺瞞に満ちている
身勝手なスピリチュアルを
標榜するものだからです。

このまま流行が進めば
ほぼ確実に衰退へと進みます。

昔に流行った心霊ブームや
オカルトブームなどと
確実に同じ轍を踏むであろうと
断言出来ます。




どういう事かと言いますと、
俗に言うスピリチュアルという
苗床のリテラシーが
何も変わっていないからです。

今以て「多」を中心としている
状況や環境に置かれている中では

既存の構造体での産物となりますので
一過性は有ったとしても、
継続性を望む事は出来ません。

「多」を中心としているという事は
質が上がる事は無いのです。

リテラシーが「個」を基準とした
品質を重視するものへと変貌すれば、
継続性が担保されますので

スピリチュアルというものの
先は光があると思います。

けれども、未だそのレベルには
哀しいかな達してはいません。




これから先に起きるのは、
見事なまでの淘汰です。

本来のスピリチュアルというのは、
自分だけの為に使う様な
身勝手なファンタジーではなく

皆さんの生活に根付いて
皆さん一人一人が
万物の為に気軽に使えるツールです。

なので、あにきは

「実戦型スピリチュアル」だと、

以前から話しています。
一部の人間が偉そうに使うのが
スピリチュアルではなくて、

どこの誰でも元々備えてて
その能力を遺憾なく発揮出来るのが

「本来のスピリチュアル」なのです。

その為に必要なものが
失われてしまっている現在、
必要なのはムーブメントを
引き起こす事ではなく

「苗床の成長進化の促進」です。

それは、多ではなく個でないと
決して達成出来ないものです。

果たしてどうなっていくのか。
見物だなと感じています。

既存の様に
綺麗事が
蔓延したら
終わりなんやで

2025年1月18日土曜日

良く思われたい(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




「自分は良く思われたい」

そういう思考回路の人が
非常に多いです。
この手の類の存在を便宜上

「貧乏神」と呼称していますが、

貧乏神は老若男女、年齢、
周囲からの評判の善し悪しに
一切関係無く存在しています。

周囲から見た評価が
例え真面目だったとしても
「貧乏神」や「貧乏神の入口」に
属している存在は多いです。

この「自分は良く思われたい」
と、いう思考回路の存在に多いのが

「有言不実行の精神」です。




周りからは常時良く思われたい。
その思考が強すぎるので、
その場その場で
響きの良い言葉を率先して使う。

頼まれ事然り、やりたい事然り。

その反面、後々に苦言を発したり、
自分から言った事すら
途中で投げ出したりします。

挙げ句の果てには、
自分から言い出したのにも関わらず
被害者意識と被害妄想を強く抱きます。

それを事実関係を知らない人に
真実を捻じ曲げて説明し困惑させる。

これが「有言不実行の精神」での
行動概要です。

そして、この思考回路の存在の多くが

「周りは自分を気にしている..」
「周りの想いに答えたい...」

と、発したり本気で考えたりします。




ここで注意すべきは、
「自分は良く思われたい」
という思考回路で、

「有言不実行の精神」を
かざしている存在が

果たして周囲に「想い」を
向けているか否かという点です。

この場合、9割以上の割合で、
「想い」を向けている事はありません。

想いを向けているならば、
決して到達し得ない
思考と精神だからです。

では、
この手の存在が形容する「想い」とは、
何なのだろうかを考えます。

ここで形容されてる「想い」とは、
自分を中心に据え「俗欲」を基軸とした
「念」に他なりません。

なので、
「自分は良く思われたい」と、
"自分"が思考の最初に来てしまうのです。




想いとは、
自分以外の存在へ「優先して」向ける
感情や思考の複合的精神を指します。

念とはその逆で、
自分を「優先して」その他の存在へ向ける
自己優位性や利己的思考。
つまり、
俗欲を核とする複合的精神を指します。

想いよりも念を向けている存在が
自分以外の何を想うのか。

自分の為なら、
いざとなれば平気で蹴落とし
人の不幸すらも腹を抱えて嘲笑する。

これが、
「自分は良く思われたい」という
思考回路の存在の行動概念です。

率先して念を向けてる存在は、
周囲から恨みや念を最大値で
向けられる事はありますが、

想いを最大値で向けられる事は
限りなくありません。
相互作用の原則から、
向けられる想いは最小値となります。

もし、貴方がこの手の類と
相対したり前述した台詞を耳にしたら
言葉を選ばずハッキリと笑顔で
こう言ってあげれば宜しい。

「周りは貴方が思うほど
貴方の事など気にしていないし、
貴方も周りを気にしてないでしょ」と。

真面目系クズは
こういう点で
見極めるんやで

2025年1月16日木曜日

特別と思わない(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人は様々な個人力を持ち得てます。
それについての内容は
以前にも触れましたが、

心構えとしては
「特別と思わない」事が大切です。

これについても、
霊能者を例に挙げて
事あるごとに述べていますね。

各種霊能力もそうですし、
超自然現象や超常現象を起こしたり
経験したりする事も、

日頃のちょっとした不思議現象を
味わったりする事も、

全く特別な事ではないのです。
当然にそれを体現する人の事を
特別視する必要もありません。

何度でも言いますが、
各個人が元々何かしらの個人力を
持ち合わせているのですから。




人それぞれが何某かの能力を
既に得ているものです。

その規模は最初は小さいですが
自身の力を
繋げていくことによって、

影響力の範囲を大きくしたり
広くしたり濃くしたり、
鋭敏にさせたり逆に鈍くしたり
増したり減らしたりと、

規模や力を拡げる強くする事は
確実に可能です。

また、非科学能力開発は
単一能力ではなく複数能力です。

「視える」を一つ取っても
細分化して突き詰めていくと
確実に科目が複数となります。

その流れに沿っていくと
単一能力となる方がおかしいのです。

そして、それは誰にでもある。
力を目の当たりにしたとしても、

それをいちいち凄いだとか
ましてや、崇めるなんて必要は
全くないのです。

そういう心構えでいる事が
貴方にとっても
貴方の周りにとっても
貧乏神化防止の
最たる力となりますからね。

例えば親子間で
個人力の話が
普通に出来たら
素敵やんね