2025年7月29日火曜日

念認想増【カウンターウェイト】(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




善くなりたいからと言って
想いばかりに注力する様になると
ほぼ確実に貧乏神へと
堕ちる道筋を辿ります。

想いが善いもので
念が悪いものだから

想いだけを搔き集めて
善いものだらけにすればいい

みたいな考え方ですと
駄目なんですね。

何でもそうですが、
善いものというのは
その逆の作用を知っているから
善いものだと理解出来るのです。

例えるなら、
子供の頃に膝小僧を擦って怪我して
痛い思いをした事があるから
転ばない様に気を付けたりするのであって

人は何かしらの悪い点を認めないと
善い点の本質を理解する事が出来ないのです。

これは想念に至っても同じです。
想いというものを伸ばしたいのであれば
念という存在を認めないといけない。

ましてや、自身の事であるならば
殊更、己の中の念や駄目な自分を
認めてあげなければ、

自分が手にする想いの価値など
知る由もありません。




それにも関わらず、
想いに固執して良いとこ取りを模索し
実際に搔き集めたとしても

それは既に想いを軸としておらず
どこまでもどこまでも
欲し続ける欲求の権化とも呼べます。

これではまさに「餓鬼」の状態ですね。

その様な思考回路で善いものなどは
集まってきませんし
手にする事など叶いません。

実際に、貧乏神になればなるほど
形だけの想いを搔き集める様になります。
徒に幸せや幸福、愛を謳う輩ほど

なりふり構わぬ形で
神社仏閣やパワースポットへ詣でたり
そこかしこからアイテムを
かっ攫ってきたりしてますでしょ。

そういう輩の表情を視てごらんなさいな。
とても善きとは程遠く、
想いとはまるで縁が少ない
面構えをしていますからね。


自分の善さを知る人は
駄目な自分を認めて理解している人
だからこそ、
善い面や想いを増やせるのですよ。

暗さの恐さや
不便さを知る者が
灯りの真の尊さを
知るんやで