今回は考え方について
お話をしたいと思います。
この仕事をしていて、
いや。
こういう体質なので
昔から色んな所で向こうの世界の事や
霊の事などを完全否定する人と
出会ったり話したりする機会があります。
子供の頃は嫌も応も無く
完全否定されるがままで、
意見を言う事すら儘になる事はなく
寧ろ、意見を言えば
その先に待っているのは
矯正や修整という感じの罵倒や
迫害と言っても差し支えない程の
冷めた視線でした。
大人になるにつれ
自ら率先してこの手の話をする事は
殆ど無くなっていきました。
ショックだからとかではなく、
世に出回っている話とか
興味を持っている人の話が
自分のそれとだいぶ懸け離れている事が
多すぎたからです。
その実、体質を小馬鹿にする人や
相も変わらず完全否定する人も居ますが、
経験というのは人の器を
大きくするものなのだと実感も得ています。
実際に完全否定する人と話す際、
今となってはこちら意見を
無理に押し付ける事もしないですし、
ムキになる事も無いです。
そういった思考が大半だというのも
理解をしていますからね。
ですが、
「はいそうですか」と、
流される事も無いです。
相手さんの意見をしっかりと聞いて
僕なりに理解した上で、
こちらの話も聞いて貰います。
但し、抽象的な話は一切しません。
自身の中の確かなものに則った話のみをします。
それは、
本来のスピリチュアルに沿った話ですし
先人の知恵や最新の技術や情勢を踏まえた
科学的な知見でもあれば、
合理的で理に適っている話などが大半です。
その中で必ず出す話の一つが、
「他界」です。
完全否定するのは結構だけれども、
では何故、逝去した際に
「離界」ではなく「他界」と言うのか。
この世界から離れるのだから離界で良い筈。
それを態々「他の世界へ行く」と
表現するのは何故なのか。
これについての意見を聞きます。
様々な答えがありましたが
これ迄で一番多かった解答は、
「昔の人は知識が薄かったから」でした。
確かに。なるほどと思える解答です。
けれども、それであるならば
他の世界は無いという事が
現代人は証明できているのですか。
と、いう点を突きます。
でなければ、答えとしては薄いですし、
単に先人さん達が馬鹿だからという話であれば
それは敬意が薄いという点に於いても
差別的意識が強いとも言えてしまいます。
同じ様な解答をした人でも
「仮説なのだけどね、」と、
前置きをした人も居ました。
このタイプの人とは至極普通に
愉しく意見交換が出来ました。
面白いものですよね。
僕も思考をする際は
「仮説を立てなさい」
と、皆さんに対して津々話をしています。
揶揄される様な体質の僕と、
現実主義の方との思考回路が同じなのです。
ここの中間に触媒として存在しているのが
「相手への想い」であり「思い遣り」です。
そして、これが一つの結論を指していて、
現実的な思考でもスピリチュアルな思考でも
「行き着く先は同じ」
と、いう形そのものを指し示すのですね。
意見の違いや主義や主張の違いなどは
何処にだって現われます。
ただ、それを原理主義的に押し付けるのか
単に流されて終わるのか
それとも、互いに理解する努力をした上で
別の道であっても共に前を向いて進むのか。
たったこれだけの違いなのです。
そこに強固な俗欲が介在させるから
形としておかしくなっていき、
結ばるものも結ばらなくなる。
これが結わえる様になるのが、
次の段階である「フェーズ4」です。
何かにつけてカテゴライズする理由が
実は存在しないという基礎に
気が付ける様になれれば、
生きるのはもっと愉しくなりますよ。
貧乏神なんやで




