今回は動き方について
お話をしたいと思います。
俗欲というのはどこにでも存在して
誰もが持ち合わせています。
そして、現世に居る間は
決して消える事も消す事も叶いません。
そういう類の代物ですから、
教わる側のみならず
当然ながら「教える側」にも存在する訳です。
例えば、
貴方が様々な霊と話が出来るとします。
その霊からアドバイスを教えてもらって
誰でもいいですけど
相談者さんとかに教えたとしましょう。
この流れですと、貴方は単に霊の言葉を
人に伝えただけの云わば「仲介者」ですね。
偉くも何もありません。
それなのに、恰も自身の手柄としたら
さぁどうでしょうか。
こうなると俗欲に溺れた事になります。
何故ならば
アドバイスをしたのは霊であって、
貴方は口を貸してあげたに過ぎないからです。
手柄とするという事は、
どの霊からのアドバイスなのかも告げないとか
特段の理由も無く霊の存在を差し置いて
「自身が見定めたと偽る」
と、いう事ですね。
また、相談を持ち掛けた相手さんからの
「賞賛を全て真に受けても」
やはり先述と同様
俗欲へ溺れた事に繋がります。
これは、日常の中での習い事等でも言える
教える側の「基本的な俗欲」です。
習い事で教わる側の生徒さんが
日頃のお稽古の成果を
発表会などの場で披露しますね。
オーディションなどでも良いですね。
そこで、生徒さんが素晴らしい成果を
出したとします。
教える側たる師匠への賞賛もあるでしょうが、
ここで真に賞賛されるべきは
教え子たる生徒さんです。
努力し結果を出したのは生徒さんですからね。
にも関わらず、
師匠がその賞賛を全て真に受けて
自身の手柄としたらどうですか。
明らかにおかしな事になります。
生徒の努力を素直に認めて
自身は引き手に回り喜んであげる。
もし、この時に貴方の素直さ度が低いと
先程の様な俗物根性剥き出しな
愚行を取る事になります。
貧乏神化防止は常に自分との戦いです。
教える側とてそれは同じなのだという事を
肝に銘じて
日々の業を重ねていきましょうね。
親子間とか
家の中とか
どこにでも
こういう場面は
こういう場面は
ままあるものやで