今回は動き方について
お話をしたいと思います。
教える側は
「コンセプトの維持」
「コンテクストの把握と生成」が、
主だった姿勢の堅持となります。
コンセプトは方針で
コンテクストは簡単に言えば相互性ですね。
これらを教える側の姿勢として保持をする
そこに教える側の責任が生じてきます。
その先生によって方針は違いますが、
ここをお客さんや生徒さん等への
忖度などによってブレる様になってしまうと
意味が無い結果となります。
また、コンテクストについても同様で
教える側自身と教わる側との
立ち位置や考え方の把握や
教える側自身を中心とした
新たな相互性の生成を理解していないと
無駄な時間を過ごす様になります。
例えばですが、
教える側と教わる側とは立場が違います。
ここを教わる側とフルフラットで考えると
教える側は自由に動けなくなります。
余計な同情を施してしまったり
強く説明をする事が不可能となっていくからです。
同時に、教わる側の怠慢が始まります。
「どうせ叱られない」とか
「どうせ相手をしてくれる」などですね。
要するに、ナメられてしまう訳です。
これらのエラーが起きない様に
立場はしっかりと教える側を一段高く設けます。
その上で、教わる側に寄り添う姿勢を
設けてあげて教導するのが教える側の責務であり
教わる側との「想いの遣り取り」であり、
確固たる「想いの力場」を生成する事に繋がります。
ここを勘違いして、
平等という俗欲に溺れてしまうと
前述した様な結果にもなりますし、
いずれは自身のコンセプトすら維持が
出来なくなっていきます。
これでは教える側に立っているのに
俗欲に溺れた自分本位となるので
貧乏神という方向へと邁進してしまうのですね。
思い遣りとは程遠い動きをしているのですから
当然の結末を迎えます。
また、教える側と言っても
お金儲けを芯に据えてる人も
これらと同様の動き方をしています。
目的が目的ですから分かり易いのですが、
見せ掛けだけで聴こえの良いコンセプトを
設定するので、
普段より綺麗事に溺れている人等は
あっという間に騙されます。
これらはスピリチュアル業界だけでなく
ありとあらゆる業界業種に該当します。
こういった目線での人の見極めを
常に実戦で使い熟し、
生活や愉しみへと変換するのが
本来のスピリチュアルとなります。
いけない点やで



.jpg)