今回は考え方について
お話をしたいと思います。
生き易さというのは
自分自身にとって都合よく動いたり
何かを都合よく動かす様なものではなく、
生きる苦しみというのを
理解する必要があります。
生きる苦しみ...
本来のスピリチュアルでは
意思の疎通と
そこに至るまでの流れそのものが
最も身近で最も大きい苦しみだと
都度話していますね。
相手に意思を伝える。
相手の意思を汲み取る。
思っている事、考えている事、
今の心情や抱えている気持ちなど、
言葉を介しているにも関わらず
意思そのままの100%を
伝え汲み取る事が難しい。
何度言っても分からない事もあれば、
分かったと思っていて
何も分かっていないなど、
肉体を得ているが故の
個々体に存する俗欲の固着が
いとも簡単に意思の伝達を阻害する。
そんな馬鹿なと思うのであれば
貴方の思っている事を
抱えている心情を
今その隣に居る相手へ
ネットワークの先に居る相手へ
伝えてみて下さい。
確実にその意思を伝えるのって
かなりの労苦を要する筈です。
この伝に務める苦しみを
相手と共感する事が生き易さには
必須な要素となってきます。
その苦しみの中で、
例え微々たる部分であっても
伝え汲み取る事が出来たり
出来てくるようになると、
相手との共感という形で
「想い」が形を成してきます。
これが基本的な「愉しみ」です。
これを分かち合う事こそが
生き易さへと繋がるのですね。
にも関わらず、
途中途中にある意思を伝える苦しみ
意思を汲み取る労苦から逃れ得たいと
楽に溺れるあまり、
自身にとって都合の良い解釈や
都合の良い言葉
都合の良い思考を選定して
相手を差し置いて行動をしてしまう。
ここで述べてる"楽"とは
"俗欲"を意味します。
これがご都合主義です。
眼の前にある現実から目を背け、
伝えられるという点に於いての
信に徹さない動き方がご都合主義。
この場合、その場凌ぎでの対応は
可能だったとしても、
その後に必ずリバウンドが生じます。
「伝わらない」「分からない」という
苦しみから逃れたいが為の妄言は
一時的な労苦からの解放は得られても
「相手のため」という触媒、
愉しみを得る為の華美なエッセンスを
消失してしまっており、
「全ては自分のため」という
禍愚な意思の下での動きですから、
そこには「想い」よりも
「念」が湧出するので
「恨み」となって
自身へと還元される訳です。
「想いを拠出し想いを得る」
この流れの中にあるのが
生き易さとなりますから
「念を排出し念が還る」という
負の螺旋に陥ってしまうご都合主義が
如何に生き易さと掛け離れているか
想像するのは容易い事だと思います。
それでもやってしまうのが
ご都合主義の恐い点であり、
自身の意志の弱さや駄目な自分を
知らねばならない点でもあります。
ご都合主義気味の思考が
染付いてしまっている貴方は
まずは大好きな「自分自身」から
一旦離れてみて下さい。
そして、自身の物差しで
相手を計る悪癖を辞めましょう。
貴方の基準は貴方にしか通用しません。
「相手のため」と口にしているのであれば
相手の基準に理解を示せる様な寛容性と
そこに至らしめる為の努力をしましょう。
自己優先、自分本位を支持したところで
得たい生き易さなどは
離別していくばかりですからね。
相手の基準へ
理解を示せ
互いの基準の隙間を
埋めるのではなく
縮める努力をするんや



