今回は動き方について
お話をしたいと思います。
本当の幸せというのは小さいものです。
この「小さい幸せ」が
集まりに集まった時、
大きい幸せへと変化します。
大きい幸せを最初から望んでも
決して得られないのはこの為です。
そして、小さい幸せは
自分以外には基本的に無価値です。
大きい幸せも、やはり同じです。
仮に共感が出来たとしても、
その度合いは個体によって差があります。
限りなく近しい場合もあれば、
最低限度の共感で終わる場合もある。
元々の個体が同じではないのだから、
これが普通です。
同じ様に感動や歓喜を得たい
という事自体がナンセンスなのですね。
ならばこそ、
自身の度合いを理解する事で
相手の度合いを講じる事が可能となります。
と、これが小さい幸せの話で
色んな所で話していますね。
では、その小粒な幸せというのは、
実際にどういったものなのか。
自己完結するものも多々ありますが、
原則として、
何かしらの「相手」が絡む事によって
得る事が出来たものが、
本当の意味での「小さい幸せ」となります。
それはリアルタイムの時もありますし、
数日数ヶ月数年という時間差の場合もある。
相手が絡むとは、想いを紡ぐこと。
つまり、「思い遣り」の事です。
ですから、その場だけを意識していても
小さい幸せは得られません。
例え、
その時が辛く苦難に満ちていたとしても、
哀しい時間が長く嵩んでいたとしても
思い遣りを礎として信に徹した動きをすれば
そこに小さい幸せは生じます。
小さい幸せはとても小さいです。
風が吹けば散って、
雨が降れば流れてしまう
そこいらにある埃の様に小さい。
その小さくて脆い幸せに
目を向けられる様に視野と視点を養う。
善い事ばかりを考えるのではなく、
その逆を理解する方へ努める。
例えば、
自分が痛みを知らなければ、
相手の痛みもその本質も
痛さを解消した時の歓喜も分からない。
それと同様に、
想いを知りたい得たいのであれば
念から逃げずに理解し、認めなければ
知り得る事は叶わないのですね。
小さい幸せはそこら中に点在しています。
けれど、視る為や得る為には
「小さい念」の存在を認める。
視野や視点を養うには、
この「念への理解と認知」が鍵なのです。
また、念は自分も常に発するものです。
他者からだけのものではない。
自分は発していない、発さないではなく
発しまくっている事を認める理解する。
そういうものだから気を付ける。
その努力をする。
善い事ばかりを思考しても
その善い事は相手によって変わります。
貴方の善い事は貴方にしか通用しない。
それを通用させる様にしたり、
伝わる様に教える様にするには
通用しない事実を認めるしかないのです。
善幸帰悪に陥る事無く、念を視る。
そうすると、視野は拡縮自在となり
視点も動体自在となるのです。
この視野と視点の動きが「素直さ度」。
認めざる者が素直ではなくなっていくのは、
このメカニズムに沿っていないからなのですよ。
読むのではなく
分からないのを
分からないのを
素直に認めて読む
あら不思議
もっと知りたくなるで



