今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「泣く」という行為があります。
色々な場面に於いて
泣く事があるのですが、
その流す涙の価値は
全く異なるという点を見抜けないと
その後に貴方自身が
辛い思いをする事に繋がってきます。
では実際に、
「どういう点を見抜くのか」
と、いう話なのですが、
ここで考えなくてはいけないのは
「場面」や「シチュエーション」
ではありません。
どうしても、「泣く」となると
その行為よりも「状況」を
考えてしまいがちになります。
ですが、重要となってくるのは、
「誰に向けた涙なのか」
と、いう意識の方向です。
意識の方向で人を視た場合ですと
大きく分けて二種類のみとなります。
「自分に向けているか」
「周りの存在へ向けているか」
この二つです。
本来のスピリチュアルに則った
想いや念という観点から見た
結論で言いますと、
意識を自分に向けている時の
涙の価値はゼロです。
大袈裟でもなく何でもなく、
全くの無価値です。
どんな状況に置かれていても
意識を自身のみに向けている涙には
価値という概念が存在しません。
そこにあるのは、
己に向けた「悔い」や「失望」と云う様な
「念」そのものです。
周囲に向けて撒き散らすのも
想いではなく「念」です。
けれども、泣いているという行為自体は
変わりませんよね。
これとは逆に、
意識を周りの存在へ向けている時の涙は
「感涙」と呼ばれるもので、
「想い」を軸にしていますから、
そもそもの涙の種類が異なります。
然しながら、
見た目は前述の行為と同じですよね。
ここを見極めるのが人の見極めであり、
本来のスピリチュアルに於いて
非常に重視する点となります。
では、どうやって見極めるのか。
最も簡単な見極め方は、
涙を流したその後に出てくる
「言葉の種類の検閲」です。
こう言うと難しく聞こえますが、
やる事は単純です。
こちらの話に素直に耳を傾けるかどうか。
涙をした後でも言い訳をするかどうか。
DD連発(でもだって)をするかどうか。
こういった点をじっくりと視る。
ですから、いくら涙してるとは言っても
その場に感情移入させてしまうのは
御法度なのですね。
貧乏神という念の塊の様な存在は、
如何に相手を感情移入させて
「自身にとって都合よく動かすか」
と、いう事しか考えていません。
それなのに、話を聴く貴方側が
涙=美しい事象
みたいな「綺麗事」で判断してしまうと、
あっという間に流されてしまって
その後に辛くなるのは誰でもない
貴方自身であり貴方の周りとなります。
常々話していますが、
聴く際には感情を入れてはいけません。
話す際に「貴方の感情のみ」を入れればいい。
その場その場での冷静な判断は
世に出回っている情報とは真逆ですからね。
「涙=美、涙=哀」
などというものは、ほんの一部にしか
適用されるものではないと認識しないと
何時まで経っても前には進めませんからね。
出来なかったから
あんた達は
辛い思いを
してきたんやで



