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2025年9月27日土曜日

闇を知り光を得る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




善い状態を維持したいから、
善い事ばかりに注力をする。

こういった思考や動きを
してしまいがちですが、
非常に安直な行動であり

これでは決して善くもならなければ
維持も出来ません。

それどころか、
確実に貧乏神へと堕ちていきます。

では、どうすれば良いのか。

「善い」を伸ばすのであれば
「悪い」を理解する

善くなりたいからと
「想い」ばかりを得ようとするのは
良いとこ取りであり、

俗欲塗れの念基軸状態です。

そうではなくて、
想いを真に得るためにこそ
「念」を理解しないといけません。




想いと念は表裏一体の相互関係です。

想いの裏には常に念が存在し
念の裏には想いが必ず存在します。

単純な善悪ではないけれども、
善い状態の真の価値を知り得るには
その逆の状態を理解していないと
本質を得る事は出来ません。

「喧嘩する状態を理解するからこそ
平穏無事な状態の価値が分かる様に」

「生活が苦しい状態を知っているからこそ
足るを知る事が出来る様に」

「独りよがりの惨めさが分かるから
人の有難さが理解出来る様に」

念の状態を理解しているからこそ
想いの本質を述懐する事が出来るのです。

光の本質は闇を知らないと理解出来ない。

想いというのは、
その中に埋もれていると本質が視えません。

住みやすい場所に居る人は
それが普通だから漠然とした住み易さしか
理解出来ないし口にもしないですよね。

想いを得たいのならば
必ず念を理解し認めてあげないと
その先にある維持には繋がりません。

よくよく考えてみれば分かりますが、
貧乏神って必要以上に
験を担いだり想いを重視しているものです。

そして、自分には念など無いと
思っていますからね。

汚い部分に
目を向けられて
直視出来てこそ
想いの意味は
理解出来るんやで

2025年8月5日火曜日

想念の分量(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




想いや念の分量というのは
普段は目に視えないものですが、

ある状況に至った時に
その蓄積されているその量が
しっかりと視覚化されます。

想いの蓄積は
「小さい幸せ」の表現型として、

溜まった念は
「裏返し」や「過剰蓄積」として、

隠せない形で表に出てきます。
つまり、

普段の地味な努力は報われますし、
調子に乗っていた面は
打撃として自身に降り掛かる

と、いう事です。

今回はとりあえず、
念の分量の視覚化について
サラッと話しますね。




日常の中で、
どんなに綺麗事を並べて
自身の正当化や形ばかりの想いを
口にしていても、

それは自分以外の存在へ向けている
「想い」ではなく
自分の為に形を成している「念」です。

詰まるところ、「自分本位」となります。

この自分本位は、
何でもない普段であれば
人から隠す事が可能です。

目利きの出来る人でないと
それを見抜くのはなかなか難しい。

けれども、自身の幽体に於ける
ある一定のラインを越えたり
若しくは
転換点を迎えたりした際に、

その秘匿させていた「念の分量」が
表立って出てきてしまうのですね。

そうなると隠す事は100%出来ません。
この出現が「裏返し」であり、
それまでの流れを「過剰蓄積」と言います。




「裏返し」は念の分量のみならず
それまでの想いの分量との差によって
そのサイズと内容が変わります。

差が小さければ肉体への
軽い打撃で済みますが、

差が大きくなるにつれて
隠していた部分の露呈が
容赦なく拡がります。

言葉を選ばずに云うのであれば、

「本性が剥き出しになる」

といった感じです。

考えてもみて下さい。
それまで意気揚々と話していた
自己保身の為の綺麗事が
「綺麗事」だったと
視覚化されてしまう怖さ。

それまで自身を形付けてきた
ハリボテの「想い」が崩れ去り、
同時に人も何もかも去っていく。

想像以上にエグイですよ。

どんな人にも
誰にでも
起こるのが
想念なんやで

2025年7月16日水曜日

弱き心は多へ集う(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




どうしても落ち込んでしまうとか
ストレスを溜め込んでしまうとか

この手の状態に陥りがちな人は
結構多いです。

特に、ある一定の期間で
ネガティブの渦に堕ちてしまう人は
“何か”に頼りがちですし、

依存癖があります。
最も身近な依存はお酒とかですね。

こういった方の特徴として
本来のスピリチュアル目線から
総じて言える点が一つあります。

それは、過去から現在に至るまでの

「自分を認めていない」

と、いう点です。




自分というのは善いも悪いも
同数を持ち合わせています。

その表現型が業なのですが、
これが善い方へバロメータが偏っているか
悪い方へ偏っているかの

バランスの違いで業が変わります。

「自分を認められない」

という特徴は、
このバランスが「悪い」に
偏り過ぎているのです。

何故に悪いへ偏るのかと言うと、
自分を考える際に
「善い部分しか認めない」からです。

過去から現在に至るまで、
善い部分しか認めていない。

悪しき部分は認めずに蓋をし続けるから
詰まるところ、心中でオーバーブローを
生じさせてしまうのです。

想念で表わすと、念への偏りです。
幽体深くに隠れた念は肉体へと創出します。

結果として、
業の殆どが念基軸となりますから
どこまでもネガティブ思考となるのですね。




逆にとても前向きな人は、
自身の悪い部分を「それも自分」として
隠す事無くちゃんと認めているので、

想いの噴き出しとなりますから
業が想い基軸となるのですね。

「裏で隠せば表に出るし
裏で認めれば表では隠れる」

つまりは相互作用なのですよ。

そして、このネガティブ状態の念基軸の人は
何につけても「依存」を欲します。

それが物だろうが人だろうが
思想だろうが信仰だろうが

結局は、悪しき自分を認めないから
それを隠し切ろうとする為の補完として
依存へと走るのですね。

ともなれば、
そこからの回復を施すとなると
如何に「悪しき自身を認めさせるか」
の、一択となる訳です。

では、どういう点から攻めるのか。




ここまでの流れからすると、
自分の業を吐露させたりするのが
先決と判断してしまいそうですが、

そんなものは無駄骨に終わります。

何故ならば、散々っぱら悪しき自分を
隠遁して認めていない人が
容易に表に出す筈もないからです。

出てくるのは、それっぽく擬態させた
「余所行きの悪しき自分」だけとなります。

要は、綺麗事の塊ですね。
なので、無駄骨ですし意味すら無い。

ですから、余所行きを想定しつつ
その綺麗事の苗床たる思考の破壊を優先する。

早い話が、「世間体からの乖離」を目指します。

念基軸とは「過度の俗欲依存」です。
俗欲とは他者と自身を比べたりした際に
愛を極小化させてエゴを優先させると最大化します。

で、あるならば他者との比較自体が
無駄な事で情けなくて格好悪くて

全く理にそぐわないものだと認識させる事が
優先順位の第一位となるのです。

他者の価値観と自身の価値観は同一であらず。

「他所は他所、うちはうち」

これの徹底です。

誰にでも凹凸は存在してて、
その凹凸の本質たる価値は
自分自身にしか分からない。

それを認めずに他者の価値観へと
丸投げしてしまうのが、
過度の俗欲依存の正体なのですね。

他者から見れば変なとこでも
自分の中では善い部分なんてのは
結構あるものですよ。

この思考を再起動させてあげるのです。

ちなみにですが、
念基軸に陥り過ぎてて貧乏神気質が
強く出ている人には効きません。

言うなれば、
これをやって変わらない人
思考を変えられない人ってのは、
貧乏神だと断定出来るという事ですね。

大人だけやなくて
子供の様子を
確認する時や
無理しがちな奴の
変化を見抜く
最善策なんやで

2025年7月6日日曜日

流す涙の価値(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




「泣く」という行為があります。
色々な場面に於いて
泣く事があるのですが、

その流す涙の価値は
全く異なるという点を見抜けないと
その後に貴方自身が
辛い思いをする事に繋がってきます。

では実際に、

「どういう点を見抜くのか」

と、いう話なのですが、
ここで考えなくてはいけないのは

「場面」や「シチュエーション」

ではありません。

どうしても、「泣く」となると
その行為よりも「状況」を
考えてしまいがちになります。

ですが、重要となってくるのは、

「誰に向けた涙なのか」

と、いう意識の方向です。

意識の方向で人を視た場合ですと
大きく分けて二種類のみとなります。

「自分に向けているか」
「周りの存在へ向けているか」

この二つです。




本来のスピリチュアルに則った
想いや念という観点から見た
結論で言いますと、

意識を自分に向けている時の
涙の価値はゼロです。

大袈裟でもなく何でもなく、
全くの無価値です。

どんな状況に置かれていても
意識を自身のみに向けている涙には
価値という概念が存在しません。

そこにあるのは、
己に向けた「悔い」や「失望」と云う様な

「念」そのものです。

周囲に向けて撒き散らすのも
想いではなく「念」です。

けれども、泣いているという行為自体は
変わりませんよね。

これとは逆に、
意識を周りの存在へ向けている時の涙は
「感涙」と呼ばれるもので、

「想い」を軸にしていますから、
そもそもの涙の種類が異なります。

然しながら、
見た目は前述の行為と同じですよね。




ここを見極めるのが人の見極めであり、
本来のスピリチュアルに於いて
非常に重視する点となります。

では、どうやって見極めるのか。

最も簡単な見極め方は、
涙を流したその後に出てくる

「言葉の種類の検閲」です。

こう言うと難しく聞こえますが、
やる事は単純です。

こちらの話に素直に耳を傾けるかどうか。
涙をした後でも言い訳をするかどうか。
DD連発(でもだって)をするかどうか。

こういった点をじっくりと視る。
ですから、いくら涙してるとは言っても
その場に感情移入させてしまうのは
御法度なのですね。

貧乏神という念の塊の様な存在は、
如何に相手を感情移入させて

「自身にとって都合よく動かすか」

と、いう事しか考えていません。

それなのに、話を聴く貴方側が

涙=美しい事象
みたいな「綺麗事」で判断してしまうと、
あっという間に流されてしまって

その後に辛くなるのは誰でもない
貴方自身であり貴方の周りとなります。

常々話していますが、
聴く際には感情を入れてはいけません。

話す際に「貴方の感情のみ」を入れればいい。

その場その場での冷静な判断は
世に出回っている情報とは真逆ですからね。

「涙=美、涙=哀」

などというものは、ほんの一部にしか
適用されるものではないと認識しないと
何時まで経っても前には進めませんからね。

こういう見極めが
出来なかったから
あんた達は
辛い思いを
してきたんやで

2025年5月12日月曜日

即効性の希求(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




「運気が良くない」とか
「調子が良くない」とか
「何かと上手くいかない」とか
「もっと良くしたい」とか

理由は様々あれど運気UPを望む人の
殆どが俗欲をベースにしています。

ここまでの話を聴いて

「それは宜しくないな」
「私は違うわね」

などと、思った人は
そこそこに危険な状態です。

何故かと言うと、
何をするにしても俗欲をきっかけとして
人は動くものだからです。

俗欲に溺れる事が駄目なだけであって
俗欲そのものは決して悪では無いです。

そこから目を逸らして
最後まで話も聴かずに悪と断定するのは
自身の駄目な面をも視ないと、
宣言しているのと同じなのですね。

そういった状態の方がやらかし易いのが

「即効性の希求」です。




「辛さや苦しさから逃れたい目を背けたい」
確かにその気持ちは分かりますが、

大元の問題を理解する事と
その改善に目を向けなければ
例え一時的な快方を得たとしても、

いずれまた同じ状態に陥って
症状は見るからに増悪していきます。

自身の状態が芳しくないのは
貴方が長期間に渡って俗欲に溺れながら
周りに流されて好き勝手に動いてきたツケです。

云わば、俗欲や貧乏神といった毒沼の中に
どっぷりと浸かってきた訳です。

解毒自体の即効性は約束出来るものですが、
その後の改善という点や
予防などという点については
即効性など望める事は無いのです。




それなのに即効性ばかりを希求するから
おかしな事に繋がっていくのですね。

何事に於いてもですが、
改善というものには「急がば廻れの精神」が
重要なものとなってきます。

「持っているだけで幸せになれる」
「視るだけで運気アップ」
「聞くだけで霊力増強」などなど

断言できますが、
そんなの決して有り得ない事です。

運気UPや改善というのは
貴方自身の不断の努力が実を結ぶものです。

よく視てよく聴いてよく考えながら
失敗を恐れずに自ら動いて得るものです。

あにきみたいな存在は、
貴方の努力を開始させたり後押しをする為の
きっかけに過ぎません。

楽をしたいあまりに、
縷々響いてくる喧しいまでの綺麗事には
悦という名の毒素は有っても
即効性や回復効果はありませんからね。

俗欲の影響を
低下させて
純度を上げる
それには自身の
努力が不可欠やで

2024年6月6日木曜日

補助霊との向き合い方(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は、
補助霊との向き合い方について
お話をしたいと思います。





日頃から挨拶したり感謝したり
各々様々な形で補助霊さん達に
触れている事と思いますが、

大抵の方々は、
挨拶と感謝止まりですよね。

それがそもそもの間違いで
向き合い方としては
完全にやっちまっている状態です。

補助霊さん達が如何なる存在か?
そこを考えると過ちに気が付きます。

根本的に補助霊とは
補助つまりサポートをする存在です。

誰も「貴方を護る存在」とは、
言っていません。

では、
何をサポートしてくれてるのか?

貴方が人として間違わない様に
人らしく生きるために
現世でしか学べない事を
学ぶための最低限のサポート

これを一生懸命にやってくれているんです。





朝起きた時、夜寝る時に挨拶をする
良い事があった時に感謝する

何か抜け落ちてはいませんかね?

これだと、良い面ばかりなのですよ。
つまり、綺麗事って意味です。

先述した通り、補助霊さん達は
サポートしてくれているんです。

別に貴方を
「おーよしよしヾ(・ω・`)」
と、護っている訳ではないのです。

貴方に必要ならば痛い思いも
ちゃんとさせます。

怪我をさせる事もあれば、
人と別れさせる事もあるし、
苦しめたり哀しめたり
特大級の大失敗をさせる事もある

皆さん的には「嫌だなぁ」と
思われる事だって
それが最善と判断すれば
必要だとするならば
しっかりとやってのけます。

そんな存在が補助霊さん達なんです。





では、聞きますが、
嫌な事があったりした時に補助霊さん達へ

「自分が悪かったです」
とか
「気付かせてくれてありがとう」

とかって言ってますか?
言ってないですよね。

「何で私が...」
「どうして私だけ…」
「ひどい...」「辛い...」「悲しい...」

って、事は心で思っているでしょ。
そういうのを自分本位思考というのです。

どんな時でも補助霊さん達は
貴方の最善を考えてサポートしてくれます。

ですが、
「貴方の最善」=「貴方に好都合なこと」
ではないのですよ。

良い時だけの感謝など、所詮は綺麗事。
駄目な時の反省や謝罪、その上での感謝。
そういう部分も鑑みないといけません。

そして、
補助霊さん達を愛しい存在
家族の様な存在、パートナーとしての存在
そういう目線にならないといけません。

間違っても崇め奉る存在ではないのです。
貴方とは、もっともっとフランクな間柄。

それが補助霊さん達ですからね。

貴方自身が補助霊を
務めてると思えば分かりますよ。

ありきたりな感謝よりも
日頃の会話や過ちの反省や
前向きな姿勢からくる言葉の方が嬉しいでしょ。



2024年1月22日月曜日

正の力に必要なこと(知識UPシリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は正の力について
お話をしたいと思います。





万物には正の力と負の力が存在します。
スタンダードな表現をすると、

正の力=「想いの力」
負の力=「念の力」

となります。
もう少し掘り下げて種類を
考えてみましょう。

想いの力とは、
愛、愛情、思い遣り、集中、友好、断言

念の力とは、
恨み、嫉妬、殺意、散漫、敵対、優柔…

という感じです。

この様に文字に起こすと分かり易いですが
正の力は相対的であり、
相手と向き合い事を成す力で、

対して負の力は一方的であり、
自身の中で混沌を成す力です。





正の力は
「相手と向き合って事を成す力」ですから、

「自身の決定を信じつつ、
相手の意を汲み前に向く」

という点が重要となってきます。

相手に負の力が多い場合、
もしくは、多くなりつつある場合、
そういったケースの場合に

自身が理解していなかったら、
反発しか生まない事になるので
相対的ではなくて一方的な業となり、
それは正の力ではなく負の力となります。

なので、
正の力を扱うには必然的に負の力も理解して
自身に備えておく必要がある訳です。

つまり、正の力を存分に発揮するには、

「正負のバランスを常に意識して、
負の力を飼い慣らす」

と、いう思考が大切になる訳ですね。
必要であれば負の力も使えるし、使う。





正の力を扱うのに負の力を全面排除すると
結果として、
愛情欠落【バランスブレイク】を
引き起こしてしまう訳です。

そうなると、本来の正の力が反転して
心に隙が生じてしまい、
厄を誘い込む事になり、
負の力へと転じてしまう。

バランスブレイクについては、


こちらでも書いています👆





要するに、
綺麗事ばかりを並べて正の力を強調しても
負の力に恐怖して排除をしても

どの道、
宜しくない方向へと進んでしまいますから
負の力を認めた上で、共存をする。

これが出来ないと正の力を正の力として
扱う事は難しいという訳なのですね。

ですから、その器たる自分自身に至っても
自分の汚い面に蓋をするのではなくて
ちゃんと見つめて理解して
認めてあげないといけないのです。

綺麗事ばかりを言ってるスピ系の人に
言ってる事とやってる事が真逆の連中や
貧乏神が多い理由が分かるでしょ?

ちなみにですが、
負の力に溺れた場合や負の力を主に扱う場合は
正の力の事なんぞ考える必要はありません。

そもそも考えられないから、
負の力に溺れているんですからね。



2023年4月3日月曜日

綺麗事からの脱却(気付きの応用)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は見極めに関しての気付きについてです。
(応用編ですから、セッション未経験の方は
どうかご注意下さい。)

あれやこれやと人に振り回されたり
惑わされたりして、
大変な思いをされている人は多々います。

そういう人の特徴として、
「綺麗さへの極端な偏り」が挙げられます。




綺麗さってのは、見てくれもありますが、
何よりも考え方とか心情とか、
ここではいわゆる内面的な部分での話です。

常日頃から言っていますが、
人は綺麗事だけで成り立っている訳ではありません。
誰にだって汚い部分、見せたくない一面はあります。

ここをしっかりと理解する必要があるんです。
自分で自分を分かってあげる!という意味です。

人に見せたくない。見られたくないから、
自分も見ない!見たくない!!向き合わない!!!
ではなくて、
そういう一面も自分なんだと、きっちりと理解する。

その上で、自分の負の一面が
元々持ち合わせているものなのか?
はたまた、
人から影響を受けて作られたものなのか?
この部分を考えてみる。





一見すると、人を見極めると言っておきながら
自分の方しか見ていない様に思えるでしょうけど、
ここがミソでしてね…

前述した、考えてみるの時に、
自分がどういった変遷を得て今こうなったのか?
どういう特徴があったのか?
具合や調子が悪い時はどうだったのか?
と言った、身体やメンタルでの隠しきれない特徴や

自分以外の人様(家族やパートナー、友人も含む)から
指摘されたポイントは何だったのか?
などに、気付くための大切な行程なんですね。

だって、人の事は分からなくても
流石に自分の事は分かるでしょ?




ここでの気付きを得られるか否かで、
後々の結果は本当に差が出ます。

どこまでも自分の闇を直視しない人は、
いつしか自分もその闇に引っ張られてしまって、
良くなるどころか悪しき存在に引き寄せられたり
自分がそうなったりします。

直視するだけで、しっかりと分析をしない人も同一です。
悪化が遅いか早いかの違いってやつです。

どうしてか?

大抵の場合、こういうパターンですと、
悲劇のヒロイン症候群を発動させた挙句、
自己嫌悪に陥って抜けられなくなります。
なので、結果は変わらないんですね。




人を視る為に、自分をちゃんと視て分析する。
その一挙手一投足を肌身だけでなく、
全ての感覚を用いて覚えていく。
その過程で真に大切な気付きが得られます。

そして、それが経験へと繋がって、
自然と人を視る時のポイントへと移行していく訳ですね。

ですから、改めて言いますけども、
自分を直視する事も分析する事もしていない人ほど、
もっと言えば、貧乏神を引き寄せてしまいガチな人、
もしくは、実際に騙されたり、危うい人ほど、

綺麗事に偏ります。




怒りはダメ。悪口はダメ。何にでも感謝しなきゃダメ。
常に笑顔でいないとダメ。綺麗な物しか見てはダメ。
綺麗な言葉しか使ってはダメ。嫉妬はダメ。
常に清らかな心でいないとダメ。恨みはダメ。

こうして見ると偏っているでしょ?
いつも言ってますけど、バランスが大切なんです。
人としてのバランスがね。

偏った綺麗事は心の醜さを強めます。
綺麗事への極端な拘りは貧乏神を呼び寄せます。