皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
悪霊と云う存在がいます。
死してなお俗欲に執着を
続ける存在の総称になるのですが、
この悪霊とは、
どの様にして生まれるのでしょうか。
端的に云うと、
何かしらの執着を切り離せない場合に
死後悪霊と化します。
生への執着かも知れませんし、
やりたい事への執着かも知れません。
単に生前の思考を
肉体が無い状態で続けようとする執着
と、いう場合もあります。
強い恨みなどで悪霊化してしまう様な
ケースもあります。
この「恨み」という部分は、
言い難いのですが殺害されてしまった等の
悲しいケースも含まれます。
ただ、
1つ誤解の無い様にして頂きたいのは、
「悲惨な死を遂げたからと言って
必ず悪霊と化す訳ではない」
と、いう点です。
悪霊と化すのは俗欲への執着が基本です。
仮に悲しくも
非業の死を遂げてしまったとして
亡くなった方がどんな形でも
それを受入れているのであれば、
悪霊と化す事は無いのです。
寧ろ、俗欲への執着という点で云うならば、
手を下した人間の方が悪霊化し易いです。
何故ならば、俗欲に溺れた結果
手を下した訳ですからね。
また、恨みの連鎖や負の螺旋という
影響力が働きますから、
亡くなられたご遺族などの方が死後に
悪霊化してしまうという事も少なくないです。
これらはどんな形であれとても悲痛な事です。
出来る事なら悪霊化は防止したい。
僕がずっと胸に秘めている
原動力たる想いです。
その中に、
貧乏神化防止というものがあります。
生前に貧乏神と化してしまうと、
その存在は死後確実に悪霊と化します。
貧乏神という存在は、
現世に於ける社会の中での善悪は
まるで関係の無い存在です。
つまり、
普通の人でも貧乏神にはなるのです。
本来のスピリチュアルは、
ここを可能な限り防ぐためにあるものです。
ですが、それは当人に
委ねられるものですので
自ずと限界点が生じてしまいます。
人らしく生き、俗欲に溺れずに制御する。
失敗を恐れずに人間味を大切にして、
前へ向かって進む過程で
向こうの世界の理を護る努力をする。
早い話が、「想い」を軸とした
考え方や動き方をしようねってやつです。
悪霊と化した存在の末路は悲惨ですからね。
哀しみどころか
世代を超えて
連綿とした
恨みの連鎖を
生んでしまうのが
貧乏神や悪霊化です
ええこと無いんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
人には誰一人として例外無く
「駄目な自分」というのがあります。
簡単に云うならば、しょうもない自分です。
「善い自分」の対極に位置するもので
駄目とは言っても自分は自分なので、
拒否も否定も出来ません。
この駄目な自分を如何に制御するかで、
運気というものが大きく変わってきます。
間違えてはいけないのは、
「制御(control)」であって
「消去(delete)」ではない点です。
「駄目」という部分を意識するあまり
消去を考えてしまいそうになりますが、
それは絶対に無理なのです。
何故なら、駄目な部分ではあるけれども、
それも「自分」に過ぎないからです。
見せなくする事も、見えなくする事も
聴こえなくする事も
ましてや、
感じなくさせる事すらも叶いません。
自分に変わりないのですから、
何をしたってそこに存在します。
けれども、
この駄目な自分を野放しにしてしまうと
いずれ善い自分を喰らってしまい、
駄目な自分が支配をしてしまいます。
全面的に駄目な自分に溺れた存在が
所謂「貧乏神」です。
なので、そうはならない様にする為に
駄目な自分を制御するのですが、
制御に必要なコツは2つあります。
1:「認めてやる」
2:「使ってやる」
1は、以前から話しているので、
ここでは割愛します。
2は、駄目な自分を認めた上で
意図的に「使ってやる」事を意味します。
駄目なのだから「使わない」方へと
シフトしがちですが、
それでは拒んでいるのと同じですので
振り出しに戻ってしまいます。
1の段階で、駄目な自分も
「自分の大切な一部分」だと認めたのだから、
意図的にちゃんと使ってあげるのですね。
善い自分ばかりを使っていたら
依怙贔屓になってしまうし、
駄目な自分がもっと捻くれてしまって
果ては暴走してしまうでしょ。
そうなったら、一気に溺れてしまいます。
それでは努力が水の泡です。
駄目な自分を意図して使えば、
それは人にとって
「面白い(funny)」部分へと変貌します。
これを「人間味」と云います。
いくら駄目な自分を認めてあげても
意図的に使ってあげなければ、
「隠蔽」や「拘束」をしているのと同じです。
もし、貴方が徒に縛り固められていたら
そこから脱したいと思うでしょ。
フラストレーションもストレスも
酷いことになりますよね。
その先に何が起きるのかは
想像するのが容易い筈です。
認めて使う。
「制御」という言葉の意味を
ちゃんと理解すればこうして言われなくても
答えは簡単に出る筈です。
誰の前でも
解放するのではなく
信じられる人の前で
ほんの少し解放させる
お金ください(ピエン)
って、堂々と
言えるかどうかやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
本来のスピリチュアルに於いて
とても重要になってくるのが
「ニュートラル」
と、いう考え方です。
中間に位置する場から
客観的に物事や事象を見極め判断する。
好き嫌いなどの偏った見方ではなく
その時に必要なものを冷静にチョイスする。
単なる善いとこ取りだと
考えられてしまいそうですが、
意味は全く異なります。
ニュートラルとは、
あくまでも「立ち位置」の話なのです。
どちらか一方へ偏らせるのは簡単です。
好みで決めれば良い話ですからね。
それが故に、
対面への否定感や拒否感が生じます。
その拒否感を正当化させる為の動きや
思考が主となっていくので、
自ずと偏りは増していきます。
そして、行き着くのが「完璧主義」です。
現世で我々が生きていく以上、
偏りや隔たりというのは避けられません。
それ自体は悪でもありません。
自身の意見や心情を万人万物へ
まともに伝える事すら叶わないのですし、
成長や進化という過程に於いて
隔たりも偏りもある種では必須となります。
そこで争いが生じますが、
融和というのは、
これらがあるから存在するものですし、
理解を成せるものなのです。
しかし、その途中過程に於いて
極端な偏りや隔たりを掲げたり、
立場の保持を主な目的としてしまう事があります。
これが「完璧主義」です。
片側に極端に寄せてしまって、
対面を思考する事が出来ない状態。
相反する思考は敵となり
矛盾を悪と断ずる考え方。
こうして話すと何となく視えると思いますが、
自分本位と同じですよね。
独りよがりを拗らせて、
思考的視野狭窄へと陥るがあまり
自身の世界を徒に狭くしてしまう。
結果として、
「受け容れ」も「受け止め」も出来ずに
心身共に惨めな状態へと堕ちてしまうのです。
この状態を回避して、その先へ進む為の
考え方が「ニュートラル」です。
立場や思想に極端な固執をせずに
中間ではなく「中空」より視線を拡げ
対局ではなく「大局」を視る。
優しさと厳しさの同居を理解し、
矛盾という名の選択の自由を行使する。
自身の考えを芯に捉えつつも
他者の考えは自身には思い付きもしなかった
「宝物」だという思考を創る。
相手との遣り取りは
意思の押し付け合いではなく
意志の受け容れ合いであり
心情の受け止め合いであるという捉え方。
その中での係争は一過程に過ぎないので、
それが目的ではなくあくまで手段という認識。
故に、相互意思の齟齬は必然であり、
ご都合主義の完全融和などは存在せず、
相手を好みで選ぶのではなく
互いの違いを認め合う「間接融和」を信条とする。
ほんの一部に過ぎませんが、
これらが本来のスピリチュアルに於ける
基本概念であり、ニュートラルという考え方です。
現世でありながら
向こうの世界の理を実践する。
辛く苦しいですが、そこを見詰めて
活かし生きる。
文字で読むと面倒臭そうですが、
やってみるともっと面倒臭いですw。
ですけどね、価値はありますよ。
いつでも誰でも
気軽に出来て
辞めるのも自由
ってか、
言われてやる様な
もんでもないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
自身の中での価値観というのは
人に合わせて作るものではないです。
自分の中で確固たるものがあれば
それで充分なのですね。
但し、
その中身に至っては少し考えようで
常識的な一面というのも必要になります。
価値を決める上での常識というのは
一般教養の事を指します。
ここの教養という部分には
所謂、知識や学問が当て嵌まりますが、
常識的範疇での流行りやムーヴメントも
価値を決める上では必要になります。
「自身の中での確かな価値」
と
「一般的な価値」
これらを己の中で共存させる事で
世間と自身の「差」を知ることが出来ます。
ここの「差」の部分が特定の存在にとっては
愉しみに繋がる部分でもあり、
一般的な話となった場合には
全く理解されない部分という点となります。
つまり、この「差」を理解しておかないと
何かこれと言って特段非常識な事を
している訳でも無いのに、
結構な数の恨みや念を引取る事に繋がります。
何故かと云うと、
話が通じなくなるからです。
ここでの話とは深い部分での話ではなく、
表面上の浅い部分での話です。
自身と特定の存在のみでしたら、
この「差」というのは考えなくても
価値の共感が可能になります。
然しながら、鑑みなくてはいけないのは
この現世で生きるという現実です。
我々は自身と特定の存在だけで
現世を生きているのではなく、
縷々様々な存在を介して生きています。
詰まるところ、この「差」を理解する事で
「相手のため」という奉仕の精神、
思い遣りに繋がるポイントを
手にする事が可能となってきます。
全ての存在がスタンドアローンで
何の繋がりも無く独立独歩で生きているならば
こういった「差」を鑑みる事は不要ですが、
それこそ現実ではなく幻想です。
「自分だけが善ければいい」に
自動的に繋がってしまうのが、
この「差」を理解しないという怖さです。
自身が好きだの嫌いだのではなく、
自分以外の存在や支えてくれる存在に対する
思い遣りとしてこの「差」を理解する。
決して深くなくて良いんです。
すごく浅くて構いません。
世間との窓口を自身に設けておかないと
現実の中に居ながら幻想へ逃避する
そんな結果となってしまいますからね。
世間との差を理解しておかないと
結果として、人に苦痛や辛さを与えます。
これは実体験ですが、
僕は子供の頃に両親がこの「差」を
理解していなかったが為に、
狭い子供の世界の中での流行りや愉しみに
乗ったり付いていく事が出来なかったので、
周囲から疎外されていました。
家では虐待、外では虐め。
中々にヘビーでしたよ。
自身の価値観を持つ事は大切ですが、
それの保持や維持には「差」が必須です。
ましてや、価値観そのものを
押し付けてしまったり「差」を忌避する事は
自身の価値観ではなく特殊な価値観と変貌し
世間や社会、コミュニティからの
乖離を意味します。
それは、我々の生活環境からすれば
死活問題でしかありません。
現に僕の両親は結果として何もかもを失いました。
人や子が望むから必ずそれを与えたり
自身もその中身に乗るという意味ではなく、
節度を以て「差」を理解した上で、
適確に判別をする事が大切になってくるのです。
知らぬ存ぜぬで個として生きていけるほど
現世というものは甘くないですし、
自身の価値観だけを突き詰めるだけというのは
好きな事だけをやるという意味と同意義ですから
それは楽をしているのと
何が違うんでしょうかね。
差を知らないとね
自分勝手に生きて
自分中心で居るのと
何ら変わらない
人の善し悪しは
関係無しに
堕ちるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
自身が自己憐憫に陥り易いかどうか
その境目となるのが
「支えられていると考えているか」
「支えていると思っているか」
この考え方の違いです。
「自身が周りから支えられている」と、
考えられるのであれば、
基本的な思考と動作や所作は
「相手のため」や「周りのため」
と、いうものに自然となっていきます。
この思考形態の場合ですと、
基準となるのが自分ではなくて
「自分以外のため」となりますから、
日常的に反省と考察を繰り返します。
次に繋げていく考え方が主となる感じです。
ですので、
憐憫とは距離を置く様な感覚に近いと
考える事が出来ます。
これとは逆に、
「自分が周りを支えている」
と、いう考え方の場合ですと、
基本的な思考や動作所作というのは
口先では、
「相手のため」や「周りのため」と
枕詞の様に付帯して行動しますが、
「自分のため」が主流となります。
一見すると、前者と似ている様に思えますが、
決定的な違いとして
「相手のため」等の言葉を口にする
という点が見受けられます。
一先ずは自分というのを置いておき、
自分以外のためにまず動くといった、
奉仕の精神での思考や行動が理解出来ないのと
周りには同様に考えている風に思われたいという
承認欲求が強い為です。
そして、反省や考察というものの
意味は理解をしていますが、
自身が失敗をした時にすべきものとの
認識が強いので、
日常の中での反省等は前者に比べると
極端に少ないのが特徴です。
自身の反省よりも人の失敗を見て楽しむ。
同時に極端に自身が失敗する事を忌避します。
結果として、失敗後も反省ではなく
言い訳や擦り付けが主となるので、
自身の失敗を目の当たりにした時に、
自分を「上手く出来ない被害者」
と、いう位置付けにしてしまいます。
ここが自己憐憫を加速させるポイントです。
反省よりも自身を善として
悪を構築させるのですね。
勿論これは逆恨みでもあり、
単なる我儘に過ぎません。
反省を日常的に利用していないので
使い方も理解していませんから、
思考は穿ったものとなり前進的な思慮よりも
停滞的な動きがメインとなります。
褒めると直ぐに調子に乗るという
分かり易い特徴も出てくるので
見極める事は容易いです。
相手のためを思考出来れば
反省も考察も
それすらも出来なく
なってしまうんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人に教える側に立った際に
優しさを履き違えると
とんでもない目に遭います。
優しさとは厳しさでもあります。
「相手のため」と、云う一心で
動きや言葉で示すものが
本来のスピリチュアルでの優しさです。
ですから、
単に聴こえの良い言葉ですとか
相手に合わせた動きですとか
よちよちいい子でちゅねー的な
動きや言葉は優しさとは言いません。
厳しい事を口にすると
毛嫌いされる風潮がありますが、
だったら何ですか。
「そんなものはクソ喰らえ」
と、云うくらいの考えの方が
確実に相手のためとして動けます。
ここで注意しないといけないのが
相手のためと言いながら、
「自分のため」という選択をする事です。
厳しい事を口に出来なかったり
自分自身に対して叱咤出来ない人というのは
決まってここで自分を取ります。
早い話が「楽を取る」という事です。
人に対して助言や苦言
それこそ叱咤激励をする場合、
以前にもお話をしましたが
教える側の心が痛みます。
この痛みは地味に響きますから
覚悟を以て耐え忍ばないといけません。
然しながら、この痛みに負けてしまって
あろう事か自分自身を取ってしまう。
相手のためと自分に言い聞かせながら、
その実は自身の楽を選択してしまう。
本来であればそういう場面でこそ、
自身が痛みを飲み込まなければ
「相手のため」と、いう奉仕の精神は
貫徹する事が出来ないのです。
厳しくする事で
「かわいそうだから」とか
「駄目になってしまうかも」とか
「倒れたらどうしよう」とか
これら総てが言い訳であり、
そういう思考の時の貴方の意識は
どちらに向いてらっしゃいますか。
本当に相手に向いてますか。
十中八九、自分自身へと向いている筈です。
そんな状態で折衷案や
間違った優しさを提示しようものなら
もっと大切にしなければならないものを
一生失う事に繋がりますからね。
相手のためを以て
苦しみから解放してあげたいのならば
まずは自身が覚悟を決めて死地へ赴く。
自分だけ安全な場所から
何をどういう風に指示しても
誰もまともになんぞ聴いてくれませんし、
バカしか生まれませんからね。
楽の共感よりも
苦しみや苦悩の
共有を目指す
本当の意味での
楽というのは
苦痛の先にあるのを
理解せなあかんで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
何か上手くいかないとか
微妙に調子が乗らないとか
明らかに運気が下がっている様な
気がしているとか
途中まで良い感じであったとしても
最初からダメダメだったとしても
状態が芳しくない時と云うのは
誰にでもありますし
起こりえる事態です。
そういった際に、
外に原因を求めてしまうのは
とても矮小な考えですよと
以前からお話をしていますね。
原因たるものは決まって自分だからです。
それを理解した上で、
悪化の原因ではなく要因や遠因を
知るために外へ目を向ける事は
とても有用な一手となります。
但し、この時に死者のみに対して
目を向けてしまうのはナンセンスです。
自身にとって宜しくない事の原因が
全て死人だと考える事は
あまりにも世界観が狭すぎます。
現実を直視していないと言ってもいいです。
嫌な事や辛い事が起きている原因は
自分自身だと認識をしているのですから、
その要因や遠因も限りなく現実視しないと
お話になりません。
何故なら、我々は現世を生きているのです。
要因や遠因もまずは現世の存在の関与を
思慮する事が順を追う上でも
大切な事となってきます。
筋というやつですね。
現実をちゃんと視ずに
脊髄反射的に死者や死人へ敵意を向けたり
忌避する気持ちを抱く事は
幻想への逃避そのものと云えます。
死者や死人よりも先に近寄ってくるのは
生きている存在です。
そして、邪な存在の最たる例は
自分自身の中の駄目な自分であり、
自分本位に溺れている自分そのものです。
その部分の「臭い(雰囲気)」を嗅ぎ付けて
生きている者が近寄ってきます。
この臭いの部分を「隙」と称します。
俗欲を制御せずに溺れてしまった結果、
自分自身が邪なるものへと変わってしまう。
もしくは、その臭いを出してしまう。
その隙を邪な存在である念基軸の者が嗅ぎ付け
貴方が溺れている俗欲や
自分本位を刺激する様な動きで
一人また一人と近寄ってくるのです。
その状況で周囲を固められて
悪影響を浴びまくる状態へとなった先に
死者や死人がズルズルと近寄ってきます。
これが悪霊による憑依です。
自分に都合が悪いからと言って
いの一番に視線を外へ向けるのではなく
まずは自身を改める姿勢が重要です。
外の世界からしてみれば
貴方だって日頃の業をちゃんとしていなければ
十分に邪なるものとして認識されるのですからね。
自分は大丈夫とか思っちゃっている
段階で既に貴方は
邪なるものの
筆頭候補なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
どんなに手を尽くしていたとしても
聴く側が教える側の痛みを
理解する事が出来なければ
そこで想いは途切れます。
痛みの理解というのは
その辛さや苦しさを
分かろうとする事に注力しがちですが、
それよりも大切になってくるのは
その後の動き方となります。
そこで痛みを理解しようとしているのか
痛みに対して見向きもしていないのかが
分かる様になるのですね。
仮に自身が下手を打った、
間違っていたと豪語していたとしても
そこで反省していると
言葉に出していたとしても、
動きや態度で示されていなければ
理解というものには程遠いです。
例えば、自身がミスをしたとして
それを相手に頭を垂れて直接謝罪する。
至極当たり前の事ですが、
これが出来ない人も中には居ます。
特段の事情も無いのに会おうともせず
文字で済まそうとしたり、
謝るべき当該者ではなく仲介者を通じて
代わりに伝えてもらおうとしたり、
謝ってもいないのに、周囲にだけは
謝罪した風の事を述べてみたり、
そして、勝手に泣き喚いて
挙げ句の果てには悲劇のヒロインを気取る。
自身の落ち度を棚に上げたまま
何も前に進ませようとせずに、
自己保身のみに徹しようとする姿を視て
一体誰が教える側の痛みを
理解してくれたと思うでしょうか。
普通の感覚であれば、
それで良しとする人はいないでしょう。
最初から最後まで自身の事しか
念頭に入れておらず、
真摯に向き合ってくれている相手すらも
スルーしている訳ですからね。
自分というのを大切にする事は
決して悪い事ではありません。
ですが、それはアイデンティティーの
維持や保護に徹する時の話であって、
何かしらの変化や変貌を加えたい時に
重要視する様な動きでは無いのです。
自分を取れば取る程、
相手の想いと云うのは薄れていきます。
自分本位に堕ちる訳ですから当然です。
その怠惰な動きが目に見える形で
映った時に、想いと云うのは途切れます。
そこが今生の別れの分岐点です。
誠意を持たぬ相手に対して
痛みと引き換えに希望を以て接する。
にも関わらず、とことんにまで
自分本位に溺れられてしまっては
手の施しようがありません。
力及ばずで苦渋を飲み
引導を渡す時というのは
何度味わっても善い気はしません。
僕が仕事をしている中での話ですが、
皆さんのプライベートでも
これは当て嵌まると思いますよ。
月単位年単位の
努力であっても
実らない事もある
その逆に
努力の実りも
多々あるから
救われてるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
別に僕みたいな存在で無くとも
人から何かしらの助言を
求められる事はあると思います。
その時に、
意識がどちらへ向いているか。
完全に相手なのか
一部のみ相手なのか
全て自分なのか
こういった意識の方向を考えて
助言というものは行われます。
また、その際に聞く側も同様でして
意識の方向はどこへ向いているのか。
上記と同じ問い掛けをする事が
大切になってきます。
助言をする側も聴く側も
意識の方向が自分自身へと向いていれば
助言の中身は薄っぺらくなりますし、
聞く姿勢も整わなくなります。
何故かと云うと、お互いがお互いにとって
都合の良い内容であり、都合の良い解釈を
連綿と続ける事になるからです。
所謂、綺麗事のオンパレードです。
当り障りの無い内容や
痛みの生じぬ薄愛な言葉の綴りです。
相手のためを想えば想うほど、
厳しい事実も口にする事が出来ます。
但し、そこには想いが存在するので、
相手にとってなるべく傷が浅くなる様に
気配りや気遣いは必ず行います。
言葉のチョイスというやつです。
例えるなら、手術みたいなものです。
切開をしないと治せないにしても、
最小限度の傷口で治めようとしますよね。
肉体の中にある傷付いた幽体を整える為に、
言葉を用いて響かせないといけません。
なのに、その言葉で傷の上塗りを
させる訳にはいきませんからね。
そこで、
今一度気に留めてほしいのですが、
厳しい事を口にするというのは
「決して伊達や粋狂でやっている訳ではない」
と、いう点です。
まして、相手のためを考えていれば、
助言する側が痛みを感じずに遊び半分や
余興程度で考えて出来るものではないのです。
相手の辛さや苦しさを
真剣に捉えれば捉える程、
相手に対して真摯に向き合えば向き合うほど、
助言する側の痛みは指数関数的に増加します。
しかし、その痛みは必定的なものとして
相手の辛さを分かち合える為の痛みとして
心内に留めながらお話をする訳ですね。
これは意識の方向をちゃんと相手に対して
定めている人であれば、
誰だって同じだと僕は考えます。
聴く側となった際にこれと同じベクトルで
聴く事が出来る人であれば、
何の疑いも懐疑もする事無く今この瞬間に
理解する事が出来る筈です。
教える側の抱えている内なる痛みを理解せずに
自身の痛みだけに溺れている様な人は、
恐らく一生、死んだ後でも本当の意味での
思い遣りというものを実感する事は難しいです。
相手に与えるとなれば皆無でしょうね。
気張ってやるけど
何度話しても
無理なのであれば
切るしかないんやで
身が持たんさかい
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
想いによって形成される場の事を
「想いの力場」と、云います。
見た目の感じですが、
自身や対象を包む淡い色をした
限りなく透明な柔らかくて堅い球体
みたいなものだとイメージしてもらえれば
良いかなと思います。
想いの力場自体を発生させるのは
誰でも可能です。
但し、幾つか条件があります。
1:
自身並びに対象の中の「念」が想いを
バランス的に上回っていない事
2:
自身から対象への想いが薄れる
または消えないこと。
この二つが想いの力場の
発生及び維持に関する最大の要件となります。
1は、基軸に関する話です。
想いの力場なのですから
基本的には「想い基軸」でないと発生させたり
維持させたりする事が出来ません。
ですが、例外として、
自身の想いの総量が対象を
大幅に上回っている場合のみ、
ほぼ単独で想いの力場を形成させる事が出来ます。
しかし、この場合の想いの力場は
必然的に薄めとなりますので、
維持をする事に関して支障が出て来ますから
対象への現状の説明や解説というのが
必須となってきます。
2は、想いの総量に関する話です。
力場形成後に想いを保持する事が出来ない場合や
出来なくなった場合などは、
当然に力場の維持は困難となります。
一方もしくは互いに、想いを薄れさせる
例えば、
幻滅を含んだ意味での
自身や対象を嫌悪するとか
想いの種類に変化が生じるなど
こういった場合に「想いの総量」は薄れます。
ここで注意しなくてはいけない点は、
想いの保持が出来ない若しくは出来なくなった
と、いうものに「死は含まれない」という点です。
仮に自身か対象が亡くなったとしても
それは肉体が機能しなくなっただけですので、
想いや念というのは引続き保持されます。
但し、死後に生前の想念の保持や
基軸維持をするのは当人の器のサイズ、
霊体や幽体の状態や霊格の高さによって
往々にして変わってきます。
話を戻しますが、
力場の維持はこれらの要件の保持が
鍵となってくるのですね。
維持する為には何はともあれ
想いの保持が必要なのですから、
想いを阻害するものを
制御するしか方法がありません。
想いと対を成すのは念ですね。
つまり、「俗欲の制御」をする外ないという事です。
想いを増幅させるという方法では駄目なのかと
頭の切れる方々は考えると思います。
ですが、
以前からお話をしている通り
それに関しても「俗欲の制御」が一番の方法です。
何故なら想いを阻害する要素を制御する訳ですから
それは必然的に想いの増幅を意味します。
俗欲の制御という動きの最たるものは
「日頃の業」となります。
要するに、日々の努力そのものが
想いの保持へと繋がるという事ですね。
そして、想いの力場が形成されていると
それまで発生してきた嫌な事や
不可思議な出来事や難点、
様々な問題点の発生数が減衰したり
無くなったりします。
これは想いの力場形成と伴に
正の螺旋へと転じる事によって
「幽体の整い作用」があるからです。
幽体が整うと肉体や見た目への変化が生じます。
それは個々体では雰囲気として出たりするので
とても感じ取り易くなります。
人によっては視認する事も可能です。
早い話が、善くなっていて
非常にエネルギッシュな状態となりますから、
念主体の存在からすると近寄り難くなるのですね。
念主体の存在というのは、
貧乏神を含む生きている念基軸主体の存在や
既に死んでいる悪霊など全ての存在を指します。
結果として、それまでの災厄や忌み事を
どんどんと退ける様な流れとなり、
善い方向へと進んでいくという訳です。
最後に気を付けてほしい事は、
それまでの災厄が減るのであって
善い事が増えたり出てくる訳ではありません。
嫌な事が減るのですから、
事実上の善い事が増えたという事になりますよね。
この理屈を決して忘れてはいけません。
俗欲の制御を行う上で、
想いの力場の維持をする上で、
最上位で重要な「事実」ですからね。
自分のために善い事を増やそう
なんて思考だと、
何を先鋭化させて何を失うのかを考えられれば
こんなの言われるまでも無く分かる「真実」です。
あにきバリアーの保持力は
伊達じゃないんやで
とは言えそれは
支え合いがあっての
ものやからね