皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
本来のスピリチュアルに於いて
とても重要になってくるのが
「ニュートラル」
と、いう考え方です。
中間に位置する場から
客観的に物事や事象を見極め判断する。
好き嫌いなどの偏った見方ではなく
その時に必要なものを冷静にチョイスする。
単なる善いとこ取りだと
考えられてしまいそうですが、
意味は全く異なります。
ニュートラルとは、
あくまでも「立ち位置」の話なのです。
どちらか一方へ偏らせるのは簡単です。
好みで決めれば良い話ですからね。
それが故に、
対面への否定感や拒否感が生じます。
その拒否感を正当化させる為の動きや
思考が主となっていくので、
自ずと偏りは増していきます。
そして、行き着くのが「完璧主義」です。
現世で我々が生きていく以上、
偏りや隔たりというのは避けられません。
それ自体は悪でもありません。
自身の意見や心情を万人万物へ
まともに伝える事すら叶わないのですし、
成長や進化という過程に於いて
隔たりも偏りもある種では必須となります。
そこで争いが生じますが、
融和というのは、
これらがあるから存在するものですし、
理解を成せるものなのです。
しかし、その途中過程に於いて
極端な偏りや隔たりを掲げたり、
立場の保持を主な目的としてしまう事があります。
これが「完璧主義」です。
片側に極端に寄せてしまって、
対面を思考する事が出来ない状態。
相反する思考は敵となり
矛盾を悪と断ずる考え方。
こうして話すと何となく視えると思いますが、
自分本位と同じですよね。
独りよがりを拗らせて、
思考的視野狭窄へと陥るがあまり
自身の世界を徒に狭くしてしまう。
結果として、
「受け容れ」も「受け止め」も出来ずに
心身共に惨めな状態へと堕ちてしまうのです。
この状態を回避して、その先へ進む為の
考え方が「ニュートラル」です。
立場や思想に極端な固執をせずに
中間ではなく「中空」より視線を拡げ
対局ではなく「大局」を視る。
優しさと厳しさの同居を理解し、
矛盾という名の選択の自由を行使する。
自身の考えを芯に捉えつつも
他者の考えは自身には思い付きもしなかった
「宝物」だという思考を創る。
相手との遣り取りは
意思の押し付け合いではなく
意志の受け容れ合いであり
心情の受け止め合いであるという捉え方。
その中での係争は一過程に過ぎないので、
それが目的ではなくあくまで手段という認識。
故に、相互意思の齟齬は必然であり、
ご都合主義の完全融和などは存在せず、
相手を好みで選ぶのではなく
互いの違いを認め合う「間接融和」を信条とする。
ほんの一部に過ぎませんが、
これらが本来のスピリチュアルに於ける
基本概念であり、ニュートラルという考え方です。
現世でありながら
向こうの世界の理を実践する。
辛く苦しいですが、そこを見詰めて
活かし生きる。
文字で読むと面倒臭そうですが、
やってみるともっと面倒臭いですw。
ですけどね、価値はありますよ。
いつでも誰でも
気軽に出来て
辞めるのも自由
ってか、
言われてやる様な
もんでもないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
物事を思考し動く際に
ニュートラルという概念が
非常に重要となってきます。
どちらにも属さないのではなく
どちらも理解する様にする。
ここでの注意点は、
完全に分かる必要はないという点。
理解する努力が必要なだけです。
その上で、「違う」と断ずれば
別にそれで結構。
何も、常に真ん中に居る事が
ニュートラルではありません。
そして、良いとこ取りでもありません。
その時々の最適解を手にして実行する。
これだけ聞くと良いとこ取りだと
思うかも知れませんが、
それは「最適解=良い」と
自動解釈しているからです。
誰もそんな事は言っていません。
あくまでも最適解であって、
それに対し皆が良しとするものではない。
その時の自身の状況や状態に於いての
誰のための解答なのか
何のための選択なのか
ここが重要となってきます。
なので、決して善しとはなりません。
痛みを伴う事もあれば、
断腸の想いとなることだってある。
善し悪しという一元的で単細胞な判別ではなく
全体を見通して多元的な視点で判別をする。
さしずめ、
自身を核に据えた球体のイメージです。
このニュートラルの概念を実践していくと
話をしながらでもリアルタイムで
あるイメージが出来る様になっていきます。
自身の後方上空より周りを見渡す
というイメージです。
自身を解放する
肉体は無理でも
幽体なら可能
どちらも
自分自身なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
小さい幸せと同様に
「小さい念」が存在します。
小さい恨みとも言えますし
小さい悪意とも言えます。
小さい幸せが自身の努力によって
気付けたり得たりするものに対し、
小さい念というのは、
個々人が勝手に発してしまうものです。
別に努力の様な触媒は必要がない。
どんな場面に於いても
勝手に出てきてしまうので、
努力が必要とするならば発した後になります。
周りから飛んできた小さい念を
受け流したりする為の努力や技術は
確かに必要ですしまだ分かりますが、
小さい念を自身から発動させずに
抑え込んだり消したり
などと云うのは困難を極めます。
ほぼ無理とも云える動きです。
何故なら、小さい念の発生要件が
自身の感情に依存しているからです。
自身の感情に依存しているという事は
抑えたり消すとなると、
「感情そのものをどうにかする」
と、いう事になります。
確かに一定量の感情の制御は可能ですが、
全般的な制御となると話は別です。
それは人間を辞める
と、言っても過言ではない動きです。
ましてや、小さい念が発生する感情は
喜怒哀楽の全てです。
怒りや哀しみの様な俗に言う
「消極的な感情」の部分だけではないのです。
喜びなどの「積極的な感情」で
どうして小さい念が発生するのか
意味が分からないと思いますが、
小さい念の発生場所は貴方だけに限らない。
と、云えば
身に覚えが湧いてくる筈です。
人の喜びを
素直に共感出来る存在ばかりではない。
疎ましく思ったり妬んだり
羨んだり嫉んだり。
つまり、小さい念を発動させずに
消すとなると喜怒哀楽の感情全てを
消去するに近い形で抑えなければいけない。
という意味になるのです。
それはもはや人間とは言い難いですし、
生の人間には不可能な動きです。
小さい幸せと同様に小さい念も
累積によって大きい念へと変貌します。
大きい念になると見える形で災いが発生する。
これを「厄」と言います。
厄を回避する為に人は様々な動きをしますが、
基本的にはどの厄払いもその事実のみに
目を当てるだけで、原因には言及しません。
そして、外からの部分のみに焦点を当てるので
内から発する部分は些末な方法で終わる。
よく言いますよね、笑顔を絶やさずにとかって。
以前も話しましたが、笑顔と云うのは
適切な場でのみ効果を発揮するものです。
常に喜ぶ様にしたところで、
周りの念を消せるものではないのです。
本当に小さい念をどうにかしたいのであれば、
それを自身も常に発しているのだと認める事。
自分はやっていない。やらない。
出さない様にしよう。ではなくて、
人なのだから出ちまうものは仕方ない。
その分、想いの形とも云うべき
小さい幸せに気が付こう見付けよう。
この動きに持っていかないといけません。
想念と言って、想いと念は表裏一体です。
累積した念を相殺するには想いしかないのです。
世に出回っている片側だけにメリットデメリットを
見出す様な動きや、勧善懲悪から完璧主義へと
帰結させようする動きは
何処まで行っても机上の空論に過ぎません。
ですので、常にニュートラルに立ち
両側を視て理解し認識する事自体が重要なのだと、
本来のスピリチュアルでは教えている訳です。
善悪は手段であり
目的ではない
正義の味方も
敵からすれば
悪の権化なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
誰にでもの話ですが、
「善い自分」
「駄目な自分」
を持ち合わせています。
これは単純な
長所短所の分類ではなくて
自分の中に存在する
想い基軸を中心とした部分
念基軸を中心とした部分
これらの俗称の様なもので、
切っても切れない関係性のものです。
この善い自分と駄目な自分を
上手く制御する事が
運気の向上と維持には不可欠です。
ですが、人とは面白いもので
善い自分や駄目な自分と
聞いてしまうと、
どうしても善い方を優先的に捉えたり
慮る様な行動を執り始めます。
ここがまた一つの落とし穴なのですね。
どうして善い自分を優先的にするのか。
そこを思慮しないといけません。
善い自分ばかりを
前面に押し出そうとするのは、
駄目な自分を隠したり
自分自身からも見えなくさせるため
と、いう様な
言い換えをする事も出来ます。
そして、そういった時の自分は
果たして想い基軸なのか念基軸なのか。
善い自分を出していたとしても
それを蹶起させた部分は
(駄目な自分を)見せたくないとか
見たくないという「俗欲」なのですね。
という事は、
善い自分を出しているつもりが
念基軸の状態となりますから、
これの中身は駄目な自分に他ならないのです。
善い自分と駄目な自分
想い基軸と念基軸というのは、
常に表裏一体の相互関係にあります。
その上で、どちらにも化けるという
擬態性も持ち合わせています。
物凄くステルス性が高いのですね。
こういった特性があるので、
善い自分ばかりを前面に出していても
良くなどならないし寧ろ、
悪化する理由がここにあるのですね。
重要なのは両方に目を向けること。
善い自分も駄目な自分も
どちらも自分という事を理解する事。
善い自分に偏らせたところで
それは利己的思考に基く動きでであり
念基軸を礎とするものですから、
業にはならないのです。
一方的な御利益を求めて
お参りに行くようなものと同じです。
神さん仏さんはそれら念基軸を無視しますが
悪霊生霊は喜んで寄ってきます。
大切なのは
常に「ニュートラル」であること。
善い自分を押し出すのでもなく
駄目な自分を抑えるのでもない
フラットに視ながら
どちらも制御して動かす。
ニュートラルを意識した動きをすると
自然とこの動きが出来る様になります。
この捉え方が日頃の業に繋がっていくのです。
「Nに目覚めろ」
出してあげる事も
運気の向上と
維持には
必要なんやで