皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
誰にでも嬉しい事というのがあります。
その中の一つに「成果」があります。
何かをやり遂げた形
と、いう意味の言葉ですが、
ここには最終結果だけでなく
途上段階に於ける
中間的な結果も含まれます。
どうしても、
最終的な結果を皆さん追い求めガチですが、
スピリチュアル的な物事のみならず
そればかりを考えてしまうと
途中にある重要な内容を
気付かないで通り過ぎてしまう様な事に
繋がってしまいます。
答えも大切ですが、
その答えを導き出すための計算式は
もっと重要です。
単に答えが合っていれば
それだけで善いなんて事は
世の中では意外と少ないものなのです。
出した答えよりも
それまでの考え方の方に目を向ける。
答えだけを見詰める様になってしまうと、
それが一体どんな経緯で
どういう流れに沿ってどんな考え方で
導き出されたものなのか
省みる事すらやらなくなってしまいます。
競争心に駆られて手早い成功に拘るあまり、
途中の段階を疎かにするのは
次へ繋がる最善策をまるで考えない
というのと同じ話です。
先に繋げるという事は、
過去の失敗を受入れてその失敗から学び
対策を練るという事です。
但し、それは「成功」に固執していては
狙いどころが変わってしまうので、
当初目的からは大きく掛け離れてしまいます。
たった1つの成功よりも
100の失敗の方がその分の経験を
積む事が出来るのですから価値は大きいです。
ここでの経験の一つ一つこそが
「成果」に外なりません。
合っている合っていないだけでの
判断材料のみでは
失敗はゴミ同然の扱いを受けるだけで
何が原因で失敗したのか考察すらせずに
また次への歩を進めてしまいます。
それは更なる失敗を産む要因となって
降り掛かってきます。
その失敗は反省も無しに繰り返すと
失敗自体のサイズも肥大化していき
周りへの負の影響力ままた増大していきます。
小さい幸せが寄せ集まって大きい幸せへと
変化していく流れと同じで、
集まっていくのは「念」ですから、
それ相応の恨みを蓄積していく話となります。
必然的に嬉しい事とは
掛け離れた結果となってしまうのです。
失敗はゴミではなく、
要素が足りていないだけであって
悔しかったり哀しかったりはするけれども、
形を変えた「成果の一つ」なのですね。
大きい答えばかりを求めていては
成果が手元に遣ってくる事はありません。
そこをよく考えて
日頃から動きを意識していく事が重要です。
変な拘りを持って
思考回路を
偏らせても
善い結果なんぞ
生まれては
来ないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
日常の中にほんの少しで良いので
変化を付けてみましょう。
同じ様な動きの中でも、
僅かな違いを設けるだけで
ルーティン化は避ける事が出来ます。
ですが、
そのわずかな違いや少しの変化ですら、
気軽に設けられないタイプの人も
存在するのですね。
その人達が陥ってるのが
「完璧主義」です。
「ちゃんとやらないといけない」
「間違える事は悪」
これが完璧主義の基礎部分です。
ちなみにですが、
その基礎に沿っていたとしても、
それが単に事前に調べるとか
知識を得るというものであって
そのレベルで留まる事が出来るのであれば、
完璧主義にはなる事はありません。
何もかもパーフェクトに拘るのだから
完璧主義な訳です。
しかし、悲しいかなその反動で
完璧を目指すあまり
冒険というものを拒絶する様になります。
つまり、
「失敗を恐れる様になる」
極度なまでに失敗を恐れるから、
安全パイを狙う様になる。
この段階で、完璧には程遠いという事に
当の本人は気が付きません。
安全パイを狙うあまり、
小さい変化すら恐れる様になる。
その小さい変化はとても簡単で
誰でも可能なことだと
頭では理解をしていても、
やらない理由、やれない理由を
別に探し始めて言い訳で塗り固める。
その言い訳の中で、
自身が原因だとは決して言えないので、
人や物に縋る様になる。
何故かと云うと、
失敗した時に文句を付けるためです。
自分は悪くない。
あれが悪いこれが悪いと、
さっきまで縋ってきた存在を悪と断じて
それらの所為にして自身の不出来を隠すのです。
そういった思考形態を是としている結果、
冒頭でお話をした様な少しの変化すら
自身で設ける事が出来ない。
どんなに小さな失敗でも
恐くて怖くて仕方がないから、
いつも同じ動きや同じ考え方に頼って
どこまでも「楽」をする様になるのです。
そして、
それが「楽」だと分かっていながら
周りから断じられるのも怖いので、
努力をしている人と同じ事を
自身もやっているのだと
見様見真似の虚勢を張る様になるのですね。
けれど、その虚勢はまさに虚ろなものですし、
その本質などは理解をしていないし
しようともしていない。
そういう状況だから、
益々立場や社会的なステータスに頼った
物言いをしてくる様になる。
完璧主義の人がやたらと上から目線だったり
お殿様気質、お姫様気質なのはこの為です。
何をどう云う風に装っても
ハリボテの作り物となってしまうのが
完璧主義の恐ろしいところです。
また、その依存性はとても高く、
脱するにはそれ相応の苦痛が必要です。
何をすれば良いのかは難しくありません。
小さな変化を設けるところから始めれば良い。
ですがね、いくらハリボテとは言え
自身のアイデンティティーとして
それまで維持してきた部分を否定する訳ですから、
一筋縄ではいかないのですね。
これとは逆に
苦しみや悲しみ、辛さなどに対して
幼少期から向き合ってきた人達や、
今この瞬間や直近でそういった経験をして
人の想いに触れる事が出来た人達からすれば、
何にも難しくない事だとしても、
完璧主義の人にしてみたら
超高難度の挑戦となるのです。
なので、生暖かい目で見守りましょう。
ではなくて
ガンガンに叱咤激励してあげないと
いけないのですよ。
これまでクソほど楽をしてきた訳ですし、
直ぐに楽へ逃避する癖があるのですから
その悪癖を上書きしてあげないと
完璧主義からの脱却は難しいのです。
「優しさを履き違えずに厳しさを出す」
苦痛に対して真摯に向き合ってきた
貴方達ならば優しさとして出来る筈です。
他者に対しても、自身に対してもね。
心苦しくも叱った後に
潰れてしまうのは
貴方が原因ではなくて
相手の勝手です。
真摯に向き合わない
相手がバカなだけやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
本来のスピリチュアルに於いて
とても重要になってくるのが
「ニュートラル」
と、いう考え方です。
中間に位置する場から
客観的に物事や事象を見極め判断する。
好き嫌いなどの偏った見方ではなく
その時に必要なものを冷静にチョイスする。
単なる善いとこ取りだと
考えられてしまいそうですが、
意味は全く異なります。
ニュートラルとは、
あくまでも「立ち位置」の話なのです。
どちらか一方へ偏らせるのは簡単です。
好みで決めれば良い話ですからね。
それが故に、
対面への否定感や拒否感が生じます。
その拒否感を正当化させる為の動きや
思考が主となっていくので、
自ずと偏りは増していきます。
そして、行き着くのが「完璧主義」です。
現世で我々が生きていく以上、
偏りや隔たりというのは避けられません。
それ自体は悪でもありません。
自身の意見や心情を万人万物へ
まともに伝える事すら叶わないのですし、
成長や進化という過程に於いて
隔たりも偏りもある種では必須となります。
そこで争いが生じますが、
融和というのは、
これらがあるから存在するものですし、
理解を成せるものなのです。
しかし、その途中過程に於いて
極端な偏りや隔たりを掲げたり、
立場の保持を主な目的としてしまう事があります。
これが「完璧主義」です。
片側に極端に寄せてしまって、
対面を思考する事が出来ない状態。
相反する思考は敵となり
矛盾を悪と断ずる考え方。
こうして話すと何となく視えると思いますが、
自分本位と同じですよね。
独りよがりを拗らせて、
思考的視野狭窄へと陥るがあまり
自身の世界を徒に狭くしてしまう。
結果として、
「受け容れ」も「受け止め」も出来ずに
心身共に惨めな状態へと堕ちてしまうのです。
この状態を回避して、その先へ進む為の
考え方が「ニュートラル」です。
立場や思想に極端な固執をせずに
中間ではなく「中空」より視線を拡げ
対局ではなく「大局」を視る。
優しさと厳しさの同居を理解し、
矛盾という名の選択の自由を行使する。
自身の考えを芯に捉えつつも
他者の考えは自身には思い付きもしなかった
「宝物」だという思考を創る。
相手との遣り取りは
意思の押し付け合いではなく
意志の受け容れ合いであり
心情の受け止め合いであるという捉え方。
その中での係争は一過程に過ぎないので、
それが目的ではなくあくまで手段という認識。
故に、相互意思の齟齬は必然であり、
ご都合主義の完全融和などは存在せず、
相手を好みで選ぶのではなく
互いの違いを認め合う「間接融和」を信条とする。
ほんの一部に過ぎませんが、
これらが本来のスピリチュアルに於ける
基本概念であり、ニュートラルという考え方です。
現世でありながら
向こうの世界の理を実践する。
辛く苦しいですが、そこを見詰めて
活かし生きる。
文字で読むと面倒臭そうですが、
やってみるともっと面倒臭いですw。
ですけどね、価値はありますよ。
いつでも誰でも
気軽に出来て
辞めるのも自由
ってか、
言われてやる様な
もんでもないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
自身が自己憐憫に陥り易いかどうか
その境目となるのが
「支えられていると考えているか」
「支えていると思っているか」
この考え方の違いです。
「自身が周りから支えられている」と、
考えられるのであれば、
基本的な思考と動作や所作は
「相手のため」や「周りのため」
と、いうものに自然となっていきます。
この思考形態の場合ですと、
基準となるのが自分ではなくて
「自分以外のため」となりますから、
日常的に反省と考察を繰り返します。
次に繋げていく考え方が主となる感じです。
ですので、
憐憫とは距離を置く様な感覚に近いと
考える事が出来ます。
これとは逆に、
「自分が周りを支えている」
と、いう考え方の場合ですと、
基本的な思考や動作所作というのは
口先では、
「相手のため」や「周りのため」と
枕詞の様に付帯して行動しますが、
「自分のため」が主流となります。
一見すると、前者と似ている様に思えますが、
決定的な違いとして
「相手のため」等の言葉を口にする
という点が見受けられます。
一先ずは自分というのを置いておき、
自分以外のためにまず動くといった、
奉仕の精神での思考や行動が理解出来ないのと
周りには同様に考えている風に思われたいという
承認欲求が強い為です。
そして、反省や考察というものの
意味は理解をしていますが、
自身が失敗をした時にすべきものとの
認識が強いので、
日常の中での反省等は前者に比べると
極端に少ないのが特徴です。
自身の反省よりも人の失敗を見て楽しむ。
同時に極端に自身が失敗する事を忌避します。
結果として、失敗後も反省ではなく
言い訳や擦り付けが主となるので、
自身の失敗を目の当たりにした時に、
自分を「上手く出来ない被害者」
と、いう位置付けにしてしまいます。
ここが自己憐憫を加速させるポイントです。
反省よりも自身を善として
悪を構築させるのですね。
勿論これは逆恨みでもあり、
単なる我儘に過ぎません。
反省を日常的に利用していないので
使い方も理解していませんから、
思考は穿ったものとなり前進的な思慮よりも
停滞的な動きがメインとなります。
褒めると直ぐに調子に乗るという
分かり易い特徴も出てくるので
見極める事は容易いです。
相手のためを思考出来れば
反省も考察も
それすらも出来なく
なってしまうんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
人の話を「聴ける人」と
「聞けない人」がいます。
聴ける人の中にも
「聴くのが上手い人」と
「真面目に聴ける人」と
「聞ける人」がいます。
聴くのが上手い人というのは、
所謂聴き上手な人を指します。
同時に話し上手な人とも言えます。
真面目に聴ける人は、
聴くという行為に対して
集中する事が出来る人です。
但し、そこから話の内容や真髄や
要点をきちんと得ているかは別です。
どちらかと言うと
ちゃんと聴いている、聴けているという
「自身の姿に酔っている人」が多いです。
真面目に聴ける人に対して
後から再度話の内容を聞いてみると、
「言葉は聴けていても
内容は理解出来ていない」
なんて事が多々あります。
これが
「真面目の反動」というやつですね。
ついでに、
「聞ける人」というのは、
本当にただ聞いているだけで
聞けないよりは良いよね。
みたいな感じの人を指します。
この「真面目に聴ける人」というのは、
視る場合でも同様に
「真面目に視る人」となり易いです。
やはり構造は同じで、
その真面目な自身の姿に酔ってしまう。
真面目というのは、単に「性格」です。
どうしても、善悪としての捉え方で
使われる場面が多いので勘違いし易いですが、
単に性格上の話であって
「真面目=善」
として、捉えてしまうから
その姿に酔いしれてしまうのですね。
実際のところ、
不真面目でも善い人は居ますし、
真面目でも悪い人だって居ますよね。
ただ単に
動き方や考え方を司る性格の切り分け
でしかないのが、真面目というワードです。
なので、真面目だからと言って
そこに酔いしれてしまうのは
強大な自己満足に過ぎませんから
行き着く先は貧乏神となってしまいます。
多いんですよ、自身の真面目さに酔い過ぎて
地獄へ堕ちていく人。
ま、結果として独りよがりとなって
自分しか視ていない訳ですから
当然と言えば当然の結果なのですけどね。
然しながら、決して間違えてほしくないのは、
「真面目な性格」というのが
駄目な事だと言っているのではないです。
全然悪い事ではありません。
ちょっとだけ依存する毒素成分が強いのと、
ステルス性が高いので
じんわり響いてきてしまうのですね。
気が付いたらとんでもない事になっている。
みたいな感じに効いてしまうのが
真面目の毒素なんです。
これを制御するには、
真面目の反動を理解しないといけません。
真面目ってのは本来は「辛い事」です。
“楽をする”とは相反する側面ですからね。
にも関わらず、
そこに他者と比較しての優位性や
一時的な快楽を得ているというのは
適切な真面目さであれば有得ない話なのですよ。
こうやって考えると、
真面目な自分に酔っているという意味が
分かりますでしょ。
要するに、真面目も行き過ぎると
俗欲依存が進んでしまうから
ヤバいですよという話です。
四六時中、真面目を貫くのではなくて
適頃な面で真面目の効果を
最大限に発揮すれば良いだけ。
そうでもしないと
勧善懲悪の波に飲まれてしまって
いつしか完璧主義の渦中に嵌って
二度と脱出出来なくなってしまいますからね。
その加減を
知る事が
真面目さんには
不可欠なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
日常の中で、
中途半端というのが
宜しくない事というのは、
ここを読んでいる方々ならば
誰しもが理解されている事だと
思いますが、
では、完全や完結が
自然界や万物に当て嵌まるのか
日常の中に自然と嵌るのかというと
それは些か違います。
現実の中を生きている我々にとって
通常の状態は「未完」です。
それをそのまま受け取ってしまうと
何もかもが中途半端で善いものと
捉えてしまいそうですが、
それは絶対的に間違っていて、
未完の事実は許容しつつも、
先へ進む為には
意図的な完結や完全を作る必要がある。
何故かと言うと、
「目的や目標」を策定した方が
万物は動き易くなるからです。
現実を生きるという事は
そこにはどんな形であれ
時間という概念が影響します。
つまり、
「事象を進めるのは有限」
という事です。
決して無限ではない。
それを如何に効率的且つ合理的に
推し進める事が出来るか
その渦中に於いて必須となるのが
「完全」と「完結」
という意図的な所作です。
これがそのまま
「目標」及び「目的」となります。
ですから、
歩みを先に進ませる事が出来る。
意欲が湧くという事ですね。
けれども、
これは未完の最中の一所作に過ぎなくて
段落を変えたり、呼吸を吐くための
差し詰め、
「句点」としての役割の一つに過ぎません。
完璧主義という動き方がありますが、
これは、先に述べました
完全や完結といった
散りばめられた一事象のみに
視点を定めて固定する様な
視野狭窄を是とする考え方となり得るので
自分本位や自分優位といった
手前味噌な動きには良いですが
視野が広がった瞬間から
未完の広大さに溺れて挫折を味わいます。
例えば、
宇宙宇宙と言いながら
地球やそこらの星だけを
眺めているのと同じです。
その先には太陽系があり、
他の恒星系があり、
それらが無数に集まった銀河系があり
銀河系が集まった銀河団や銀河群がある。
私達の生活も同じです。
長大な人生という時間の中で
膨大とも言える「未完」の渦中を
我々は過ごしているのですから、
その未完を如何に許容しつつ
どれだけ繊細且つ大胆に
「完全」や「完結」といった
「句点」を駆使出来るか。
という事が重要となる訳です。
考え過ぎない
思考回路
柔軟性が
大切なんやで