2026年10月13日火曜日

過ぎた簡単は地獄への道標(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




苦しみも悲しみも愉しみも嬉しさも
日々感じる事が出来る感覚は
全て同じところにあります。

例えばですが、

苦しみを感じている時は苦しさだけで
愉しみなんか感じ得ない

そういった具合で
考えてしまいがちですが、

実際のところは、
苦しみを感じている時でも
愉しみを同時に感じているものですし、
その逆も然りです。

苦しみや愉しみを同じ事象や出来事で
同時に感じ得るという事でもありません。

仕事で叱責されて苦しんでいたとしても
同時に趣味のものなどやプライベートな事を
やったり考えたりするなると

愉しんで愉しんで愉しみまくれたりするでしょ。

あたかも心の中は苦しみに支配されていると
考えてしまっている様な時でもです。




人は、1つの感覚や一つの感情で
心の中や精神性を支配しようとしたり、
合理的に纏めようとしたりする癖があります。

悲しい時は悲しく
嬉しい時は嬉しく
苦しい時は苦しく
愉しい時は愉しく

ですが、そう単調に切り分けられる程
人と云うのは簡単なものではないのです。

感情や感覚というのは同じ位置にあって
表裏一体で存在しているものなのです。

片側だけに偏らせて意識をしようとしても
上手くいく事など土台難しい事です。
偏らせて思考したところで
一時的に上手く立ち回れたとしても

その反動は必ず自分に戻ってきます。

で、あるならば両方を思考する様な感じで
動こうとした方が無難ですし建設的です。

愉しい事ばかりを得ようとしていれば
その最中に苦しい事が起きた時に
容認できない様な状態となって
動きの中で落ち着きを失いますし、

悲しい事ばかりを考えていれば
その最中に嬉しい事が起きた時に
過剰に反応したり過大評価した状態となって
動きの中で誤った選択をする事に繋がります。

やはり落ち着きを失ってしまうのですね。

何かしらの感覚や感情を中心核に据えて
業を実行している最中だとしても
そこには対面となる感覚や感情も存在する。

その理屈を常に頭の片隅へ置いておくだけで
冷静さと云うのは身近なものへと
変わっていくのですからね。

感覚や感情は
簡単どころか
困難の極みなんや
それを無理に
簡単に考えるから
得られるものすら
得られないんやで

2026年10月10日土曜日

現実の為のスピリチュアル(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




常に落ち着いて冷静でいましょう。
色々な場面に於いての
理想の動き方ではありますが、

ある場面だけ限定的に冷静になるとか
ピンチの時に落ち着いて動くとか、

自分の都合で簡単に出来るものではないです。

これは普段から心掛けていなければ
絶対と言い切れる程
やれるものではありません。

では、何を心掛けるのかと云うと
落ち着いて冷静になりたいのだから、

いつも落ち着いて心静かにしていれば
良いみたいに捉える人がいるのですが、
それは全力で間違っています。

そんな事をしていても
冷静に判断したり動いたりする事は
出来る様になりません。

大切なのは、
反復練習とマインドセットです。

反復練習というのは、身近な所で云うと
小学校とかで行った避難訓練などが
分かりやすい例となります。

ある一つの出来事や事象を想定して
それに伴った事後の動きを身体で覚える。

こういった動きを定期的に行う事で
例え慣例化していたとしても、
いざという時に一定の動きは
自然と出来る様になります。

但し、反復練習時に気を抜いているか
気を入れているかで、
有事の時の判断は変わります。

テキトーにやってても大丈夫という事は
あり得ないって話ですね。




マインドセットというのは、
状況の判断と優先順位の構築を指します。

何か問題が発生した際に、
頭の中に在る常識を一定の段階を踏んで
自ら壊していく事です。

常識と云うのは、
生活の中に於いて必要な規範ですから
僕らには切っても切れない代物です。

と、同時に有事の際には
動きや判断を縛ってしまう足枷にもなるのです。

いざ動かなければならない状況や
即断しないといけない状況に於いて、
「様子見」をしてしまったりする
要因の一つなのですね。

状況に応じた動きを思考レベルで構築する。
それがマインドセットです。

例えば、何でも無い時の常識で云うならば
暴漢に襲われたら「手を出すな」と、
誰もが教わりますが、有事でのそれは間違いです。

襲われている時点で反撃をしなければ
どこまでもやられてしまいます。
この時に、段階を踏むのがマインドセット。

逃げる隙を作るために敵を遠ざける動きをするのか
逃げられないから徹底的に敵を排除するのか

その判断を一瞬で行って気を入れるのです。
つまり、「覚悟を決める」という意味です。

路上で襲われたパターンと
家に不届き者が入ってくるパターンと
状況は全然変わりますよね。

前者は逃げる選択がありますが、
後者はそもそも逃げられない。

それを理解した上での覚悟です。

これらをより詳細にシミュレートして
普段の生活の中に落とし込む事が必要になります。
その為に必須な動きと云うのが、

「よく視て」「よく聴いて」「よく考える」

と、いう基本動作です。
自身の置かれている状況を緻密に観測して
自分が今何をしているのかをしっかりと理解する。

この動きそのものを普段から行っている事で
災害だろうが事件だろうが、事故だろうが、
有事の際は数段の違いが出て来ます。

ボケっとせずに意味を理解して動く。

本来のスピリチュアルは
神秘性や奇跡的な事ではなくて、

「現実の中にこそ在る」

と、いうのを実感できる筈ですよ。

今自分が何をして
どうしているのかを
ちゃんと考えて
理解しながら動くのが
冷静さを手にする為の
第一歩なんやで

2026年10月9日金曜日

境界線上のメソッド(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




みんな大好き個人力。
あんな力やこんな力など
能力には様々なものが存在します。

実際に、感覚を基礎として
僕のところでも色々なものが使える様に

やり方だけではなくて、
個人力としての力の開発や
どうやったら元々備わっているその力を
呼び戻す事が出来るのかなど、

色んなことを教えているのですが
その中に俗欲の制御というのがあります。

何度となくお話をしていますね、
「俗欲の制御」。

俗欲の制御というのは

やりたい事をやらないとか、
無闇矢鱈と我慢をするとか、
煩悩がどうのこうのとか、

そう云った様な
単に欲を抑えるという意味ではなくて

相手を想い、思い遣った上で
その場その時々での最適解を導き出す為の
「自身の気持ちのコントロール」となります。

キーワードは「自分以外のため」です。




単に各種俗欲を我慢するみたいなのは
その場凌ぎに過ぎませんから

「意味を考えない」

と、いう動きが出て来てしまうのですね。

これですと中心核となるのが
自分になってしまうのです。

要するに、自分本位を誘発するだけなのです。
それでは本末転倒です。
思い遣るなんて何処吹く風に等しくなります。

そうではなくて、
あくまでも自分以外の相手を想って
発動させる「動き」が
「俗欲の制御」なのですね。

例え、その場に居ないとか、
自分以外には視えていなかったとしても

自分を中心核に据えずに思考して
相手を思い遣り動く。

この動きが出来ないとどんな個人力を
使えたところで自己満足で終えてしまう。

「自分の能力が凄いでしょ」
「こんな事が出来るの」
「私は分かる力を持っているから」

と云うようなクソ程くだらない自己陶酔に
陥る様になってしまうんですね。
そして、高確率でその際には
誰かをダシにするのです。

何でもかんでも伝える事や教える事が
全て正しいのか、最適解とは何なのか。

生きている存在のみならず、
生きていない存在について能力を使う時でも
歓びに溢れる事ばかりではなく、

そこには遺族や関係者など知ったら傷付くであろう
存在が居るという事を考えて動いているのか。

個人力というのは「想いの延長線上」に在って
「俗欲との境界線上」に在るものだというのを

理解しないといけないのですからね。

自分のために
使っている内は
能力なんてのは
堕ちていくのみやで

2026年10月7日水曜日

まやかしと本質の狭間(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




信じるというのは難しいです。
特に、「自分を信じる」というのは、
超難関な業となります。

いや、そんなの簡単だよね。

と、思える人は出来ているから
そう断言することが可能なのですね。
(これは厭味ですからねw)

色々な場面で、
出来事や事象の大小を問わず
「自分を信じる」ようにするには、

「覚悟を決める」という意味なのです。
何の覚悟かと云うと、

「誰の所為にもしない」

と、いう覚悟です。

正直なところ、
これを実行するのは本当に困難を極めます。

人の所為や物の所為にする方が
自分の所為にするよりも簡単です。
責め立てれば良いだけですからね。

つまり、自分を信じるよりも
他人を信じる方が100倍は簡単なのです。

覚悟を決めなくても、
何かあった際にはそいつの所為にして
責め立てればいいだけですからね。

また、言う事も聴こえも
周りからすれば格好良く響きますからね。

尚、ここまで話しておいて何ですけども、
これって何も信じている事には
なりませんからね。




また、
「自分の事しか信じない」のと
「自分を信じる」というのは別物です。

「自分の事しか信じない」と口にする人は、
大抵の場合、自分の事も信じていません。

単に責任を逃れてフラフラとしているだけで
その場その時で、信じる先を変えていて
他者の話をあたかも自分に照らし合わせて

さも自分が生み出したり、
自分が口にしたかの様に
言いたいだけの人であって
覚悟を決めて口にしているなんて事は

萬に一つもありません。

以前にも話していますが、
自分の事しか信じないなら
周りの存在も信じないという意味ですからね。

前段でも話しましたが、
自分を信じるというのは

どんな場面だったとしても、
自己の動きや考えに責任を持つ事を指します。

当然、文句も言えば愚痴も口ずさみますから
100%完璧にという事は
原理原則としてあり得ないですが、

それを加味したとしても、
可能な限り自己の責任の名に於いて
覚悟を決めて行動をする。

自分を信じるという事は、
相手を信じるという話に繋がるのです。
何故なら、自分が覚悟を決めて
そうしようと決断した事なのでしょ。

相手を信じようと決めたは自分なのですから。
そういった覚悟を常々秘めながら
日頃の業を熟していく事が、

「自分を信じる」という事なのです。

どうしても善い事ばかりを想像して
自分を信じると使いがちになるでしょうけど、
自分を信じる先には結果として
失敗や自分にとって都合の悪いことも含まれます。

それらの全てをひっくるめで
「自分を信じる」が成り立つ訳ですから、

自分達がやれる事と云ったら

「信じられるに値する為の努力をする」
「覚悟を決める事が出来る様な知と経験を得る」

まずはここが基本となる訳です。
この基本を育てる場が「日頃の業」なのですね。

さて、貴方は自分を信じられていますか。

やればやるほど
難しさが身に沁みる
それが自分を信じる
という業なんやで

2026年10月5日月曜日

魂の座(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




家族、知人友人、職場、業務関係者、
日頃からコミュニケーションを取る為に
貴方はあの手この手で
悪戦苦闘している事と思います。

以前より話をしている通り、
コミュニケーションの基本であり
究極系は「会話」です。

単に言葉を交わすのが
「会話」ではありません。

そこに気持ちをしっかり乗せて
遣り取りをするのが「会話」。

その気持ちというのは、
想いでもあり念でもあります。

この手の話をすると
善い事ばかりを考える人や
無理にでもそちらへ結び付けようと

教え広める人が結構多いので
どうしても偏りがちなものでもあります。

実際のところ、「会話」というのは
想念の交錯がとても激しいです。
一瞬にして纏まることもあれば
爆散することもありますよね。

その時に、どうしても言葉のチョイスを
念頭に入れた成功や失敗を
考えてしまいますが、

実のところ、想いが入っていたか
念が入っていたか、

それらを意識していたかどうか
と、いうのが問題だったりします。

確かに、言葉のチョイスは必要です。
明らかに場違いな言葉を選定すれば
気分を害する人だっていますし、

大っぴらに誤解や勘違いを
招いてしまう危険性も出て来ます。

けれど、如何に適正な言葉を選ぼうとも
そこに気持ち、想いや念が乗っていなければ
会話としては意味を成さないのですね。

例え、眼の前で聴いていたとしても
スッと自身の中に入ってこないのです。

そして、その逆も然りです。
幾ら頑張っても相手に受け入れる器や
その気概が無ければ全く届かないのですね。

受け容れない訳ですから。




想いや念というのは
目に視えたり視えなかったりと
不確実性の高いものではありますが、

意外な部分で、
はたとその存在が視えたりします。

その一つが「抑揚」です。

こんな経験ありませんか。
会話ではないですけど、歌を聞いてる時に
音程も音階もバッチリなのに、

内容が全然入ってこなくて
感動もクソも無く聞くに堪えないという経験。
いわゆる満点の筈なのに良くないってやつです。

単に正しければ良いという訳でも無く、
揃っていればいいという訳でも無い。

そこに「気持ち」というのが乗っていないから
雑音にしか聴こえないのですね。

会話も同じです。
そこに「想い」や「念」が乗っているから
相手にも届くし自分にも響く。

ただ言っていますというだけでは
何も思わないでしょ。

当然、相手に届かせたいのであれば
努力が必要になりますが、
「相手次第」という不可分性もあります。

どんなに努力をしたとしても
相手の器が矮小だったり、
そもそも閉ざして塞いでいれば届きませんし
何も響きません。

それでも努力をする事が必要ですし、
自身に至っても理解する努力が必須となります。

そこで確実に視えている筈なのに
視えなくさせてしまっている本質と中身。

魂を宿らせているのかいないのか。
そこを意識して動く事が大切ですからね。

魂を座して使う
言葉も会話も
これを理解すれば
形だけの思い遣りも
隠れた自分本位も
純朴な想いも
見抜けるものなんやで

2026年10月2日金曜日

ありのままを...(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




貴方は人に何かを伝える時に
内容に編集を付け加えずに
そのままを話す事が出来ますか。

そんなの簡単だと思いがちですが、
これが実は結構難しいのです。

人には
自分本位という機能が備わっています。

この自分本位はあらゆる場面で
ひょっこりと顔を出すのですね。

どんなに小さい物事だとしても
人に何かを伝えようとする際も
それは変わらず存在します。

小さな出来事を大きく言ってみたり
出来事そのものに尾鰭を付けてみたり
逆に過少的な言葉で言ってみたり

ありのままそのままで
モノを伝えるというと
結構難易度が高い筈です。




そこには個人的な主観や好みも入ります。
貴方の立場や相手の立場などが
入り混じる場合もあります。

自分の事を善く見せたいという
俗欲が入る場合もあれば、

人から良く思われたいとか
恩を売る様な動きになる場合もありますね。

面白く伝える為に
嘘は云わずとも少し脚色をしてみたり

深刻な話になればなるほど
自分や自分のエピソードを現実よりも
色濃く見せようとしてしまったりもする。

これだけではないですが、
こういった事全てが自分本位です。

ありのままの出来事を
そっくりそのまま伝え話す。

相手が傷付かない様にとか
色々な意味で言い難い場合などは
言葉を選んだりはするにしても

ありのまんまというのは
知識、知恵、洞察力、語彙力、
理解力、認識力など様々な考えを用いなければ

どうにも難しい業(おこない)です。

けれども、相手のためや
自分以外の存在のためだと考えるのであれば
やらなくてはいけない業でもあります。

考えるよりも実践あるのみ。
やってみれば分かりますが、
頭では理解していても中々大変ですよ。

自分本位、つまり俗欲を制御したいのならば
避けては通れない業です。

思惑が交錯すると
シンプルに
なればなるほど
高難度になる
やってみれば
分かるんやで

2026年9月29日火曜日

恨みと余計なお世話(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




いつも縷々様々な形の自分本位を
ここではお話をしていますが、

身近な所で一番発生率が多いのが

「余計なお世話」です。

一見すると、
別に悪いことでも何でもないのだけど
相手の意に沿っていないので
要らぬ恨みを買う

と、いうのが「余計なお世話」です。

これの何が厄介かと云うと
当の本人に全く罪の意識が無い点です。

どういう意味かと云いますと、

自身の中では善い事や
喜ばれる事を率先して行っていると
信じ切っていて、相手の事など
微塵も考えていない

という事なのですね。

早い話が、「押し付け」なのです。

相手に対して何かをするというのは
自身の価値観で決め得るものではありません。

自身の価値観がそのまま相手に符合すると
考えること自体が烏滸がましいのです。
個々人で価値観は違いますからね。




例えば実際にみかけた話ですが、

スーパーの入口でガラガラに幼児を乗せている
主婦さんが居ました。
幼児は駄々をこねていて
泣いてはいないものの騒いでいる状態。

それを見かけた妙齢の御婦人が
宝物でも見付けたかの様に笑顔で近付き
当たり前の様に主婦さんへ話し掛けたのですね。

「あら~、だいじょうぶ」みたいな。

あの時の御婦人の笑顔と云えば
聞こえが良いですが
ハッキリ言って気持ち悪い笑い顔。

主婦さんも最初こそ社交辞令的な
作り笑いをしていましたが、
明らかに鬱陶しいなという感じです。

それをガン無視しして話し掛けるご婦人。

外は大雨です。
早く車に戻りたかったのでしょうね。
おまけに、幼児は泣き止む事が無いどころか
更に輪を掛けて騒いでました。

そして、御婦人はというと
善い事をしたという満足げな感じで
そのまま立ち去る始末。




この時の御婦人の表情は自分本位そのものです。
自分本位を主として行動する際、
人はその表情などにガッツリ特徴が出ます。

実際の行動も例に紛れず、
自分の気持ちは満たしているけども
相手さんの事は何一つ考えていません。

ここで御婦人が得たのは「恨み」だけです。

また、御婦人に余計なお世話をしたとの
自覚は全く起きていないでしょう。

意識の方向は自分へ向いており、
気にする点は世間体。

こういった無自覚な押し付けが
余計なお世話なのです。

誰しもが同じ価値観で動いている訳ではない。
中には同じ価値観の人も居るでしょうが、

世の中はそこまでシンプルでも無いし
人はそんなに単純でも無いのです。

この様な動きをなるべくせずに
ちゃんと相手の意に沿った動きであれば
似た様な状況の時に
「声を掛けない」という選択もあるのです。

これを「やらない勇気」と云います。

やるべき勇気とやらない勇気
この使い分けをする事が
余計な恨みを買わないで徳を最大限に
発揮する動きとなるのですね。

想いと念が
同じ場所にある様に
徳と恨みも
同じ場所にある
全ては相手次第であり
自分次第でもあるのを
忘れたらあかんで

2026年9月26日土曜日

バックドア構築(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自分本位というものは
制御をする事は可能ですが、

克服するという事はありません。
何故なら、消せないからです。

そして、
制御と言っても
完全制御という訳ではなくて
ちょっとした部分で何とか出来るかな

程度の制御です。

自分本位というものは
普段はどうにか制御が可能ですが、

喜怒哀楽や環境や状況によって
非常に簡単に表面化していきます。

哀しい時や怒っている時だけでなく
自身が浮かれている時や嬉しい時など
自分本位では無さそうな時だったとしても

要らぬことを言ってしまったり、
逆に感付く事が出来なかったりと
簡単に露見する様になります。

何故なら、周りが視えなくなるからです。




自分自身でも驚くほどあっさりと
自分本位は顔を出してきます。

克服したと考えている人になればなるほど
露骨なまでに自分本位は暴れます。

何故なら、口では克服と言いながらも
自分本位というものを拒否しているからです。

どんな時でも可能な限りの冷静さを保つ。
それが自分本位の制御に必要な因子です。

「常に裏側を視る」

という感情の覗き見。
今この瞬間に得ている感情の全てに
流されるのではなく、

どこか俯瞰視する様な感覚を持ち合わせる。
その上で、感情を爆発させたり表現をする。

でなければ、感情と云うのは激流と同じなので
瞬く間に飲み込まれてしまうのです。
それを手招きして待ち構えているのが

自分本位に他なりません。

常に裏側を思考する事により
感情の激流をある程度制御して冷静になり、
自分本位をしっかりと認めて

今この時に自身のどこに自分本位が
存在しているのかを探し、
意識して最低限の「力」として引き出すのです。

自分本位は溺れたらおっかないですが、
行動するためのきっかけでもありますからね。

嫌がるのではなく
恐がるのでも無く
己の要素として
認めて使うんやで

2026年9月25日金曜日

幸せに手軽さは無い(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




発する言葉について
以前にも話しましたが、

「綺麗な言葉を使えば幸せになれる」

と、いう方がいらっしゃいますね。

僕はこれには懐疑的です。
まず、綺麗な言葉の意味が分からない。
定義というやつです。

貴族的な言葉遣いが綺麗なのか
それとも
単に綺麗とされる言葉が良いのか

綺麗の定義が無いのですね。
また、人はシチュエーションの中で
生活をしています。

あらゆる状況や環境があり、
それは刻一刻と変化します。

ずっと同じなんて事は無いですし、
突発的に変化するなんて事もざらです。

そんなシチュエーションにおいて
どうしても
汚い言葉を発する場面もあります。
発さなくてはならない場面もあります。

これらをちゃんと加味しているのかどうか
そこがハッキリしないのですね。




更には地域性というのもあります。

決して汚い言葉や粗暴な言葉を
使っている訳ではないのに、

その地域での言葉遣いによっては
荒々しく捉えられてしまう事もあります。
この時の差分などへの考慮などは

全くと言っていい程
考えられてはいない筈です。

そして、何よりも捉え方です。
言葉と云うのは、
相手の捉え方一つで全てが変わります。

綺麗な言葉を使っていても
何かしらの含みを込めていれば
それは綺麗な言葉を被った雑言です。

そういった点への解説や説明が
事細かにあるのであれば納得出来ますが、
まずそういった話はありません。

極論に近い話に聴こえるかも知れませんが、
敢えてそのように話をしています。

何故なら、この手の験担ぎを
カルト的に信望するタイプの人達は
柔軟性というものを
どこかに置き忘れてきた人が多いからです。

確かに言葉一つで人の幸せは変わります。
ですが、それはあらゆる場面で
言葉をしっかりと選択して

多少なりとも違和感無く
使い分ける事を前提としているのですね。

ある意味で
「ありのままの姿の体現」を実行する事を
指しているのです。

よく視てよく聴いてよく考える

自身の中で真摯に向き合って
ピントの合った言葉を選んで使う。

それが幸せへ通ずる一歩となるのです。
綺麗や汚いに躍らされずに
「ちゃんと自身で考える事が大切」
という意味なのですよ。

見た目の手軽さや
美しさだけに
惑わされないで
適宜対応出来る様な
柔軟性を身に付け
しっかりと考える事が
鍵となるんやで

2026年9月22日火曜日

螺旋という考え方(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




色々な内容の相談を受けたり
こうして話をする事が多いのですが、

その中で

「繰り返し」

という事について、
話をする事があります。

様々な出来事の繰返しがあるのですが、
その中でも人生において
よく言いますよね

「また同じ事を繰り返して」

みたいな感じのやつです。

この生きている上で
善くも悪しくも
どうしてもやってしまう繰返し
人によってはループとも言いますね。

これは本当のところ
繰返しではないのですよ。

と、いう話をするんです。




実際のところは、
ループではなくスパイラルです。

繰り返しではなく螺旋です。

繰り返しというのは
動線で表わすと円になります。

ですが、
実際にはそれだと要素が足りていなくて
現実的な話にはならないのですね。

何が足りていないのかというと、
「時間」という要素です。

僕らはどんな状況になっていても
時間という括りの中で生きています。
これを排除して考えてしまうと

どんな内容においても
善し悪し問わず繰返しという事になってきます。

しかし、
進行方向へ向けた時間が
僕らには必ず圧し掛かります。
現在から将来へ向けた時間ですね。

この要素を忘れがちなのです。

出来事や事象のみを語るのでしたら
確かにループですが、
そこには確実に時間が関係してきます。

前へ進む力が加わる訳です。
その瞬間から円ではなく螺旋に変わります。

ループと違ってスパイラルなので
同じポイントに戻って来ないんですね。

この時間という要素の付け加えを
思考回路へ確実に組み込む事で
モノの捉え方は多分に変わってきます。

もし、今何かで悩まれている人や
悩みがちな人は騙されたと思って、

その悩み散らかしている中に
将来へ向けた時間を組み込んでみて下さい。

視えなかった事が
きっと視えてくる様になりますから。

要素を一つ
忘れただけで
考え方は
大きく変わる
そんでその要素は
決まって身近な
ものなんやで

2026年9月21日月曜日

薄知減実(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




努力と云うのは
様々な形がありますが、

その価値を最大限に発揮する為には
状況の把握と結果の報告や
事実確認という動きが必要となってきます。

そして、そこの動きの中で
気を付けないといけないのが

「ひけらかし」です。

「ここまでやった」とか
「こんなに頑張った」とか
「こういう努力をした」とか

言いたくなる気持ちも分かりますし、
言わないといけない場面もあります。

然しながら、基本的なスタンスは
「ひけらかさない」です。

必要以上の物言いはしない。

全く言わないのではなく、
必要以上にと云う点が重要です。




昨今の世間的な動きですと、
何でもかんでも白日の下に晒すのが
是という動きになってきています。

全てに於いて宜しくないとは言いませんが、
あまり褒められたものでもない。

色々なものを知れる
というメリットがある反面、
知れるからこそ興味が薄れるデメリット。

一度見聞きしたが故に、
知った風になってしまって
それ以上のものへと昇華させる事や

利用するという事が
無くなってしまっている現状。

それを実際に動く側、努力する側としては
相手のためにを考えた時に、

敢えて必要以上には言わない
という選択をする事が重要になってくるのですね。
以前にお話をした「陰徳」です。

必要なところへ必要なものを流す。

そのヒエラルキーは絶対なもので、
不要な場へ流したところで
努力の価値は薄知減実となるのみです。

感じ取れる存在とのみ
最大限の共感をして感覚を共有する。

不平等だと思うかも知れませんが、
本来のスピリチュアルに於ける
これが現実というものなのですね。

平等や公平は
幻想に過ぎない
不平等という
不自由さの中で
色々と経験をして
身に付けるんやで

2026年9月19日土曜日

連鎖と波紋(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自己の意思の有無に関わらず
霊的な作用を受けたり
与えたりする事があります。

これを「影響力」と、云います。

乳児期や幼児期から影響力を発したり
授受したりする事もあれば、

ある一定の時期から起きる事もありますし、
ほぼ自覚せずに人生を終える
と、いう場合もあります。

詳細な内容について今回は省きますが、
影響力自体には

「正の影響」と「負の影響」の

大きく分けてこの2種があります。

これは本人ベースで捉えた時と
周囲ベースで捉えた時では

例え同じ内容だったとしても
正負のそれは異なったりもします。




影響力というのは想像以上に絶大で、
特定の一個人のみに対するものから
相当数の人員に与えるまで

その効果範囲はかなりフレキシブルです。

また、霊格や過去の経験という要素も
大きく作用します。

過去の経験というのは、
それまで熟してきた人生の数と

得てきた事の「含み」を意味します。

「含み」というのは、
複数回の人生に於いて蓄積してきた
努力の内容です。

皆さんがよく使う「学び」
というものとは異なります。

学びは1つの得た結果であり目標値であり、
含みは過程での内容と産物です。

影響力の伸びもまた面白く、

正の影響力は「連鎖」であり
負の影響力は「波紋」です。

この意味合いが理解出来ると
例えばですが、

霊からの干渉などを受けた際の対処法や
善き流れへ導く際や導かれる際の動きなどが
自ずと分かる様になってきます。

影響力ってのは
誰にでも
備わっていて
正か負かは自身で
選べるんやで