2026年7月14日火曜日

苦痛からの解放(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

お客さんからのお声を戴きましたので
ご紹介したいと思います。




先日、
知人の勧めで先生に悪霊祓いを
行っていただきました。

我が家では10年以上の間、
不快な音や悪臭が続いておりまして
ほとほと困り果てていました。

最初の頃は音と臭いだけでしたので、
工務店にリフォームをしてもらって
直るものだと思っていました。

実際に家は綺麗になったのですが
特に何の変化も起きず。

元々、霊的なものは
そこまで信じていませんでしたが、
あまりにもおかしいので

我が家でお世話になっているお寺さんに
お経をあげていただいたりしたのですが
信心深くないからなのか、
これといった効果が無く。

その後に知合い経由で
霊能者の方にも来ていただいて
横柄だし、あやしいなと思いつつも
凄い修行をされたらしいので

除霊?をしてもらったのですが
大袈裟だったわりには
何の変化もなかったです。
お金もすごく大袈裟で残念でした。

そうこうしている内に年数が経ち
すっかり諦めていたところ
先月、知人から先生を紹介されました。

これまでの経験もありますから
何も変わらないだろうし、
横柄だったら嫌だなとは思いつつも
話し半分のつもりで来ていただきました。

実際に先生にお会いしてみたら
とても物腰が柔らかい方で安心しました。




先生はご挨拶もほどほどに
早々に家の中を見渡して
淡々と何か霊に話しかけている感じでした。

優しく私達に話しかけて下さりながら
仰々しい儀式みたいな事をすることもなく
ただ何か話し掛けているだけなんですね。

そして、30分もしない内に
先生がお声を掛けて下さいました。

先生から終わりましたよと
教えていただくその少し前から
主人と顔を見合わせていたのですが、
悪臭がしなくなっていたんです。

その後、今何をしたのかというのと
私達がこれから気を付けていかなくては
いけない点などを先生はすごく丁寧に
わかりやすく教えて下さいました。

悪霊祓いよりも解説の方が
ずっと長かったのですが、

お話が面白かったのと
心から納得することが出来たので
全然苦ではなかったです。

怪音の方もその日の夜から消えて
なんと言いますか、これまでの不快さが
まるで夢だったかの様な変わりようで
嬉しい以外の言葉が出て来ませんでした。

先生はとても気さくでお人柄も素敵で
お話はすごくためになりました。
我が家はすっかり先生のファンです。
本当にありがとうございました。

Mさん
ご感想ありがとう
ございました。
お話をした点に
気を付けて
過ごすんやで^^

2026年7月11日土曜日

いつも話しているのは予防策(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




力の源を考えた事がありますか。
自身が動いたり考えたりする為の
根源となる部分の事です。

使命感や義務感、危機感など
縷々様々なものがあるのですが、

結局のところ掘り下げていくと
想念に辿り着きます。
想いと念の事ですね。

プラスに起因する部分の思考や動きは
想いが要因となり、
マイナスに起因する部分の思考や動きは
念が要因となります。

この時に意識の方向も一緒に考えるのが
大切になってきます。

何故かと云うと、
特に想いは「相手との双方向」が
基本となるためです。

にも拘らず、
その原理原則を破ってしまって
念を想いと誤認する事が多いからですね。

意識の方向が周りへと向いているのか
それとも自身へと向いているのか

外側なのか内側なのか
これをセットで考える事が重要です。
いつもお話をしている
「何のために」「誰のために」です。

念を基礎として使う力の場合は、
双方向である意味がありません。
自身から相手への一方通行です。

その代表的なものが「恨み」ですね。
それを意図的に濃縮して使うと
「呪い」となります。




だいぶ前にも一度お話をしましたが、
本当の呪いと云うのは
さして難しいものではないです。

大なり小なり発動させるメカニズムは
単純極まりないものです。

但し、その根源にはあるものを利用します。
何かと云うと、「思い遣り」等の想いです。

念を源とした力を使うという事は、
意識の方向が内側へと向きます。
この時に、想いを軸としている部分の代物が
1つ1つ失われていきます。

その代表格が「思い遣り」や「優しさ」です。

思い遣りや優しさは自身の中に蓄積されています。
これらを消費する事で、念に属する力を使います。

この恐ろしいところは、
一度失った想いというのを再度手にする事が
非常に難しいという点になります。

何故なら、想いを失うという事は
周りからの信を失うという事だからです。

それを再構築させる為には、
ゼロスタートどころかマイナススタートで
リスポーンしないといけません。

つまり、何もかもが無い状態で
今の俗欲と過去の俗欲に打ち勝ちながら
やり直さないといけないという意味なのですね。

この苦痛は想像を絶するものなので、
大抵の場合は途中で楽を求めて堕落します。

それまで楽をしまくってきた感覚も
残っていてそこに在るのですから
その誘惑にずっと苛まれ続ける事でもあります。

念の力はあんまし
使わん方が
ええんやで

2026年7月10日金曜日

経験の濃い失敗を好こう(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




誰にでも嬉しい事というのがあります。
その中の一つに「成果」があります。

何かをやり遂げた形
と、いう意味の言葉ですが、

ここには最終結果だけでなく
途上段階に於ける
中間的な結果も含まれます。

どうしても、
最終的な結果を皆さん追い求めガチですが、
スピリチュアル的な物事のみならず
そればかりを考えてしまうと

途中にある重要な内容を
気付かないで通り過ぎてしまう様な事に
繋がってしまいます。

答えも大切ですが、
その答えを導き出すための計算式は
もっと重要です。

単に答えが合っていれば
それだけで善いなんて事は
世の中では意外と少ないものなのです。

出した答えよりも
それまでの考え方の方に目を向ける。

答えだけを見詰める様になってしまうと、
それが一体どんな経緯で
どういう流れに沿ってどんな考え方で
導き出されたものなのか

省みる事すらやらなくなってしまいます。




競争心に駆られて手早い成功に拘るあまり、
途中の段階を疎かにするのは
次へ繋がる最善策をまるで考えない
というのと同じ話です。

先に繋げるという事は、
過去の失敗を受入れてその失敗から学び
対策を練るという事です。

但し、それは「成功」に固執していては
狙いどころが変わってしまうので、
当初目的からは大きく掛け離れてしまいます。

たった1つの成功よりも
100の失敗の方がその分の経験を
積む事が出来るのですから価値は大きいです。

ここでの経験の一つ一つこそが
「成果」に外なりません。

合っている合っていないだけでの
判断材料のみでは
失敗はゴミ同然の扱いを受けるだけで

何が原因で失敗したのか考察すらせずに
また次への歩を進めてしまいます。
それは更なる失敗を産む要因となって
降り掛かってきます。

その失敗は反省も無しに繰り返すと
失敗自体のサイズも肥大化していき
周りへの負の影響力ままた増大していきます。

小さい幸せが寄せ集まって大きい幸せへと
変化していく流れと同じで、

集まっていくのは「念」ですから、
それ相応の恨みを蓄積していく話となります。
必然的に嬉しい事とは
掛け離れた結果となってしまうのです。

失敗はゴミではなく、
要素の足りていないだけであって
悔しかったり哀しかったりするけれども、
形を変えた「成果の一つ」なのですね。

大きい答えばかりを求めていては
成果が手元に遣ってくる事はありません。
そこをよく考えて日頃から動きを
意識していく事が重要です。

変な拘りを持って
思考回路を
偏らせても
善い結果なんぞ
生まれては
来ないんやで

2026年7月5日日曜日

幸せを掴む(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




皆さん毎日の生活を頑張りながら
一生懸命に努力されていると思いますが、

一体何が幸せで、
そもそも幸せと云うのは何なのか。

と、考えた事が一度くらいは
あるのではないでしょうか。

「幸せ」と云うものは
個人単位でも変わりますし、
その個人の集まりたる社会によっても
大きく変わってきます。

例に挙げると、
マクロな目線で云えば
我が国と他国の幸せって違いますよね。

ミクロになると、
貴方と隣人の幸せも違いますよね。

それらがある種の目的や目標、
何かしらの一致点が発生した時に
共通認識としての「幸せ」へと変わります。

つまり、幸せというのは
基本的には「個人単位」という事なのです。

貴方が「幸せ」だと
認識している物事やその実感があったとしても

その認識がそっくりそのまま貴方以外の人に
無条件で通用する事は決してありません。

何かしらの条件が重なった場合にのみ、
幸せの共感が作用するのです。

お金かも知れないし、仕事かも知れないし、
好きという感情かも知れないし、
単に社会的地位かも知れないし、
通念上の価値観かも知れないし。

通念上の価値観というのは、
「みんながやっているから幸せ」みたいな
自己の認識よりも
他者の認識に合わせる価値観の事です。

パートナー(彼、彼女、夫、妻)が居るとか
人より早く結婚して見下したいとか、
同様に負けたくないとか、見返したいとか、

宗教観的な価値観や各種団体的な価値観、
日本代表を応援する的なあの感覚。
一部の人間にしか通用しないアレです。

これらが通念上の価値観です。

この様に幸せの条件など
何がどこで作用するのかなんて
全く理解出来るものでもないのです。




つまり、
幸せと云うのは自身で検討決断して
「自律的共感」をすることは是だとしても、

他者の押し付けによる「他決的共有」では有得ない。
と、いう事になります。

幸せのサイズの大小を問わず、
如何に自分自身の判断で
その幸せの本質を理解する事が出来るか。

他者の助言や導きは「きっかけ」として
得る事はあったとしても、
自身の意志による取捨選択が出来るか。

自己意思の介在しない幸福は、
「幸せ」ではない。と、認識出来るかどうか。

言い換えればですが、
そこに自己意思が介在しているならば
全てが「幸せ足り得る」と、云う事になります。

これがどういう事かと云うと
例えば、

「貴方は貧乏神になる事は幸せではない」と、
考えていたとしても、
貧乏神の人は自己意思を介在させて
そうなっているのですから

「貧乏神である事こそが幸せである」
と、考える方が自然なのですね。

現世へ生れ落ちる大義の云々は別として、
自己意思での選択結果がその道であるならば

その志を尊重するのもまた
想いの行使であり奉仕の精神の一つとなるのです。

仮に貴方が努力をして、友人知人や家族等の相手を
貧乏神への道を絶たせようとしたところで、
その相手が自己意志を介して拒絶の選択をしたら

それが相手にとっての「幸せ」に過ぎないのです。
意思表示した先に於ける貴方側の問答などは、
全て想いの行使ではなく「押し付け」です。
早い話が、余計なお世話なのですね。

貴方が現世を一生懸命に生きて浄土を目指すのは、
浄土に向かう事が貴方にとっての幸せに過ぎず、

貧乏神にとっては地獄へ赴く事が幸せなのです。

ならば、
努力の結果として無力だったのであれば
押し付けでは無く引導や餞別を渡してあげる事が、
奉仕の精神の完遂に結び付くのですね。

これは非常に苦しい選択ですが、
想いの行使はどんな場合でも痛みが伴います。

「想い」や「慈しみ」とは、
相手が素直に受け取っていて初めて機能する代物です。

そこを誤認しないように織り進めていくのが
本来のスピリチュアルのなのですから。

大義に於ける
善し悪しではなく
個々に於ける
自己意志を視る
幸せの種別を
最終的に決めるのは
その人なんやで

2026年7月4日土曜日

完璧主義の思考形態(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




日常の中にほんの少しで良いので
変化を付けてみましょう。

同じ様な動きの中でも、
僅かな違いを設けるだけで
ルーティン化は避ける事が出来ます。

ですが、
そのわずかな違いや少しの変化ですら、
気軽に設けられないタイプの人も
存在するのですね。

その人達が陥ってるのが
「完璧主義」です。

「ちゃんとやらないといけない」
「間違える事は悪」

これが完璧主義の基礎部分です。
その基礎に則って、事前に調べるとか
知識を得るというものであれば
何も問題は無いのですが、

そこで留まる事が出来るのであれば、
完璧主義にはならないのですね。

パーフェクトに拘るのだから
完璧主義な訳でして、
何もかも100%を目指す。

しかし、悲しいかなその反動で
冒険というものを拒絶する様になります。
完璧を目指すあまり、

「失敗を恐れる様になる」

極度なまでに失敗を恐れるから、
安全パイを狙う様になる。
この段階で、完璧には程遠いという事に
当の本人は気が付きません。

安全パイを狙うあまり、
小さい変化すら恐れる様になる。
その小さい変化はとても簡単なことだと
理解をしていても、

やらない理由、やれない理由を
別に探し始めて言い訳で塗り固める。

その言い訳の中で、
自身が原因だとは決して言えないので、
人や物に縋る様になる。

何故かと云うと、
失敗した時に文句を付けるためです。

自分は悪くない。
あれが悪いこれが悪いと、
さっきまで縋ってきた存在を悪と断じて
それらの所為にして自身の不出来を隠すのです。

そういった思考形態を是としている結果、
冒頭でお話をした様な少しの変化すら
自身で設ける事が出来ない。

どんなに小さな失敗でも
恐くて怖くて仕方がないから、
いつも同じ動きや同じ考え方に頼って
どこまでも「楽」をする様になるのです。




そして、
それが「楽」だと分かっていながら
周りから断じられるのも怖いので、

努力をしている人と同様に
自身もやっているのだと
見様見真似の虚勢を張る様になるのですね。

けれど、その虚勢はまさに虚ろなものですし、
その本質などは理解をしていないし
しようともしていないのだから、

益々立場や社会的なステータスに頼った
物言いをしてくる様になる。
完璧主義の人がやたらと上から目線だったり

お殿様気質、お姫様気質なのはこの為です。

何をどう云う風に装っても
ハリボテの作り物となってしまうのが
完璧主義の恐ろしいところです。

また、その依存性はとても高く、
脱するにはそれ相応の苦痛が必要です。
何をすれば良いのかは難しくありません。

小さな変化を設けるところから始めれば良い。

ですがね、いくらハリボテとは言え
それまで自身のアイデンティティーを
維持してきたものを否定する訳ですから、
一筋縄ではいかないのですね。

苦しみや悲しみ、辛さなどに
幼少期から向き合ってきた人達や、

今この瞬間や直近でそういった経験をして
人の想いに触れる事が出来た人達からすれば、

何にも難しくない事だとしても、
完璧主義の人にしてみたら
超高難度の挑戦となるのです。

なので、生暖かい目で見守りましょう。

     ではなくて

ガンガンに叱咤激励してあげないと
いけないのですよ。
これまでクソほど楽をしてきた訳ですし、
直ぐに楽へ逃避する癖があるのですから

その癖を上書きしてあげないと
完璧主義からの脱却は難しいのです。

「優しさを履き違えずに厳しさを出す」

苦痛に対して真摯に向き合ってきた
貴方達ならば優しさとして出来る筈です。
他者に対しても、自身に対してもね。

心苦しくも
叱った後に
潰れてしまうのは
貴方が原因ではなくて
相手の勝手です。
真摯に向き合わない
相手がバカなだけやで

2026年7月1日水曜日

膂力としての素直さ度(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




人はいつでも救う側と救われる側に
身を置く事になります。

どちらか一方という意味ではなくて
常に両方に身を置くという意味です。
それが時と場で変わるだけ。

そして、それは必ずしも
救えたり救われたりする訳でもないです。

どうにもこうにも
ダメな場合だってあります。
救えないとか救われないという事です。

自分自身を第一に考えて、
努力と云うものをせず
何かへの依存を恒久的に辞められない存在。

立場と云うものに固執して
常に自身を優位な状況下へ置いておき

他者を見下して蔑み、
立場が自身より上の存在には媚を売り
己の立ち位置のみを優先的に
保持しようとする性根の持ち主。

自身が原因だとは決して考えずに
何かにつけて人の所為や物の所為に
する事を志とする思考の存在。

貴方が救う側となっている際に
こう云った存在に出くわしたら、
相当な苦労をする事になります。

何故なら、
一定の条件が整わない限り、
こうした存在を救う事は叶わないからです。

厳密に云うならば、
救う前に貴方が力尽きてしまうか
貴方自身が負の影響力を受けてしまって

闇の領域へ足を踏み入れてしまうからです。

結果として、救う迄には至らない。
そういう結末が実際に起こり得ます。

これは、
救う側の器の問題とも云えますが、
それは救われる事ありきでの思考であって
ナンセンスでしかありません。




この現世は
基本的に救われる様に出来ています。

但し、それは努力を怠らずに
自身の四肢を使って前へと進む尽力を
認められた場合に限るものです。

四肢とは言いますが、別にこれは
身体のどこかに不具合や欠損があっても
同じ事を意味します。

自分の意志で前へと歩む
その努力をするという比喩です。

いくらきっかけを得ようとも
理に適った教えを請う事が出来たとしても
その場だけでなく日頃から使って動いたり
動く為の気概が無ければ

結局はその時々を凌ぐ事に躍起となり
陳腐なプライドに固執するあまり
理解したフリをして他との共感よりも
自らの威厳を優先させます。

その結果、
無理をする流れとなるので、
いずれは身を保てなくなりボロが出るから

それまで依存していた相手や存在すらも
自身を貶める魔的な存在として
手の平を返した動きをする様になる。

こうした中で、
親身になっていてくれる存在すらも
悪と断じて自身の敵としてしまう。

ある一定の条件下で
場が整っている状態や状況以外は、
遅かれ早かれこの流れとなり堕ちます。

そして、
ある一定の条件下とは想いを軸とした
「素直さ度の上昇を施す環境」を指します。

この意味合いを当の本人が理解や
認識をしない場合、
救う側が負の螺旋へ取り込まれて堕ちます。

なので、どこかのタイミングで
救うか引導を渡すかの判断を迫られるのです。

これは非常に辛く哀しい決断となりますから、
見定める為の知識を以て悔いのない様に
最大限の努力をしたいと考える筈です。

皆さんへお話をしているのは、
その為の指針と心構えに外なりません。

誰かを救うのも
誰かに救われるのも
日頃の業の中での
努力や尽力と
俗欲を制御する為の
膂力たる素直さ
これしかないんやで

2026年6月27日土曜日

決して楽にはなれぬ現実(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




悪霊と云う存在がいます。
死してなお俗欲に執着を
続ける存在の総称になるのですが、

この悪霊とは、
どの様にして生まれるのでしょうか。

端的に云うと、
何かしらの執着を切り離せない場合に
死後悪霊と化します。

生への執着かも知れませんし、
やりたい事への執着かも知れません。

単に生前の思考を
肉体が無い状態で続けようとする執着
と、いう場合もあります。

強い恨みなどで悪霊化してしまう様な
ケースもあります。

この「恨み」という部分は、
言い難いのですが殺害されてしまった等の
悲しいケースも含まれます。

ただ、
1つ誤解の無い様にして頂きたいのは、

「悲惨な死を遂げたからと言って
必ず悪霊と化す訳ではない」

と、いう点です。

悪霊と化すのは俗欲への執着が基本です。
仮に悲しくも
非業の死を遂げてしまったとして

亡くなった方がどんな形でも
それを受入れているのであれば、
悪霊と化す事は無いのです。




寧ろ、俗欲への執着という点で云うならば、
手を下した人間の方が悪霊化し易いです。
何故ならば、俗欲に溺れた結果
手を下した訳ですからね。

また、恨みの連鎖や負の螺旋という
影響力が働きますから、
亡くなられたご遺族などの方が死後に
悪霊化してしまうという事も少なくないです。

これらはどんな形であれとても悲痛な事です。
出来る事なら悪霊化は防止したい。
僕がずっと胸に秘めている
原動力たる想いです。

その中に、
貧乏神化防止というものがあります。

生前に貧乏神と化してしまうと、
その存在は死後確実に悪霊と化します。

貧乏神という存在は、
現世に於ける社会の中での善悪は
まるで関係の無い存在です。

つまり、
普通の人でも貧乏神にはなるのです。

本来のスピリチュアルは、
ここを可能な限り防ぐためにあるものです。
ですが、それは当人に
委ねられるものですので

自ずと限界点が生じてしまいます。

人らしく生き、俗欲に溺れずに制御する。
失敗を恐れずに人間味を大切にして、
前へ向かって進む過程で
向こうの世界の理を護る努力をする。

早い話が、「想い」を軸とした
考え方や動き方をしようねってやつです。

悪霊と化した存在の末路は悲惨ですからね。

哀しみどころか
世代を超えて
連綿とした
恨みの連鎖を
生んでしまうのが
貧乏神や悪霊化です
ええこと無いんやで

2026年6月21日日曜日

解き放ち善きに転じる(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




人には誰一人として例外無く
「駄目な自分」というのがあります。

簡単に云うならば、しょうもない自分です。
「善い自分」の対極に位置するもので
駄目とは言っても自分は自分なので、

拒否も否定も出来ません。

この駄目な自分を如何に制御するかで、
運気というものが大きく変わってきます。

間違えてはいけないのは、

「制御(control)」であって
「消去(delete)」ではない点です。

「駄目」という部分を意識するあまり
消去を考えてしまいそうになりますが、
それは絶対に無理なのです。

何故なら、駄目な部分ではあるけれども、
それも「自分」に過ぎないからです。

見せなくする事も、見えなくする事も
聴こえなくする事も
ましてや、
感じなくさせる事すらも叶いません。

自分に変わりないのですから、
何をしたってそこに存在します。

けれども、
この駄目な自分を野放しにしてしまうと
いずれ善い自分を喰らってしまい、

駄目な自分が支配をしてしまいます。
全面的に駄目な自分に溺れた存在が
所謂「貧乏神」です。




なので、そうはならない様にする為に
駄目な自分を制御するのですが、
制御に必要なコツは2つあります。

1:「認めてやる」
2:「使ってやる」

1は、以前から話しているので、
ここでは割愛します。
2は、駄目な自分を認めた上で
意図的に「使ってやる」事を意味します。

駄目なのだから「使わない」方へと
シフトしがちですが、
それでは拒んでいるのと同じですので
振り出しに戻ってしまいます。

1の段階で、駄目な自分も
「自分の大切な一部分」だと認めたのだから、
意図的にちゃんと使ってあげるのですね。

善い自分ばかりを使っていたら
依怙贔屓になってしまうし、
駄目な自分がもっと捻くれてしまって

果ては暴走してしまうでしょ。
そうなったら、一気に溺れてしまいます。
それでは努力が水の泡です。

駄目な自分を意図して使えば、
それは人にとって
「面白い(funny)」部分へと変貌します。

これを「人間味」と云います。

いくら駄目な自分を認めてあげても
意図的に使ってあげなければ、
「隠蔽」や「拘束」をしているのと同じです。

もし、貴方が徒に縛り固められていたら
そこから脱したいと思うでしょ。
フラストレーションもストレスも
酷いことになりますよね。

その先に何が起きるのかは
想像するのが容易い筈です。

認めて使う。
「制御」という言葉の意味を
ちゃんと理解すればこうして言われなくても
答えは簡単に出る筈です。

誰の前でも
解放するのではなく
信じられる人の前で
ほんの少し解放させる
お金ください(ピエン)
って、堂々と
言えるかどうかやで

2026年6月20日土曜日

苦しみを背負い視る(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




本来のスピリチュアルに於いて
とても重要になってくるのが

「ニュートラル」

と、いう考え方です。

中間に位置する場から
客観的に物事や事象を見極め判断する。

好き嫌いなどの偏った見方ではなく
その時に必要なものを冷静にチョイスする。

単なる善いとこ取りだと
考えられてしまいそうですが、
意味は全く異なります。

ニュートラルとは、
あくまでも「立ち位置」の話なのです。

どちらか一方へ偏らせるのは簡単です。
好みで決めれば良い話ですからね。
それが故に、
対面への否定感や拒否感が生じます。

その拒否感を正当化させる為の動きや
思考が主となっていくので、
自ずと偏りは増していきます。

そして、行き着くのが「完璧主義」です。




現世で我々が生きていく以上、
偏りや隔たりというのは避けられません。
それ自体は悪でもありません。

自身の意見や心情を万人万物へ
まともに伝える事すら叶わないのですし、

成長や進化という過程に於いて
隔たりも偏りもある種では必須となります。
そこで争いが生じますが、

融和というのは、
これらがあるから存在するものですし、
理解を成せるものなのです。

しかし、その途中過程に於いて
極端な偏りや隔たりを掲げたり、
立場の保持を主な目的としてしまう事があります。

これが「完璧主義」です。

片側に極端に寄せてしまって、
対面を思考する事が出来ない状態。
相反する思考は敵となり
矛盾を悪と断ずる考え方。

こうして話すと何となく視えると思いますが、
自分本位と同じですよね。

独りよがりを拗らせて、
思考的視野狭窄へと陥るがあまり
自身の世界を徒に狭くしてしまう。

結果として、
「受け容れ」も「受け止め」も出来ずに
心身共に惨めな状態へと堕ちてしまうのです。

この状態を回避して、その先へ進む為の
考え方が「ニュートラル」です。




立場や思想に極端な固執をせずに
中間ではなく「中空」より視線を拡げ
対局ではなく「大局」を視る。

優しさと厳しさの同居を理解し、
矛盾という名の選択の自由を行使する。

自身の考えを芯に捉えつつも
他者の考えは自身には思い付きもしなかった
「宝物」だという思考を創る。

相手との遣り取りは
意思の押し付け合いではなく

意志の受け容れ合いであり
心情の受け止め合いであるという捉え方。

その中での係争は一過程に過ぎないので、
それが目的ではなくあくまで手段という認識。

故に、相互意思の齟齬は必然であり、
ご都合主義の完全融和などは存在せず、
相手を好みで選ぶのではなく
互いの違いを認め合う「間接融和」を信条とする。

ほんの一部に過ぎませんが、
これらが本来のスピリチュアルに於ける
基本概念であり、ニュートラルという考え方です。

現世でありながら
向こうの世界の理を実践する。

辛く苦しいですが、そこを見詰めて
活かし生きる。

文字で読むと面倒臭そうですが、
やってみるともっと面倒臭いですw。
ですけどね、価値はありますよ。

いつでも誰でも
気軽に出来て
辞めるのも自由
ってか、
言われてやる様な
もんでもないんやで

2026年6月19日金曜日

差を知って使い熟す(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自身の中での価値観というのは
人に合わせて作るものではないです。

自分の中で確固たるものがあれば
それで充分なのですね。
但し、
その中身に至っては少し考えようで

常識的な一面というのも必要になります。

価値を決める上での常識というのは
一般教養の事を指します。
ここの教養という部分には
所謂、知識や学問が当て嵌まりますが、

常識的範疇での流行りやムーヴメントも
価値を決める上では必要になります。

「自身の中での確かな価値」
「一般的な価値」

これらを己の中で共存させる事で
世間と自身の「差」を知ることが出来ます。

ここの「差」の部分が特定の存在にとっては
愉しみに繋がる部分でもあり、
一般的な話となった場合には
全く理解されない部分という点となります。

つまり、この「差」を理解しておかないと
何かこれと言って特段非常識な事を
している訳でも無いのに、

結構な数の恨みや念を引取る事に繋がります。




何故かと云うと、
話が通じなくなるからです。

ここでの話とは深い部分での話ではなく、
表面上の浅い部分での話です。

自身と特定の存在のみでしたら、
この「差」というのは考えなくても
価値の共感が可能になります。

然しながら、鑑みなくてはいけないのは
この現世で生きるという現実です。

我々は自身と特定の存在だけで
現世を生きているのではなく、
縷々様々な存在を介して生きています。

詰まるところ、この「差」を理解する事で
「相手のため」という奉仕の精神、
思い遣りに繋がるポイントを
手にする事が可能となってきます。

全ての存在がスタンドアローンで
何の繋がりも無く独立独歩で生きているならば
こういった「差」を鑑みる事は不要ですが、

それこそ現実ではなく幻想です。

「自分だけが善ければいい」に
自動的に繋がってしまうのが、
この「差」を理解しないという怖さです。

自身が好きだの嫌いだのではなく、
自分以外の存在や支えてくれる存在に対する
思い遣りとしてこの「差」を理解する。

決して深くなくて良いんです。
すごく浅くて構いません。

世間との窓口を自身に設けておかないと
現実の中に居ながら幻想へ逃避する
そんな結果となってしまいますからね。




世間との差を理解しておかないと
結果として、人に苦痛や辛さを与えます。

これは実体験ですが、
僕は子供の頃に両親がこの「差」を
理解していなかったが為に、

狭い子供の世界の中での流行りや愉しみに
乗ったり付いていく事が出来なかったので、

周囲から疎外されていました。
家では虐待、外では虐め。
中々にヘビーでしたよ。

自身の価値観を持つ事は大切ですが、
それの保持や維持には「差」が必須です。

ましてや、価値観そのものを
押し付けてしまったり「差」を忌避する事は
自身の価値観ではなく特殊な価値観と変貌し

世間や社会、コミュニティからの
乖離を意味します。

それは、我々の生活環境からすれば
死活問題でしかありません。
現に僕の両親は結果として何もかもを失いました。

人や子が望むから必ずそれを与えたり
自身もその中身に乗るという意味ではなく、

節度を以て「差」を理解した上で、
適確に判別をする事が大切になってくるのです。

知らぬ存ぜぬで個として生きていけるほど
現世というものは甘くないですし、
自身の価値観だけを突き詰めるだけというのは

好きな事だけをやるという意味と同意義ですから
それは楽をしているのと
何が違うんでしょうかね。

差を知らないとね
自分勝手に生きて
自分中心で居るのと
何ら変わらない
人の善し悪しは
関係無しに
堕ちるんやで