2026年4月13日月曜日

祓いへの纏わり(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




「祓い」という動きがあります。

悪霊を祓ったり生霊を祓ったりする
あの「祓い」です。

この動きは中々に労力を要します。
取り分け集中力の消費は結構なもので、
数時間ぶっ通しでやるのが常になりますからね。

僕の場合は、祓いに道具も何も使いません。
使う必要が無いからです。

どうしても、祓いと云うと
仰々しいものを想像してしまいがちですが、
実際にはどんなに
リンリンシャンシャンしたところで

一時的に気分は逸れたとしても、
あんなもの効果もクソもありませんからね。

何をしていても、話さえ出来れば
事足りるのが現実です。

そして、祓い自体の時間は掛かりません。
悪霊にしても生霊にしても
やっつける事自体は簡単なのです。

力を振りかざせば良いのですから。
事実、ものの数分で終わります。

ですが、それよりも祓いというものを
困難なものにさせているのは、

相手さんのケアなのです。




以前にもどこかでお話をしたと思いますが、
結局のところ相手さんの状態そのものを
改善させる方向へ進めないと
意味が無い話となるのです。

付け入られたりする"隙"が
相手さんに生じているから、

憑依されたり家に居座られたりするのですね。

その"隙"をどうにかしない限り、
いつまで経っても同じ事を繰り返します。

それどころか、確実な悪化を招きます。

要するに、単に悪霊や生霊を
追っ払ったり、やっつけただけでは
付け焼刃に過ぎないのです。

では、何をするのかと云うと、
ここも内容的にはかなりシンプルで

相手さんの考え方を変えるのです。

ご自身の持っている"隙"
つまり、弱点であるポイントを
再認識させて改善する方法を教えてあげます。

与えるのはきっかけのみです。

そこへ至る経緯と主だった原因なども
かなり細かく説明をします。

正直なところ、相手さんにとってしてみれば
耳の痛い話になる事が多いです。
そこをまずは懇切丁寧に話します。

素直に聞き入れられない様であれば、
素直に聞ける様になるまで話します。

何で素直になれないのか、までも話します。




祓いに必要なのは、
神秘性でも仰々しさでもなくて
「論理性」と泥臭いまでの「忍耐力」なのですね。

こちら側が何をどうしたところで、
相手さんに変わってもらえなかったら意味が無い。

更には、24時間手取り足取り
サポートする事なんて出来ないのですから、
改善や同じ轍を踏まない様にするには

相手さんご自身に
日々頑張ってもらわないといけません。

なので、「きっかけ」と「方法」を
その場で納得出来るまでお話をして、

あとは後日のケアとフォローが
重要になってくるのです。

ここも理屈は簡単でして、
自身の弱点だった訳ですから
油断をすればいつでも元に戻ろうとしてしまう。

その作用が僕らには例外無く存在します。
「楽をする」と、いう動きです。

新しく変わろうとするというのは、
非常に疲れますし、
場合によっては苦痛すら伴います。

それでも、二度と憑依などを
受けたくないのであれば、
悲しい方向へ進みたくないのであれば、

ご自身で頑張るより方法が無いのです。

しかし、それだけでは危険性の回避に
暗雲が立ち込めてしまい易くなるので、
長い目で見てケアとフォローをして

いずれはご自身で
対策や対処が出来る様になってくれれば
それが一番なのです。

その為に身を粉にして動けるのが
ホンモノなのですから。
必要なのは意地と根性です。

力と威厳を振りかざすのが
ホンモノではないですからね。

日頃の健康管理と
同じでね
自身でどうにか
するのが基本です
その為の知識を
ちゃんと教えるのが
本物ってもんや

2026年4月12日日曜日

気付こうとしない(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




嫌な事が起きている時
または起きた後で

「どうしたら良いのだろうか」

と、思い悩む人が割と多いですよね。
単刀直入に申し上げますが、
そのタイミングでは遅すぎなんですよ。

嫌な事が起きたり起きてから思い悩む
と、云うことは、

それまでに発生していた異変や変調に
全く気が付いていなかったり、

無視をしていたという事です。

色々な場面で様々な存在が
シグナルを発しています。

その信号を如何にキャッチして
自身の動きに添加していくのかが
鍵となる部分です。

そのシグナルを掴む為には
ピントを合わせないといけません。

信号は色々な部分で発生します。
本当に多種多様です。

その人によっても違いますし、
状況や状態によっても変わります。

自身の外側で発生するとも限りません。
純然に自身の内側で起きる事もあれば、
その更に内側で起きていることもあります。

それらに対して臨機応変にピントを合わせる。

あちらこちらと目を向けて
意味や本質を理解する為に耳を傾け、
余すことなく頭を動かし思考する。




そして、これらを活用していると
必ず分かるのが「全ては事後である」という点。

成功の部分のみに信号があるとは限らない。
失敗の部分に成功への信号があるかも知れない。
成功自体が失敗への信号というのもあり得る。

成功しようが失敗しようが
浮かれて何も気が付かなかったから、

嫌な事に「苛まれているだけ」ですからね。

嫌な事と云うのは失くせません。
貴方にとって意味があるのだから、
多かれ少なかれ必ず発生します。

ですが、もし、貴方が信号に気が付ければ、
気付けていれば、嫌な事が起きたとしても
その趣旨や概念自体が変わるので

受け取り方も変わってくるのです。

嫌な事が起きてから

どうしよう
困った
助けてほしい

と、自分本位を剥き出しにして
己だけが救われようとしている内は、
更なる嫌な事が起きる様になるのは必定です。

何故なら、
その時点に於いてもまだ
信号に気付く為のピントを
合わせようとしていないのですから。

ピントを合わせる為に
必須なのが
素直さ度の高さなんや
DD連発させてたら
いつまで経っても
嫌な事は続くんやで

2026年4月8日水曜日

おこない[業]を考える(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自身の日頃の業の善し悪しというのは
その場その場で
分かるものではないですが、

時間が経った後に
その結果は必ず分かる様に出来ています。

どういった点で分かる様に
なっているのかと云うと、

例えば、
自身の喜びを分かち合って
もらえるか否かとか

困った時に助けてもらえるか否かとか
嫌な事を回避できるか否かとか

そういった事象での判断となります。

また、完全に善いことばかりとか
完全に嫌な事ばかりとか

極端な振り方や寄り方もしません。
あくまでも
その都度の善し悪しのバランスで
内容は決する様に出来ています。




かと言って、
嫌な事を回避したいが為に
善き事ばかりを意識して動こうとすると

確実にその逆方向へと
結果は流れていきます。

何故ならば、
善き事ばかりを望むという行為自体が
「俗欲」に過ぎないからです。

善き事というのは、
結果を望んでやることではありません。
見返りを望まずに動くことに意味があります。

考えるべきは
相手からの結果ではなくて
相手のためという素直なまでの「想い」です。

「こうでありたい」
「こうなりたい」

ではなくて、

「こうあってほしい」
「こうしてあげたい」

と、云う純朴なまでの想いが重要です。
この思考と感情が
日頃の業に大きな影響を与えます。




ですが、完璧は存在し得ません。
この逆の思考と感情も
人は持ち合わせています。

想いではなく「念」ですね。

自分本位や俗欲といった念に纏わる
思考と感情も人は常に発しています。

これを無視して想いだけに偏らせて
業を全うするなどという事は
生きている内だけでなく
向こうの世界へ行ったあとでも無理です。

そして、善くない点の日頃の業、
念に纏わる部分というのは
意識をせずとも発することが出来ます。

善い点の日頃の業、
想いに纏わる部分というのは
意識をしないと発する事が出来ません。

つまり、日頃の業というのは
何のため誰のためを特に何も意識せずにいると
善くない方へ全振りしてしまうのですね。

しかし、想いの方は全振り出来ない。
この絶妙なバランスで日頃の業というのは
成り立っており、

その結果への反映も
このバランスを基準にして設けられるのです。

自身を律した上で
日頃の業を
考えなければ
得られる結果は
目に見えているんやで

2026年4月5日日曜日

身を護る術の基本(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




信じるという事が大切です。
しかし、
これは無闇にという意味ではなく

ちゃんと考えを持たないといけません。

また、「信じる」には
度合いとランクが存在します。

度合いというのは、
相手に対する信じる分量みたいなものです。

ランクというのは、
どの程度の立ち位置で信じられるかの
優先順位や分類ですね。

信じるにしても、
誰でも彼でも同じとはいかない訳です。

例えば、

ちょっとした部分だけ信じる事が出来る相手と
特に問題なく信じる事が出来る相手とは
その度合いもランクも違いますね。

ここをちゃんと認識する事が大切です。




そして、
その認識は自身がしっかりと策定して
管理していかないといけません。

また、自身の策定した認識を
相手がちゃんと理解してくれるとも限りません。
基本的に自身の基準は
自身にしか通用しないものですからね。

自分がちょっとした部分のみ
信じる事が出来る相手と思って接していても
相手は全般的に信じているかも知れません。
その逆も然りです。

ここの焦点が合っていなかったり
認識が不足していたりすると

気持ちが通じなかったり
面倒事に巻き込まれてしまったりします。

それを回避させる為に、
意思表示は曖昧にせずに
しっかりと行わないといけません。

特に、面倒事に巻き込まれない様に
する為には分かり易いくらいの
意思表示が必須となってきます。

人の心や相手の気持ちを理解する前に
自身の事ばかりを押し付けてくる人が
老若男女問わず多い世の中です。

自分勝手な解釈をされたり、
自分本位剥き出しな対応をされて
嫌な思いをしてしまう前に

自分の意思というのは大袈裟なくらいに
ハッキリと出来る様にしていきましょう。

まともな人達が
思っている以上に
世間ってのは
自分勝手な輩が
跋扈している
ものなんやで

2026年4月2日木曜日

先んじない(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




スピリチュアルという割には
僕の話の中には
霊という存在があまり出てきません。

ここの内容でもそうですし、
実際にお会いしてお話をしている時も
ほぼ出て来ないです。

二言目には霊が霊がと
口にする人や世間一般の感覚での
スピリチュアルからすると

驚く程にその存在について
触れる事は少ないです。

その理由はとてもシンプルでして、
「幻想に逃げてほしくない」からです。

確かに、霊という存在を中心に据えて
何かにつけて話をしていれば
聞く側にとっての浪漫はあると思います。

けれども、それですと話の中身に
重量を発生させる事は叶いません。

どこまでも似非神秘であり
どこまでもホラー要素でしかなく、
おまけに現実逃避というオプションまで
くっ付いてくる始末です。

それでは何も意味がありませんし、
エンターテインメントに過ぎません。

そうではなくて、
実際にはもっともっと身近な存在であり
論理的に思考し相対する事が出来るのが

「霊」なのですね。

つまり、現実を現実として
確実な認識を出来るようでないと
霊と云う存在の本質は理解出来ないのです。




感覚についてのお話でもしていますが、
第六感というのは
身体的五感の先に存在するものです。

五感を先んじての第六感は在しない。

五感という現実を真摯に受け入れるからこそ
六感というものの本質が視えてくる。

これが本来のスピリチュアルに於ける
基本的概念ですから、
霊という存在への認識についても
それは変わらないのですね。

仮に、霊を前面に押し出して
話を吐出し続けた場合、

五感つまり現実を軽視する様になるのは
自明なのですね。

現実を軽視するから、
元来から恐れるべき存在だけではなく
讃えたり、敬ったり、愛でるべき存在である
「霊」に対して畏怖の念を覚えるのです。

現実というのは知識であり情報です。
五感というのも知識であり情報です。

霊を語りたいのであれば
霊体だけでなくその世界構造までを
熟知していなければ、

結局のところスポット的視点
要は一元的視点に留まるのみですので、
本質からは逆に遠ざかる結果となるのですね。

その先に待ち受けているのは、
生半可な薄い知識を手に入れ己惚れて
自に堕ちていく稚拙で残念な結末のみです。

それを態々誘発させる様な真似は出来ませんし、
どうせ話すのであれば皆さんが堕ちずに
前へと進められる様な
確固たる内容の方が善きですからね。

知っているからこそ、
順を追って知り得る人にのみ話す。
向こうの世界の理に対して真摯に向き合うと
自然とこういった流れとなる訳です。

決してひけらかさずに
どこまでも
相手のためを想う
現実を切に想えば
幻想は現実のものと
信に徹せられる様に
なるんやで

2026年4月1日水曜日

自分本位と薄い知識(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




知識を得るというのは
僕らが生きていく上でとても大切な
要素の一つです。

知識を得る事によって
知恵を獲得します。

知恵を得る事によって
創意工夫が行えるようになります。

これが動き方に繋がっていくのですね。
動き方に繋がるのですから、
それは日頃の業へと連動していきます。

この様に「知識を得る」という過程が
如何に重要であるのかが分かると思います。

ましてや、知識の中身となると
更に重要度は増大します。

この知識を得る過程で要となるのが
「考え方」です。

同じ知識を得るにしても、
考え方一つでその表情と中身は
天地変容するほどの差となって現れます。

ここでお話をしている考え方に
影響を与えるのが
「自分本位」や「想い」です。




自分本位というのが強くなると
俗欲や念という存在に連動します。
この連動が発生すると
確実に中心となる考え方が「楽をする」です。

自分本位がメインで楽をする考え方が
中心になっている状態ですと、
只管に自慢や誇示を優先させようとします。

その対象は基本的に、
自身よりも立ち位置や立場が下の存在です。

自分よりも知識を持っていないとか
仮に持っていても反論が出来ないとか
問答無用の肯定しか出来ないとか

如何なる場面に於いても
自身に反しない相手に持ち得る知識を
ひけらかそうとするのですね。

然しながら、ここでよく思考してみて下さい。
この場合の考え方は「自分本位」がメインです。

と、いう事は、その知識の得方も
例外無しに「楽をする」事が中心となります。

つまり、知識を得る過程に於いても
想いを中心に捉えている人、
誰のため、何のためを思考している人と比べて

極端すぎる程に浅はかになるのですね。
早い話が追究をしないのです。




知識の得方は非常に粗製なもので、

例えば、
有名な人が言っているというだけで
その知識を採用し、仮に後々誤りが見つかれば
その人の所為にして逃げる。

若しくは、自身が言った事すら忘れる。

追究というものを行わないですし、
その概念すらもありませんから
自身での更新が発生しないので
知識自体が「薄く」なります。

ここで注意しなければならないのは、
知識を深堀する為に、
知識自体を得る為のきっかけとして行う
「広く浅い知識」とは

根本的に異なるのが「薄い知識」です。
薄い知識とは、その場限りの知識であって

知識自体に興味を持ったり
知識の本質を理解しようと
探求する為のものではなく

前述した通り、自身の誇示や自慢などの
醜い目的を達するための手段に過ぎない代物です。

この様に、自分本位が主となった存在は
どこまでもこの動き方と考え方を続けます。
そうして信頼や信用を失っていくと同時に、

楽を続ける訳ですから、追究をしないので
年数や日数などの時間から得られる知識量や
知識の質量の比例化が発生しないのですね。

これが何を指し示すのかと云うと、
時間が経てば経つほどにスッカラカンになる
と、いう意味です。

にも関わらず、
自身の立場だけは保持しようとするので
端から見ると人の形をしただけの
「歪な生き物」へと変容するのです。

知識を得ると言っても、
自身の得意な部分のみに限定せずに
あらゆる側面を意識して視点を作り
そこからの知を得る(さとりをえる)。

限定的に捉えて楽をすればするほどに
お山の大将となるのですから、
それは非常に情けない結末となります。

そうならない様な考え方や動き方を
日頃の業を通じて錬成していく事が大切です。

薄い知識を
ひけらかす奴は
直ぐに感情的になり
逆ギレしたり
小馬鹿にするから
判別しやすいんやで

2026年3月29日日曜日

善きと呼ばれる動き方(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




想いというのは様々ありますが、
必ずしも
自身の思い描いている質量そのままに
相手に届くとは限りません。

そこには相手さんの性格もあれば
考え方や生き様、立場、

貴方に対する想いの形や質量など
色々な分類要素があるのですね。

何もかもが自身と同じだと
考える方が烏滸がましい限りで
それを中和して

融和させていく努力が必要です。

相手に対して何を想うのか。
自分はどういうスタンスなのか。

自分をどこまで押し出すのか。
ちゃんと優先順位を考えているのか。




自身の想いの質量を
徒に減らす事無く
相手に届けたいのであれば

それまで以上の努力の維持継続が
大切になってくるのです。
全ては受取る側次第なのですからね。

自分を抑え込んでも駄目。
相手に忖度し過ぎても駄目。

ありのままの姿で
ありのままのを理解し認める。
努力するべきポイントは
その認知と理解度の共感にあります。

辛く苦しければ辞めれば良いですし、
それでも努力を続けるのであれば
それまで以上にやればいいだけ。

但し、そこに相手がちゃんと居て
相手の方を見据えていて
目的を逸脱しないこと。

頑張る事に集中し過ぎると
その頑張りという手段自体が
目的となってしまい、

気が付けば自分本位に
飲み込まれてしまいます。

自分をしっかりと管理して
自分を大切に出来る様でないと
相手のためを想うというのは
非常に困難なものへと変貌します。

想いと念は同一のモノで
常に表裏一体です。

自身が想いを重用している時は
念もまた自身を見つめている事を
忘れてしまってはいけませんよ。

一方向のみを思考したり
一方向のみに動く事は
「楽」に該当するのですからね。

目指すべきところは
「想い合い」です。

努力と怠惰は
別物と思いきや
実は背中合わせ
意識は常に
両方向へ向けて
動く事が
重要なんやで

2026年3月28日土曜日

新たな自分を獲得する(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




過去の失敗があるから
次は間違えない様に努力する。

生きていく上での基本的な動き方です。
失敗を基にして成功の鍵を探る。

失敗という一つの結果を
恐れていては先に進めませんから、

誰しもがこの動きをするのが
妥当だという事になります。

ですが、
実際には過去の失敗があるにも関わらず
また同じ事を繰り返してしまう。
そういうケースの方が多かったりします。

失敗そのものは認めていても
過去の自身の過ちを認めていなかったり

失敗したポイントの解釈を間違えていたり
自身の中で極度な決め付けをしていたり、

こういった場合ですと、
同じミスを繰り返したり
重要なチャンスを自ら逃したりします。

今までに経験した事の無いケースだから
奥手になってしまうとか、
より一層の安全パイを利用しようとするとか

自己防衛の視線で捉えると
妥当だと考えがちです。

然しながら、
これらを言い換えてみると
「勇を用いる」を拒絶しているのですね。




何の考えも無しに飛び込んでみる
という意味ではなくて、
支えてくれる相手やサポートしてくれる相手、
理解してくれる相手が居るのであれば、

ましてや、それが
信ずるに値する存在であるならば
そこを信じて飛び込んでみる。
(これが「信に徹する」です)

この時に、自身の優先度は下がって
相手の優先度が自然と上がります。
(これが「奉仕の精神」です)

信ずるに値しないのであれば
自身を優先させて自己防衛に徹する事は
間違いではありません。
問題のポイントが違いますからね。

いつもながら難しく聴こえますが、
これは成長と進化のお話なのですね。
成長や進化というのは、
想像以上に身近なものなのです。

「過去を乗り越える為に如何に勇を用いるか」

「前へと進む為に如何に信に徹するか」

「信ずるに値するために如何に伝に務めるか」

これらをどれだけ使い熟して
これまでの自身から脱却させるか
そこには想いや思い遣りが存在していて
それらを受け取るからこそ前へと進められる。




子供が新しい動作を獲得する時も
(おトイレとかお風呂とか自転車とか勉強とか)

大人が行き詰まりや幸せを目指す時も
(ビジネスとか恋愛とか生活そのものとか)

どんな年齢になろうとも
この流れと中身だけは変わるものではないのです。

それまでの自身や
それまでの考えに拘り続けると云う事は
過去の恐怖に身を委ねているのと同義です。

確かに恐いものではありますが、
それを言っていたら何も成長しませんし
進化する事も出来ません。

恐いからこそ、その根源をちゃんと視る。
信ずるに値させる為によく会話をする。
(ここでの会話には触れ合いも入ります)
信ずる相手との共感によって分散させる。

これらを放棄する動きが過去への拘りであり
過去への自身への甘え
つまり、「自分本位」となるのです。

僕らは常に成長と進化を目指しています。

そのサイズはとてもとても小さいですが、
その小さいものの積重ねが
大きいものの獲得へと繋がるのですからね。

恐怖に負けて楽を取り
自に堕ちるような真似をしない様に
努力をしていくことが
僕らが産まれてきた目的の一つなのですから。

型に嵌らず
新たな面を目指し
新たな気持ち
新たな感覚
新たな知識
新たな経験を
得ていくんやで

2026年3月26日木曜日

出現箇所と予防措置(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




前回の続きです。
自分本位というものが実際には
どういった箇所で出てくるのか。

これという場所や場面はありません。
決まっていないので
ありとあらゆる場面で
出てこようとします。

但し、一定のルールはあります。
1つが俗欲の絡む場合です。

俗欲と自分本位というのは
かなりの部分で似ています。
ですが、全く同じものではありません。

なので、出現箇所も当然に似てきますし、
影響の受け方も似てきます。

自分本位が俗欲に影響を受ける事もあれば
俗欲が自分本位に触発される場合もある。
俗欲がハード面だとしたら
自分本位はソフト面みたいな感じです。

俗欲が絡む場合の自分本位の
動き方は強力ですが表面的です。

直接的に出現する事が殆どですから
認識する事と制御は比較的簡単です。
見て分かる感じだと思えばいいですね。

当人でも他者でも見て分かります。
ですから、認識も制御も容易いのです。




もう1つが性格や感情に絡む場合です。
前述した場合と違い表面的ではなく
根の深い部分が起因となる自分本位ですので、

本格的に制御を目指さないといけないのは
こちらの自分本位となります。

表面的な出現ではないので
直接的な動きとしては出て来ないのが特徴です。

前回ちょろっと話に触れた「擬態」
と、いう表現をしたのはこの自分本位。

一見すると「想い」や「思い遣り」
という様な自分本位とは真逆に位置している
思考や業に似せて出て来ます。

物凄く小さい例で云うと、
「ええかっこしい」がその典型です。

見えている狭い範囲に焦点を絞って
目的をセットしてしまうため
自分だけが良ければいいとか、
自分が悪役になるのを忌避して起きる自分本位。

交差点などでの右折譲りみたいなやつが
これに該当します。

譲り合い自体は自分本位では無いです。
寧ろ、想いや思い遣りに入ります。
しかし、それは状況判断や状況把握が
しっかりと出来ている場合に限ります。

では、これが自分が先頭で渋滞中であったり
対向車の視野角が満足に取れない場合でしたら
果たしてどうでしょうか。

貴方が気にしないといけないのは
後ろ側であり対向車ではありません。

対向車は、待っていれば曲がれます。
元々の優先順位では最下位ですからね。
大渋滞しているのであれば
後続車の為にも前進するのが優先です。
(前方も詰まっているなら話は別ですよ)

このケースでは自分の中の良心を
思い遣りと称して出しているつもりですが、
実際には周りを視れていないだけの自分本位。

渋滞はしていなくとも
対向車の視野角が取れていない状態で
どうぞと譲ったらどうなるでしょうか。

右直事故を引き起こすリスクに繋がります。
ここでも気にすべきは後方であり
相手のためを考えるのであれば
相手が事故らないための状況把握が必須です。

両ケースに共通しているのが
悪役を忌避する思考です。




誰だって善い役を全うしたいものです。
けれども、それには悪役の重要性も
理解を示さないといけません。

勧善懲悪な思考で性格や感情があると
想いや思い遣りに擬態をした自分本位が
露呈する場面が増えていきます。

そうなると、決して悪い人ではないのに
不幸な事が続いたりして
端から見ると謎な現象が発生するのです。

その要因の一つが擬態した自分本位。

自分の中では善い事をしたと思っていても
周りからは全力で念を当てられてしまう。
想いの皮を被った自分本位を
想いであると認識して疑わないから

あらゆる場面で似た行動をしてしまうので
結果、念を加算的に引き寄せてしまいます。

この性格や感情という自身の根底が
トリガーとなる自分本位は
分かり易いケースが非常に稀なので
自身でも他者でも見分けが難しいです。

尚且つ、根底の認識問題である事と、
素直さ度という触媒も関わってくるので
指摘されてもその話すら拒否したり
意味そのものが理解出来ない場合も多いです。

ですが、実際に指摘を経験されて
制御や改善へ進んでいる方ならば
これらの説明でも直ぐにピンと来る筈です。

あまりにもケースバイケース過ぎて、
1つ1つの最適解を導き出すのは困難を極めます。
ですから、前回もお話をしましたが

「何のために」「誰のために」

と、いう問いを常に片隅へ留めておいて
抜き打ち的に使う事が
対策としても予防措置としても
重要となってくるのです。

善い部分だけに
気取られていると
ステルス化した
自分本位に
飲み込まれて
しまうんやで

2026年3月25日水曜日

自分本位のコントロール(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




自分本位というものは
いつ何時も場所や状態を問わずに
出てこようとします。

何なら形を変えて思い遣りに擬態したり
想いそのものに擬態したり、

ありとあらゆる方法で
出現しようとしますし、
自分本位そのものに
溺れさせようともしてきます。

かと言って、自分本位そのものが
「悪」かと云うとそうではないのです。

自分という個別の存在を護るための
自衛手段でもあり防衛本能でもありますし、

俗欲や欲自体に影響力を与えたり
与えられたりする思考ですから、

何かの行動を始める場合の原動力ともなります。

つまり、
生きる為に必須のものでありつつ
重篤な害を成す事もある劇物なのですね。

自分本位を「完全悪」や「絶対悪」と
決め付けてしまう事が
著しく危険な行為だという意味は

生きる為に必須なモノだからです。

嫌な思いや辛い経験をしたからと云って
脊髄反射的に
自分本位を忌み嫌う人が居ますが、

そんな事をしても改善を目指すのであれば
全くの無意味ですし

そもそも我々という存在の
構成要素の一つなのですから、
消そうとしても消せません。

消そうとしたり抑え込もうとする事自体が
馬鹿げている行動なのですね。

忌み嫌って消そうとする動きや
抑え込む動きをすればするほど、
自分本位は指数関数的に威力や効果範囲、
影響範囲やその出現方法が増していきます。




こうなってしまうと、
最早自身ではどうする事も叶いません。
自分本位に流されてしまって支配されます。

そうならない様に、こんな自分本位も
「自分なのだと」認めてあげるのです。

忌み嫌うから否定をするというのは、
嫌なものには蓋をしたり
目に入らない位置に遠ざけたりする事を指します。

それですと実態解明へ向けた
一切の行動や業を放棄するのと同じ事です。
同時に、野放しにする事にもなります。

野放しにしてしまったら、
もう何が何だか分からなくなります。
それを避ける為にも「勇を用いて」
認めてあげるのです。

そして、自分本位を事前に自分本位だと
認識する事はほぼ不可能です。
全ては事後で確立されます。

要は、やっちまった後でなければ
分からないという意味です。
如何にやっちまってからの最速最短で
気が付く事が出来るかが勝負となります。

そこへ結び付ける為のチェッカーとして
「意識の方向の認識」が存在します。

簡単に云えば、何かの業ごとに
「何のために」「誰のために」
と、云うクエスチョンを
常に頭の片隅へ留めておく思考です。

我々は常に楽をしようとする存在です。

その楽こそが自分本位の具現化した姿ですが、
絶対に「楽をしては駄目」なのではなくて
ここの楽には意味があるのかという疑義を持つ。

動きの楽、思考の楽、感情の楽、心的な楽、

何処にでもあって何処にでも生まれるのが「楽」。
便利と手抜きや思考停止との狭間で
成長要素としての「苦労苦心」を棄てていないか。

そこへ目を向けてあげる事が
「認める」という業です。

これが出来なければ
自分本位のコントロールなど不可能と言えます。

ありのままの姿を
ありのままの姿で
認めてあげる事が
運気アップや
貧乏神化防止に
繋がるんやで