皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は、観察と分析に関して
お話ししたいと思います。
とりあえず、
人間観察を中心に据えて話します。
一般的に言う人間観察とは、
人を見て特徴を捉えたり
覚えたりする事だと思うのですが、
それは本来の意味での
人間観察ではなくて
人間「鑑賞」です。
見た目や話し方など外見的な特徴を
見るのは鑑賞です。
観察というのは、
「観て察する」と書きます。
つまり、観て推し量るという意味です。
視る事で内容を察する事が大切なので、
その外見よりも、
まず視るべきは中身という事になります。
要は性格ですね。
「性格なんて見て分かるのか?」と、
思いますよね?
確かに100%なんて分かる訳が無いですが、
事象から推して察する事は可能です。
どこからそれを判別するのかというと、
「業(おこない)」です。
業とは事象を指します。
人の業は主に、言動・行動・思考です。
この中で目に視える形なのは、
言動と行動です。
要するに、ここから遡って推察します。
人が動く時は、
思考→行動及び言動の順に動きます。
どういう見た目なのか?
どの様な動きをしているのか?
どんな話をしているのか?
どんな言葉を使っているのか?
ここまでが観察となります。
ここから、凡その思考を推察するのです。
どういう趣向なのか?
何を目的としているのか?
主旨は何なのか?
言葉の意味は何なのか?
これが分析です。
分析に至っては複数答からの消去法を
用いるのが正攻法となります。
何故かと言うと、概念と可能性の問題です。
人の思考は一元的ではないので、
その人の概念によって変わりますし、
先にある可能性の高低によって
必然的に選択肢が生じます。
それらを状況や過去データと鑑みて
低い方から消していくんですね。
つまり、いきなり決め付け一発で
選択肢を設けないで考えたり、
基準となるデータや状況把握が出来てないと
分析は失敗に終わります。
というか、分析そのものが出来ません。
完璧を求めてはいけないという意味で
訂正する柔軟性が必要という事ですね。
その分析の中で、基準となるデータですが、
ここを第三者のデータに丸々準えて
自身で思考するという事を怠ると、
やはり失敗します。
それは他力本願に外ならないからです。
他者が得たデータをあくまでも
参考とする事は可能ですが、
基本的には自身の経験則に基いた
データの方が信頼を置く事が出来ます。
信頼を置けるという事は、
覚悟と責任を負えるからです。
ササっと簡単に述べてみました。
ここまで聞いてお分かりだと思いますが、
日頃より他力本願で自己思考が無い人
詰まるところ、自分の常識が無い人や
作れない人は、
観察も分析も出来ないという事なのですね。
それっぽい事は出来たとしても、
自身で覚悟も責任も負えないのですから、
失敗した時は必ず人のせいにもします。
今は、人間観察について話していましたが、
これはそのまま
「小さい幸せ」を見付ける流れにも
バッチリ当て嵌まります。
壱にも弐にも他人任せという事は、
視野が狭いという事になり、
思考が狭窄しているとも言い換えられます。
また、自分の常識が無いという事は、
セオリーの打破が不可能という意味で、
「自分は自然の一部であり、
自然の一部分に自分が位置付けられている」
と、認識する事が出来ない。
という意味ですからね。
例えばこれが、動植物の観察だったとしても
やはり同じ結果になると言い切れます。
今一つ伸び悩んでる人は
こういう側面からアプローチしてみても
宜しいかも知れませんね。