2025年2月16日日曜日

痛みの咀嚼(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




以前より複数回お話をしておりますが、
万物には

「穢れ」

と、いうものがあります。
これを人に当て嵌めた場合の形容として
「駄目な自分」
という表現を用いています。

この駄目な自分ですが、
様々な場面にて露出してきます。
何故かと言いますと、

「善い自分の対となるもの」だからです。

つまりですが、
仮に善い自分が100あるとしたら
駄目な自分も100存在する。

自身で容易く認められる駄目な自分など
浅い領域に転がっている
とても小さな駄目な自分です。

言い換えるならば、
さして口にしても自身が傷付かない程度の
駄目な自分という事です。

これも穢れは穢れですが、
本当の意味での穢れはこのサイズではなく、

もっと自身の深層部分に存在する
表に出したり口にしたりするのを憚る様な
サイズ感の駄目な自分を指し示します。




このレベルの駄目な自分を
自身にて認識をするには、
それなりの条件が必要となってきます。

その内の一つが
「痛みの咀嚼」です。

様々な痛みをよく理解しているか
という点の表現となります。

ここでの「痛み」とは、
想いや念から発する事による
「感情の苦痛」を意味します。

自身の受けた痛みのみならず、
自身が直接与えた痛み
間接的に与えてしまった痛み、

これら自身に起因する痛みに於いて
表面的な認識ではなく、
深層部に至るまでの理解をする努力を
自身で講じてきたか。

また、それに基づいた上で
自分以外の存在の痛みについて
理解する努力を行っているか。

これらの総合的な業が
「痛みの咀嚼」です。

単に辛いというだけでなく、
その立場を置き換えた理解を示す事が
痛みの咀嚼を得る上での鍵となります。




例えば、
虐められた...辛い。
ではなくて、
何故に虐められたのかを
虐められた側の存在が
どこまで考えられるか。

虐めた側の心情をどこまで理解出来るか。

これが痛みの咀嚼です。
よく一般的に言う様な「許し」とは違います。
別に許容とか寛容などの話ではなくて、

自身を含めた存在を俯瞰で見つめて
その実の痛みをどれだけ感情的とならずに
理解する事が出来るか

というのが、主眼となる業です。
物凄くキツイとしか言い様のない業です。

ですが、これを実行する勇気が無いと
駄目な自分の本丸を認識して、
その先へ進ませるというのは
ほぼ無理と言えるほど難しくなりますし、

この痛みの咀嚼による結果得られるものが
「思い遣りの源泉」となりますから、

それほどまでに、駄目な自分を認めるのは
困難を極めるものなのですね。

ちなみにですが、
痛みの咀嚼は三途の川を渡る際に
念想の天秤で測られる達成条件の一つです。

無事に浄土へ行けるかどうかの
条件の一つという事ね。

出来てると
口にしてる人ほど
出来てないのが
痛みの咀嚼
なんやで

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