皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
人と話をする中で「分かる分かる」と
簡単に共感が出来る物事などは
非常に浅い領域の話であって
どうでもいい事が殆どです。
真に共感をしてほしい事や
分かってもらえると安心したり
嬉しかったりする物事というのは、
聴いているその人が経験した事のある
物事でないと、その共感は得られません。
ましてや、理解などと云う事は
はたはた遠い話となります。
この共感を「心の理解度」と云います。
過去に有った体験が元となって
人は性格を形成していきます。
嬉しい事や幸せなことだけでなく
心を傷付ける様な出来事や
苛烈な出来事が起きたりすると
ちょっとした歪みが作られたりします。
その歪みは一般常識や社会通念とは
ごく微量ではありますが
懸け離れたりするもので
自身は常識を全うしているのに、
何故なのかと深く思い悩んだりします。
また、それを人に相談した際に
話を聴く側の経験が乏しい場合や
同様の経験を熟していない場合ですと、
相談の意図や話の真意、
心根の深さを共感する事が不可能となるので
答えるにしても
当たり障りのない回答であったり、
聴く側の保身に走る内容であったりします。
その回答は相談する側の
求めているものではないので落胆に繋がります。
そういう事を繰り返してしまいますから
結果として、
「言っても分からない話はしない」
と、いう結論となってしまいます。
この手の経験をされている方々は、
元々ニッチな経験や過去だというのを
理解していますからね
当りが少ない事自体を承知しているのです。
それでも相談をしたり、
話を聴いて欲しい時がある。
しかし、中々真意が伝わらないから
自己解決が常となってしまうのです。
とても哀しい現実です。
全く常識外れではないのに、
世間的な声としては常識外れとなってしまう。
そのズレや歪みを胸の中に抱えたまま
ある種の偽りを貫いていくという過酷な現実。
大きく心を傷付ける事無く、
普通に何ら問題なく生活をしてきた人には
決して分からない矛盾だらけの心内。
例え、家族であっても理解に繋げるのが困難な
「痛みの咀嚼」や「心の共感」
と、いうものがあるのです。
この点を理解出来る人は限られていますから、
そうでない人であるならば
テキトーな事を答えるのではなく、
「自分には分からない」
と、明言する勇気が必要です。
手持ちのデバイスで調べればそれっぽい答えが
直ぐ分かる世の中ですが、それは正答ではない。
便利な時代だからこそ、
分からないものは分からないと素直に言えないと
信に徹するには程遠いものとなってしまうのですよ。
そういう存在に
なれる様に
努力するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
経験を積んだ先に与えるものがあります。
ここでの経験とは
自らが率先して動いた内容もあれば
意にそぐわない形での内容もありますし
当事者ではない内容もあります。
そして、全てが全て
誇らしい経験とは言い難いです。
例え誇らしくなくても
恥じた事だったとしても
そういった経験を隠すのではなく
教え伝える事が出来るかどうか。
誇らしい体験や経験というのは
誰もが尾鰭を付けてでも話したがります。
それが遠い過去の話だろうが
自身の事で無かったとしても
さも、自分の事の様に
相手に対して優位性を誇示した形で
話しますよね。
しかし、そういった内容の話には
全くと言っていい程価値はありません。
話したところで、
得るのも念だけに留まります。
人に何かを教える上で
本当に大切になってくるのは、
なるべくなら言いたくない経験や
言わずに済ませたい様な話です。
自己の優位性を求めるのではなく
相手に勇気を与えてあげる為に話す。
何事も上には上が居るように
下には下が存在します。
この世の春を迎えている
状態だとしても
この世の終わりだと感じている
常態だとしても
その人が突端という事は殆どありません。
何故ならば、
真の意味で端に居る存在と云うのは
そんな事すら考えないからです。
自分本位を着飾って
独りよがりになり果てる
そういう云わば中途半端な状態だと
自身が突端だと思い込むのですね。
大抵の場合は、その手のタイプの人は
経験値が浅いです。
経験が乏しいが故に
直ぐ突端だと思い込む訳ですから、
圧倒的な経験値を元手として
その現実を教えてあげる事が大切なのです。
そして、
その人にとっての重要な情報は
必ずしもその場で全てを
与えるものではありません。
注意すべき点は
「順を追う」ということ。
教える立場にある以上は
相手のその先が視えている状態を指します。
視えているから全てを伝えるのではなく、
視えているからこそ
その場で端的な解答を出してあげる。
ここでの解答は口にする事が全てではなく
敢えて何も言わないという選択もあります。
また、
正答を伝える事で惨めな先となるならば、
自身を悪者にされようとも
覚悟を以って逆の事を話すのも然りです。
そういった覚悟が出来ないのであれば
教える側の立場にはならない方が善い。
人を、相手を想うということや
相手のために動くという事は
こういう覚悟の下で成り立つものなのです。
ええかっこしいを
したいなら
教える側には
立たん方がええで
身を滅ぼすだけや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
以前より複数回お話をしておりますが、
万物には
「穢れ」
と、いうものがあります。
これを人に当て嵌めた場合の形容として
「駄目な自分」
という表現を用いています。
この駄目な自分ですが、
様々な場面にて露出してきます。
何故かと言いますと、
「善い自分の対となるもの」だからです。
つまりですが、
仮に善い自分が100あるとしたら
駄目な自分も100存在する。
自身で容易く認められる駄目な自分など
浅い領域に転がっている
とても小さな駄目な自分です。
言い換えるならば、
さして口にしても自身が傷付かない程度の
駄目な自分という事です。
これも穢れは穢れですが、
本当の意味での穢れはこのサイズではなく、
もっと自身の深層部分に存在する
表に出したり口にしたりするのを憚る様な
サイズ感の駄目な自分を指し示します。
このレベルの駄目な自分を
自身にて認識をするには、
それなりの条件が必要となってきます。
その内の一つが
「痛みの咀嚼」です。
様々な痛みをよく理解しているか
という点の表現となります。
ここでの「痛み」とは、
想いや念から発する事による
「感情の苦痛」を意味します。
自身の受けた痛みのみならず、
自身が直接与えた痛み
間接的に与えてしまった痛み、
これら自身に起因する痛みに於いて
表面的な認識ではなく、
深層部に至るまでの理解をする努力を
自身で講じてきたか。
また、それに基づいた上で
自分以外の存在の痛みについて
理解する努力を行っているか。
これらの総合的な業が
「痛みの咀嚼」です。
単に辛いというだけでなく、
その立場を置き換えた理解を示す事が
痛みの咀嚼を得る上での鍵となります。
例えば、
虐められた...辛い。
ではなくて、
何故に虐められたのかを
虐められた側の存在が
どこまで考えられるか。
虐めた側の心情をどこまで理解出来るか。
これが痛みの咀嚼です。
よく一般的に言う様な「許し」とは違います。
別に許容とか寛容などの話ではなくて、
自身を含めた存在を俯瞰で見つめて
その実の痛みをどれだけ感情的とならずに
理解する事が出来るか
というのが、主眼となる業です。
物凄くキツイとしか言い様のない業です。
ですが、これを実行する勇気が無いと
駄目な自分の本丸を認識して、
その先へ進ませるというのは
ほぼ無理と言えるほど難しくなりますし、
この痛みの咀嚼による結果得られるものが
「思い遣りの源泉」となりますから、
それほどまでに、駄目な自分を認めるのは
困難を極めるものなのですね。
ちなみにですが、
痛みの咀嚼は三途の川を渡る際に
念想の天秤で測られる達成条件の一つです。
無事に浄土へ行けるかどうかの
条件の一つという事ね。
出来てないのが
痛みの咀嚼
なんやで
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