今回は動き方について
お話をしたいと思います。
想いというのを相手に届ける際、
もれなく念も付いてきます。
以前より想いと念は
表裏一体だとお話をしています。
想念は常に同じ位置、
同じ場所に存在をするものなのです。
例えば、
大切に考えるという「想い」も
度が過ぎれば「独占欲」という念です。
お手伝いをしてあげるという想いは
やり過ぎてしまえば
「支配欲」という念です。
こういった感じで、
同じ個所に存在するのが想念なのです。
想いを純粋無垢に届けるというのは、
実のところ非常に至難の業となります。
そこには人の意思の介在や
感情の流入が発生する事になるからです。
念を全く混入させずに想いを届ける
想いを受け取るというのは、
この現世に於いては不可能な業です。
それを両極端で成す事が出来るのが、
浄土と地獄という霊界です。
現世というのは、
霊界で学びきれない事を学ぶ場でもあり
得た経験を霊界へフィードバックさせる
そういった場でもあります。
なので、とある存在の意図が
強く反映されているために、
こういった想念の吸着が起こる訳です。
引き起こされていると言っても
過言ではありません。
とある存在と云うのは何者ぞ。
と、いう事になるのですが、
人ではないのは確かです。
もっと超越的な存在で創造した存在。
彼、彼等は霊界に於いても
浄土や地獄、獄界や天界など
人の及び至る事の出来る様な
空間、領域には在していません。
その遥か遠方で間近でもある場に在しています。
人の身で彼、彼等の空間に及ぶ事も無いです。
というか、そもそも行く事が出来ません。
認知する事自体が難しいです。
ただ、存在を肌で感じる事は誰でも可能です。
それを彼、彼等だと理解する事が
出来る存在は限られています。
霊格の高さが関係してきますからね。
死んだだけでは分からないというやつです。
偶にはこういう話も良いですよね。
決して理解し得ない
肉体的思考ではなく
幽体的観点や
霊体的視野でないと
向こうの世界は
視ても分からんもんやで


