今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「優しさというのは
人それぞれで違うもの」
と、お考えでいるならば
それは大きな間違いです。
「優しさというのは
その場面場面で変えるもの」
と、いうのが正しいです。
時には手伝ったり
時には放置したり
褒めたり、叱ったり笑ったり
一緒に泣いてあげたり
考えてあげたり
その場その場で都度変えていくのが
本来のスピリチュアルに於ける
「優しさ」となります。
何でもかんでもやってあげるとか、
問答無用で手伝ってしまうとか
口を挟んでしまうとか
勝手に先行して動いてしまったり
常に笑顔でいるとか
常に綺麗な言葉を使うとか
この様なものは優しさではなく
自分本位を幹とした自己満足に過ぎません。
相手のためを思うのであれば、
一緒にやってあげるよりも
「やらせた方が」良い場面もあります。
例えば、子供が何かをしでかした時、
一緒に謝る方が良いのか。
子供に謝らせる方が良いのか。
ここの見極めはとても重要です。
仮に幼児や児童であったとしても
都度考える必要が出て来ますが、
コドモとは言え
成人をしている場合だとどうでしょうか。
成人なのであれば責任が伴います。
社会的にも身内的にもです。
責任を取るための謝罪であるにも関わらず、
そんな場面に親が出張ってきたら
お子ちゃまは何を勉強するのでしょうか。
何かあったら親にお願いすれば済むという
責任の放棄と甘えという点については
覚えるでしょうけど、
何が駄目で、何が良くなかったのか。
誰に対しての謝辞で、どうすれば良いのか。
申し訳ないという感情や、
場合によっては恥なども絡んできます。
それらを体験させるからこそ、
次に同じ事をさせない、しない様に繋がる。
反省に導くための優しさであるならば
「放置」や「観察」という
突き放しが「優しさ」となるのに、
そこで共に頭を垂れたり謝辞を述べるなど
優しさとはかけ離れた異質なものです。
自身の俗欲を満たす為だけの動きですからね。
そういう事をすると結果として、
身体だけがデカくて責任感が皆無な
出来損ないのお子ちゃまが完成する。
先述したのは、あくまでも例えですが、
護る場面なのか
突き放す場面なのか
その時の状況や状態をちゃんと視聴きして
己のためではなく、
相手のためをしっかりと考えて動く。
これが本当の「優しさ」へと繋がります。
何を当たり前のことを言っているのだと
思われるでしょう。
然しながら、
普段から自分を中心に捉えていたり
自分本位思考であったり、
その傾向が強く出ていたり、
俗欲のコントロールを軽視していると
往々にして選択を間違えてしまうのが
この「優しさ」というものなのです。
自分は大丈夫などと考えているとね
ほぼほぼ間違いなくやらかしますよ。
どこまでも常に冷静に、常に忠実に
常に気を付けるのが重要なのです。
発揮させたいなら
まずは駄目な自分を
認める事やな
それが出来へん内は
優しさも何も
夢物語やで



