今回は動き方について
お話をしたいと思います。
霊を視るのに必須な事として
「五感の研ぎ澄ませ」
「生きている存在を視る」
「万物への認識」
の、3項目があります。
この中で理解に乏しくなるのが
「五感の研ぎ澄ませ」です。
僕と話をした事がない方は、
霊を視るのに霊感が必要だと
認識されていると思います。
ハッキリしておきますが、
霊感などという感覚は存在しません。
と、言いますか、
元来誰でも持ち得ている感覚なので
敢えて「霊感」という言葉を設けて
特別化させる必要が無いのです。
そこに何かを感じ取れるのは、
「視・聴・嗅・味・触」
この五つの延長線上の感覚でしかなく
全てはこの五つに起因します。
霊を感じ取る際に
どんな言い方をしていたところで
起因すべき初手の感は五感です。
「何かが視えた」
「何かが聴こえた」
「何かが匂ってきた」
「妙な味がした」
「何かに触れた」
これらがきっかけになりますよね。
いや、何かを感じたんだと思う方も
居るでしょうが、
その“何か”はどうして分かったんですか。
冷静に思考すれば理解出来ますが、
その“何か”とは後手なのです。
その前の初手が必ず存在する。
つまり、その“何か”を認識する前に
いずれかの五感が反応して
貴方に感覚として得させているのですね。
そこを追究せずに放置した状態で
由としているから「五感」に対する認識が
ピンと来ないのです。
これを「怠惰」と、言います。
自分の感覚なのに謎にしておいたまま
正しく霊を視るのは難しいです。
そのままでは必ず自身の俗欲に流されて
事実認識が出来ずに幻想へ逃避します。
それでは貧乏神へ堕ちてしまうので
根幹を成している五感を研ぎ澄ませて
初手の感覚を正しく得るのが必須なのです。
五感を研ぎ澄ませると言うと、
何か瞑想的なものを
想像されるかと思います。
然しながら、
必要なのはそこではありません。
もっと単純で良いのです。
「自分が何をしているのか」
「自分が何を感知したのか」
これらを一つ一つ認識する
その努力を維持継続すればいい。
人は高性能センサーである五感を
恐ろしいほど大体で使用しています。
おまけに感知したものを謎のままとするから
記憶にも残らずに既知の知識ともならない。
そんな状態なので
「霊感」という幻想に逃避する。
例え、目に映らない存在であっても、
何かしらの痕跡を必ず遺すのですから
それらを分析解析出来る五感を
日頃から可能な限り
養ってあげれば良いのです。
「謎を謎のままにしておかない」
という努力の事ですね。
いくら瞑想をしようが滝に打たれようが
普段の感覚がバカになっているならば
その場のハリボテで満足して終了です。
「いつ、何が、どこで、
誰が、何故に、どうして」
事ある毎に五感を基にしてこれらを追究する。
その先にあるのは何かというと、
「自身の感覚を信じ切る」
と、いう最も必要な心情です。
霊を視るというのは、
五感つまり肉体で得た情報を
幽体にダウンロードして視るのです。
そこには「信に徹する」という
絶対的な要素が必要になります。
何故かと言うと、
肉体があるからこそダウンロード時に
俗欲が邪魔をするからです。
当たっているかどうかなどの俗欲ですね。
これを払拭するには
圧倒的な知識と経験が必要なのです。
そして、それは普段の生活の中で
如何様にも向上させる事が可能です。
その中枢にあるのが我々の持つ
「五感」なのですね。
ですから、五感を研ぎ澄ませる事が
霊を視る事に必須な条件となるのです。

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