今回は無償の愛についてです。
人が人として育むべき愛情の
最終的な到達点が無償の愛です。
金も物も剰え気持ちも
見返りを一切求めずに愛情を注ぎ続ける
想いの最終進化形。
これだけを聞くと、自分一人が頑張ってて
すごく虚しいものだと
考えてしまいがちですが、
それは余りにも自分の方に意識が
向きすぎているし、思慮が足りません。
思い出してほしいのは、
あなたは一人ではないということ。
類は友を呼ぶという言葉が好きなわりに
こういう話に及ぶと直ぐ一人だと誤認する。
見返りを求めない愛情を注いで、
それと同様の想いを持っている人を
呼び寄せればいいでしょ?
無償の愛を共有できる人なんて
一生涯でも極少人数にしか出会えないけど、
例えそれが自分以外に一人だったとしても、
出会えたならそれはとても素晴らしい事で、
最高にして最強の徳の一つなんですよ!
要はめちゃ幸せな事!!って意味ね。
その過程の中で、人の持っている様々な顔
つまり本性を視る事になる。
それは自分の本性を知る事でもある。
そこで絶望をするのではなく、
あくまでも反じて省みる努力をする。
それはとても大変な事ではあるけれど、
そんな努力の一つもしないで
得られるほど簡単な訳ないでしょう?
どんな事でも素敵な事を得るには
それに見合った努力というものが必須となる。
何も思考せずにただ日常を生きる。
目の前にある容易く軽い愛情にぶら下がる。
そんな生き方じゃ一生涯を掛けても
得られない得る事の出来ない愛情のカテゴリが
無償の愛なんです。
誰しもが得られる権利を
生まれながらにして持っているのに
自らのエゴでいとも簡単にその権利を
手放してしまう想いの形、それが無償の愛。
そして、自分が手放すという事は、
自分が向けるべき愛情によって救われる人や
自分に向けられていた無償の愛を放棄する
早い話が他者の幸せに答えない(裏切り)
という事でもある。
だからこそ、生きとし生ける者にとって
徳を積む=幸せを得る事に区別はないのです。
どうして俗欲的な生き方や思考、
人を裏切ったり辱めることが
向こうの世界の理では罪となるのかは、
この愛情という面を深堀する事でも
人によっては理解が出来るはずです。
人は独りじゃないからね。
与えるだけじゃない
受けるだけでもない
その両方を余すところなく発揮して
後に、「あぁこれか!...」
と、言葉にならない感覚で理解できるのが
無償の愛。
おそらくだけれども、
とても身近にある悟りの一つなのだと
あにきは考えています。



