皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
過去の失敗があるから
次は間違えない様に努力する。
生きていく上での基本的な動き方です。
失敗を基にして成功の鍵を探る。
失敗という一つの結果を
恐れていては先に進めませんから、
誰しもがこの動きをするのが
妥当だという事になります。
ですが、
実際には過去の失敗があるにも関わらず
また同じ事を繰り返してしまう。
そういうケースの方が多かったりします。
失敗そのものは認めていても
過去の自身の過ちを認めていなかったり
失敗したポイントの解釈を間違えていたり
自身の中で極度な決め付けをしていたり、
こういった場合ですと、
同じミスを繰り返したり
重要なチャンスを自ら逃したりします。
今までに経験した事の無いケースだから
奥手になってしまうとか、
より一層の安全パイを利用しようとするとか
自己防衛の視線で捉えると
妥当だと考えがちです。
然しながら、
これらを言い換えてみると
「勇を用いる」を拒絶しているのですね。
何の考えも無しに飛び込んでみる
という意味ではなくて、
支えてくれる相手やサポートしてくれる相手、
理解してくれる相手が居るのであれば、
ましてや、それが
信ずるに値する存在であるならば
そこを信じて飛び込んでみる。
(これが「信に徹する」です)
この時に、自身の優先度は下がって
相手の優先度が自然と上がります。
(これが「奉仕の精神」です)
信ずるに値しないのであれば
自身を優先させて自己防衛に徹する事は
間違いではありません。
問題のポイントが違いますからね。
いつもながら難しく聴こえますが、
これは成長と進化のお話なのですね。
成長や進化というのは、
想像以上に身近なものなのです。
「過去を乗り越える為に如何に勇を用いるか」
「前へと進む為に如何に信に徹するか」
「信ずるに値するために如何に伝に務めるか」
これらをどれだけ使い熟して
これまでの自身から脱却させるか
そこには想いや思い遣りが存在していて
それらを受け取るからこそ前へと進められる。
子供が新しい動作を獲得する時も
(おトイレとかお風呂とか自転車とか勉強とか)
大人が行き詰まりや幸せを目指す時も
(ビジネスとか恋愛とか生活そのものとか)
どんな年齢になろうとも
この流れと中身だけは変わるものではないのです。
それまでの自身や
それまでの考えに拘り続けると云う事は
過去の恐怖に身を委ねているのと同義です。
確かに恐いものではありますが、
それを言っていたら何も成長しませんし
進化する事も出来ません。
恐いからこそ、その根源をちゃんと視る。
信ずるに値させる為によく会話をする。
(ここでの会話には触れ合いも入ります)
信ずる相手との共感によって分散させる。
これらを放棄する動きが過去への拘りであり
過去への自身への甘え
つまり、「自分本位」となるのです。
僕らは常に成長と進化を目指しています。
そのサイズはとてもとても小さいですが、
その小さいものの積重ねが
大きいものの獲得へと繋がるのですからね。
恐怖に負けて楽を取り
自に堕ちるような真似をしない様に
努力をしていくことが
僕らが産まれてきた目的の一つなのですから。
新たな気持ち
新たな感覚
新たな知識
新たな経験を
得ていくんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
貧乏神の入口に属する人や
貧乏神方向へ向かいつつある人
というのは、
パッと見ですとまともに見えます。
少なくとも素人さんでは
判断するのが極めて難しいです。
その手の人の特徴の一つとして、
「仕事や趣味、金に逃げる」
と、いうのがあります。
どういう事かと言いますと、
自身にとって嫌な事や
都合の悪い事実があった時、
それに立ち向かうのではなくて
目を逸らす為に
「仕事に打ち込む」とか
「趣味に没頭する」とか、
それらを通じて
「金勘定に逃避する」
とかを指します。
これらの行為を
「遮断」と言います。
例えば、
叱られたり指摘を受けた際に、
目を背ける人っているでしょ。
それが「遮断」です。
とても分かり易いケースですね。
これに自身の言い訳を追加すると
一人の空間や時間を
突如として欲するので、
仕事や趣味に入り込むのです。
ですが、
こういった場合で入り込む時というのは
「(仕事や趣味を)やってる風」
なだけなので、
周囲へのアピールが多かったりします。
要は、中身が伴っていない
という意味です。
この手の人の場合ですが、
お金への執着も大きいです。
けれども、貧乏神ガチ勢程の
執着でもないです。
ガチ勢と比べてぶっ飛んでいない分、
その執着に対しても
言い訳を重ねるという
小者臭さが出てきてしまう関係で、
主語を「仕事や趣味」に言い換えて
表現してしまう訳です。
このケースの人は、
総じて人への想いが希薄なのと
人や周りに対する想いというのが
理解出来ない状態に
陥っています。
ですので、
何度となく同じ指摘をされますし、
その都度に遮断を繰り返すので
自身で前に進む事が出来ません。
では、どうしたら良いのか。
まずは、逃げ道を無くします。
話に向き合わさせる様にするのです。
難しく考えずに目を合わせましょう。
その上でやるのはただ一つで、
こちらの意見を述べるのではなくて
相手の意思を同じ目線で
理解している事を伝え続けます。
上からの蔑みでもなければ
下からの媚でもなく、
同じ高さで話すのですね。
単に、分かるよと言うのでもなく、
ちゃんと理屈を説明します。
これこれこうだよね。と...
ここで、話す側が冷静さを欠いたら
負けとなります。そうなると、
相手は塞込んで戻ってきません。
耳にも心にも栓をしてしまいます。
かと言って、無表情無感情でもなく
寧ろ、感情豊かに接するのが大切です。
瀬戸際の人というのは、
貧乏神ではないですから
一度こちらへ振り向かせられれば
戻って来させるのは可能です。
ですが、
引き戻す側の人が激情に操られたら
相手は確実に自に堕ちます。
救いたいのであれば、
冷静さと根気、意地と根性が必要です。
セルフでやれる
救出法なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は基本的な動き方について
お話をしたいと思います。
本日のインスタにも記載しましたが、
あにきの教えている
この手の知識というものは
使って初めて得られるものです。
実践をしないと、
全くと言っていい程に無意味ですし
糞程も役に立ちません。
インスタには、
逆にマイナスとなりますよと、
書きましたが本当にその通りでして
単に覚えて身に着けた気持ちとなっていると、
貧乏神化が進みます。
何故かと言うと、
想いよりも欲が勝ってしまうからです。
覚えたいという知識欲があるのは
当然ですし、大変結構な事です。
けれども、欲は欲ですから
そこに溺れすぎると当たり前に沈みます。
なので、制御が必要となる訳です。
ここでの制御というのは、
使う事で覚えられます。
また、使わないと次のステップへと
進んだ際に、確実に躓きます。
どうしてかと言いますと、
次のステップでは、
もう既に使って制御が出来てる前提で
あにきは話をするからです。
出来なければ聞けばいいし、
やってみたけど分からなければ
やっぱり聞けばいいし、
やってみた上で疑問や質問が出てきたら
尚の事聞けばいい。
聞いて良いですよ!
聞くのは善きですね!
と、こちらから申し出ているのですから、
そうすれば良いだけなのに、
それをしようともしない。
その流れのままに知識を上書きしても
間違って覚えるのが関の山ですし、
「使うべきタイミングで使えない」
とか、下手すれば
「覚えてすらいない」
という事になります。
当然に指摘をされて挫けますね。
ここで反省が出来る様な
メンタルであれば全然善いのですが、
そうでなければ、
自分に言い訳して終わりです。
この程度の事が出来ない人が
他の事をやれる訳が無いですし、
欲に負けた上に自分にも負けたのですから
慰めを求めて彷徨い始めて、
似た者同士で上っ面な慰め合いをしつつ
傷口に汚泥を塗って化膿させ、
腐らせる。
こうして貧乏神化が始まります。
それらを避ける為の
「使う」という業。
使わないでも覚えていられる
制御が出来るというのであれば、
学校で学習した知識は
全て覚えていますか?
ここで答えが出ているんですよ。
敢えてあにきの事を
引き合いにしましたが、
これはどんな事象でも同じです。
仕事でも趣味でも習い事でも
家事でも何でも同じ。
自ら進んでやり始めたのだから、
自らの意思と覚悟で使う。
使う為の努力をする。
使う為の知恵を絞り考える。
こんな誰でも分かる当たり前な話なのに、
聞きもしないで
金や時間などと身勝手な理由を
縷々述べ立てて
欲に負けて自に堕ちる。
善意でお薦めされた事を
利己的な要因で履行しないのは
信じていないのと同意義ですし、
汲み取る事もしていないのと同意義。
つまりは、
信に徹しておらず
伝に務めてもいなくて
自に堕ちている訳ですから、
当然に貧乏神へと堕ちる訳ですね。
傲慢や怠慢というのは
恐ろしいものです。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は少々難しい内容となりますが
先生方なら大丈夫ですから
頑張って付いてきて下さいね☆
欲・欲求についてです。
ー言葉の独り歩きー
色んなところで聞く言葉ですが、
「幸せになりたければ欲を捨てなさい」
この台詞、あにきは大嫌いです。
だってさ、元々備わっているんだよ、
捨てようにも捨てられないよ。
人を辞めろってこと?
生物を辞めろってこと?
どうしてこの台詞を
あにきが大嫌いなのかというと、
途中がすっ飛ばされて
完全に違った意味となっているからです。
正しくは、
「幸せを掴みたければ、目的を持ちなさい。
そして、もし欲を目的とするならば
その欲は捨てなさい。」
これです。
ー主たる目的を理解せよー
何事に於いても、何をするにしても
目的をしっかりと持つ事が大切。
目的を持たないと、順序が作れない。
順序が作れなければ、
歩むべき道(やる事)も作れない。
結果としてダラダラでなぁなぁとなり
いつの間にか手段そのものが目的となる。
例えば、お金が欲しいとする。
どうしてお金が欲しいのか?
そこを考えると、それが目的となる。
お金はあくまでも手段ですね。
そして、その目的とは
誰に向かっているものなのか?
自分なのか?他人なのか?
別にどちらでも良いんだけど、
そこもハッキリとさせる。
すると、
今現在での自分が出来る事ってのが
わりと鮮明に見えてくる。
これが先述した「歩むべき道」。
やれる事なんて限られていて、
みんなが同じ事を出来る訳ではないし
やりたい事だって千差万別です。
スキルだって十人十色ですからね。
この歩むべき道が、さも一つしかないと
誤認するからおかしな方へ向かってしまう。
永年でやり続ける事が歩むべき道ではない
「今現在の自分がやれること」が歩むべき道。
要は、仕事や生業なんてものは、
コロコロ変わって当たり前って話。
やる前に悩むだけ野暮って話なんですね。
悩むならやり始めた後ね。
ー忘却した主たる目的ー
生きる上でこれを繰り返している内に
いつの間にか手段たるお金が目的となってしまう。
お金が生活の基盤で指標でもあるから
ある程度は仕方ないのだけれども、
その数字だけを目的にするのは愚かだよね?
ってのが、先述の
「...もし欲を目的とするならば
その欲は捨てなさい。」
って、件(くだり)。
何故に愚かなのかというと、
主たる目的を見失っているからですよ。
他人の為に!とか
自分の為に!
自分の老後の為に!とか
家族の為に!とか
様々な主たる目的が有った筈なのに、
それが見えなくなってしまい、
ただの数字を目的としてしまう。
ー忘らるる目的のツケー
例えば、先月比とか前年比みたいな
指針や指標として数字を据えて、
それを超える様に頑張る!みたいなのは
有りですよ。
だって目標としては分かりやすいもの。
けど、これはあくまでも
指標の類なのだから
ハッキリとした主たる目的を
忘れてはダメよね。
いつでもどこでも主たる目的を
胸に抱き続ける。
これを蔑ろにしてしまうと、
自身の中での人への思い遣りなどが
どんどんと薄くなっていってしまう。
人への思い遣りってのは、
とても疲れるし気を遣うし、
心を傷付けやすくなるから、
なるべくそうならない様に
楽をしようとする。
私は人を信じない!と宣言するのが
その典型例の人とも言えますね。
ー生まれる前の自分への裏切りー
最初こそは大したものではないけれど、
それがいつの間にか目に見える様になり
似た思考の、努力をしない思考の人が
自分の周りに集まったり、
自分が引き寄せられたりするようになる。
気が付けば人として大切な何かを見失い
大切な人を失っていく。
それだと、何の為に産まれてきたのか?
産まれてきた目的や、
個人個人の人生のお題目を
達成出来ないどころか、
暖かさや痛みから勉強する人の想い
生きるもの全ての想いを理解できないし
成長そのものが滞ってしまう。
それはとても情けない事だし、
知っていても知らなくても、
自に堕ちるという罪なのだから
あまりにも下らな過ぎるよね?
という事で、愚かという意味になるんです。
なので、先述した、
「幸せを掴みたければ、目的を持ちなさい。
そして、もし欲を目的とするならば
その欲は捨てなさい。」
という言葉になる訳です。
ーイギョウ ノ コトバー
なのに、途中の大切な部分が端折られて
最初と最後だけが独り歩きしてしまい、
全く別の意味となってしまっている。
ですから、
「幸せになりたければ欲を捨てなさい」
なんて言葉が嫌いなのね。
あにきにはこの言葉が
俗欲から生まれた異形の言葉としか
聞こえないんですよ...
欲は捨てられないのだから、
目的をしっかりと設定して
コントロールしよう。
上手く使って欲に溺れない様にしよう。
これがこの言葉の
本来あるべき姿なんですね。
自分でよく考えてみましょうね。
さて、あなたは欲に溺れていませんか?
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は無償の愛についてです。
人が人として育むべき愛情の
最終的な到達点が無償の愛です。
金も物も剰え気持ちも
見返りを一切求めずに愛情を注ぎ続ける
想いの最終進化形。
これだけを聞くと、自分一人が頑張ってて
すごく虚しいものだと
考えてしまいがちですが、
それは余りにも自分の方に意識が
向きすぎているし、思慮が足りません。
思い出してほしいのは、
あなたは一人ではないということ。
類は友を呼ぶという言葉が好きなわりに
こういう話に及ぶと直ぐ一人だと誤認する。
見返りを求めない愛情を注いで、
それと同様の想いを持っている人を
呼び寄せればいいでしょ?
無償の愛を共有できる人なんて
一生涯でも極少人数にしか出会えないけど、
例えそれが自分以外に一人だったとしても、
出会えたならそれはとても素晴らしい事で、
最高にして最強の徳の一つなんですよ!
要はめちゃ幸せな事!!って意味ね。
その過程の中で、人の持っている様々な顔
つまり本性を視る事になる。
それは自分の本性を知る事でもある。
そこで絶望をするのではなく、
あくまでも反じて省みる努力をする。
それはとても大変な事ではあるけれど、
そんな努力の一つもしないで
得られるほど簡単な訳ないでしょう?
どんな事でも素敵な事を得るには
それに見合った努力というものが必須となる。
何も思考せずにただ日常を生きる。
目の前にある容易く軽い愛情にぶら下がる。
そんな生き方じゃ一生涯を掛けても
得られない得る事の出来ない愛情のカテゴリが
無償の愛なんです。
誰しもが得られる権利を
生まれながらにして持っているのに
自らのエゴでいとも簡単にその権利を
手放してしまう想いの形、それが無償の愛。
そして、自分が手放すという事は、
自分が向けるべき愛情によって救われる人や
自分に向けられていた無償の愛を放棄する
早い話が他者の幸せに答えない(裏切り)
という事でもある。
だからこそ、生きとし生ける者にとって
徳を積む=幸せを得る事に区別はないのです。
どうして俗欲的な生き方や思考、
人を裏切ったり辱めることが
向こうの世界の理では罪となるのかは、
この愛情という面を深堀する事でも
人によっては理解が出来るはずです。
人は独りじゃないからね。
与えるだけじゃない
受けるだけでもない
その両方を余すところなく発揮して
後に、「あぁこれか!...」
と、言葉にならない感覚で理解できるのが
無償の愛。
おそらくだけれども、
とても身近にある悟りの一つなのだと
あにきは考えています。