皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います
何かの動きをする際に
どんな物事でもそうなのですが、
「限界点」
と、いうのが存在します。
特段難しい話ではないです。
身近な事から壮大な事まで、
何に関してもこの存在するのが限界点。
この限界点を見極める事が
動く時にその結果を大きく変えるのですね。
例えばですが、
善くなりたいと考える誰かが居て、
その人に色々とアドバイスをするとします。
この時に、どうしても人は
「無限の可能性」というのを
視野に入れてしまいます。
無限の可能性自体はとても善い考え方ですし、
それは持っていて善いものなのは確かです。
然しながら、
冷静さというのも必要でして
可能性はあるにはありますが、
無限に可能とは言っていないのですね。
ましてや、必ず可能とも言っていないです。
努力しても何をしても
出来ないレベルというのは往々にして存在します。
そこを見極めて現実的なポイントとして
落し込んであげる最上点が「限界点」。
無限の可能性を動き始める場合の
希望として捉えるならば
それは大いに結構ですが、
自身の言い訳に使ってしまう様な
楽観的な指針とするのであれば
「絶対的な汚点」となります。
誰にでもチャンスはありますが、
誰でも希望通りになれるものではない。
根拠の無き無限の可能性に賭けるのであれば、
「限界点を知り、努力して伸ばす方が建設的」
限界点というのは、その物事や事象、
自身に対する終着点とも読み取れますが、
そこには「時間の作用」も含まれるので、
実は変動するものなのですね。
例えば、
その時には、A地点が限界点だったとしても
時間は掛かれど努力を重ねればB地点が
限界点となる様な事が、大いに発生します。
鍵となるのは「努力」です。
努力と云うのは、目的と目標をセットして
それを時間軸に置いた時に初めて意味を成します。
目的と目標は有っても
時間軸に置かないでいると、
いつまでも進まないですし、限界点は変わりません。
それどころか、取り残されてしまって
目的や目標は執着へと変わり、
やがて自身を滅ぼすものへと変わってしまいます。
1つの職業や資格取得に固執して
ずっと夢見てやっている人とかいるでしょ。
いつまでもダラダラと生産性の無い動きを
続けて良いものではないのですね。
自身に於ける限界点を知り、
そこを伸ばす努力をする。
無限の可能性は動き始めのきっかけであって、
すぐに忘れるべきものなのです。
その代わり、限界点を知り理解して、
乗り越えていこうとする姿勢が大切なのですよ。
無限の可能性という
夢のままにしておいても仕方ないでしょ。
それよりも限界点という現実を知り努力すれば
そこには肉の身を宿した結果が手に入ります。
どっちがいいでしょうかね。
夢と云うロマンでは限界点ってロマンには
生きる術が
宿るんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
想いというのは様々ありますが、
必ずしも
自身の思い描いている質量そのままに
相手に届くとは限りません。
そこには相手さんの性格もあれば
考え方や生き様、立場、
貴方に対する想いの形や質量など
色々な分類要素があるのですね。
何もかもが自身と同じだと
考える方が烏滸がましい限りで
それを中和して
融和させていく努力が必要です。
相手に対して何を想うのか。
自分はどういうスタンスなのか。
自分をどこまで押し出すのか。
ちゃんと優先順位を考えているのか。
自身の想いの質量を
徒に減らす事無く
相手に届けたいのであれば
それまで以上の努力の維持継続が
大切になってくるのです。
全ては受取る側次第なのですからね。
自分を抑え込んでも駄目。
相手に忖度し過ぎても駄目。
ありのままの姿で
ありのままのを理解し認める。
努力するべきポイントは
その認知と理解度の共感にあります。
辛く苦しければ辞めれば良いですし、
それでも努力を続けるのであれば
それまで以上にやればいいだけ。
但し、そこに相手がちゃんと居て
相手の方を見据えていて
目的を逸脱しないこと。
頑張る事に集中し過ぎると
その頑張りという手段自体が
目的となってしまい、
気が付けば自分本位に
飲み込まれてしまいます。
自分をしっかりと管理して
自分を大切に出来る様でないと
相手のためを想うというのは
非常に困難なものへと変貌します。
想いと念は同一のモノで
常に表裏一体です。
自身が想いを重用している時は
念もまた自身を見つめている事を
忘れてしまってはいけませんよ。
一方向のみを思考したり
一方向のみに動く事は
「楽」に該当するのですからね。
目指すべきところは
「想い合い」です。
努力と怠惰は
別物と思いきや
実は背中合わせ
意識は常に
両方向へ向けて
動く事が
重要なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
まもなく今年も終わろうとしています。
皆さんにとっての2025年は
どんな一年でしたか。
様々な考えや想いが詰まった
365日であり
8760時間だったと思いますし、
一瞬一瞬を大切にして
過ごす事が出来ましたか。
無理をせずに頑張り、
明るく愉しく元気よく日々を過ごす。
至極当然の様に聴こえますが、
決して当たり前ではない日々。
そんな中を過ごしてきて
思い返す事はどれだけありましたか。
僕はというと
ブログに関する事で言えば、
去年の今時分に一つの目標を定めて
1年間ここを書いて来ました。
「一ヶ月に最低10投稿」
非常に地味ですが、
僕にとってはハードな目標でした。
内容のクオリティを下げる事無く
投稿数を増やせるか。
どこまでも「皆さんのために」を
意識して貫いて書き綴る事が出来るか。
過去3年間どうしても途中途中で
投稿数を減らしてしまう月があったり、
安定的でない部分が多かったので
それを打破させるための
自分に課した目標設定でもありました。
結果として
12ヶ月通じて目標は無事完遂。
完走しきった達成感と
自戒すべき点を得たので、
今後に繋げるべきある種の
可能性を見出す事も出来ました。
どこまでもひっそりとした
地道な努力ではありましたが、
そこから得られる重要性を
改めて肌身で感じた1年でありました。
いちいち宣言はしなくとも
どんなに地味であろうとも
不断の努力が成す形というのが
必ず存在するものです。
来るべき新しい1年へ向けて
皆さんは一体何を想い、
何を形とするべく努力を
日々の業を定めていきますか。
という時空を
しっかりと意識して
1つに限らず
目標を定める
上手く出来ても
出来なくても
やり抜く努力が
大切なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
「頑張れる人」と「頑張れない人」
と、いうのがあります。
読んで字の如くとはなるのですが、
少々内容が深いです。
ここで示す
頑張れる頑張れないと云うのは
努力の形を意味します。
例えば、
頑張れる人というのは、
自身で思考して努力を出来る人。
このタイプの人は、
周りが黙っていても自身を奮い立たせて
様々な形で努力をする事が出来ます。
また、必ずではないにしても
自身の責任というのを理解しているので
潔さも持ち合わせています。
但し、
努力する方向が間違っていたとしても
猛進邁進するという特徴も存在しますので、
簡単に自己の意見を変えられない等の
頑固さが強く出たり、
慎重になり過ぎるが故に、
先行した動きや新たな思考に適用する為の
時間を多分に要する悪癖や
責任感の高さから発生する
心的ストレスを負い易いといった面も多いです。
現実的思考が中心となり
幻想を好み、決して嫌いではないが
現実というものを理解出来るので
幻想へは逃げない考え方を持ちます。
頑張れない人というのは、
他者の指示や思考に則った形での
努力が出来る人。
このタイプの人は、
他者からの引立てや圧力を得る事によって
一定の努力をする事が出来ます。
1つの目標や目的、
大衆意識に則った思惑などに対しては
漫然と突き進んでいける様な力があり、
自己意識を抑えているので
柔軟性は高いのですが、
その高すぎる柔軟性の結果
周りの意見に迎合は出来ても
自己の意見をそもそも持てなかったり、
変更の判断や意思決定が自前で出来ない等
必ず他者の指示や意見、
物や見えない存在の力に頼ろうとする様な
風見鶏的思考の特徴が強く出ます。
また、
自己意思が希薄であるが故に
責任感への理解や慎重さを軽視してしまう
という傾向が強く、
それまで頼っていた存在ですら
容易に捨ててしまうので、言い訳をしたり
人や物の所為にする癖が顕著に出ます。
理想的思考が中心となり
幻想を好み得ています。
現実は理解する事が出来ますが、
綺麗事や幻想へ逃げ易くなります。
頑張れる人、頑張れない人という
思考回路の造りを
大枠で説明するとこうなります。
また、同じ人だとしても
部分部分や場面場面によって
両方の特徴が入れ替わる事もありますが、
軸的な部分は概ね固定化されています。
あくまでも思考回路の造りですので
善悪の判断をここでする事は
不可能となります。
また、性格についても同様で、
ここからの反映は確かに存在しますが
どちらかと云うと
当人が在する環境やそれまでの人生経験や
輪廻の回数、霊格の高さなどの方が
色濃く影響を与えるものなので、
やはり、
ここのみで判断するのは不可能と考えます。
然しながら、
個々人に対する運気の向上や
維持という観点については、
対象を見極めなくてはならない箇所となります。
本来のスピリチュアルに於いて
運気とは自身で創り上げるものです。
その維持もまた同様ですね。
自身の考え方や動き方と相反する対象と
動を一にしていれば、不必要な齟齬や
永遠の不理解や不共感が発生し、
負の螺旋への動きへと繋がり易くなります。
ですので、適切な距離を得る為に
自身も含めたこのポイントを抑えて
見極めていく必要があるのです。
全てが同一の
距離感には
ならない事も
また事実なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
幸せは痛みを伴ったり
痛みを意識した先に存在します。
勉強等がその典型例ですね。
普段の学習という苦痛を乗り越えた先に
テストの結果を得られる訳です。
本来のスピリチュアルも同様で、
教わったものを使うという事や
使う努力をする事、
つまり、
自分から率先して動くという
「苦痛」を乗り越えた先に
「愉しみ」という幸せを
得る事が出来るのですね。
また、貧乏神と接した際の
苦痛も同様です。
嫌な思いという苦痛を得るから
同じ様にはなりたくないと
その苦痛を乗り越える様に努力する。
その先に幸せがあります。
貧乏神に近い存在へと
成りかかってしまった際も同様で、
そこから抜ける為の努力
とりわけ、俗欲の制御という業は
かなりの苦痛を伴います。
平穏無事な人が行う
俗欲の制御と比べると、
天と地ほどの差があるくらいの
相当な苦痛です。
その苦痛を乗り越えるから
想いというものを理解する事が出来る
幸せを得られるのです。
しかし、
その苦痛に屈服して楽を取った場合は
努力を途中で放棄するのと同意義ですから
幸せは手で掬った水の様に
零れてしまい、
そこに存在すらしていなかったかの様に
影も形も無くなります。
あにきと一緒に頑張ってきた皆さんなら
この意味が分かる筈ですよ。
仲良しなんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は無償の愛についてです。
人が人として育むべき愛情の
最終的な到達点が無償の愛です。
金も物も剰え気持ちも
見返りを一切求めずに愛情を注ぎ続ける
想いの最終進化形。
これだけを聞くと、自分一人が頑張ってて
すごく虚しいものだと
考えてしまいがちですが、
それは余りにも自分の方に意識が
向きすぎているし、思慮が足りません。
思い出してほしいのは、
あなたは一人ではないということ。
類は友を呼ぶという言葉が好きなわりに
こういう話に及ぶと直ぐ一人だと誤認する。
見返りを求めない愛情を注いで、
それと同様の想いを持っている人を
呼び寄せればいいでしょ?
無償の愛を共有できる人なんて
一生涯でも極少人数にしか出会えないけど、
例えそれが自分以外に一人だったとしても、
出会えたならそれはとても素晴らしい事で、
最高にして最強の徳の一つなんですよ!
要はめちゃ幸せな事!!って意味ね。
その過程の中で、人の持っている様々な顔
つまり本性を視る事になる。
それは自分の本性を知る事でもある。
そこで絶望をするのではなく、
あくまでも反じて省みる努力をする。
それはとても大変な事ではあるけれど、
そんな努力の一つもしないで
得られるほど簡単な訳ないでしょう?
どんな事でも素敵な事を得るには
それに見合った努力というものが必須となる。
何も思考せずにただ日常を生きる。
目の前にある容易く軽い愛情にぶら下がる。
そんな生き方じゃ一生涯を掛けても
得られない得る事の出来ない愛情のカテゴリが
無償の愛なんです。
誰しもが得られる権利を
生まれながらにして持っているのに
自らのエゴでいとも簡単にその権利を
手放してしまう想いの形、それが無償の愛。
そして、自分が手放すという事は、
自分が向けるべき愛情によって救われる人や
自分に向けられていた無償の愛を放棄する
早い話が他者の幸せに答えない(裏切り)
という事でもある。
だからこそ、生きとし生ける者にとって
徳を積む=幸せを得る事に区別はないのです。
どうして俗欲的な生き方や思考、
人を裏切ったり辱めることが
向こうの世界の理では罪となるのかは、
この愛情という面を深堀する事でも
人によっては理解が出来るはずです。
人は独りじゃないからね。
与えるだけじゃない
受けるだけでもない
その両方を余すところなく発揮して
後に、「あぁこれか!...」
と、言葉にならない感覚で理解できるのが
無償の愛。
おそらくだけれども、
とても身近にある悟りの一つなのだと
あにきは考えています。