皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
「想い」というのが善いことで
「念」というのが悪いこと
とてもシンプルな解釈ですが、
皆さんこの様な感じで覚えている筈です。
何も間違っていないですし、
全然それで結構なのですけども
ただ、人はこれが故に
善きことだけを意識しようとして
悪しきことを意図的に意識から
遠ざけようとします。
問題はここです。
物事というのは、
どちらか一方へと偏ってしまうと
碌でもない事しか起きません。
とは言え、
勘違いしないでほしいのですが
何も悪しきことを推奨も助長もしていません。
思い出してほしいのですが、
現世の様々な物事というのは
相互関係で成り立っています。
それは自身に於ける想念でも
同じだと教えましたね。
「想い」の対局には「念」が必ず存在する。
この自身の中の念を認知して
確実に理解する事が、
想いの本領発揮へと繋がります。
善い事が起きてほしいからと言って
「想い」ばかりを注視する様にしていても
それは良いとこ取りですから、
「想い」ではなく
「俗欲の塊」に過ぎませんよと
以前にも記載しました。
また、
自身の汚い面や汚い動きを認めもしないで
「これは誰ダレのため」
「これは何々のため」
と、己の動きを正当化させる為に
想いという「言葉」だけを盾にしたりする。
想いは貴方にとっての
都合の良い言い訳ではないのです。
真に想いを発揮するには
念の存在を常に認めないといけない。
自身の中の念の存在を認めるからこそ
想いの尊さが理解出来るし
相手への敬いや己よりも優先させるなど
想い基軸とした業を初めて実行出来るのです。
貴方が決して悪人ではないのに
これまで嫌な事が続いていたり
今一つパッとしなかったのは、
ここの理解が為されずに
最終的には「自分」を取っていたからです。
色んな物事を学習しても
人に縷々様々な事の教えを請うても、
自分に都合が悪くなったり
自分の嫌いな事や苦手な事へと至ると
言い訳としての「想い」を利用して
それまで貴方に教えてきた数々の人の
「想い」を自身の歪な「似非想い」で
いとも簡単に塗り替えてしまう。
つまり、自分優位な思考回路に陥る。
それは想いでも何でもなく
非常に強い俗欲であり、高濃度の念です。
貴方が想像している以上に
扱いに苦痛を伴うのが「想い」です。
辛さを伴うのが「想い」です。
苦痛を緩和したり、
辛さを消すのが「想い」だと考えているから
いつまでも己の中の念を
理解してあげられないのですよ。
強烈で効き目抜群な痛み止めは
想いではなく
楽を優先させる「俗欲であり念」なのです。
だから、使い方を間違えると
あっという間に依存をしてしまう。
そんな危うい代物には
目を見張っておくのが普通です。
これとは違い
「痛みや辛さ」を引き換えにするもの。
つまり、
「努力や鍛錬」を糧として
その後の善き事へと導くものが
「想い」というものですからね。
だから俗欲塗れの
人の方が
現実を直視せんと
無駄に綺麗事や
詭弁を述べたり
しまくるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
人は様々な理由で
楽をしようとする存在です。
少なくとも、現世にいる我々は
例に漏れる事無く
どこまでも楽を追い求めます。
それは、肉体を纏った事で
俗欲を得た代償というものなのですが、
楽を求める事そのものは
決して悪ではありません。
これを「追求」と呼びます。
寧ろ、我々にとっては
かなりのプラスの事柄となります。
追求というのは、知恵を付けます。
技術も発展していきます。
俗欲をスターターとして、
生きる上での便利ツールを創り出すにも
追求は絶対に必要です。
但し、
追求の果てで楽という欲に溺れてしまい
思考を停止させ、
行動を起こさなくなるのは問題です。
これを「怠惰」と呼びます。
怠惰は、
楽と便利と思考停止が組み合わさると
誰でも陥る罠みたいなものです。
「動けるのに行動を起こさない」
「考えれば分かるのに考えずに終える」
「考えそのものを他へ依存する」
こうなってしまうと、
自分の意思というのは形骸化され
目には写るけども
そこには視えぬ誰かしらの存在に、
飼い慣らされ飼い殺されるままの
畜生と言い切れる状態となります。
アイデンティティーなど
無くなってしまうという意味です。
この状態から抜け出すのは
容易な物ではありません。
抜け出す方法はありますが、
その行程に自身が追い付かないとか
「怠惰の依存や誘惑」から
意識を外すのが非常に苦しみを
伴うものだからです。
怠惰という罠に溺れてしまった意識は
世間という広大な快楽のマトリクスに
リンクしている訳ですから、
それを引き離す。
つまり、
「多から個」へと改めて移行させる。
けれど、
ここでは自身の意思
とりわけ「取り戻したい」という
強固な意識が必要になってきます。
例えるなら、
強烈な渦潮の中を漂流している人が
自らその渦より出ようとする力と
その渦から引き揚げようとする人の力が
合致しないと抜け出せない。
と、いった感じなのです。
普段より思い遣りを軽視して
怠惰に溺れて自分本位で動く事が
如何に後々に響いてくるか、
そして、
その鳴韻は自身のみならず
自身の周りにも波及します。
動けるのに動かずに怠惰へ堕ちるのは
想像している以上に
由々しい結末を齎しますからね。
怠惰の罠なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
生きているとどうしても疲れますし
辛い事も苦しい事もあります。
例えば、そんな時に
「楽をしたい」
と、思うのか、それとも
「息抜きをしよう」
と、思うのか
どちらを思うのかで
その後は大きく変わってきます。
楽をしたいというのは、
「やらずに済ませたい」
「やりたくない」
「やらずして何かを得たい」
という考え方を指し示しますね。
対して、息抜きをするというのは、
「一旦休憩をしよう」です。
つまり、
行動をしている事が前提となる考え方です。
この様に、似た様な意味合いを持つ言葉でも
中身は全く違います。
言葉には言霊が宿る事は周知の事実ですが、
言霊というのは、
言葉を声に発するのが条件で
発動するものではありません。
自身の中で声に出さずして考えていても
その効力は発現します。
ですから、
いくら自分だけで居たとしても
例え声を発しなかったとしても
その後の貴方の行動に対して
言霊は発動するものですから、
大切となってきます。
似た様な選定の例として、
年齢に関わる言葉があります。
「歳を取る」と「歳を重ねる」
どちらも意味合いとしては同じですが、
受け取る際の心情に変化が産まれます。
あにきは後者を好んで使います。
何故かと言うと、
歳という避け様のない事象を
経験というものへ置き換えて考えた時に
「一年一年の積み重ねが
自身の経験値の積み重ね」
と、取る事が出来るからです。
それはとてもポジティブな
気持ちになれますし、
亡くなった後も善い所へ行けば
まだまだ引き続き経験を重ねます。
その事実を鑑みた際に、
人が生きるというのは、
「終わりなき進化」だと思えるからです。
逆に、歳を取るですと、
現世が全てという感じに思えますし、
生きる理とは幾分かけ離れた言葉だと
あにきは考えるからです。
生きてる時も人として成長して
死後向こうの世界でも成長を続けます。
歳を取るという言葉は
そんな理に反する聴こえですし、
現世への過分な執着心すら覚えます。
実際に使うとネガティブがベースの
気持ちになりがちです。
現にそうやって使う言葉ですものね。
この様に言霊は、
いとも簡単に発動するものですから、
繊細な話の場合は
「出来るだけ前向きな言葉を選ぶ」
と、いった工夫をする事が
運気UPにも繋がるんですよ。
但し、かと言って普段から過剰なまでに
言葉選びに注力し過ぎるのは、
全くの逆効果となってしまって、
気が付いたら
貧乏神となってしまう危険性も
かなり大きいですから
注意して下さいね。
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は無償の愛についてです。
人が人として育むべき愛情の
最終的な到達点が無償の愛です。
金も物も剰え気持ちも
見返りを一切求めずに愛情を注ぎ続ける
想いの最終進化形。
これだけを聞くと、自分一人が頑張ってて
すごく虚しいものだと
考えてしまいがちですが、
それは余りにも自分の方に意識が
向きすぎているし、思慮が足りません。
思い出してほしいのは、
あなたは一人ではないということ。
類は友を呼ぶという言葉が好きなわりに
こういう話に及ぶと直ぐ一人だと誤認する。
見返りを求めない愛情を注いで、
それと同様の想いを持っている人を
呼び寄せればいいでしょ?
無償の愛を共有できる人なんて
一生涯でも極少人数にしか出会えないけど、
例えそれが自分以外に一人だったとしても、
出会えたならそれはとても素晴らしい事で、
最高にして最強の徳の一つなんですよ!
要はめちゃ幸せな事!!って意味ね。
その過程の中で、人の持っている様々な顔
つまり本性を視る事になる。
それは自分の本性を知る事でもある。
そこで絶望をするのではなく、
あくまでも反じて省みる努力をする。
それはとても大変な事ではあるけれど、
そんな努力の一つもしないで
得られるほど簡単な訳ないでしょう?
どんな事でも素敵な事を得るには
それに見合った努力というものが必須となる。
何も思考せずにただ日常を生きる。
目の前にある容易く軽い愛情にぶら下がる。
そんな生き方じゃ一生涯を掛けても
得られない得る事の出来ない愛情のカテゴリが
無償の愛なんです。
誰しもが得られる権利を
生まれながらにして持っているのに
自らのエゴでいとも簡単にその権利を
手放してしまう想いの形、それが無償の愛。
そして、自分が手放すという事は、
自分が向けるべき愛情によって救われる人や
自分に向けられていた無償の愛を放棄する
早い話が他者の幸せに答えない(裏切り)
という事でもある。
だからこそ、生きとし生ける者にとって
徳を積む=幸せを得る事に区別はないのです。
どうして俗欲的な生き方や思考、
人を裏切ったり辱めることが
向こうの世界の理では罪となるのかは、
この愛情という面を深堀する事でも
人によっては理解が出来るはずです。
人は独りじゃないからね。
与えるだけじゃない
受けるだけでもない
その両方を余すところなく発揮して
後に、「あぁこれか!...」
と、言葉にならない感覚で理解できるのが
無償の愛。
おそらくだけれども、
とても身近にある悟りの一つなのだと
あにきは考えています。