今回は動き方について
お話をしたいと思います。
想いや思い遣りというのは
自分のみで確認ができる代物ではありません。
何故かと云うと、
相手が存在する事と
相手へ向けてのものだという事と、
相手共感して初めて成り立つものだからです。
また、「想い」は相手の受取り方次第で
どうとでもその内容が変わってしまいます。
自身が善しとする事であったとしても
それは貴方自身にとっての事であって
相手も同じとは限らないからですね。
この点をしっかり理解をすると
無闇矢鱈と「想いを...」などと云う台詞を
吐く様な真似はしませんし、
口にする事自体を忘れます。
例えば、
教える側の存在が
純粋に教える事を目的として
「想い」という台詞を言う場合はあります。
言わないと分かりませんからね。
それともう一つは、
お互いがお互いの想いを理解し合っていて、
その価値観を高度に共感している場合です。
これらの事例以外で口にしている場合は
基本的に想いというのを
理解していないから発しているか、
それっぽい言葉を吐き出して
何か不埒な事を画策しているか、
このどちらかとなります。
なので、
人を視る時の一つの指標となるのですね。
想いで相手に接して、それを想いとして
受け止めてもらえた場合の行為のことを
「思い遣り」と、云います。
同じ事をしても相手が想いとして
受取らなかった若しくは
受け止められなかった時は、
思い遣りとしては不成立となります。
下手をすると念に変わります。
例に出すと、
「余計なお世話」というのが分かり易いですね。
そのくらい、本来のスピリチュアルでは
思い遣りと云うのはハードルが高い代物です。
意図的に確立させようとして
出来る様なものではないという事なのですね。
それを理解した上で、
決して蓄縮せずに積極的に自身から
行動する事が出来るか否かが重要となります。
そこで失敗を恐れてしまい
己の中の完璧主義を壊す事が出来ないでいると
思い遣りどころか想いを喪失して
全ては「念」へと帰依するようになります。
その成れの果てが「貧乏神」という事になります。
これを防止する為、日頃から
「何のためなのか」「誰のためなのか」を意識して
行動する事が大切になってくるのです。
内側へと向き過ぎると
念が増していき
想いを渇望するので
「想い」
という台詞を
多用するんやで


