2022年11月24日木曜日

どうして俗的な物事ではないの?(気付きシリーズ)

皆さんこんばんは、あにきです^^

さて、前回の終わりに
小さい幸せも大きい幸せも
どうして俗的な物事ではないのか?

というのを投げかけたので、
続きを書いていこうかと思います。




そもそもが、ここで書いている幸せとは
この世の基準での話ではなくて
向こうの世界の理を基準としています。

向こうの世界の理というのは、
基本的に気持ち、想い、念、思念、
どれらも同じ意味ですが、これがベースとなり
そこに喜怒哀楽の感情が加わります。

つまり、すごく簡単に言うと、
気持ちを中心に分かり合える社会を
構築しているのが、向こうの世界。




んで、そこを完璧なものとさせるためには、
苦境の中での気持ちの変遷を経験して、
そこから気持ちの繋がりを覚えていかないと
ダメなんですね。

その苦境の中っていうのが、この世のこと。
何が苦境かというと、
単純に肉体があるってことです。




(色々と端折りますが...)
肉の身体があるが故に、俗的な思考や
価値観が生み出されていく。
その中で気持ちも当然に変化していく。

気持ちよりも物的なもの。
見えない物よりも物質的なもの。
本来あるべき流れと優先させるべき事が、
肉の身体と俗的な物事によって染まった
自我によって盲目になっていく。




(超簡易的説明だけど)これが苦境の概念で、

そこから如何に気持ちという点に
結びつけていくか?気付けるようになるか?
自我に打ち勝つ事が出来るか?
思い遣る心を持つことが出来るか?
何を学んで、何を得られるか?

というのを、意識せずとも
個々人が一生懸命にやってる訳です。




だからこそ、しあわせという概念も
気持ちがベースとなるのだから、
俗的な物事たり得ない訳なんです。

にも関わらず、俗的な物事を望んで
そこに一時の幸福感を得ようとするのは、
向こうの世界の基準からすれば
ナンセンス以外の何物でもないし、
無意味で無価値なことなんですね。

なので、俗的な物事でのご利益を望んでも
小さい幸せに気付くことなんか出来ないし、
その先にある大きい幸せになんて、
気付けなくて当然って意味なんですね。

では、実際に何をしていけば良いの?
って話になるんですけども、
これはまた次で...