今回は考え方について
お話をしたいと思います。
現世の中での私達には
「想いを基軸とする業」が
重要なものとなる旨の話を
事ある毎にお話をしていますが、
「想い」というものは、
そこに含まれる「愛の理解度」によって
この意味合いに
変化が生じる場合があります。
自分の中では「想い」だと
言い聞かせていたとしても
それがあくまで己の内で
完結している内容の場合、
ここに発生する愛の理解度は
低いものとなります。
理由としては、
相手との繋がりが希薄となるからです。
自身では想いとしている感情でも
一方的である以上は
そこでの愛とは相手に絡んだものではなく
単に己を納得させる為だけの言い訳に
過ぎないからです。
心や身体の痛みを知って
それを乗り越えたり
または、その努力をせずに
自身の中だけで完結させている
「完結させようとしている」
感情や感覚というのは
想いという相互作用の産物ではなくて
「自己満足」や「自己肯定」と言った
一元的指向性の強いものとなります。
つまり、
想いと感じているものが
実は「念」であったり、
もしくは、
少しの加減で「念」へと変異する
と、いう現象が発生します。
これらは、
嫉妬や承認欲求や支配欲などの
「俗欲」として表されます。
想いとは
「相まる心」と書きます。
相手と心を通わせている。
心を通わせる努力をしている。
そこで初めて生まれるのが
「想い」なのです。
前段にて記載をしていた内容ですと
「己のみの心」となります。
こうなりますと、
相手ではなく己に重なる心となるので、
「忌」となります。
相手の事はそっちのけで、
自身の方だけに目を向けていて
勝手な解釈をしている訳ですから
それは忌まわしい事象へと
繋がって当然ですし、
まさに「念」たるものと言えるのです。
こういう部分を
理解してないと
念想の天秤で
エライ目に
あうんやで