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2026年8月30日日曜日

邪魔を愉しめ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




毎日を一生懸命に頑張る。
どんな人であっても
何処までいってもこれは変わりません。

但し、
皆が皆そうしているとは言っていません。
やっている人はやっている
と、いうだけの話です。

何もせずに
単調な暮らしをしているだけの人も居れば、
頑張っているフリをしている人も居るし。

頑張るという気概を
燃えるゴミの日に出してしまった様な
人だって居ます。

ここを読んでいる人は
頑張る事がデフォルトだと思いますから、
そこに注力して話します。

頑張っていると、
どうしても無理をしがちです。

頑張り過ぎ
やり過ぎ
抱えすぎ
焦り過ぎ

言い方や内容はどうであれ、
真剣勝負を挑み続けてしまうからこそ
無理をしてしまう。




しかし、
ここで問題点が生じてくるのです。

何かと云うと、
「甘んじる」という点。

頑張る事が出来てしまう反面、
休みや落ち着く期間が長いと
気を抜いてしまったり

同じ動きで楽をしてしまうと
頑張る事を忘れがちになってしまう。

そして、その後に自己嫌悪へ陥るので、
脱却を図るために
またしても無理をしてしまう。

このスパイラルに嵌っている人は
そこそこ多いと思います。

頑張っているからこそのジレンマ。
無理をするが故の落日。

このままではいけないと思っていても、
何かしらの策を考えてみても
やはり同じ道程を踏んでしまうのは、

あるものが足りていないからなのですね。
それは

「ゲーム性」
「限界突破」

この2点です。




邪魔を好むというのは、考え方です。
おそらくですが、
誰しもが邪魔を嫌います。
遮られるのって嫌ですものね。

けれど、人って面白いもので
邪魔が無いと怠けますし、
ヤル気が無くなってしまうんです。

マリオを思い出して下さい。
あれって邪魔しかないでしょ。
キノコやカメが突っ込んでくるし、
火まで飛んでくれば足場も崩れます。

現実で置き換えたらそれはもう酷いです。
あのヒゲオヤジは相当に頑張ってますよね。

もし、あれで邪魔が何も無かったら
どうでしょうかね。
何も面白くないですよね。クソゲーです。

邪魔は嫌だけども、敢えてそこを愉しむ。
「かかってきなさい」という気概で挑む。

限界突破というのは、
「意図して臨む無理」というやつです。

自身の持っている全てを使って無理をする。
そして、限界を超える。
無理をしない事を続けていると
楽勝過ぎてつまんないんですよ。

自分の力がどんなもんなのかと
試してみたくなるでしょ。

そこで、普段はやらない事なのだけど
目標を明確に定めてこれでもかと無理をする。

当然に疲れますが、
成功しようが失敗しようが
自身のボーダーラインを知る事が出来ます。

より一層強くなったと実感も出来れば
なにくそ魂でまた頑張る事も出来る。

ご自身の生活に置き換えてみると
至らない面や悩んでいる点で
往々にしてこれらが足りていないと
肌身で分かる筈ですよ。

怠け癖や
楽したい願望は
誰にだってあるし
消す事は出来ない
どうせやるなら
愉しみながら
やりたいやんか

2026年8月26日水曜日

震えてもいいから立ち向かえ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




誰のために
  何のために

普段から何度となくお話をしている
行動をする時の意識の置き場ですが、

分かってはいても自分の弱さや
駄目な自分が邪魔をしてしまって
上手く活用出来なかったりします。

例えば、
子供のためにも喧嘩をしないと
いけない場面なのに、

怖いと思ってしまったが故に
ハッキリとモノを言う事が出来なかったり。

波風を立てたくないと
思ってしまったが故に、
云うべき事実を言わずに終えてしまったり。

理想は全然違う筈なのに、
自分でも動き方が間違っていると
分かっているのに

自分の弱さや駄目な自分に
負けてしまって捻じ曲げてしまう。

そういう時に都合よく、
「逃げる事も大事」
みたいな言葉に救いを求めてしまう。

その結果、後々に訪れるのは
自己憐憫と自己嫌悪です。

貴方の事を何とも思っていない人や
他人事としか考えていない人は

上辺っ面の内容だけを示して

「逃げの一手」
「希望的逃避」

を、必ず勧めてきます。
そんなの仕方ないよ的な言い方で
話自体を理解したフリをしてみたり、

何も出来なかった事を差し置いて
「なんだって言うのよねぇ」みたいに、
相手の悪口を代弁してみたりするのです。




それらは誰のための動きですか。
何のための動きですか。

自分が本当に守りたかった相手に対して
胸を張って言える事ですか。

守りたかった相手に対して
泥を塗ったり突き飛ばしてるのと
同じではないですか。

大切な人を本気で護りたいのであれば、
仮に恐いなとか、嫌だなと思っても

自分の身勝手な心情を優先させずに
ぶつかる事や喧嘩する事も必要なんです。

端から見たらそれが非常識に映ったとしても
それで大切な存在を護る事が出来るのならば
別に構わないじゃないですか。

こういった精神を「義」と云います。

これに信用や信頼が入ると「信義」となり、
忠を尽くす心が入ると「忠義」となり、
理が合わさると「義理」となります。

そして、
相手のために義を尽くすことを
「奉仕の精神」と云うのです。

誰でもいいですが
大切な存在を護りたい、
護り抜きたいのであれば

口先だけの無粋な言動ではなく
自身の意志に属した堂々たる行動を以て
恥じぬ背中を視せるべきなのです。

見て見ぬ振りをせず
勇を用いて動きへ変える。

ひれ伏す前に藻掻き抗うことが出来るのも
自分自身の意志ですからね。

見て見ぬ振りをして
後出しする奴には
後出しで返せばいい
常識が通用するのは
常識を崩さずに
正攻法で挑んでくる
相手だけなんやで

2026年8月22日土曜日

護力(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




もう夏も終盤に差し掛かっていますが、
風物詩として肝試しなんかがありますね。

今で言うところの心霊スポット巡り

この心霊スポットっていうのは
なかなかに俗物的だなぁと
思わせてくれる代物です。

何かしらの曰く因縁のある場所を
心霊スポットと称して
わーきゃーする。

まぁ、好き好きなので
ご自由にとずっと昔から思っています。

大抵の場合、
心霊スポットと呼ばれている場所は
だからなんだの状態となっています。

不良の巣窟となっている事が多いので
そういう危険さの方が強いです。

僕自身、この心霊スポットという呼び名や
そういったランドマークを作ること自体が
どうしても好きにはなれません。

何故かと云うと、
態々そんな廃墟とかをスポット化せずとも
おっかない場所なんて五万とあるし、

そもそも因縁がある場所なんて
皆さん一人一人の徒歩圏内に
数か所はありますからね。




そういう場所には目もくれずに
見た目の恐さや忌避感のみで
ある場所にピントを合わせたところで

それはあくまでも表面上での話。
そこには誰かしらの生活や思い出があって
優しい話とかも沢山存在するんです。

にも関わらず、面白おかしく
自分達の欲のままにスポットとするのは
どうにも人の心が通っていなくて
嫌なのですよね。

どうせなら、そういう場所を
勝手に綺麗にする方が面白い。

綺麗にと言っても物理的な美しさではなくて
幽体的、霊体的に綺麗にしてしまう。

因縁のある場所ですとか、
ガチで悪霊が溜まりやすい場所とか、
そういった場所は結構あります。

そんな場所に勝手に行って
勝手に浄化をさせちまえばいい。
常々、僕がやっている事です。

どうせなら住み易かったり
何だか問題が減ったり
知らずと運気が上がったりした方が善きでしょ。

能力ってのはね、
そういう風に使うんです。

力ある者ならば
一緒になって
恐怖を誘発させたり
するんじゃなくて
光あれ幸あれの方へ
使うべきなんやで

2026年8月20日木曜日

光の柱(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




お化けや生霊に憑依されてしまったり
家に居座られてしまったり、
呪いやら恨みやら食らってしまったり

視えざる者や念絡みの話というのが
世の中には色々ありますね。

ですが、世の中に溢れている
この手の話の殆どは人の霊です。

正直言って、たかが知れています。
云っても人ですからね。

そして、
オカルト好きなら一度は聞いた事のある

「私には手に負えない」

という霊能者やそれらを気取った輩の言う台詞。
何を言っているのかと本気で呆れてしまいます。

その程度の相手に相対出来ない奴らが
何でもない時は神や仏を慕って
さも、自分がその力を得ているかの如き事を宣い
偉そうにしているんですね。

神や仏の力を持っているなら
対処出来るでしょ。
やれやれ...といった感じです。




そもそもたかが心霊スポットみたいな
「お遊戯場」でビビっている人が殆どですし。

動物霊や自然霊を認識する事すらも
出来ない連中が大半を占めていて、
そんな下郎が神や仏の名や力を語るなど
笑止千万といったところです。

神や仏を慕いたいなら、
まずは動物霊とお話出来ないとね。

その次に、
自然霊の信頼を得ないといけないのだけど

これには「霊格」という

非常に大きなハードルがあります。
これは個人の努力でどうこうなる様な
代物ではないのでほぼ無理だと思った方がいい。

自然霊の信を得るたった一つの方法としては、
霊格の適している存在を介して
自然霊と触れ得る事です。

これは実際に経験をしたことがある人であれば
どんな感じで、どんなものなのかが
肌身で分かると思います。あの感じですね。

最後に、本気で神や仏を慕いたいなら
一つ大切なことがあります。

(かみほとけ)
あいつらと本気で喧嘩することです。

そんな事出来る訳ないと思うでしょ。
世の中にはね、出来る人っているんですよ。
実際に証拠まで見せているくらいだし。

けれども、それが出来る人は極一部の
限られた条件下の人のみです。

ですからね、神さん仏さんに対して皆さんは
真摯にご挨拶をする程度が丁度良いんですよ。

大事なことやけど
神さんも仏さんも
何かを叶えてくれる様な
存在ちゃうかんね
もっと身近で
暖かい存在なんや
折が合えばの話やけどな

2026年8月17日月曜日

熱冷なる抑揚(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




愉しみを得ることの難しさは
言わずもがなな事ですが、

とは言え、
この難しさというものが
単なる「困難」だと思慮するのは
些か稚拙な話となります。

愉しみを得る上で一番の困難は

「相手のためを思考する」

必要があるからです。

例え、
その場に居るのが自分一人だとしても
常に相手つまり「自分以外の存在」を

感じ取っていなければならない。
それを忘れてはいけない。

この感覚と思考の使いようと云うのが
困難とさせている部分です。

しかし、
相手を想うというのは
本来のスピリチュアルに於ける
基本的思考でもありますから、
愉しみを得るのは誰にでも可能な事なのですね。




基本的思考にも関わらず
難しくさせている要因の一つとして

「自分本位」というのがあります。

ここでの自分本位とは
単純なわがまま等ではなく
自我・エゴと呼ぶ様な性格や自己認識

アイデンティティーとなる部分の事を
意味しています。

誰にでも好きなものや
嫌なものくらいありますね。
それを主張する事もありますね。

自分の中の得手不得手や好みというのは
色々なものから成り立っています。
性格然り、経験然り、環境然り、時代然り。

この自分を構成する些細な一部分を
何の気無しに主義主張する事で
「自分」というのは成り立っているのです。

その自分自身が愉しみを得るのを阻害する。
但し、それは自己の主張に
「溺れてしまったら」という話です。

逆に「流されてしまっても」アウトとなる。

自分自身を維持しつつ、主張はすれども
相手のためにバランスを整えた時に

「愉しみ」は得られるのです。

それを私達は自然とやってのけているのですね。
改めて考えてみると
何とも不思議な感じですよね。

そして、その得るための過程で
最も重要な触媒となるのが「努力」です。

これを欠いてしまうと、
どの道愉しみは得られません。
独りよがりとなって自分本位に溺れるか
周囲に流されて自身を失います。

自分というものを
しっかりと持って
徒に流されず
無理に押し付けず
相手との連動を
一番に考え動くのが
愉しみなんやで

2026年8月16日日曜日

無碍の残り香(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




何かしらの動きを行う際、
特に何も感じていなくても
動けている様に思えます。

確かにその通りで、
無意識だろうと何だろうと
動くことに関しては問題がありません。

けれども、
もう一歩を踏み出す時や
確実な結果を残したい時というのは

感情の大きさがモノを言う様になります。

一人で頑張っている時でも
相手が居て愉しんでいる時でも、

どうでもいい事ではない
動きをしている時は、
感情を入れたり表現をすることが

もう一歩の伸びを生むのですね。




目的がどこにあるのかでも変わります。
例えば、相手が居る場合ですと

自身の目的と相手の目的が
相違している状態では

感情の介在が発生しないと
思う様な結果には結び付き難いです。

ですが、相違状態だとしても
感情を表面的にでも介在させると
同一の目的の時と比べたら劣りますが

類似した結果を生む事が可能となります。

どこか今一つな結果となる場合は
感情の有無や感情の出し方、

表現の仕方を考えてみると
改善に繋がる可能性が高くなります。

また、意図して感情を込められないのに
無理に仮の感情を込めてしまった場合は、
その反動が自身にも相手にも必ず発生します。

自身も相手も分かり切った上だとしても
そうでないケースだったとしても
反動は大きく出てしまいます。

反動を小さくさせるには
相手への理解を高めていくか
超長期でのケアに努めるかの二点のみです。

その際に自身の自分本位を
露骨に出してしまった場合は
受取る念が倍加してしまうので

反動以上の思わぬ結果となってしまいます。

霊格の高さも
この時に
大きく関わります
相手が居れば
殊更関わります
油断するとえらい目に
あうんやで

2026年8月12日水曜日

神律の衣(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




想いというのを相手に届ける際、
もれなく念も付いてきます。

以前より想いと念は
表裏一体だとお話をしています。
想念は常に同じ位置、
同じ場所に存在をするものなのです。

例えば、
大切に考えるという「想い」も
度が過ぎれば「独占欲」という念です。

お手伝いをしてあげるという想いは
やり過ぎてしまえば
「支配欲」という念です。

こういった感じで、
同じ個所に存在するのが想念なのです。

想いを純粋無垢に届けるというのは、
実のところ非常に至難の業となります。

そこには人の意思の介在や
感情の流入が発生する事になるからです。

念を全く混入させずに想いを届ける
想いを受け取るというのは、
この現世に於いては不可能な業です。

それを両極端で成す事が出来るのが、
浄土と地獄という霊界です。




現世というのは、
霊界で学びきれない事を学ぶ場でもあり
得た経験を霊界へフィードバックさせる
そういった場でもあります。

なので、とある存在の意図が
強く反映されているために、
こういった想念の吸着が起こる訳です。

引き起こされていると言っても
過言ではありません。

とある存在と云うのは何者ぞ。
と、いう事になるのですが、
人ではないのは確かです。

もっと超越的な存在で創造した存在。

彼、彼等は霊界に於いても
浄土や地獄、獄界や天界など
人の及び至る事の出来る様な
空間、領域には在していません。

その遥か遠方で間近でもある場に在しています。

人の身で彼、彼等の空間に及ぶ事も無いです。
というか、そもそも行く事が出来ません。
認知する事自体が難しいです。

ただ、存在を肌で感じる事は誰でも可能です。
それを彼、彼等だと理解する事が
出来る存在は限られています。

霊格の高さが関係してきますからね。
死んだだけでは分からないというやつです。

偶にはこういう話も良いですよね。

単純な思考では
決して理解し得ない
肉体的思考ではなく
幽体的観点や
霊体的視野でないと
向こうの世界は
視ても分からんもんやで

2026年8月9日日曜日

見極めと状況把握は適確に(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




お盆休みが始まりました。

「さぁ連休だ」と
ウキウキの方も居れば
お構いなしにお仕事の方も居ますね。

世間的に長期休業などの期間というのは、
空気感が普段のそれと比べると
大きく様変わりします。

同時に、
高揚感か倦怠感かは別として
多かれ少なかれ
私達個々人の気分や心持ちも変化します。

ここで気を付けないといけないのが

「意識の方向」
「影響力」

この二点です。

普段以上にこのポイントについて
気を付けていないと
あっという間に流されてしまいます。

何に流されるのかと云うと、
「自分自身」or「自分を囲む周囲」です。

愉しかったり浮かれたりしていると
その気分が自分自身を支配します。

これが「内側の影響力」です。

他者からではなく、自身の高揚感などが
発生元となる影響力で
当然に自身発で
周囲に影響を与える力なのですが、

ここで意識の方向が内側へ向き過ぎていると、
本来であれば
周囲に与える筈の影響力が
内側のベクトルに変化してしまい、

自身の中で蓄積する様になります。

その結果何が起きるのかと云うと
「思考的視野狭窄」です。




冷静さを欠いてしまうので、
所謂、「視ている様で視ていない」や
「瞬発力のある判断が出来ない」等の
怠惰な行動が増していきます。

この時に本人には自覚がありませんから、
集中力の欠如やケアレスミスが多発します。

ヒヤリハット的な
単なるミスで済めばいいですが、
日常に落とし込むとそうもいかなくて

交通違反や怪我、業務上でのミスなど
手痛い失敗が起こり得ます。

逆に、
つまらないとか愉しくないなどの
気分の場合でも自分自身を支配します。

その場合、
意識の方向が外側へ向き過ぎていると
もらい事故的な物事が起きたり、
嫌な存在に纏わり付かれたりなど、

周囲の面倒事や念を基軸とした存在を
自ら呼び寄せて影響を受けてしまいます。

ここでの注意点としては、
正しい業を行っている人ほど
この状況になり易いという点です。




愉しく浮かれている時というのは
意識の方向が自然と外側へ働きます。
なので、冷静さを得る為にはその逆側の
内側へ意識の方向をシフトします。

つまらなかったり無力的な時というのは
意識の方向が自然と内側へ働きます。
ですから、冷静さを得る為にはその逆側の
外側へと意識の方向をシフトさせます。

先述した状態を見て頂くと分かるのですが、
動き方としては正しい動きをしているのです。

では、何がいけないのかという点ですが、
内側だろうと外側だろうと

「向き過ぎてしまう」

と、いうのが問題なのですね。
何故向き過ぎるのか。
ここで出てくるのが周囲からの影響力です。

自身の影響力に周囲の影響力がプラスされます。
更に、
大衆イベント的な環境が重なる訳ですから
周囲の影響力が普段よりも強くなります。

ですので、
普段から正しい業をされている方の場合、
平常通りの状態ですと
それだけで影響力が過加算となるのですね。

結果、「向き過ぎる」という状態に陥ります。

いつも通りの事をやるにしても
周囲の状況を見定めて加減をする。
こう云った状況把握をする事も
本来のスピリチュアルでは教えていますね。

いつも同じなどという事は有り得ない
というのを今一度胸に叩き込まないと、
つまらない結果を
自身で招く事になりかねませんよ。

普段から
業が出来ているのは
大いに結構ですが
状況把握が
伴わないと
簡単にダメージを
喰らってしまうんやで

2026年8月6日木曜日

自分のペース(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




世の中は常に忙しなく動いています。
特に何をと気にしなければ

そのペースに突き動かされたり
合わせてしまったりするものです。

世間が便利になればなるほど
そのスピードは増すばかりで、

自身の考えを介入させるよりも
周りの意見の方を優先させてしまう様な
悲哀な動きに満ち始めています。

自分の考えがあるから
動きへの正当性が生まれます。

他人の意思や考えに合わせて
自身を動かすことも出来ますが、
そこに意義が生じる事はありません。

所詮は駒の一つです。

自分で考えて自分で動く
言われたから動くのではなくて
自身の動機で地に足を付けて動く。

そこにはペースが生まれます。
誰かに操作をされたスピードではなくて
自分で創ったペースの事です。




生きている以上、少なからず
周囲に合わせる必要性は発生しますので、
他人のペースに合わせるのが
全て駄目だとは言いいませんが、

自己意思を介在させずに
と、いう話であるならば
無理に合わせるのは論外です。

如何に自身のペースを維持させるか。
自己意思に則った上で、

「何のため」「誰のため」を、

実行する事が出来るかが鍵となります。
自分のペースというのは、
何時如何なる場合でも
大切なものとなります。

自分の状況、状態、環境によって、
それは大きく変わってきます。

当たり前の話に聴こえると思いますが、
その当たり前に甘えてしまっていると

自分のペースに対する認識というのが
どこかへ行ってしまって気が付いた時には
周りに流されてしまうのです。

人より遅くても良いです。
以前よりも捗らなくても良いんです。

「今の自分のペースを最善と捉えて動く」

それを前提として考え方も構築させる。

思い出は優しいから以前の通りに
出来ると考えたくなりますが、
今の自分のペースを保持する事の方が

本当に優しい答えですからね。

病気、年齢、怪我
自分自身じゃなく
ご家族などに
何かある場合も
同じ事が起きる
自分のペースは
結構変わるものやで

2026年8月4日火曜日

貰い与える不偏の原理(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




毎日何かしらのストレスを抱えて
暮らしていますよね。

だからこそ、様々な形で癒しを求めて
それを愉しみにされていると思います。

人と会ったり
美味しいものを食べに行ったり
身体を動かしたり

単に横になる人も居れば、
ショッピングで発散や
自然に囲まれて...なんかもありますね。

癒しはとても大切です。
疲れたままではいずれ身体を壊しますから。

そういった中で
何かを求めて動くのが常となっていますが、
忘れてはいけない事が一つあります。

それは、
自分は与えられる側だけでなく

同時に「与える側でもある」

と、いう点です。
癒しだろうとストレスだろうと
この点だけは変わらないのですね。

どうしても人は
戴く側の思考に偏りがちです。
しかし、物事や事象というのは
常に表裏一体です。

貰う事があるならば
そこには与える事も発生します。

ストレスを受けて苦しいと考えますね、
そんな貴方は
誰にもストレスを与えていないですか。

癒されて幸せと感じているだけで
貴方は誰にも癒しを与えていないのですか。

相手が人であろうと違う存在であろうと
ここの原理だけは変わらない。
それがこの現世なのです。




例えば、

貴方が自然に対して癒しを求めている時、
貴方は自然に対して
癒しを与えている側でもあるのです。

環境を大切にしようとかって話ではないです。
それは人の創ったエゴでしかない。

話はもっと単純明快で、
貴方が単にそこに居れば同じ効果を
貴方も与えていますよという話です。

影響力が大きかろうが小さかろうが
癒しは癒しですし、ストレスはストレスです。

自然だろうが人だろうが動物だろうが、
相手がなんであろうとも
物理的物質的な効果以前の
ミクロでマクロなカオスとヒーリング

それらを発生させるのが、
想いと念なのですね。

目先の効果を頼り切るがあまり
その根本の原理を無視してしまう甘え。
想いや念という意識の変遷が
全てを司っているという事実。

それらは人のみではなく
万物に於ける基本的な行動概念なのですね。

その簡便な言い回しを

「想い遣り」

と、云うのですよ。

例えば、パワースポットへ行ったとしてもね
運気を善くさせようという念を
ゴリゴリに抱えているから

運気が劇的に悪化するんですよ。

相手が誰であろうと
想い遣りの原理は
必ず適用されます
それを忘れなければ
率先して動くという
奉仕の精神の重要性も
自然と分かるものやで

2026年8月1日土曜日

努力と限界点(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います




何かの動きをする際に
どんな物事でもそうなのですが、

「限界点」

と、いうのが存在します。

特段難しい話ではないです。
身近な事から壮大な事まで、
何に関してもこの存在するのが限界点。

この限界点を見極める事が
動く時にその結果を大きく変えるのですね。

例えばですが、
善くなりたいと考える誰かが居て、
その人に色々とアドバイスをするとします。

この時に、どうしても人は
「無限の可能性」というのを
視野に入れてしまいます。

無限の可能性自体はとても善い考え方ですし、
それは持っていて善いものなのは確かです。

然しながら、
冷静さというのも必要でして
可能性はあるにはありますが、

無限に可能とは言っていないのですね。
ましてや、必ず可能とも言っていないです。

努力しても何をしても
出来ないレベルというのは往々にして存在します。

そこを見極めて現実的なポイントとして
落し込んであげる最上点が「限界点」。




無限の可能性を動き始める場合の
希望として捉えるならば
それは大いに結構ですが、

自身の言い訳に使ってしまう様な
楽観的な指針とするのであれば
「絶対的な汚点」となります。

誰にでもチャンスはありますが、
誰でも希望通りになれるものではない。

根拠の無き無限の可能性に賭けるのであれば、

「限界点を知り、努力して伸ばす方が建設的」

限界点というのは、その物事や事象、
自身に対する終着点とも読み取れますが、

そこには「時間の作用」も含まれるので、
実は変動するものなのですね。

例えば、
その時には、A地点が限界点だったとしても
時間は掛かれど努力を重ねればB地点が
限界点となる様な事が、大いに発生します。

鍵となるのは「努力」です。

努力と云うのは、目的と目標をセットして
それを時間軸に置いた時に初めて意味を成します。

目的と目標は有っても
時間軸に置かないでいると、
いつまでも進まないですし、限界点は変わりません。

それどころか、取り残されてしまって
目的や目標は執着へと変わり、
やがて自身を滅ぼすものへと変わってしまいます。

1つの職業や資格取得に固執して
ずっと夢見てやっている人とかいるでしょ。

いつまでもダラダラと生産性の無い動きを
続けて良いものではないのですね。

自身に於ける限界点を知り、
そこを伸ばす努力をする。

無限の可能性は動き始めのきっかけであって、
すぐに忘れるべきものなのです。
その代わり、限界点を知り理解して、
乗り越えていこうとする姿勢が大切なのですよ。

無限の可能性という
夢のままにしておいても仕方ないでしょ。
それよりも限界点という現実を知り努力すれば
そこには肉の身を宿した結果が手に入ります。

どっちがいいでしょうかね。

夢と云うロマンでは
生きる事が無理やけど
努力の先にある
限界点ってロマンには
生きる術が
宿るんやで