皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
毎日何かしらのストレスを抱えて
暮らしていますよね。
だからこそ、様々な形で癒しを求めて
それを愉しみにされていると思います。
人と会ったり
美味しいものを食べに行ったり
身体を動かしたり
単に横になる人も居れば、
ショッピングで発散や
自然に囲まれて...なんかもありますね。
癒しはとても大切です。
疲れたままではいずれ身体を壊しますから。
そういった中で
何かを求めて動くのが常となっていますが、
忘れてはいけない事が一つあります。
それは、
自分は与えられる側だけでなく
同時に「与える側でもある」
と、いう点です。
癒しだろうとストレスだろうと
この点だけは変わらないのですね。
どうしても人は
戴く側の思考に偏りがちです。
しかし、物事や事象というのは
常に表裏一体です。
貰う事があるならば
そこには与える事も発生します。
ストレスを受けて苦しいと考えますね、
そんな貴方は
誰にもストレスを与えていないですか。
癒されて幸せと感じているだけで
貴方は誰にも癒しを与えていないのですか。
相手が人であろうと違う存在であろうと
ここの原理だけは変わらない。
それがこの現世なのです。
例えば、
貴方が自然に対して癒しを求めている時、
貴方は自然に対して
癒しを与えている側でもあるのです。
環境を大切にしようとかって話ではないです。
それは人の創ったエゴでしかない。
話はもっと単純明快で、
貴方が単にそこに居れば同じ効果を
貴方も与えていますよという話です。
影響力が大きかろうが小さかろうが
癒しは癒しですし、ストレスはストレスです。
自然だろうが人だろうが動物だろうが、
相手がなんであろうとも
物理的物質的な効果以前の
ミクロでマクロなカオスとヒーリング
それらを発生させるのが、
想いと念なのですね。
目先の効果を頼り切るがあまり
その根本の原理を無視してしまう甘え。
想いや念という意識の変遷が
全てを司っているという事実。
それらは人のみではなく
万物に於ける基本的な行動概念なのですね。
その簡便な言い回しを
「想い遣り」
と、云うのですよ。
例えば、パワースポットへ行ったとしてもね
運気を善くさせようという念を
ゴリゴリに抱えているから
運気が劇的に悪化するんですよ。
相手が誰であろうと
想い遣りの原理は
必ず適用されます
それを忘れなければ
率先して動くという
奉仕の精神の重要性も
自然と分かるものやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
日々の生活に於いて
人との関係性というのは
どの点に至っても発生するものですが、
この中で思慮が出来る人と
出来ない人の違いというのがあり、
どことなく皆さんも
感じているのではないかと思います。
その中でもハタと忘れがちな点として
「立場」というのがあります。
これを考慮する事が出来ているか否かで
結構な違いが発生します。
例えば、
各種教える人は教わる人に対して
自身が得ている知識や経験則などから
物事について教えます。
その最中、教わる人にも
当然に意思というものが存在しますから
「なぜ」「どうして」
の様な疑問点が生まれてきます。
これは須らく正常なことですが、
問題はその後。
教える人からの解説を経て
納得をしたと同時に、
「そうかも知れませんね」
という様な、
未断定の意思表示をしてしまう方を
老若男女問わず散見する事があります。
納得をしていないのであれば
再度疑問を呈すれば良いのですが、
そうではなくて納得済みの上での
未断定という話です。
この台詞は、
教わる人の自信の無さから
表層に出てくる言葉でもありますが、
自身が教わる人であるという
「立場の考慮」が出来てない場合にも
出現する台詞でもあります。
教える人に対する「見下し」や
「非認定」ですね。
早い話が、自身の知識量では
補いきれない筈なのに
教える人と同等の立場だと
誤認識しているという意味合いです。
どんな物事でもそうですが、
「教える」「教わる」
という立場が発生する段階で
同等にはなり得ません。
立場を同等とするのであれば
教える人となった場合もしくは
「教える人に対して教える人」へと
自身が昇華した場合のみとなります。
一見すると、思慮をしているが故の
台詞だと認識してしまう内容ですね。
然しながら、これは真逆の内容で
思慮をしていないからこそ、
発生するのです。
では、どこに対して
思慮をしていないのかと言うと、
意識の方向が
全て内向きとなっているのですね。
簡単に云うと、
教える人に対して意識が向いておらず
自身の中での完結となっている。
という意味です。
詰まるところ、話をよく聴いてないから
別の考えをさも思考だと誤認している状態。
立場を考慮すれば、
意識の方向は自ずと決定します。
教える人が教わる人へと
想いを向けているのですから、
教わる人は教える人へと
想いを向けるのが定石となります。
これが「想いの遣り取り」です。
(相手のために向ける奉仕の精神)
そこのバランスを認識出来ていない段階で
思慮というのは達成しておらず、
自己優位や自己完結の状態と成り下がる。
これを「自分本位」と言います。
(自身の中でのみ纏まる独りよがり)
この様に、各種立場の考慮が出来ない人は
「よく聴いて」「よく考える」という
基本概念を失っていて
想いのバランスを認識出来ないのですから
思慮など到底不可能になる。
という事なのですね。
これは誰でもやりがちな事ですからね。
自分は大丈夫なんて思っていると、
既にやらかしている可能性が高いですよ。
自分の立場を考えて
話をせんと
想像以上に
手痛い竹箆返しを
喰らう事になるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
日頃から何かにつけて
「反省」をされていると思います。
自分を正の螺旋という流れへ
進ませる為にも必要な業ですし、
反省つまり「自戒」の事ですが
これをやらないと
何を正すのかが分からないですからね。
然しながら、
この反省という業ですが、
何を以てして反省なのかを
よく理解しないで使われる事が
多いのも確かです。
最も多いのが
反省という「単語のみの独り歩き」。
例えば、話の中などで出てくる
「私も反省しています...」
「あの人も反省しているのだから...」
みたいなやつですね。
反省という「単語」が
話の中で散見していますから
どことなく「反省している」様に感じますが、
聞く側がこれを真に受けると
確実に失敗します。
話す側にとっても「反省」という
単語のみの使い方をすると手痛い目に遭います。
事、本来のスピリチュアルという立場としての
話をさせて頂きますと、
元来の反省というのは
想いを軸とした「正の螺旋」に於ける業であって
反省に宿るのは「相手のため」という様な
想いに他なりません。
という事は、
もし、反省という「業」を会話の中で
使うのであれば
誰が(who)、何を(what)、
どこで(where)、なぜ(why)、
どれを(which)、どうして(how)、
という様な5W1Hに則して
反じて省みたその内容そのものを
当事者へ「詳細」に伝えなければ、
想いとしての機能は果たせません。
その逆として、
先述した様な「反省」という
「単語の独り歩き」をした場合はどうなるのか。
相手には「念」が伝わり、
相手からも「念」が返ってきます。
実際に、
「反省」をこの様な使い方をする場合は、
その当事者とは全く向き合わずに
「逃げの言葉」として使うパターンが主です。
(話をしたくない)
(そぶりを見せて誤魔化したい)
(自身の意見だけ通したい)
(そもそも面倒臭い)
(自分は悪くない)
こういった思考がメインの時に
使ってしまうのが、
「反省という単語の独り歩き」です。
ね、想いとは程遠い内容でしょ。
もし、本来のスピリチュアルを
理解している人や
理解する努力をされている人が、
会話の中で
反省という単語のみを耳にすると
確実に違和感を覚えます。
強烈な違和感を覚えるので、
その内容を必ず相手に尋ねたり
「詳細は」とか、「詳細を」とか、
何かしら相手さんがこちら側へ伝える為の
促しをしてくれる筈です。
何故かと言うと、
「よく視てよく聴いてよく考える」
と、いう実戦形式での行動原理に沿って
皆さんは動いている訳ですから、
反省というワードはただの「単語」であって
その内容を口にしてもらわないと
意味が無いというのを知っているからです。
その内容にこそ、
想いが詰まっているのだから
それを言葉や文章として伝えてほしいし、
伝えられる様に動いてあげようという
奉仕の精神に基いた動きとなりますから、
上記の様な促しをするのですね。
また、単語のみの使用は
「狡さ」という念を基とした動き
だというのも知っていますから、
確認の意味もあるのですね。
言うなればディフェンスラインです。
態々、率先して
念を受け取る必要はありませんからね。
どこか使い勝手の良い単語なので
安直に利用してしまいがちですが、
運気の維持や安泰安寧を望むのであれば
真摯に向き合って反省の内容を
述べた方が身の為ですからね。
覚えておきましょう。
「反省という業は、逃げの言葉ではない」
日頃の業なんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
善き事を喚び込みたいのであれば
暗く過ごすよりも
明るく過ごした方が
総合的には好結果となります。
ですが、
明るく過ごすというのは
ただ単にニコニコ笑顔で
過ごしていれば良い
と、いう意味ではありません。
それはただの造り笑顔です。
云うほどの効果は出ないと思った方が
善いでしょうね。
明るく過ごすというのは、
自身の感情をちゃんと維持して
会話を熟すという意味です。
単に笑顔を作っていたところで
「会話」を熟さなければ
まるで意味を成しませんし、
会話が無ければ
壁に向かって笑顔を作っているのと
同じ状態です。
「明るさ」は、
相手との惹き合いによって成立する
相対的な産物です。
けれども、自身が率先して
動かないと形とはならない。
相対的ではあるけれども、
初手は一極性という特殊な代物です。
その上、
「笑顔≠明るい」という特徴もあります。
以前に笑顔の種類について
お話をしましたが、
その点を理解し注意しないと
受け手となった場合に
大いに選択肢を誤る事に繋がります。
笑う門には福来るというのは、
ずっと笑顔でいる事ではなく
都度、会話を成り立たせる中で
相手の話を具に聴き取り
自身の感情を以て話し
結果として、
相手を自然体での笑顔にする
そこに発生する幸せを得るという意味。
そして、明るさというのは、
その過程の中で駆使する
感情そのものであって喜怒哀楽を指します。
決して、喜や楽だけでなく
怒や哀も確実に必要なのです。
なので、
「笑顔=明るさ」とはならないのが
本来のスピリチュアルでの実戦訓ですよ。
意味なんて直ぐに
理解出来るもんや
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
神社仏閣やパワースポットへ
出向かれる方が多いと思います。
今までも何度か
ここで投稿をしましたが、
神聖な場というのは
総じて念が強く渦巻いている様な
場合が多いです。
ご利益にあやかりたいという
気持ちが強すぎてしまい、
俗欲の制御が出来ていない。
そこを管轄している神さんや仏さん
自然霊などの霊体の姿を
想像すらもせずに、
自己の願望要望を最優先に捉えて
お願いをしてしまっている。
色々とお願いをしたい気持ちは
理解が出来ますが、
それは
「人の結びしエゴ」であって
神さん達の本質とは違います。
彼等の望みは「想い」であって
「想いの力場」の構築と
「想いの遣り取り」をする事が
全てなんですね。
ですから、
それとは正反対にある
「願い」という俗欲を
剥き出しにしている状態で
相対するとなると、
それ相応のリスクを背負う
覚悟をしないと厳しいです。
普段から想いを軽視しておきながら
都合よくご利益にあやかりたくて
神さん達に手を合わせたとしても、
そこには
念の力場しか発生しませんから
思っている様な効果は
決して生まれないのが現実です。
あやかりは一切棄て去って
挨拶と感謝のみに注力をする。
建物や敷地の絢爛さや荘厳さなどに
惑わされる事無く
単に
神さん達との触れ合いを愉しむ
そうするとね、
人の領域と神さん達の領域の違いが
分かってくるものですよ。
真摯に向き合う事が
重要になって
くるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
今年もぼちぼちお盆です。
うちの地域では新盆なので
もう終わっていますが、
殆どのエリアでは旧盆ですよね。
さて、お盆と言えば
ご先祖さんが帰宅するイベントですが、
これ、
必ず帰ってくる訳ではないのですね。
帰宅しない理由は幾つかあります。
1、ご先祖さんが地獄又は
それに準ずる場所に堕ちている。
2、ご先祖さんが狭間の世界を彷徨っている。
3、遺族に興味がない。
4、遺族がガッツリ念基軸。
概ねこの4つが理由となります。
1と2はご先祖さんがやっちまったパターン。
説明するまでもない感じです。
3は一見するとご先祖さんが酷く見えますが、
何気に結構多いパターンです。
亡くなってから浄土へ行くとね、
現世で生きている時よりも長い時間を
お勉強に費やす訳ですよ。
そんな中で、遺族に対して
いつまでも気持ちは引きずりません。
遺族がしっかりしているならば
安心もしますから尚更ですね。
それにクソ忙しいというのも
実際にはあります。
亡くなって浄土へ行ったからって
楽できる訳ではないのですよ。
で、
問題は4の場合です。
これが帰ってこない理由では一番多いです。
遺族がクソってパターンです。
ちょっと考えてみれば分かりますが、
帰りたくても帰った先の人間が
クズってたら誰だって帰りたくないでしょ。
それはご先祖さんとて同じです。
死んでいても人間ですからね。
それと、結構勘違いされているのが、
ご先祖さんが帰ってくるのは
「家単位ではない」
と、いう事実。
お盆にご先祖さんが帰ってくるのは
あくまでも個人単位が基本です。
家人が全員良好という訳ではないですよね。
想いの遣り取りが出来る人も居れば、
同じ家の中でもガッツリ念基軸のクソも居る。
当然ながら、
ご先祖さんは想いの遣り取りが
普通に出来る人を目指して帰ってきます。
何故ならば、浄土という場所は
「想いを主体とする場所であり」
念想の天秤にて
想いにバランスが向いている人しか
行く事が出来ない場所だからです。
つまり、念基軸の人に対して
面白いほど毛嫌いをします。
そりゃそうなんです。
念基軸の人って地獄に居る人達なんですもの。
ご先祖さんが態々そうなる可能性のある予備軍に
忖度する必要が無いんですよ。
家族の中でも、
○○はおじいちゃんを感じれたけど、
私は全く感じなかった。
みたいな事が起きるのはこれが原因です。
なので、帰ってきてほしければ
己の中身をもう一度確認するのが
何よりも重要になってくるのですね。
たくさん呼べるし
よく視えたり
するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
教える側は
「コンセプトの維持」
「コンテクストの把握と生成」が、
主だった姿勢の堅持となります。
コンセプトは方針で
コンテクストは簡単に言えば相互性ですね。
これらを教える側の姿勢として保持をする
そこに教える側の責任が生じてきます。
その先生によって方針は違いますが、
ここをお客さんや生徒さん等への
忖度などによってブレる様になってしまうと
意味が無い結果となります。
また、コンテクストについても同様で
教える側自身と教わる側との
立ち位置や考え方の把握や
教える側自身を中心とした
新たな相互性の生成を理解していないと
無駄な時間を過ごす様になります。
例えばですが、
教える側と教わる側とは立場が違います。
ここを教わる側とフルフラットで考えると
教える側は自由に動けなくなります。
余計な同情を施してしまったり
強く説明をする事が不可能となっていくからです。
同時に、教わる側の怠慢が始まります。
「どうせ叱られない」とか
「どうせ相手をしてくれる」などですね。
要するに、ナメられてしまう訳です。
これらのエラーが起きない様に
立場はしっかりと教える側を一段高く設けます。
その上で、教わる側に寄り添う姿勢を
設けてあげて教導するのが教える側の責務であり
教わる側との「想いの遣り取り」であり、
確固たる「想いの力場」を生成する事に繋がります。
ここを勘違いして、
平等という俗欲に溺れてしまうと
前述した様な結果にもなりますし、
いずれは自身のコンセプトすら維持が
出来なくなっていきます。
これでは教える側に立っているのに
俗欲に溺れた自分本位となるので
貧乏神という方向へと邁進してしまうのですね。
思い遣りとは程遠い動きをしているのですから
当然の結末を迎えます。
また、教える側と言っても
お金儲けを芯に据えてる人も
これらと同様の動き方をしています。
目的が目的ですから分かり易いのですが、
見せ掛けだけで聴こえの良いコンセプトを
設定するので、
普段より綺麗事に溺れている人等は
あっという間に騙されます。
これらはスピリチュアル業界だけでなく
ありとあらゆる業界業種に該当します。
こういった目線での人の見極めを
常に実戦で使い熟し、
生活や愉しみへと変換するのが
本来のスピリチュアルとなります。
いけない点やで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
どの様な物事に於いても
「教える側」と「教わる側」という
明確な立場の違いが存在します。
どちらの立場にしても
その「姿勢の堅持」というのが
非常に重要となってきます。
教える側としては、
「コンセプトの維持」
「コンテクストの把握と生成」
方針や事象の相互性に関する事が
主だった堅持内容となり
教わる側としては前回記述をしました、
「本気度の濃さ」「素直さ度の高さ」
それに伴う純度の高さや
「理の三原則の把握」等が
主な堅持内容となります。
理の三原則とは、
「信に徹する」「伝に務める」「勇を用いる」
を指します。
互いの立場の中での姿勢の堅持は
想いの遣り取りに繋がります。
ここでの想いの遣り取りとは、
1つの目標の為に前に進んで行く事であり
その双方の想いが「想いの力場」を発生させ
運気を上げる事に一役買う流れへと繋がります。
ここで注意すべきなのが自身の俗欲であり
その最たるものが「自己満足」です。
例えば、教わる側に焦点を当てます。
教わるというのは、とても良い事ですが
その効果を発揮させるのは
「教わった事を使用もしくは使用後」となります。
その手前段階で終えてしまうと
教わるという行為に納得しただけの
自己満足となります。
前回記述した"何かの努力"をする訳でもなければ
教える側の想いにも反する姿勢です。
詰まるところ、
想いではなく自己満足という
「念基軸」での行動となり「念想の齟齬」が
発生する訳ですね。
これは自分本位な思考を以て
相手の想いを無碍にする事ですから
向こうの世界の八罪の一つである
「他への辱め」となります。
と、同時に理の三原則の把握にも
遵じていないという事にも繋がります。
教える側と教わる側は
決してフラットではありません。
そこには明確な立場の差が生じます。
その差を理解した上で、
双方の想いを歩み寄せる相互性が
「姿勢の堅持」です。
そして、立場の無理解と相互性の放棄は
教わる側より発生をします。
何かを教わり前を向いていこう
進んで行こうとするのは
教わる側の目標であり目的です。
にも関わらず、教わった事を使いもせずに
自己満足という俗欲に溺れたり
不努力を棚に上げた身勝手な言い訳をして
その指針すらも自ら放棄する。
姿勢を理解しない人は
運気を上げる事など無理に等しいです。
ここを掌握せずに自分本位を貫いた存在が
貧乏神でありその眷属です。
決して他力本願で
楽して得られる様な
モノではないんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
様々な事を考えながら文章を
日々書き認めています。
内容に関しては一貫しているので
そこはあにきの脳内曝け出し
と、いう感じで良いのですが、
最近思うのは、
遠くの方々が読んでくれてるのだという
「想いの繋がり」
「想いの遣り取り」
に、関する点です。
これはブログですから、
色々な情報がアナリティクスで見れますし
トラッキングしています。
とは言え、ここは
単に副教材として書いているだけです。
トラッキング結果に合わせて
内容を変える等の忖度は一切していませんし
参考にすら使っていません。
ですが、やはり見ていると面白いので
定期的に閲覧をしておりまして。
そこで気になったのが「エリア」で、
本当に色々な地域や市町村の方が
観てくれているんですね。
北海道室蘭市の方、士幌町の方、
青森県三沢市の方、青森市の方、
山形県山形市の方、福島県いわき市の方、
岩手県岩泉町の方、奥州市江刺の方、
群馬県前橋市の方、栃木県小山市の方、
茨城県日立市の方、
東京都千代田区の方、新宿区の方、
新潟県村上市の方、山梨県甲府市の方、
静岡県浜松市の方、愛知県名古屋市の方、
三重県四日市市の方、
兵庫県宍粟市の方、明石市の方、
広島県広島市の方、東広島市の方、
愛媛県宇和島市の方、新居浜市の方、
島根県松江市の方、佐賀県佐賀市の方、
今月のみに絞り込んで書いてみました。
明らかに会った事がある人以外であろう
と、思しき方々に限定しても
これだけの範囲です。
あにきと話した事が無ければ
複雑怪奇な内容過ぎて
読解するのも一苦労だろうに。
特別何かの遣り取りや直接のお話を
行っている訳ではなくても、
「繋がる」
と、いう業は立ち上がる。
「想いの遣り取り」に、関しても
何も直接アクセスする事全てが
遣り取りではないです。
例えば、
今回の投稿を目にして
「自分の事だ」と、喜溢れれば
それは既に想いの遣り取りの渦中です。
こういった感情の共感共有
つまり、「愉しみ」が基本となり
実生活や現実社会の中での心持ちを
豊かにさせて
「決して自分は一人ではない」
と、実感せしめて正の螺旋へと導く事が
本来のスピリチュアルの在り方です。
前々から述べてはおりますけどね、
「愉しむ」のも
「繋がる」のも
「想いの遣り取り」も
何も難しくはないですし
誰でも出来るものなのですよ。
こうして現実に目の当たりにすると
嫌でも分かるものです。
大袈裟に誇張して偉そうに踏ん反り返るのが
スピリチュアルではないです。
誰の傍らにも有って何時でも使えるのが
本来のスピリチュアルですからね。
こうして想いは
共有できるし
意識は具現化
するんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は考え方について
お話をしたいと思います。
自然霊に対する一般的な認識ですと
神様扱いとされていますが、
実際のところは位置付けが
かなり異なります。
俗に言う神様よりももっと身近で
親しい存在が自然霊です。
何せ、狭間を介して現世の中に
身を乗り出しているのですから、
この段階で所謂神仏とは
同じではないです。
ただ、人の作りし世界の中で
人智を越えた存在である事に
変わりはないので、
そういった意味合いでは
神さんと呼んでも遜色ないのも事実です。
そんな自然霊ですが、
彼等は常に現世について学んでいます。
人についてではなくて、
「人を含めた現世」についてです。
一見すると管理する側の様な立ち位置で
考えられてしまいますが、些か異なります。
確かに、自然霊が管理をしている側面も
有るには有りますが、
それはあくまでも現世という領域を
彼等自身の立場に於いて学ぶ渦中の
一環でしかありません。
そして、
彼等が現世について学ぶ中の一つに
「人との繋がり」
と、いうものが存在します。
自然霊とは
一度も人に転生した事の無い霊体です。
そんな彼等が人という歪な存在を学ぶ。
その学ぶ中の一つが「繋がり」です。
如何に想いという要素を用いて
肉体を得て俗欲を纏う存在と繋がれるか。
動物や植物、虫やその他の構成元素では
経験し得なかった本能的でも直感的でもない
複雑な繋がりを肉の身体を持たずして
学んでいく。
それが彼等の目的の一つです。
何故なら、彼等の次の転生は人なのですから。
うちらは
人をやってるんやで
皆さんこんにちは、あにきです^^
今回は動き方について
お話をしたいと思います。
日常の中、個々人単位で
何かを考える時に、
一つの目安となるのが
「数や数値」です。
この時に、選定の基準として
多い方を選んでみたり、
はたまた、自分自身が
多数に向かって邁進してみたりと、
何かにつけて数に翻弄されます。
これが、
「数の魔力」です。
どうしても、「多数は正義」
と、いう風潮がありますので
ある程度は仕方ないのですが、
そこに自身の意識を向けすぎると
俗欲に埋没してしまう結果と
なってしまいます。
かと言って、中身の無い少数へと
何かを委ねなさい
「少数こそが正義」という様な
阿保らしい極論ではないです。
大切なのは、
数に惑わされずに
「本質を見極める」
と、いう点となります。
数での解釈は社会を円滑に進める上で、
とても合理的な手法です。
然しながら、
思考停止を誘う面もあるので
非常に危ういのも事実です。
何でもかんでも多数に頼り過ぎると
物事を検証したり、分析したり、
早い話が
自分なりに思考するという
手間を掛けない様になっていきます。
つまり、完全なる思考停止路線へと
進んでいきますので、
馬鹿になるという事です。
物事や事象の目安としての
多数などは重要となりますが、
本質を見極める思考を失っては
元も子もありません。
これから先の世界は、
ほぼ間違いなく質が重視される方向へと
進んでいきます。
スピリチュアル業界もまた
例外ではなくて、
教える人や導く人のみならず
教わる人や付いてくる人の
「クオリティ」が間違いなく
問われていくと思います。
この時に数の魔力や
俗欲の制御に対する理解度が
低いままであれば、
話し手も受け手も貧乏神化が
進行していき、
過去と同じ結果となって
眉唾から解放されずに終わります。
この哀しき流れを打破出来るのは
想いの遣り取りに目を向けた業
要は、
「クオリティ」のみとなります。
タイミングも
重要やが
広める手法の
本質を理解せな
あかんで