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2025年12月21日日曜日

Nが目覚めた(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




誰にでもの話ですが、

「善い自分」
「駄目な自分」

を持ち合わせています。
これは単純な
長所短所の分類ではなくて

自分の中に存在する

想い基軸を中心とした部分
念基軸を中心とした部分

これらの俗称の様なもので、
切っても切れない関係性のものです。

この善い自分と駄目な自分を
上手く制御する事が
運気の向上と維持には不可欠です。

ですが、人とは面白いもので
善い自分や駄目な自分と
聞いてしまうと、

どうしても善い方を優先的に捉えたり
慮る様な行動を執り始めます。

ここがまた一つの落とし穴なのですね。




どうして善い自分を優先的にするのか。
そこを思慮しないといけません。

善い自分ばかりを
前面に押し出そうとするのは、
駄目な自分を隠したり
自分自身からも見えなくさせるため

と、いう様な
言い換えをする事も出来ます。

そして、そういった時の自分は
果たして想い基軸なのか念基軸なのか。

善い自分を出していたとしても
それを蹶起させた部分は
(駄目な自分を)見せたくないとか
見たくないという「俗欲」なのですね。

という事は、
善い自分を出しているつもりが

念基軸の状態となりますから、
これの中身は駄目な自分に他ならないのです。

善い自分と駄目な自分
想い基軸と念基軸というのは、
常に表裏一体の相互関係にあります。

その上で、どちらにも化けるという
擬態性も持ち合わせています。
物凄くステルス性が高いのですね。




こういった特性があるので、
善い自分ばかりを前面に出していても
良くなどならないし寧ろ、
悪化する理由がここにあるのですね。

重要なのは両方に目を向けること。
善い自分も駄目な自分も
どちらも自分という事を理解する事。

善い自分に偏らせたところで
それは利己的思考に基く動きでであり
念基軸を礎とするものですから、
業にはならないのです。

一方的な御利益を求めて
お参りに行くようなものと同じです。
神さん仏さんはそれら念基軸を無視しますが
悪霊生霊は喜んで寄ってきます。

大切なのは
常に「ニュートラル」であること。

善い自分を押し出すのでもなく
駄目な自分を抑えるのでもない

フラットに視ながら
どちらも制御して動かす。
ニュートラルを意識した動きをすると
自然とこの動きが出来る様になります。

この捉え方が日頃の業に繋がっていくのです。

「Nに目覚めろ」

時には駄目な自分を
意図的に
出してあげる事も
運気の向上と
維持には
必要なんやで

2025年10月13日月曜日

柔軟性を忘れるな(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




今この瞬間を大切にする。
一瞬一瞬を愉しむ。

これを実現させるには、
自身の中の優先順位を明確にして
それを基準に動く必要があります。

但し、その優先順位ってやつは
変動的ですから、

馬鹿の一つ覚えの如く
決めた通りに熟そうとしてはいけません。

刻一刻と変わっていく優先順位。
自身の力量で変える場合もあれば、
外からの影響で変わる場合もあります。

それをしっかりと認識して、
適宜判断して最善の選択をしていくのです。

その結果、
今この瞬間を大切にする事が出来、
一瞬一瞬を愉しむ事が可能となります。




目的を設定して、優先順位を作る。

内容的にはそれで良いのですが、
そこに固執し過ぎてしてしまうと
この流れは単なるルーティンとなり

貴方は楽をしている事になります。
つまり、念基軸が主たる状態となるのです。

善いと思った事や善いと教わったことを
淡々と熟すだけというのは
決して善い結果を産みません。

そこには「柔軟性」という
触媒が必ず必要になるのです。

淡々と熟しているというのは、
「思考を停止している状態」です。

例えば、ここを読んでいるだけとか
会って話をしたとしても
教えてもらった事を熟すだけ。

最初は善いかも知れませんが、
段々と思考しなくなっていき
いずれは必ず思考停止します。

そこに気が付けるかどうかは
完全に貴方次第となりますが、
1つ断言出来るのは

「ほぼほぼ自分では気が付かない」

と、いう事実です。

何故にそう言い切れるかと言うと、
もし、貴方が自力で気が付けるなら
端からそんな動きをしませんからね。

念想は常に表裏一体の
相互関係状態にあるのを忘れずにね。

気が付けば
楽をするのが
我々です
そこを理解せんと
どこまでも
堕ちてしまうんやで

2025年10月10日金曜日

what's the "DD"?(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




素直さ度が低くなっていたり
自分本位が顔を覗かせていたり
念基軸状態に偏っていたり

主に駄目な自分が
表に出てきてしまっている時は

「でも」や「だって」が

目に見えて増えます。
これらの頭文字を取ったのが“DD”。

然しながら、

「でも」や「だって」

と、いう言葉自体を悪だと
考えてしまうのは間違いです。
これは単に言葉に過ぎません。

使わなければ良い
という問題でもないですからね。




そうではなくて、
状況や状態を鑑みてみるのです。

人に話を聴いている時とか、
それも自分から話を聴きに
行っているのにも関わらず、

これらの言葉が

「出て来やすい」とか
「乱発させる」などと言うのは

おかしいなと思える筈です。
逆に自分が聴く立場である時に
相手がDD使いまくりの状態ですと
非常に強い違和感を覚える筈です。

この時に、違和感を
察知することが出来れば
その先の対処が変わりますよね。

また同時に、自身の状態のチェックも
その場で可能になる訳です。

話ながらにして自身の基軸をチェックする。
やはり、その後の展開を自身の思考で
左右させる事が出来るという訳です。

これが気付きの基本の一つです。
事後に最速最短で気付く為のコツ。
運気を創り上げる為の
「動き方」の一つという訳ですね。

運気構築の
コツなんてのは
凄く身近な所に
転がっているんや
自身の手で
掴み取るものなんやで

2025年9月7日日曜日

苦を触媒とする(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




自分の事を

「善くしたい」とか
「酷くなりたくない」と、考えつつ

皆さんは毎日の行動に
勤しまれているのではないかと思います。

全然それで結構なのですが、
その際に忘れてはならない事があります。

「貴方は周りの存在に護られている」

と、いう事実です。

貴方が何かしらの行動をする時は
誰かしらに助けられています。

人は当然の事ですが、
人に限らず動植物を始めとした他の生物や
液体・固体・気体を始めとした物質。
そして、霊体に至るまで

常に数々の存在に助けられ
護られているのが貴方です。

と、同時に貴方自身が周りの存在を
助けてもいるし護ってもいる。

そういったお互い様の関係で
成り立っているのが
平穏な貴方の毎日です。




然しながら、
もし、貴方がこれを理解が出来ずに

「自分がしてやってる」
「自分が一番だから」

などと思考して動いていたとしたら
どうでしょうか。

そんな考えの貴方には
誰も付いて来なくなりますし
徐々に助けも減っていき
護ってもらえる事も減少します。

何故かと言うと、
貴方が「敵を作っているだけ」だからです。

自分本位という思考を基にした行動は
一にも二にも己優先となるので、
「他は蹴落とす」前提です。

これが会社等の組織内に居ようが
家庭内や親族内での事だろうが
どこであろうと同じ結末となります。

もし、会社内でこういう思考の貴方に
誰かが付いてきていたとしても、
それは「貴方に」ではなくて

「貴方以外の何かを目当てにして」

付随しているだけに過ぎません。
貴方と居て得られる「貴方以外の物」です。

つまり、貴方が困ったとしても
助けは期待出来ませんし、
これが好機と言わんばかりの勢いで
逆に蹴落とされます。

貴方はずっとその恐怖に怯えつつ
陳腐な自尊心と張りぼての面子を
維持させるために更に当りを強くさせます。

まさに悪循環です。
これが自分本位の流れであり
念基軸を主とした貧乏神の生き方です。




こうやって観ると虚しいものですよね。
どこまでも得られるものはなく、
その手から離れていくものばかりです。

こうなってしまわない様に、
想いを大切にする必要が出てきます。

自分自分と自己優位性に溺れると
四面楚歌となってしまうので
自分は後回しという「奉仕の精神」が
必要となってくるのです。

奉仕と言うと「身を呈する」ですとか、
何か仰々しさの様なものを
想像されると思いますが、

本来のスピリチュアルでの
奉仕の精神はそういった
投身的な意味合いではなくて、

「相手を優先させる」

と、いう純粋な"思い遣り"です。

但し、誰にでも対象にしましょうとは
言っていません。
万人に対して奉仕の精神を実行出来る程
現世はクリーンではないですからね。

だからこそ、想い基軸と念基軸を知って
貧乏神を見極める事が重要となるのです。

正直者が馬鹿を見るのは
誰でも彼でも見境なく同様に相手をし
平等という幻想に惹かれ過ぎて
楽に溺れてしまうからです。

そうではなくて、しっかりと現実を理解して
楽に溺れず苦を触媒として生を得る為の

「正直者が馬鹿を見極める」が正解です。

世の中には一定数の救えない存在が居ます。
それが前述した
自分本位思考の人であり、貧乏神です。

理想を追い駆けたいのであれば、
こういった現実を知らないといけませんよ。

貴方が現実逃避して
理想や幻想に
希望を求める時
貴方の周りの存在は
確実に去っていく
ものなんやで

2025年9月5日金曜日

rewarding(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




人生に於いて
「道筋」というのがあります。

「何をしていかなくてはならないか」
「何をする必要があるのか」

現世にて貴方が生きていく上でのを
「概念や指針」を
綴った様なものが、道筋です。

道筋というものは、
誰かに決められるものではなくて
全てを自分自身で決めてから
現世へ赴くのです。

この道筋に対して如何に沿って進めるか。
肉体の獲得によって生じる
俗欲という名の誘惑に晒されながらも

時には失敗をして
時には成功してを繰り返し
想い基軸と念基軸のバランスを取りながら

人生を螺旋状に突き進んでいきます。
そして、
この道筋に真摯に向き合っているからこそ
得られる様になるものがあります。

それは、「遣り甲斐」です。




仕事でもプライベートでも
充足感や幸福感を満たす物。
行動の原動力にも繋がる想い、

それが「遣り甲斐」です。

この遣り甲斐というのは、
先述した通り
現世をある程度道筋に沿った形で
歩んでいる状態の人でないと
持つ事が出来ません。

遣り甲斐の内容は多岐に渡ります。

例えば、仕事の様に
実際の動きである場合もありますし、
個々人に於けるポリシーの様な
考え方や思想や信条の場合もあります。

それらが対人間へのターゲットのみならず
人以外の存在や物に対する場合の
動きや思考かも知れませんし、

単に事象といった流れそのものが
ターゲットとなる場合もあります。

一様に”これ"とは、言えないものの
現世に存在する間
誰しもが得る機会を持っているもの、
それが遣り甲斐です。

自身の中での確固たる遣り甲斐を
その身に纏う事が出来るのは
とても幸せな事ですし、

同時に誰でも得る「機会」は
持っているものの、
無条件で簡単に得る事の出来ない代物です。

貴方が現世を生きる上で今現在

「確固たる遣り甲斐」

を、持てているのであれば
それはとても素敵で
素晴らしい事だというのを
是非とも自覚してほしいところです。

貧乏神化が進むと
遣り甲斐の
獲得ではなく
俗欲を満たす事が
目的や目標と
なってしまうんやで

2025年8月10日日曜日

お盆の話題(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




今年もぼちぼちお盆です。

うちの地域では新盆なので
もう終わっていますが、
殆どのエリアでは旧盆ですよね。

さて、お盆と言えば
ご先祖さんが帰宅するイベントですが、

これ、
必ず帰ってくる訳ではないのですね。
帰宅しない理由は幾つかあります。


1、ご先祖さんが地獄又は
それに準ずる場所に堕ちている。

2、ご先祖さんが狭間の世界を彷徨っている。

3、遺族に興味がない。

4、遺族がガッツリ念基軸。


概ねこの4つが理由となります。




1と2はご先祖さんがやっちまったパターン。
説明するまでもない感じです。

3は一見するとご先祖さんが酷く見えますが、
何気に結構多いパターンです。

亡くなってから浄土へ行くとね、
現世で生きている時よりも長い時間を
お勉強に費やす訳ですよ。

そんな中で、遺族に対して
いつまでも気持ちは引きずりません。
遺族がしっかりしているならば
安心もしますから尚更ですね。

それにクソ忙しいというのも
実際にはあります。
亡くなって浄土へ行ったからって
楽できる訳ではないのですよ。

で、
問題は4の場合です。

これが帰ってこない理由では一番多いです。
遺族がクソってパターンです。

ちょっと考えてみれば分かりますが、
帰りたくても帰った先の人間が
クズってたら誰だって帰りたくないでしょ。

それはご先祖さんとて同じです。
死んでいても人間ですからね。




それと、結構勘違いされているのが、
ご先祖さんが帰ってくるのは

「家単位ではない」

と、いう事実。

お盆にご先祖さんが帰ってくるのは
あくまでも個人単位が基本です。
家人が全員良好という訳ではないですよね。

想いの遣り取りが出来る人も居れば、
同じ家の中でもガッツリ念基軸のクソも居る。

当然ながら、
ご先祖さんは想いの遣り取りが
普通に出来る人を目指して帰ってきます。

何故ならば、浄土という場所は

「想いを主体とする場所であり」

念想の天秤にて
想いにバランスが向いている人しか
行く事が出来ない場所だからです。

つまり、念基軸の人に対して
面白いほど毛嫌いをします。

そりゃそうなんです。
念基軸の人って地獄に居る人達なんですもの。
ご先祖さんが態々そうなる可能性のある予備軍に
忖度する必要が無いんですよ。

家族の中でも、
○○はおじいちゃんを感じれたけど、
私は全く感じなかった。

みたいな事が起きるのはこれが原因です。

なので、帰ってきてほしければ
己の中身をもう一度確認するのが
何よりも重要になってくるのですね。

但し念基軸の人は
悪霊とか生霊は
たくさん呼べるし
よく視えたり
するんやで

2025年8月9日土曜日

感覚の強まる時(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




想いというのを理解もしくは
ある程度認識出来る様になると、

必然的に「念」というものに対する
認識も出来上がる様になります。

それと並行して

「思い遣り」

に、関しても否応なしで
実践されていく事になります。

この理屈はとても単純で、
自身の中の基礎が「想い基軸」へと
シフトするからですね。

ただ、この経過や自身が想い基軸に
至っている実感については

「自分ではよく分からない」とか
「全く理解出来ない」とか
「目に視えるものではないから」

などと言って、
セルフチェック出来ないと思われる事が
結構あるのですね。

然しながらそれは認識不足です。




人が想い基軸へと移行すると
自身の中の「感覚」に於ける

「想いに帰属する面での感覚」が

非常に強まってきます。

想いに帰属する面での感覚...
ちょっと難しい言い方なので
物凄く簡略化した感じにしますと、

「善い予感」みたいなやつです。

善い予感と言うと

「得をする」

といった様に捉えてしまいがちですが、
そうではありません。

例えば、
貴方が何の気無しにご無沙汰している
知人Aさんの事を
ふと「思い出した」とします。
理由なんか無くて本当に何となくです。

思い出したからと言って
何をする訳でも無く過ごしていたら
翌日になってAさんから連絡が来た。

とか、

何か玄関先の花に目が行ってて
特別何をする訳でも無く過ごしていたら
二日後にその花にレアなトンボが
止まっていたのを発見した。

とか、こういった具合の感覚が
「想いに帰属する面での感覚」です。




あまりにも小さい事なので
意識を先鋭化させていないと
流して終わりにしてしまう様なものですが、

想い基軸になってくると
こういったのが多発する様になります。

要は、
小さい幸せにやたらと
気付く様になるのですね。

なので、自分が現在進行形で
想い基軸なのかどうかというのは、
ちゃんと分かる訳です。

で、

勘の鋭い方ならここでまた一つ気付きます。

想い基軸でそれに属した感覚が
強まると言う事は、

念基軸でも似た様な事が
起きるのではないかと。

実際その通りです。

念基軸の場合は、
「念(俗欲)に依存する面での感覚」が
非常に強まってきます。

先程のを「善い予感」と形容したので
「悪い予感」と推察しそうになりますが
そうではありません。

「楽できそうな実感」

が、正しい表現です。
予感ではない分、
これは中々にエグイものですよ。

想いも念も
どっちの基軸も
しっかりと視認が
出来るものなんや
誰でもやで

2025年7月26日土曜日

発見はすぐ傍にある(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




何かに新しく気が付いたり
見付けたりする「発見」は
とても身近な所に点在しています。

確かに遠くへ行かないと
見付からなかったり
分からなかったりする発見もありますが、

基本は身近な面で起こり得ます。

にも関わらず、
見付け難いのは何故なのか。

そこには

「過剰なルーティン化」

と、いう念基軸的な所作が関わっています。

ルーティン化自体が駄目な事
という話ではないです。

生きる上で、日頃の生活をする上で
決まり切った動きというのは必須ですし、
毎度毎度違った動きをするのは
とても非生産的ですからね。




その反面、
「楽に興じる」のも確かでして
以前から話している通り、
視野がとても狭くなります。

何でもかんでもルーティン化させるのは
楽になるのと引き換えに、
思考を著しく阻害する事に繋がります。

端的に言うと、
「考えるのを辞める」という意味です。

ここで言う「考える」とは、

「意識をして行動する事」や
「意思を以て意図的に動く」

という事を指します。

ルーティン化によって効率的で
合理的な動きが可能とはなりますが、
その数は明らかに減衰減少してしまう。

自身を「発見に導く」には、
目線を誘導させないといけません。

目線の誘導とは先に述べた
「考える」という事の比喩です。

同じ事ばかりを続けていれば
同じ部分にしか目は向かなくなり、
総てに於いて

「やってるつもり」
「動いているつもり」
「考えているつもり」

といった流れとなってしまうのですね。
これが「念基軸思考」です。




物事は想いと念のバランスが肝心です。
ルーティン化によって
楽と同時に念基軸思考に偏る訳ですから、

ある場面場面では
時には非効率的だったり
非合理的な所作を敢えて行い、

想い基軸へとバロメータを戻す事も
必要になってくるのですね。

この動き方や考え方が
「柔軟性」となります。

発見や「気付き」とは
この柔軟性を得た動きが出来なければ
その根本的な数を増やす事は不可能です。

また、そこには知識も必須となります。

こういった点を日頃から見直しつつ
実戦の中で常に養っていく動きを

「日頃の業(おこない)」

と、言います。

ここまで読んで、
なるほどと思った方も居れば
「私は出来ている方だな」と
思われた方も居るでしょう。


これぞ実戦や

2025年4月7日月曜日

声を拾う(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




かねてより話しておりますが、

「霊的な存在が視える」
「霊的な存在の声が聴こえる」を

自負されている方は結構居ます。
その方々の多くがネガティブ専門です。

寂しそうにしているとか
悔しそうにしているとか
辛そうにしているとか
怒っているとか

その手の存在の代弁ばかりで
違和感を禁じ得ません。

亡くなった方々は

そこまで辛い人ばかりではないし
言うほど悲しんでもいないし、
キレ散らかしている奴は少ないし

寧ろ、愉しんでいる方が多いですよ。

勿論、亡くなり方や状況によって
その差は多々ありますが、
それでも圧倒的に多いのは
ポジティブな方々ですね。

にも関わらず、ネガティブな声を拾って
そればかりを伝えるのは

ある種の決め付けと思い込みが
起因となっている結果かと考えます。




自身の思考回路や幽体の流れが
「念基軸」である場合、
その基軸に沿った存在が集まったり

その存在の声だけを自然とソートしてしまう
と、いう事は相当数あります。

「霊=悪」「死=悲」と、
断じてしまっているが故に
善い面を積極的に拾えないという事です。

これが「思考的視野狭窄」になります。

死後の世界や向こうの世界、
狭間の世界を語ったり、
ましてや亡くなった方々を語る際、

思考的視野狭窄に陥るのは危険で
遺された方々に対して絶望のみを
植え付けたり与えてしまう可能性が
高いからです。

向こうの世界には
浄土もあれば地獄もあります。
狭間の世界に至っては
ある意味フラットな領域です。

生きている者が死者の声を代弁する時、
生者の感覚で推し測るのは言語道断です。

大切になるのは、
現世から一歩踏み出た先の世界を
しっかりと理解した上で、

「その世界の住人の感覚で代弁をする事」
「自身の感情を決して入れない事」

これが守れない内は
代弁などはやらない方が身の為です。
あまり良い結果とはなりませんからね。

思い遣りに
欠けたら
どうなるのかを
考えてみるんや