今回は考え方について
お話をしたいと思います。
スピリチュアルというのは
今この時に至ってもなのですが、
やはり「幻想への逃避」目的に
使用されてしまっているのが
悲しいかな現実です。
例えば、自身がピンチの時に
祈ったり願ったりしてしまう。
気持ちは分かりますが、
そんなのはスピリチュアルでも
何でも無くて単なる逃げでしかないし、
自己崇拝をしているに過ぎません。
何せ「使う」という業を放棄して
動いていない訳ですからね。
ピンチの時に動かないのが
スピリチュアルだと言うのであれば
そんなのは妄言です。
ピンチでなくても現実的に
使えない若しくは使わないのであれば
そんなものは余興に過ぎませんから
無駄の長物です。
現実の中で常に使えるのが
「本来のスピリチュアル」です。
但し、それを実行するには
現世に於ける知識=情報というのが
基礎として必要になります。
そこを軽視して何となく視えたものなど
糞の役にも立ちやしません。
基礎たる知識を持ち合わせないから
漠然としたものとなり、
結果として際物扱いされてしまうのです。
どう考えても漠然とした内容には
信憑性が生まれませんからね。
そして、ここで言うところの
知識というのは、
何も学び舎から得られるもののみを
言っているのではありません。
学力は当然必須なのですが、
それ以外にも
日頃の生活の中での経験や
コミュニティの中での規範、
地域社会に於ける文化や伝統、
往々にして蔓延る悪習など
僕らが生きている中での総てが
知識となりますし、
上述した様な
「人社会のみに於けるもの」以外も
知識となるのです。
それを解釈するには認識力や理解力を
補完させる為の学力が要となるので
学力は必須事項なのですね。
それらをフル活用して日頃の生活で使う。
家事然り、趣味然り、
仕事然り、人間関係然り、
あらゆる場面で実用的に使用出来ます。
現実的な使用が出来るものなのに、
幻想の中でしか使おうとしないのは
貴方自身が逃げに徹していて
努力という業を放棄しているからです。
例えば、霊視一つ取ってみても
将来を視るだけでなく、
眼の前に居る存在の過去を辿って
その場の「嘘」だって見抜けます。
何なら意義や意図だって見抜けるもんです。
それは目の前の存在と言えども
映像の先に居る存在ですら同じです。
食べようとしている食品のヤバさの察知から
海の向こうに居る存在の見極め
全体としての事象の見抜きや
集合意識としての偽りの検閲まで
現実を視ながら実用的使用が可能なのが
本来のスピリチュアルです。
訳の分からん偶像相手に
祈念という名の逃避をするのと同列に
捉えてしまってはいけませんよ。
軽く抗弁垂れる人程
使えてないやろ
現実的使用を
してないからやで



