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2025年11月9日日曜日

普通を目指せ(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




本来のスピリチュアルに於いては
一般的に言われている様な
スーパーパワー的な
霊能力的な能力というものには

あまり重きを置いておりません。

何故ならば、
その行為自体は誰でも出来る筈なのに
やり方を知らないがあまり、

出回っているフェイク情報の数々に
躍らされてしまっているあまり、

行為そのものに特別感を
抱いてしまって
根本的な原理原則を
軽視してしまう傾向が強くなるからです。

つまり、拝み倒すだけで
何もやらなくなるという意味です。

これでは善くなるものも
善くならないし、
何にも面白くありません。

僕らは現実の中に生きていて
その現実を少しでも愉しく
生き易くさせる為のコツが

本来のスピリチュアルです。

なので、誰でも可能な事なのです。
それなのに特別感を得たところで
どうしようも無い事でしょ。

その理屈を分かる様になると
まがい物とそうでない物との
見極めが出来る様になりますよ。

特別感は
差別と
表裏一体なのを
忘れたらあかんで

2025年6月29日日曜日

幻想の中では使えない(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




スピリチュアルというのは
今この時に至ってもなのですが、

やはり「幻想への逃避」目的に

使用されてしまっているのが
悲しいかな現実です。

例えば、自身がピンチの時に
祈ったり願ったりしてしまう。

気持ちは分かりますが、
そんなのはスピリチュアルでも
何でも無くて単なる逃げでしかないし、

自己崇拝をしているに過ぎません。

何せ「使う」という業を放棄して
動いていない訳ですからね。

ピンチの時に動かないのが
スピリチュアルだと言うのであれば
そんなのは妄言です。

ピンチでなくても現実的に
使えない若しくは使わないのであれば
そんなものは余興に過ぎませんから
無駄の長物です。




現実の中で常に使えるのが
「本来のスピリチュアル」です。

但し、それを実行するには
現世に於ける知識=情報というのが
基礎として必要になります。

そこを軽視して何となく視えたものなど
糞の役にも立ちやしません。

基礎たる知識を持ち合わせないから
漠然としたものとなり、
結果として際物扱いされてしまうのです。

どう考えても漠然とした内容には
信憑性が生まれませんからね。

そして、ここで言うところの
知識というのは、
何も学び舎から得られるもののみを
言っているのではありません。

学力は当然必須なのですが、
それ以外にも

日頃の生活の中での経験や
コミュニティの中での規範、
地域社会に於ける文化や伝統、
往々にして蔓延る悪習など

僕らが生きている中での総てが
知識となりますし、

上述した様な
「人社会のみに於けるもの」以外も
知識となるのです。

それを解釈するには認識力や理解力を
補完させる為の学力が要となるので
学力は必須事項なのですね。




それらをフル活用して日頃の生活で使う。

家事然り、趣味然り、
仕事然り、人間関係然り、

あらゆる場面で実用的に使用出来ます。

現実的な使用が出来るものなのに、
幻想の中でしか使おうとしないのは
貴方自身が逃げに徹していて
努力という業を放棄しているからです。

例えば、霊視一つ取ってみても
将来を視るだけでなく、
眼の前に居る存在の過去を辿って
その場の「嘘」だって見抜けます。

何なら意義や意図だって見抜けるもんです。

それは目の前の存在と言えども
映像の先に居る存在ですら同じです。

食べようとしている食品のヤバさの察知から
海の向こうに居る存在の見極め
全体としての事象の見抜きや
集合意識としての偽りの検閲まで

現実を視ながら実用的使用が可能なのが
本来のスピリチュアルです。

訳の分からん偶像相手に
祈念という名の逃避をするのと同列に
捉えてしまってはいけませんよ。

下らん事に
学びを得たと
軽く抗弁垂れる人程
使えてないやろ
現実的使用を
してないからやで

2025年5月2日金曜日

幻想への逃避(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




昨年の10月にもお話をしましたが、
スピリチュアルというのは、

「幻想への逃避」を勧めるものではなく
現実を現実として愉しむ為の
「きっかけの一つ」です。

普段から現実を意図して捉えずに
ファンタジーへ逃げていては、

本来のスピリチュアルを
身近なものとする事は叶いません。

私達は常にあらゆる面で
相互性や相互作用といった
「螺旋運動」の中に身を置いています。

これが現世という現実の一つです。
現世は決して自分を中心に
動いているのではなく

自分以外の存在に作用して動いています。

貴方は貴方以外の存在からの力、
つまり、万物から発生する力場の
影響を受けつつ
現世の中を螺旋状に動いているのです。

その螺旋の軸となっているのは
あくまでも「念想」であって、
「自分」ではないのです。




ここを自分に置き換えてしまう思考が
「自分本位」と、いうものなのです。

万物や念想を芯に置かずに否定して
自分を中心に据えてしまうのは、

その場の状況で善し悪しを決めてしまう
と、いう事ですから、
全く以て理に適っておりませんし

「自分が中心という幻想」

への逃避となります。

物凄くミクロな単位で
考えてみると分かります。

例えば、
家庭というコミューンの中で
自分中心などと云うのは
ただの我儘者です。

それが如何に社会的に問題なのかは
真っ当な思考回路であれば
自ずと理解が出来ますね。

スピリチュアルというのは、
こういった幻想に逃避する為や
もしくは、それを勧める為の
ビジョンやツールではないのです。

これらを是正して現実を視て
愉しめる様にする為の一概念が
本来のスピリチュアルです。

現実を視ずに
綺麗事という
幻想への逃避も
貧乏神へ堕ちる
要因の一つやで

2025年4月19日土曜日

霊の感知を人に利用する(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




「霊を感知する」

と、言いますと、大概の人は
悪霊などを想像するのかと思いますが、
それはあまりにも偏り過ぎてる思考です。

狭間の世界に滞在している霊の
凡そ8割が所謂「善い霊」です。

悪霊等は残りの2割なので
数で言うと少数派なのですね。

であるならば、
霊を感知すると考えるならば
「善い霊」を
真っ先に思い浮かべないとおかしい
という事になります。

これは本当の盲点でして

「霊=悪」

という先入観や間違った認識による
固定観念からの思い込みなのですね。

また、「悪霊だと思いたい」という
霊を悪者と決め付けてしまう
ご本人の問題でもあります。




悪霊に思いを馳せる人というのは
自身にもその気質があると
断言しても良い状態と言えます。

早い話が、

「自分本位で自己優位性重視の
貧乏神気質の人」

なのではないかという事です。

例えばですが、
「私は霊が視えるの」とか
「私は分かるのよ」系の人などが
貴方の身近な所にも居るかと思います。

この手の方々がこれらの台詞を
口にする際というのは、
殆どの場合が悪霊を指しています。

「肩が凝っている」とか
「嫌な事が続いている」とか

その手の話を耳にしたからとは言え、
相手の状況が悪い時だけ霊的文言を
吐くのは、おかしいと思いませんか。

本当に分かるのなら
相手さんの調子が善い時や
何でもない時にこそ
何かしらを伝えていないといけません。

霊=悪ではないのですから。




ちゃんとした意味で霊の感知が出来ると
善い霊の感知が圧倒的に増えます。

というよりも、それが普通です。

善い霊の感知が出来れば
悪い霊の感知はとても容易です。

何故ならば、
この場合ですと明朗な「違和感」として
貴方の感覚が検知するからです。

この「違和感」を人に利用します。

悪霊というのは生前から片鱗が出ます。

それが貧乏神であり貧乏神気質の人
という存在なのです。

霊は人であり人は霊です。

「生きて肉体を纏っているか」
「死んで肉体を失しているか」

端的に言えばこれだけの違いなのです。

一般的には視えない存在の善し悪しを
自己判断出来てしまえば、

肉体という殻を纏っている人が
幾ら表面上で誤魔化していても
その中身は筒抜けに近い状態となります。

こうして誰もが実生活の中での
実戦的有効活用を可能とさせるのが、
本来のスピリチュアルなのです。

悪い事ばかりを
口にする奴は
総じて嫌な奴と
相場が決まって
いるんやで

2025年3月26日水曜日

need to know(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




ここを読まれている方々の多くは
「相談を受ける」と、いう形で
人の心内をほじった経験があると思います。

他愛のない事からそれっぽい事まで
何かしらの相談ですね。

その結果、
「嫌な思い」をされている。

何で嫌な思いをしたのかという点については
以前にも投稿しているので割愛しますが、

早い話が「真面目に答えすぎ」なのです。

言い換えれば、
ほじくる相手の求めを見極められなかった
「自分のミス」です。

相手のニーズに応じて
最小単位の内容で納めるのが本来の真面目です。

ニーズ未満であれば「手抜き」ですし
ニーズ以上であれば「過剰」となります。

これらを経験の中で覚えていけるか、
最適化していく事が出来るかが鍵となります。




ここを読まれている方々は
本来のスピリチュアル的に言うと
玄人さんが主です。

なので、敢えて手厳しい話をしています。

玄人に対して
馴合いの優しさを発揮しても仕方ないです。
そんなものは糞程役には立ちませんからね。




話を戻しますが、
真面目というのは「想い」が基軸の業です。

けれども、度が過ぎてしまうと
意識の方向が内側に偏ってしまいます。

そこで強まるのが

「伝えたい」「分かってほしい」
「(自分は)分かる」

と、いう様な強い俗欲です。
これに流されてしまうが故に
想い基軸の業だった筈が

自分から「念」基軸の業へと転換させてしまい
結果として、
念の力場を発生させたり
恨みを買ったりして嫌な思いをするのです。

この様な変貌を自前でさせてるのですから、
「自分のミス」となるのです。

本来のスピリチュアルとしては、
これが正しい見解です。

真面目というのが決して悪ではないのは
譲る事の無い事実。

問題はバランスなのです。

人は必ず偏りを持っています。
それは聞く側も話す側も同様です。

そのバランスを制御させる事が
本来のスピリチュアルでの真髄となるのですね。

知見を得ているなら何でも伝えるのではなく
「伝えるべくを伝える術」を持ちましょう。

玄人には
玄人の振る舞いが
あるものなんやで

2025年3月24日月曜日

最新とは最も近い過去(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




何をする上でも自分を知る事が
重要となってきます。

ですが、この「自分」という存在は
皆さんが想像している以上に奥行きがあり
中々に掴みがたいものでもあります。

己の事なのだから己が一番理解している。

そう考えて当然なのですが、
「燈台下暗し」なる諺にもあるように

自身の事であるからこそ
視えていない部分も多々あるのですね。

この視えていない部分を
如何に理解をしようとするのか。

また、年齢や環境に沿って
津々変化をしていく肉体や幽体を
如何に捉えていくのかが、

本来のスピリチュアルを実践する上で
非常に大きな課題となってきます。




動けていたものが動けなくなる。
考えられていた事が考えられなくなる。
出来なかった事が出来る様になる。

善しも悪しきも日々風向きの様に変わるのが
自分という存在なのですね。

勿論ですが、この自分を善しとする方向へ
誘うのは何でもない自分の努力です。

その中でも、成功だけでなく必ず失敗をする。
その失敗に大小はあれども、

人での例外は全く無いのが現実です。

つまり、
「誰でも何かしらやらかす」と、いうこと。

そんな不完全で魅力的な存在が自分なのです。

日毎に変わるのですから、
常に視続けていないといけない。

そして、
理解した「自分」というのは
その瞬間から「過去の自分」となるのです。

いつまでも今の自分が最新の状態であると
思う事自体が
理解から遠ざかる思考なのだと
気が付けるかどうかが鍵となるのですね。

その場に留まらずに
自分から動かんと
自分すら分からん
っちゅーことやで

2025年2月28日金曜日

視ようとする(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




前回投稿した内容の中で
「霊視」について触れました。

霊視をするには
「視ようとする意気込み」が必要ですが、
それ以外にも色々と必須な事があります。

その中でも、捉え方が大切です。
何を捉えるのかを一口に言うなら

「想い」又は「念」です。

肉体を捉えようとすると、
霊視というものは出来ません。

あくまでも肉体を介さずに
幽体や霊体を用いて
対象となる存在を覗くのが霊視です。

霊視での対象は「人」と思われがちですが、
物や空間や事象など
全般的に至るのが霊視です。

その対象に向けて幽体や霊体を用いて
視る訳ですから、対象側に関しても
幽体や霊体を目標とします。

肉体を介さずに視るのですから、
対象に於いても肉体を目標としたら
出来る筈もありません。




幽体や霊体と言ってもなかなか難しいです。
ですが、想いや念であれば
薄っすらでも理解は出来ると思います。

対象となる想いや念を「捉える」と言っても
どうやって捉えるのか。

対象を感覚的にイメージします。
イメージする際に、
こちら側の「想い」が必要になります。

つまり、
善い感覚でイメージを構築しないと
霊視をする事は叶いません。

何故なら、念を用いるとなると
俗欲が基軸となるからです。
俗欲=肉体ですから、そもそもが霊視と
なり得ないのですね。

想いを基軸として
対象を自身の内側に構築する。
その上で、対象の念想を感じ取ります。

この時、幽体や霊体を目標としているので
実際の現実の肉体とは差異が生じます。

ですので、
断片的な映像でしか受け取れません。
その映像にこちら側で脚色をするのです。

望遠鏡で撮影した星々の画像も
スペクトル等の情報を基にして
色付けをして公開されています。
あの工程に似ています。

要するに、
視れたところで現実での知識や
経験や理解力や分析力、
認識力や想像力が伴わなければ
具体性が全く構築されないのです。

非科学の能力ではあるものの
科学的な知見も必須となるのが
本来のスピリチュアルの形ですからね。

一方向に凝り固まった
脳みそをしていると
本来のスピなんか
理解すら出来へんで

2025年2月25日火曜日

使い方の基本(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




本来のスピリチュアルを
実戦で使うという点を考える時、
お化けつまり霊の事ですが

彼等の事が視えないから使えないし、
使う努力すら出来ない。
と、考えられる方も居るでしょう。

けれど、
それはかなり視野が狭いです。

霊とは何かを思考すれば
答えは必ず出てくるものです。

霊とは

「肉体を得ていない存在」です。

生きている者が
死去した後の存在のみと思いがちですが、

元々肉体を得ていない存在も居ます。
自然霊がここに該当します。
皆さんが大好きな龍神などですね。

要は、幽体と霊体のみで構成される存在が
霊という事になります。




今回の話は本来のスピリチュアルを
実戦で使う、若しくは使う努力をする
という話ですので、
分かり易い様に人に絞ります。

人でいう場合の霊とは、
端的に言うと死後の姿となります。
生まれてくる前の姿とも言えますが、
ここでは敢えて死後に限定します。

スピリチュアル=霊的
だからと言って、霊でなければいけない
という思考がそもそも間違いなのだと
気付けない様では、お話になりません。

単に肉体の有無が霊との
表現的な境目なだけであって、
存在としては人=霊という事になります。

なので、本来のスピリチュアルを
使う、ないし使う努力をするのであれば、
生きている人に対して
行えば良いだけの話です。

総ての存在は生きている間から
霊となった後の姿や、
その片鱗を必ず表します。




それを踏まえますと、
善い霊の場合も悪い霊となる場合も
様々な特徴が何かしら表れているので、

それを如何にキャッチするのかが
本来のスピリチュアルにとって
重要な点となるのですね。

如何に縷々行われている人の業を観察して、
自身に転嫁させる事が出来るか。
自身への戒めへと繋げる事が出来るか。

手始めは人だったとしても、
総ての存在に該当する訳ですから
人以外の存在を観察しても同じ事が可能です。

受肉している存在でこれらを反復反芻して
学習を積み重ねていきながら、
目に視えない存在の事を意識の中に登らせていく。

己を含めた眼の前に居る存在にすら出来ない者が
目に視えない存在に対してなど
何も出来る事はありません。

視える存在の想いを受け取る。
感じ取る。
これが使う努力の指標における最低限度です。

なので、
いくら自分で努力していると
自己評価しても、
ただの独りよがりの自分本位ですから、
努力しているという事には
決して繋がらないのですね。

色んな目線で
思考が出来ないと
本来のスピは
使い熟せない
ものやで

2025年2月13日木曜日

繰返しと継続(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は動き方について
お話をしたいと思います。




色々な物事を努力する中で、
意識をしていなければ
ついぞ忘れてしまう動きが

「繰返し」と
「継続」です。

読んで字の如くですから、
いちいち説明は要らないもの

の、筈なのですが、

ある程度定期的にこうして口にしないと
完全に失念してしまうもの
でもあります。

何かを読んだり聞いたりすると
その場では分かったつもりになりますが、

実際にその知識は使う事によって
若しくは、積極的に使う努力を試みないと
その身に記憶させる事は出来ません。


使う事や使う努力というのは
一度や二度程度の行動を指し示すのではなく、

何度となく繰返す事により
形と成っていくものです。

そして、その繰返しを継続させる事により
肌身に沁み込ませていき記憶させる。

この渦中で、いつの間にか

「意識する」

と、いう業を忘失してしまうのですね。

気が付いたら呆然と繰り返していたり、
何の為という当初の考えすら忘れてしまい
日常に漂流するだけの「癖」となる。

結果、日々の時間の中に溶け込んでいき
いつの間にか繰返しも継続も終えている。

その状態の中で、
善くならないと嘆いていたり
またやってしまったと口ずさんでみたり
愕然とされたところで、

それを聴かされる方が悲しくなるだけです。




善くなれる人と言うのは、
この繰返しと継続を意識してやれています。

何故かと言うと、
「不出来な自分」を認めているからです。

やらないと忘れる。
意識していないと忘れる。
意味を考えていないと忘れる。
兎にも角にも続けないと必ず忘れる。

一過性の達成感や
一時的な歓びに身を寄せて
悦に浸る事が如何に体たらくで

何も生み出さないかを、
不出来な自分という形に置き換えて
理解をしているから熟せるのです。

そして、意識ある繰返しと継続は
新たな発見をも、もたらします。

そこに気が付く事が出来るから、
また引続き繰返し継続させる。

日々刻々と過ぎる時間を
無駄にするかしないかは貴方次第です。

下らぬ言い訳を饒舌に語るよりも
意味のある寡黙な業を目指しましょう。

繰返しも
継続も
意識してやると
愉しいもの
なんやで

2025年1月25日土曜日

普段の中に(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




スピリチュアルが好きだと
標榜している人に多い思考が

「特別の検索」です。

どこかにつけて、何かにつけて
自分だけの「特別」を
追い求める思考です。

殊更その特別というのは、
利己的なものである事を占めます。

早い話が俗欲ですね。
分かり易い事で言うと、

「良い事が起きてほしい」とか
「金運を上げたい」とか。

その思惑にかこつけて、
「奇跡や神秘」といったものを
大袈裟に追い求める思考ですね。




本来のスピリチュアルで
云うところの「奇跡や神秘」は
俗欲とは反する場に生じます。

つまり、特別の検索をしたところで
奇跡も神秘も手に入らないですし、
目の当たりにする事も無い。
という事になります。

俗欲を基軸とした視線での特別など、
所詮は同一価値を共有する者でしか
感受する事の出来ない特別です。

それは万物という概念の中では
余りにも矮小過ぎる価値観に過ぎません。

「俗欲中心となると視野狭窄に陥る」
という形容は、
ここから得ている概念なのですね。

元来、礎となる要素は
「万物」に他なりません。




では、その万物とは
一体どこに存するのかを
考えてみましょう。

言うも得も無く、
万物の在りし場所とは何の事は無い
皆さんの周りを指し示します。

要するに、
皆さんの送っている日常や
普段の生活の中そのものが、

「万物の苗床」であり
「万物そのもの」である

と、言えるのですね。

皆さんが目を凝らして、
感覚を研ぎ澄ませて得ようとする
神秘や奇跡というのは、

実は既に身の回りで常態化している。
けれども、
それ自体に気が付けない程に
エゴや俗欲などの「多の価値」によって

「視界を混濁されてしまっているだけ」

に過ぎないものなのです。
その混濁を取り払うものが
思い遣りなのですよ。

利己的思考は
総ての感覚を
濁して穢して
つまらない
結果になるやで

2025年1月20日月曜日

実戦型(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




前々より個別ごと、
ブログ、秘密結社を問わず
お話をしてきましたが、

スピリチュアルというのが
かなり注目を集め始めています。

それが良い事なのか
どうなのかと言いますと、
あにきとしては
然程歓迎はしていません。

何故ならば、
その殆どが欺瞞に満ちている
身勝手なスピリチュアルを
標榜するものだからです。

このまま流行が進めば
ほぼ確実に衰退へと進みます。

昔に流行った心霊ブームや
オカルトブームなどと
確実に同じ轍を踏むであろうと
断言出来ます。




どういう事かと言いますと、
俗に言うスピリチュアルという
苗床のリテラシーが
何も変わっていないからです。

今以て「多」を中心としている
状況や環境に置かれている中では

既存の構造体での産物となりますので
一過性は有ったとしても、
継続性を望む事は出来ません。

「多」を中心としているという事は
質が上がる事は無いのです。

リテラシーが「個」を基準とした
品質を重視するものへと変貌すれば、
継続性が担保されますので

スピリチュアルというものの
先は光があると思います。

けれども、未だそのレベルには
哀しいかな達してはいません。




これから先に起きるのは、
見事なまでの淘汰です。

本来のスピリチュアルというのは、
自分だけの為に使う様な
身勝手なファンタジーではなく

皆さんの生活に根付いて
皆さん一人一人が
万物の為に気軽に使えるツールです。

なので、あにきは

「実戦型スピリチュアル」だと、

以前から話しています。
一部の人間が偉そうに使うのが
スピリチュアルではなくて、

どこの誰でも元々備えてて
その能力を遺憾なく発揮出来るのが

「本来のスピリチュアル」なのです。

その為に必要なものが
失われてしまっている現在、
必要なのはムーブメントを
引き起こす事ではなく

「苗床の成長進化の促進」です。

それは、多ではなく個でないと
決して達成出来ないものです。

果たしてどうなっていくのか。
見物だなと感じています。

既存の様に
綺麗事が
蔓延したら
終わりなんやで

2025年1月11日土曜日

簡単(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




世の中には「簡単」という言葉が
溢れ返っていますが、
この簡単というのは
なかなかどうして難しいです。

簡単に教えてもらう事は
教える側の技量ですので、
教わる側が考える事ではないです。

しかし、
ずっと簡単に教えてもらうというのは、
些か話が異なってきます。

簡単が過ぎてしまうと、
「思考する」というのを
端折ってしまう事に繋がってきます。

時間と経験が積み重なってきた時に、
その「思考する」事を削りますと
身に付かない様になってきます。

初歩の歩の場合のみ
簡単に教えられるのですが、
経験を積む事によって
内容に深みが増していきますから

所謂「簡単」という訳には
いかなくなるのが世の常です。




内容を踏襲した上での
「簡単に教える」は可能です。

ですが、そこにはそれまでに
培ってきた知識や経験を活かして
教わる側が憶えていないと、
ほぼほぼ付いてくる事は不可能です。

それをも度外視して
総てを簡単に誰でも分かる様に
教えるというのは、

確実に誤った情報を掴ませてしまう
という事に繋がります。

なので、段階を踏んで
難易度を上げていかないと
成長を促進する事は出来ないのですね。

簡単ではないからと言って、
考えるのを止めてしまったり。

難しいからと言って
教わる側が努力を放棄して
簡単にしてくれと懇願するのは、
どう考えてもナンセンスです。




成長進化をしたいのであれば
如何に「脱簡単」をするかです。

そして、同じ簡単でも

「簡単に考える」

と、いう方向の思考回路へと
繋げる事が出来るかが鍵となります。

ここでの簡単というのは、
「柔軟に」という意味の形容です。

基礎知識と慣れてきた情報があり、
それを実際に使う事によって
身に沁み込ませて憶えていく。

その後、
段階を確実に上げていく中で
柔軟性を獲得していく。
同時に考える時間も増加していきます。

本来のスピリチュアルというのは、
皆さんが思っている以上に深いですし
想像以上に難しいものです。

けれども、
確実に理解する事が出来る様になる。
そういったモノでもあります。

何故ならば、
皆さんが単に忘れているだけで
誰しもが通ってきている「道」の中の
話なのですからね。

難しく考えれば
難しくなるだけや
柔軟に
考えられる様に
努力あるのみやで