ラベル 考え方 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 考え方 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年4月27日月曜日

生き方を考えよう(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




眠りから目覚めて一連の動きをして
また眠りに就く。

特に小難しい事を考える訳でも無く、
息が出来て水が飲めて飯が喰えていれば
生きることが出来ます。

現実的に考えた時、
息を吸うこと以外の動きには金銭が掛かります。

なので、何かしらの労働をして
対価としての駄賃を獲得しないといけません。

単に起きてからフラフラとしていれば良い
と、いう程この世は甘くないですね。
この定義は現在の地球上に居る限り
変わる事はありません。

また、国が変われば子供も年寄りも
この定義に加わります。

「生きる為に必要な事を当たり前に行う」

人に限らず生ける者総てが
この定義に則して当然の摂理の中で
同じ時間を過ごしています。

そこで考えが抜け落ちてしまうのが
「生き方」なのですね。

先述したのは「生きる」という
最低限の「動き方」つまり、手段なのであって
生き方という目的を意味する
「考え方」ではないのです。

考え方を思考するのはとても困難であると同時に
態々得ようとしなくてもいい代物です。
生きる事自体は可能となってしまいますからね。




だからこそ、考えなくてはいけない。
この考えの中に「思い遣り」や
「想い」というのが包まれており、

その中枢には個人であれば「素直さ」があり
多数であれば「協調性」が存在します。

それを形に成したものが「文化」であり
「会話」であり、慣わしや習慣でもあります。

私達はこの複雑で複合的な絡み合いの中で、
にも関わらず、個々人という狭隘度の高い状況に
晒されながら毎日を生きているのですね。

ですから、本質的には
大なり小なりの「目的」が必須となります。

実際に自分は何のために生き、
誰のために生きるのか。

一人きりではどうにもこうにも出来ず、
とてもではないけれど太刀打ちも不可能なので
想いを軸とした「生き方」を人だけでなく
万物から得なくてはいけないのです。

どう見積もっても善い事なのに、
何故か意識して思考しないといけないのが
「生き方」という考え方。

デフォルトでセットされていなければ
おかしい筈の思考回路が
どういう訳かオプション設定になっているのが
この現世に生きている私達なのですね。

そして、いちいち考えないといけない部分に
貴重で重要なものが詰まっているので、
考え方に想いが在しており、
その逆の動き方には念が在しています。

これが自然の摂理です。
考えなくても成せる部分を考えるからこそ
その先へ遵じた流れへと向かえるのですね。

これは別に物珍しい話でも無く、
海の向こうでも似た様な事を教えていて
エスキモーが話すユピック語では

生き方というのを
「ユウヤラック(yuuyaraq)」と云い、
単に生きるだけでなく感謝や思い遣り
尊敬や気遣いという「想い」を含んだ
文化的協調性や自然との共生を意味しています。

徒にカテゴライズせずに
現世の中の生ける形を正しく認識すれば、
どこに居たって答えは同じ罫線上のもの
同じ螺旋上のものとなるのですよ。

本来のスピリチュアルというは
万物を総べるものですからね。

意味の無いものか
意味のあるものかを
紡ぐのも選ぶのも
全ては自分なんやで

2025年9月29日月曜日

building a thought process(実戦シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




興味が無いから知らない
興味が無いから分からない

人と接していると
何気によく耳にする台詞ではないですか。

小生意気にスカして言う奴も居れば、
真面目にそう答える人も居ます。
では、逆に興味のある事を
どれだけ持っているのかを聞くと、

大した数は持っていない。

つまり、そういう人達は
何も知らない事だらけの中で生きていて、
困った何だと慌てふためくのです。

そして、その何も知らないというのは、

「自分が知ろうとしていない」
「自分から知る様に
動こうとしていない」

と、いった怠惰の中での結果なのですね。

知らなくても直ぐにググって
分かるから良くね。

みたいな動きが一般的となって久しいですが、
そんな超特急で調べる状況で
出てくる様な情報などは、

大抵の場合、誰かしら何かしらの意図や
資金が投入されている情報ですし、

仮に正しい情報だったとしても、
それは分かったのではなく
「見ただけ」であり「読んだだけ」なので

その身に落とし込む事が出来ませんから
述懐したり使い熟す事は無理ですね。

どうなるかというと、
ほぼ確実に足元を掬われる結果となります。




これを回避させるには、
日頃から色々なものに興味を持って
調べたり頭に叩き込んだりして

使う努力を当然に行って
その身に覚えさせていく

そして、間違っていたら適宜改訂する
合っていたら大丈夫。

という様な、思考回路の構築が
必要となってきます。

では、これをどのように作るのか。
そもそも興味を持つには
どうすれば良いのか。

無理に興味を持つ事は出来ません。
どうせ飽きてしまって
それ以上には進めないです。

ならば、興味が無いからこそ
調べるという考え方に切り替えれば良い。

「いつかどこかで誰かの為に活かせる」

と、いう想いを基軸とした思考で
やってみれば良い。




想いというのは不思議なもので、
誰かの為にというベクトルの力が加わると
良い意味での外側へ向く作用が働きます。

すると、途端に興味自体が
湧いてきたりするものなのですね。

「あの人のために」「この人の為に」

という具合です。

ひけらかす為に興味を持つのではなく、
誰かとの話の「きっかけ」を得るための知識。
その為の興味。

ですから、
自分が調べる際には知識の深さは要らなくて
寧ろ、「広さ」が必要なのです。

「深さ」は、誰かと話した際に
教えてもらって深くしたり、
または深くするきっかけを得て
その後に自身で深くすればいいだけ。

誰しも最初から
興味を持っている訳ではないです。
どんなカテゴリーでもそれは同じです。
最初は「無」からのスタートです。

それすらも忌避する事が思考停止ですし、
「考えない楽」となりますから
怠惰へと繋がるのですね。

それと、興味が無いならば
興味が無い理由を論的に話せなければ
意味が無いですからね。

どうして?
何時?何処で?
どれが?何が?何故?
これらが何も無いのは
理由がある筈やろ

2025年1月11日土曜日

簡単(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




世の中には「簡単」という言葉が
溢れ返っていますが、
この簡単というのは
なかなかどうして難しいです。

簡単に教えてもらう事は
教える側の技量ですので、
教わる側が考える事ではないです。

しかし、
ずっと簡単に教えてもらうというのは、
些か話が異なってきます。

簡単が過ぎてしまうと、
「思考する」というのを
端折ってしまう事に繋がってきます。

時間と経験が積み重なってきた時に、
その「思考する」事を削りますと
身に付かない様になってきます。

初歩の歩の場合のみ
簡単に教えられるのですが、
経験を積む事によって
内容に深みが増していきますから

所謂「簡単」という訳には
いかなくなるのが世の常です。




内容を踏襲した上での
「簡単に教える」は可能です。

ですが、そこにはそれまでに
培ってきた知識や経験を活かして
教わる側が憶えていないと、
ほぼほぼ付いてくる事は不可能です。

それをも度外視して
総てを簡単に誰でも分かる様に
教えるというのは、

確実に誤った情報を掴ませてしまう
という事に繋がります。

なので、段階を踏んで
難易度を上げていかないと
成長を促進する事は出来ないのですね。

簡単ではないからと言って、
考えるのを止めてしまったり。

難しいからと言って
教わる側が努力を放棄して
簡単にしてくれと懇願するのは、
どう考えてもナンセンスです。




成長進化をしたいのであれば
如何に「脱簡単」をするかです。

そして、同じ簡単でも

「簡単に考える」

と、いう方向の思考回路へと
繋げる事が出来るかが鍵となります。

ここでの簡単というのは、
「柔軟に」という意味の形容です。

基礎知識と慣れてきた情報があり、
それを実際に使う事によって
身に沁み込ませて憶えていく。

その後、
段階を確実に上げていく中で
柔軟性を獲得していく。
同時に考える時間も増加していきます。

本来のスピリチュアルというのは、
皆さんが思っている以上に深いですし
想像以上に難しいものです。

けれども、
確実に理解する事が出来る様になる。
そういったモノでもあります。

何故ならば、
皆さんが単に忘れているだけで
誰しもが通ってきている「道」の中の
話なのですからね。

難しく考えれば
難しくなるだけや
柔軟に
考えられる様に
努力あるのみやで

2024年12月29日日曜日

捉え方(実践シリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は考え方について
お話をしたいと思います。




師走になると新年へ向けて、
色々な事を思い返したり
振り返ったりしますね。

この時に、なるべく善い事を
振り返って新年に向けての
愉しい事を目標目的としたら
如何ですか。

というのが、前々回のお話。

そうは言っても、
嫌な事を思い返してしまうとか
負の側面を振り返ってしまう
などという方も多い筈です。

そこで捉え方というのを
考えてみて下さい。




常々お話ししていますが、
何事に於いても万物の事象や
万物そのものは、

「正と負が表裏一体」であり

各々が互いに作用している
相互関係で成り立っています。

と、いう事は善い事であろうと
嫌な事であろうとその対面には、

必ずその相互関係となる事象や
物質や感情等が存在するという事です。

負の側面のみを
どうしても意識してしまう人でも
どうせ考えるのであれば、

その負の側面を浮かび上がらせている
光たる正の側面までもを
考えてみてはどうですか。

思考するというのは、
逆説や仮説を複数唱える事が出来て
初めて思考となります。

それを単説で留めるという事は
ただ単純に自分を可愛がっているだけの
我儘に過ぎません。

その状態ですと、
引き寄せられるのは幸せではなく
貧乏神を主体とした下種のみです。

「運気とは善くも悪しくも
自らが引き寄せるもの」

というのを忘れてはいけませんよ。




恥を単に恥と捉えれば
恥となりますが、

自分がきっかけとなって
起きたミスや勘違いなどは
恥でも何でもなくて

ただ単に自分の過ちに過ぎません。

にも関わらず、
恥だとしか捉えていなければ
それ以上には進めないですし、

その裏に隠れている人間味という
自身の個性すらも
視て取る事すら出来ません。

そんな解釈や考え方では
幾ら努力をしても正の側面を
表に引き出す事は出来ませんし、

善きものを引き寄せる事など
到底不可能です。

そうならない為にも、
負の側面を感じ取ったり
思い感じたのであれば

その相手に対して
謝辞や賛辞や礼儀を尽くす事が
重要となってくるのです。

そうする事で、負の側面が
正の側面へと変貌し、
いずれは自らに循環して
返ってくるのですよ。

これが相互関係を捉えて
引き寄せるという事なのです。

考えるなら
しっかりと奥行を
見据えて
考えるのが
大切なんやで

2024年4月23日火曜日

善くなる考え方(知識UPシリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は危機感について
お話をしたいと思います。





日頃を生きている中で、
危機感を得て動くのか、
ただ何となく動くのかで
日常というのは大きく変わります。

特に何か問題が起きた時、
自分がどういう動き方をするのか?
何をすればいいのか?

その時の最善の選択肢を
判断をしなければならない状況へと
陥った際に行動を左右します。

普段から他力本願で動いていれば
当然に自己判断など
出来る訳もないですし
ほんの少し孤立しただけで
パニックに陥ります。

こうなるのを避ける為の考え方は
割と簡単でして、
普段の何気ない行動の際に
どういう考え方をしているのか

その考えを少し改めるだけで
自身の中身が変わっていきます。





よく見かける駄目なパターンの
考え方は、

「~だろう」という考え方です。

「やれるだろう」
「やってくれるだろう」
「してくれるだろう」
「させてくれるだろう」

これですね。
自動車教習所で一度は耳にする言葉です。
「入れてくれるだろう」
「譲ってくれるだろう」
そういう予測は立てたらいけませんよと、
習っている筈です。

これは他力本願になる怖さを
象徴する代表的な考え方です。

車という一歩間違えば
死に直結する道具を使う際に
無自覚さを無くさせる事を念頭に置いて
教えてくれる考え方ですが、

運転時はそんな風には考えていないと
自覚してる人が多いと思いますが、
それ以外の普段の生活内ですと
どうですか?

結構やってしまっていませんか?

ここの中枢にある意識が危機感です。
危機感が無いもしくは
薄いからやってしまう。

人と話すだけとかなら
死に直結はしませんからね。
けれど、人間関係などは須らく悪化します。
それで悩むというスパイラル。





では、どうすれば良いのかと言うと、

「~かもしれない」という考えに
切り替えてみましょう。

「~だろう」は、
相手が何かをしてくれる前提なのに対し、

「~かもしれない」は、
相手が何かをしてくれない前提です。
もしくは、逆パターンをしてくる前提ですね。

先述の様に車で例えると、

「止まってくれない かもしれない」
「入れてくれない かもしれない」
「譲ってくれない かもしれない」

この思考ですと、貴方側としては
当然に警戒しますよね?
これが危機感です。

では、普段の生活でしたらどうでしょう?

「ご飯仕度をしてくれない かもしれない」
「仕事の手伝いをしてくれない かもしれない」
「話を聞いてない かもしれない」

こう考えれば危機感を覚える訳ですから、
貴方は当然に何かしらの行動を始める筈です。
事前に聞くとか、言伝を残しておくとか、
放りっぱなしにはしませんよね?

また、自分にこれを当て嵌めると、
全てとは言い切れませんが
自分本位な行動を抑える事も出来ます。

「これを話したら傷付く かもしれない」
「勝手にやったら怒る かもしれない」

などですね。





事象の全体像が視えていたり、
常に危機感を持ち得ていれば
こんな考え方をする必要はないのですが、

実際に視えていなかったり
危機感を覚えていないから、

陳腐なトラブルを乱発して
妙な悩みを抱える訳です。

ここで書いた方法が全てではないです。
やり過ぎたり考えすぎたりすれば
逆効果に転じますからね。

ですが、目に視えて他力本願だったり
自分本位だったりして
危機感がとても薄く感じられるので
基本的な考え方としての
「かも知れない精神」を
文字に起こしてみました。



2024年2月23日金曜日

分けない重要性(知識UPシリーズ)

皆さんこんにちは、あにきです^^

今回は、視えない存在への
基本的な考え方について
お話をしたいと思います。





視えない存在、
ここでは霊的な存在としますが、
このジャンルを語る時に
どういう訳か無視されているのが

「基本的な考え方」

そのものです。

基本的な考え方というのは
何なのかというと、
視えない存在を語る上で

何を中心として捉えて話しているのか?

という事ですね。

多くの場合は「人中心」で
語っているのではないかと思います。

それはそれで良いのですが、
あにきとしては疑問が湧きます。

と言いますのも、例えば
「私、見えます」系の方々などは
人様の前でよくこう言います。

「あそこに誰かいる...」
「男の子が立っている...」

みたいな台詞ですね。

こういう自慢げな言葉を聞く度に
あにきは思う訳です。
(もっと他に視えないのかと…)

どうして「人」しか見えてないのかと。





この星には、人しか住んでない?
そうでないのは誰もが知っていますよね。
様々な生物が居て、物質が存在しています。

死した者が見えるのは結構ですが、
何ゆえに人だけしか言わないのか?

人よりも個体数が圧倒的に多い存在が
地球上には幾らでも居ます。

それら万物の全てに霊体は宿っていて
死の概念や死後の行き先は人と違えど、

狭間と呼ばれる空間には、
人のみならずそれら全てが存在しています。

にも拘らず、人しか見えていないのは
「人中心」つまり、
「自分中心」でしか考えていないからです。

そもそも霊的な事を考える時、触れる時に
決して忘れてはいけないのは、

「全ての中に自分は居る」

という思考です。





こういう場面で「全て」と言うと、
どういう訳か大自然と捉えがちですが

そうではなくて、
ここには自然もあれば人工物もある。
生きているもの死んでいるもの
見えるもの視えないもの

生物のみならず、鉱物や空気に至るまで
これら全ての中に自分が居るという
考え方です。

これが、視えない存在への
基本的な考え方となります。

この考え方捉え方ですと、
人は人という様な、カテゴリー分けをして
考える事はありません。

分けて考えてはいけないのです。

視え方も
感じ方も
聞き方も
触れ方も

どんな存在に対しても
同じ接し方とせねばいけないのが、
本来の視えない存在に対する考え方。





視えない存在とは意識で繋がります。
意識というと漠然としていますので、
言い換えますと、

想いや念です。
そこへ、感情や気持ちも加わります。

言葉というよりも、
これらの意識がダイレクトに届いたり
触れたりする事の方が多いです。

要するに、
見えると自慢をしたいのであれば
人以外の存在の想いや念、
果ては姿に至るまで視えないといけない。

それが出来ていない段階で、
存在のカテゴライズをしてしまっていて、

「万物に対する想い遣りや優しさ」
という、
愛情の概念にも反してしまっている。

だから、
恐怖心やエゴ(欲)から抜けられないし、
逆にそれらへ溺れていってしまう。

実際に、こんな風に言ってくる人って
自分の事しか考えていないというのが、
表情に出ている人が多いと思いますよ。

詰まるところ、
「愛情の理解度が低い人」という事です。

物の目線、
概念そのものを変えて視ないといけません。
同時にこれは、
生きている存在全てに対しても
行える考え方なんですよ。

何故ならば、
皆さんの中にも霊体が存在しているのですから。